瞑想と精神世界

瞑想や精神世界を中心とする覚書

自我の支え

2006年08月03日 | 読書日誌
以下は、臨死体験・気功・瞑想の論文集『「真の自己」の幸福論 ─岸田「自我論」の批判を中心に』の一部である。ここでも岸田の理論を紹介して自我と国家の関係に触れている。

「首尾一貫した行動規範としての本能が壊れた人間は、その代用として自我を必要とする。ところが自我は、矛盾する多くの要素(バラバラになった本能)を抱え、本質的に不統一、不安定である。この解決不能なディレンマをごまかすために自我は、多くの要素の一部だけを取りこみ、その部分だけで仮に首尾一貫した形をつくり、その形と矛盾する他の部分を抑圧する。自我とは、当人がこれが自分だと思っているところのもであり、エスとは、当人の生命全体のなかの、自我から排除されたものである。

要するに自我は「幻想」に過ぎず、かつ常に自我よりも広大なエスの領域に脅かされているため、本質的に不安定なのである。そのため、その不安定さをごまかす何らかの支えを必要とする。たとえば欧米人は、かつて神を自我の支えとしたが、神が揺らいでからは、神の後釜として真理、国家、理性など、次々とさまざまなものを求めた。それらの支えは、次第に個人を超えたものから個人の身近なものへ、ついには個人の内部のものへと移り変わり、そして今や、個人が内部にもつ欲望に自我の支えを求めるまでに至った。」

ここで岸田は、自我が本質的に不安定であるがゆえに、その支えとして神や国家が必要なのだと言っている。

『靖国問題の精神分析』でも次のように言う。個人は個人として成り立たない。何か自分よりひとつ上の存在(神なり国家なり)に所属させないと自我は安定しない。そして自我を所属させる対象と同一視する。自我を国家に所属させれば、国家を代表して国のために死ぬことも可能になる。

以上は、きわめて大雑把な議論であろうが、自我と国家との関係を考えるうでの基本ではあるだろう。卑近な例で言えば、W杯で日本の試合に一喜一憂するのは、多少とも自我と「日本」とを同一視しているためである。竹島問題で韓国のやり方に怒りを感じるとすれば、そこにも自我と国家の同一視がある。

私自身、日本人が作り出した作品の海外での評価に強い関心があるのは、「自我」の基盤を無意識のうちに「日本人」というところに置いて、それを支えにしているからだろう。(続く)