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瞑想と精神世界

瞑想や精神世界を中心とする覚書

『グレース&グリッド』04

2006年06月21日 | 読書日誌
◆『グレース&グリッド(上・下)』ケン・ウィルバー(春秋社、1999年)
この本の最後の部分、トレヤの死の前後についてのケンの描写は、読むものの心を何がしか浄化する。ガンの極限の苦しみと眼前の死をこのように生き、このように死んだ人がいたということが、私たちを勇気付ける。

「恩寵(グレース)と勇気(グリット)。「あること」と「すること」。‥‥完全な受容と猛烈な決意。こうした魂の二つの側面、彼女が全人生をかけて闘い取り、そしてついにひとつの調和した全体性に統合することができた、二つの側面――これが、彼女が後に遺そうしたメッセージだった。‥‥彼女の唯一にして第一の、そしてすべてを凌ぐ人生の目的、それを彼女は成就したのだ。その成就は、彼女が達した理解以下ではとても太刀打ちできない苛酷な状況において、冷酷なまでに試された。彼女はそれを成し遂げ、‥‥そして彼女は、今、死を望んでいた。」(P326)

そしてケンは、「彼女との最後の半年は、まるで可能なかぎり互いに奉仕し合うことを通じて、スピリチュアルなハイウェイを一緒に高速でドライブしていたかのようだった」という。

この彼の生き方にも心打たれる。本当に大切なことが何であるかを教えてくれる。求道の根源がここにある。詳しくは明日書くことになるが。

『グレース&グリッド』03

2006年06月20日 | 読書日誌
◆『グレース&グリッド(上・下)』ケン・ウィルバー(春秋社、1999年)
昨日、トレヤとケンの出会い、二人の苦悩と成長が、何かによって計画されたもののように感じると書いた。しかし、トレヤ自身は次のように書いている。

「‥‥どれほど『意味と目的』に取り憑かれていたか、なんと執拗に物事をわかろうとしてきたか。わたしのニューエイジ流の見方が、『すべてのことには目的があり、計画されていて、意味があるはずだ』と強く主張していたのです。‥‥仏教と、ガンを患ったおかげで、わたしは『知らない』ままに生きることや、生の流れをコントールせずにあるがままに任せること、そうすることで人生の浮き沈みや失望のさなかにも平穏を見出せることなど、多くのことを学びました。」(P290)

一方で私自身、彼女のこうした言葉に共感を感じている。一言でいうと、生きていることの不可解さを不可解さのままに意識して生きること。私がよく使う言葉で言うと「限りあるいのちとして投げ出されている絶対的は不可-思議を、不可-思議のままに自覚して生きること」。

さらに言うと私は、「限りあるいのちの不可-思議さ」ゆえに、逆にそこに理解を超えた「意味」を感じる。子どもとかかわり妻とかかわるときにも、どこかで「限りあるいのち」として生きていることの意味を感じている。私の中にも、彼らの中にも。

『グレース&グリッド』02

2006年06月19日 | 読書日誌
◆『グレース&グリッド(上・下)』ケン・ウィルバー(春秋社、1999年)
トレヤは、ウィルバーとの結婚式の10日後には、ステージ2の乳ガンだと診断され、ハネムーンを病院で過ごすことになる。それから5年の間にトレヤは、二回の局部再発を体験し、正統医学と代替療法の療法のあらゆる治療を試していく。しかし、やがてガンは脳や肺にまで転移していることが知らされる。余命は、2ヶ月から4ヶ月だと宣告されるのである。

彼女は言う。
「困難に立ち向かい、肉体的な健康を手に入れることや、社会で確固とした成果をあげることを、わたしは成功とみなしてきました。けれども今、わたしは、ものの見方の変化、、つまり、より高い基盤からの選択とは、内的変化であり、内的選択であること、すなわちわたしたちの存在における内的な変容なのだと感じています。世間的な行為について語り、それを称讃するのは簡単なことですが、わたしが興味をそそられるのは、日々の霊的な修行によって自分自身が内的に変化し、肉体よりもずっと高いレベルまでますます健康になっていくことなのです。」(下巻p257)

