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瞑想と精神世界

瞑想や精神世界を中心とする覚書

『グレース&グリッド』03

2006年06月20日 | 読書日誌
◆『グレース&グリッド(上・下)』ケン・ウィルバー(春秋社、1999年)
昨日、トレヤとケンの出会い、二人の苦悩と成長が、何かによって計画されたもののように感じると書いた。しかし、トレヤ自身は次のように書いている。

「‥‥どれほど『意味と目的』に取り憑かれていたか、なんと執拗に物事をわかろうとしてきたか。わたしのニューエイジ流の見方が、『すべてのことには目的があり、計画されていて、意味があるはずだ』と強く主張していたのです。‥‥仏教と、ガンを患ったおかげで、わたしは『知らない』ままに生きることや、生の流れをコントールせずにあるがままに任せること、そうすることで人生の浮き沈みや失望のさなかにも平穏を見出せることなど、多くのことを学びました。」(P290)

一方で私自身、彼女のこうした言葉に共感を感じている。一言でいうと、生きていることの不可解さを不可解さのままに意識して生きること。私がよく使う言葉で言うと「限りあるいのちとして投げ出されている絶対的は不可-思議を、不可-思議のままに自覚して生きること」。

さらに言うと私は、「限りあるいのちの不可-思議さ」ゆえに、逆にそこに理解を超えた「意味」を感じる。子どもとかかわり妻とかかわるときにも、どこかで「限りあるいのち」として生きていることの意味を感じている。私の中にも、彼らの中にも。