瞑想と精神世界

瞑想や精神世界を中心とする覚書

エゴにサティを入れて対象化する

2006年08月10日 | 瞑想日記
地橋先生の今日の一言から。

8/9(水)「サティが途切れた瞬間、エゴが出る……。
 眼耳鼻舌身意からの知覚情報を解釈し始めた瞬間、エゴが出る……。
 何かが概念化された瞬間はよいのだが、その概念が次の概念と連結し始めた瞬間、エゴが出る……。」

8/10(木)「六門からの情報が知覚された瞬間に、サティを入れる。
 間に合わなければ、エゴが出た瞬間に、サティを入れる……。  
 欲望という名のエゴに、嫌悪という名のエゴに、嫉妬という名のエゴに、慢という名のエゴにサティを入れて対象化する……。」

明日から合宿だという今読むと、また心に響く度合いが違う。「その概念が次の概念と連結し始めた瞬間、エゴが出る」‥‥そのエゴにサティを入れていく。最近、私自身、意識的にやっているのは、概念や思考が連続したら、それがどのようなエゴに根ざしているのか、適切なラベリングをしてから中心対象に戻るということであった。「劣等感」「優越感」等々と。

昨日は朝30分ほど瞑想、今日は夜になったが30分ほど瞑想。こうして書いていると、やはり「期待」が心の内から湧き上がってくるのを感じて、思わず一人でにやりとしてしまった。

明日から瞑想合宿

2006年08月10日 | 瞑想日記
明日11日(金)から20日(日)まで、またグリーンヒル瞑想研究所の瞑想合宿に参加する。今回は、どんな体験になるか、まったく予想もつかない。ちなみに去年の夏の合宿直前の日誌を読んでみた。

2005/08/10 (水)
「昨日、合宿に向けてのかすかな不安を意識した。生活上のいくつかの雑務をやりのこして合宿に入ることの不安のような気もした。それ以上の深い何かがあるような気もしたが、それほど深いものではなかったかもしれない。少なくとも待ち望んでいるという感じではない。瞑想合宿を「苦痛」とは感じないが、10日間の真剣勝負に、それなりの「しんどさ」を感じているのかもしれない。」

去年は、結局この「不安」を中心に合宿全体が展開していった。それは、日常生活や家族を残して修行に打ち込むことへの「不安」だった。今年はこういう不安はない。去年の合宿以来、私にとって日常の「行為」の意味が大きく変わっているからだ。今の私にとって、ことさら日常の行為を修行と意識せずとも、私にとって日常の人のかかわりや些細な家事にこそに何よりも意義がある。

今年もこの時期、妻が出張で3日ほどいないが、私はかなり家事を楽しんでいる。

2005/08/11 (木)
「前回、前々回のような合宿の成果への強い期待、執着は今のところ感じない。合宿で、瞑想を始めたとたんに妄想となって現れるのかどうかは、分からない。もしそうだとしたら、それはそれで心随観のチャンスとなる。それぐらいの気持ちでいきたい。」

去年もこう書きながら、最初は睡魔との戦いとなった。隠された渇愛が睡魔に変貌した。今年はどうなのか。いよいよ明日となると、やはり期待は高まっているのかも知れない。その微妙なところにサティを忘れずに!!