トレヤは、ガンの転移についての知らせを受ける度に、泣き、怒り、打ちのめされた。しかし、そのつど立ち直り、このように語るようになるのである。

覚醒・至高体験事例集にも病気による死の宣告を受け、その絶望のさなかで解放されていく事例をいくつか取り上げているが、トレヤの場合は、一回だけのものではなく、何度も辛い知らせを受け止めながら、その度に深い内的な変化と成長を遂げていった事例だ。

『グレース&グリッド』

2006年06月18日 | 読書日誌
◆『グレース&グリッド(上・下)』ケン・ウィルバー(春秋社、1999年)
途中、他の本を読んだりしていたので、ようやく下巻を読み終えようとしている。読み始めたのは5月13日だった。何よりも印象的だったのは、2人が出会うべくして出会ったとしか思えないこと。ケンの記述にも、トレヤの日記にも、互いにとっての出会いの衝撃が、その意味の大きさが、繰り返し語られている。

そして、結婚直前にトレヤの癌の発見。その後のトレヤの闘病、自分の執筆活動を一切投げ打ってのケンの献身的な介護。トレヤの癌の発見は、もちろん2人を打ちのめす。にもかかわらず二人は互いの愛を確認していく。そしていくぶんか希望が見えたかに見える。しかし、それを打ち砕くような転移の事実。そんなことが何度も繰り返されていく。

その中で2人は絶望的な危機に陥ったが、やがてそれを克服して成長していく。まるで2人が出会ったのも、トレヤが癌になったのも、2人の魂の成長のためにはじめから計画されていたかのように見える。しかし、それにしてはあまりに過酷な試練。トレヤにとってもケンにとっても。

「しかし、実際のところ、トレヤは現在に生きることによっ、未来をあてにして生きることを拒むことによって、まさに死を自覚して生きるようになったのだ。‥‥死とは、実際、未来をもたない状態だ。あたかも自分に未来がないかのように、現在に生きることによって、彼女は死を無視するのではなく、死を生きていたのだ。」(下巻p175)

努力はかえって邪魔

2006年06月14日 | 瞑想日記
◆なくす努力をせずに見つめる
現在、自分の中にきわめて問題だと思われる反応パターンがひとつある。特定の人物の一連の行動パターンに対する怒りの感情だ。こういう特定の感情をどうにかしたい、なくしたいと思う自分がいる。ついつい、何とかなくしたいと思ってしまう。

しかし、嫌いな反応をなくしたり止めたりする努力はかえって邪魔にになる。大切なことは、その感情をしっかりと見つめることだ。ただ見つめるものになりきることだ。そうした感情や反応が生じるたびにしっかりと眺め、見つめ続ければ、それは自然に落ちていくだろう。

◆『ブッダの瞑想法』地橋秀雄(春秋社、2006年)
この本の中に次のような例が出てくる。夏の砂浜で、自分の素足に誰かが中身の詰まった缶ジュースを落とした。

「液体の入った缶が体表面に接触した瞬間に、電光石火の速さで「痛み」とサティが入れば、純粋な知覚だけで終わりになります。これは、痛みという事実が『ありのままに観られた』状態で、次に起るはずの反応が止められているのです。怒りは出ません。‥‥見られたものが見られたままに止まり、聞かれたものが聞かれたまかに止まり、感じられたものが感じられたままに止まるならば、苦しみが終滅する、というダンマの世界です。」(p74)

一瞬一瞬のサティというものは、努力して欠点を変えようとする世界ではなく、ただ気づき、見るめる世界なのである。それを、感情が引き起こされる一瞬前、二瞬前の知覚現象のレベルで気づいくもの、ということだ。

怒りをなんとかしようとする自分に気づいたら、そういう自分にもサティを入れる。