瞑想と精神世界

瞑想や精神世界を中心とする覚書

怒りと恐怖の夢

2006年08月08日 | 夢日記
久しぶりに印象深い夢を見た。もしかしたら昨日読んでいたクリシュナムルティの本がどこかで影響していたかも知れない。本のタイトルは「Beyond Violence」だったが、昨日読んでいたところは恐怖について語っているところだった。夢とは直接関係ないかもしれないが、恐怖についてのクリシュナムルティの言葉とは、たとえばこんなものだ。

「心が恐怖から完全に自由にならないかぎり、あらゆる形の行為は、より多くの害、より多くの惨めさ、より多くの混乱をもたらす。」
「しかし、心を恐怖から完全に自由にするのは、明日ではなくて「いま」、それを全体として理解することである。」

夢の内容はこうだった。家の玄関の内側、2階への階段の下のあたりに大きなノラ猫が座っていた。父が可哀想に思い、招き入れたものらしい。犬みたいな大きな猫だった。よく見るとその隣に同じようにノラ犬が座っていた。これも父が入れたのだ。猫を3匹飼っていて(現実に飼っている)、ただでさえ大変なのにノラ猫やノラ犬まで、と私は怒りにかられた。「こんなことをしないでよ」と大きな声で怒鳴ると、私の怒りに気おされたかのように、二匹のノラは家から出て行った。

その時、息子が二階から降りてきてトイレに入ろうとしていた。見ると、足を引きずり、手のひらが胸のあたりで揺れていた。息子は脳梗塞だったのだ(現実ではまったく健康だが)。にもかかわらず息子は、けなげにアルバイトに通い続けていた。私は、度肝を抜かれていた。アルバイト先でいろいろ言われているのではないかと思うと、胸に苦痛が走った。

そんなところで目が覚めた。夢の中には暴力的な怒りと強い恐怖があった。二つはバラバラのようでいて一体だった。怒りにかられていたその時に、自分のこどもが脳梗塞で惨めな人生を強いられようとしている現実に直面する。現実には、84歳になる父が軽い脳梗塞で、手足に若干の麻痺があるのだが。

恐怖は、病気などで人生がいつどうなるか分からないという事実に対する恐怖であった。もっと根源的には死への恐怖、いのちが自分の意志を超えて、いつでも惨めに歪められたり、消されてしまいうるということへの恐怖だった。そして私は、そのことに怒っているのだ。私は、自分の根深い怒りがあることを自覚しているが、それはやはりいのちが持っているどうしようもない不安定さ、はかなさに対する怒りに源を発しているように思えた。あるいは、生きるということの根源的な不安定さに対して完全に無力である自分に怒っているように思える。その怒りが父に対して投影されている。夢で、猫とイヌを家に招き入れた父に怒りが向けられているのはそのためだ。

昨日、本棚にあった表紙の日焼けした200頁にもならない薄いクリシュナムルティの本を読む気になったのは、私の中の何かがしむけたのだろうか。