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瞑想と精神世界

瞑想や精神世界を中心とする覚書

慈悲の瞑想

2006年06月05日 | 瞑想日記
駅から職場への道々、今日はずっと「慈悲の瞑想」をしていた。対象は、自分の子どもたちであった。帰りの歩行時も、同じように慈悲の瞑想をした。時折、別のところに注意が向くとそのつどサティした。職場で廊下を歩いているときも慈悲の瞑想をした。

私の親しい人々が幸せでありますように
私の親しい人々の悩み苦しみがなくなりますように
私の親しい人々の願うことが叶えられますように
私の親しい人々に悟りの光があらわれますように。

「私の親しい人々」のところに個人名が入る。これを実感をこめて繰り返す。「悟りの光があらわれますように」のところは、私の実感を基礎にして言葉を唱える。私の実感は、もちろん「悟り」ではないのだが、最近の自分自身の心の平安、静けさ、自信、順調な流れ、これでよいのだという思い、そんなものがベースになっている。

それは「悟り」の方向に一歩一歩と進んでいるという感覚(成長の感覚)に根ざしている。そのような成長の方向が、子どもたちにも開かれていくようとの思いを込める。

慈悲の瞑想を行っていると、「悟りの光があらわれるように」という一人一人の課題が、強く意識される。そういう課題を与えられてこの世に生まれた命なのだということを感じるようになる。そういう目で生きている人を見るようになる。