今の私にとって日常生活のなかで、できる限りサティを続けていくことの意味は、半無意識的な想念・思考の連鎖にできる限り埋没しないということである。想念は連想によっていくらでも展開し、拡散していく。何かの音をきっかけにして、それに関係する何らかの想念が浮かぶ、さらに、それに関係のある次の想念が浮かぶ、そして、それが延々と繰り広げられていく。
ある音(たとえば自転車がブレーキをかける音、救急車のサイレン‥‥)から、何を連想するかは、かなり大きな選択幅があり、人によって、場合によって様々だ。そこに、無意識的な選択作用が働いている。
Aという外的刺激や自分の想念から、B、C、D‥‥のうちどの想念が連想されるかは、その人の心の中の無自覚な関心や執着に負っている場合が多い。だからこそ「連想」は、無意識を探求する大切な手がかりとなるのだ(「自由連想法」)。
私たちは、毎日、自分の中の無意識の力に突き動かされ、おそらく何万もの想念・思考を繰り返している。しかもその中に無自覚に埋没している。おそらくこのような人間のあり方を「無明」というのだ。
日常生活の中でのサティがある程度できるようになると、無意識の連想が作動して思考が生じた時、即座にそれに気づくようになる。思考が生じた瞬間ではないにしても、わずかに連想が続いた直後に気づくことが可能になる。そこですかさず「思考」とサティを入れる。あるいは、その思考の根元にあるエゴの執着にラベリングする。
こうしたことがどれだけ鋭くできるかによって「無明」からの解放の道が開けていくのだろう。実際には、思考の中で気づきを失っていることが圧倒的に多い。しかし、迷いの森の中に確実に道は開かれていく。
ある音(たとえば自転車がブレーキをかける音、救急車のサイレン‥‥)から、何を連想するかは、かなり大きな選択幅があり、人によって、場合によって様々だ。そこに、無意識的な選択作用が働いている。
Aという外的刺激や自分の想念から、B、C、D‥‥のうちどの想念が連想されるかは、その人の心の中の無自覚な関心や執着に負っている場合が多い。だからこそ「連想」は、無意識を探求する大切な手がかりとなるのだ(「自由連想法」)。
私たちは、毎日、自分の中の無意識の力に突き動かされ、おそらく何万もの想念・思考を繰り返している。しかもその中に無自覚に埋没している。おそらくこのような人間のあり方を「無明」というのだ。
日常生活の中でのサティがある程度できるようになると、無意識の連想が作動して思考が生じた時、即座にそれに気づくようになる。思考が生じた瞬間ではないにしても、わずかに連想が続いた直後に気づくことが可能になる。そこですかさず「思考」とサティを入れる。あるいは、その思考の根元にあるエゴの執着にラベリングする。
こうしたことがどれだけ鋭くできるかによって「無明」からの解放の道が開けていくのだろう。実際には、思考の中で気づきを失っていることが圧倒的に多い。しかし、迷いの森の中に確実に道は開かれていく。