瞑想と精神世界

瞑想や精神世界を中心とする覚書

探し求めない

2006年12月22日 | 読書日誌
修行への意欲が減退した一つの理由は、ガンガジ著『ポケットの中のダイヤモンド』(徳間書店、2006年6月)を読み、それに影響されたからだ。この本は、ある読者の方の紹介で知った。

ガンガジは、アメリカ人女性だが、ラマナ・マハルシの弟子パパジによって覚醒を得たという。そのため、ラマナ・マハルシの教えに共通しながら、それでいて彼女独自の新鮮で平易で説得力のある言葉で覚醒の真髄を語っている。覚醒についてこのような語り方もあったのかという驚きをを感じた。

彼女の言葉を読んでいると、瞑想や修行一般によって自分の意識状態を「より高次」の状態に変えようとするような試みが、いかに「自我」の強化につながってしまうかが、強く意識される。

彼女は言う、

「焦点が定まっていようと拡散していようと、どんな特定の意識状態にも到達しようとするのを止め、またどんな状態を避けることも止めてごらんなさい。代わりにいつでもそこにあるものは何かについて気づいてください。」p103

「今、この一瞬、すべてを止めてごらんなさい――探し求めることも、否定することも、拒否することも、すがりつくことも、それら全部を手放し、今この一瞬だけ、あなたの存在の真の姿の中に身を委ねてごらんなさい。」p109

確かに、私が日常のサティに一生懸命になっていた心の中には、自分の意識状態をより高次の特定の意識状態に到達させようという「野心」が存在していた。何かになろうとする「野心」が今を見失わせてしまうのだ。

しかし一方でサティは、過去を悔いたり未来を心配したりする「思考」に気づき、今に立ち返らせる働きがある。問題は、何かになろうとする「野心」そのものであり、サティ自体ではない。今日はそう考えて、再びサティへの意欲を取り戻そうとした。

ところで今日、この本の中の次のような言葉に出会った。

「刷り込まれた思考による幻惑は深く、複雑ですが、『止める』というシンプルな行為に対しては無防備です。」「『止める』とはまず、理性の活動に気づきつつ、それに従わないことです。理性の活動を追わない、というのは、理性に逆らったり思考を抑制するのとは違います。」「『止める』というのは訓練ではありません。それは単に、尽きることがないように思われる思考の流れの中に、思考を追いかけないという選択肢があることに気づく機会です。」p137~140 (続きは明日)
コメント (4)
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