瞑想と精神世界

瞑想や精神世界を中心とする覚書

■掃除の瞑想

2004年11月28日 | 瞑想日記
瞑想のあと少しパソコンに向かい、それから2時間弱、掃除や片付け。しかし、そうした作業中のサティがほとんどできていない。以前は、作業中の一つ一つの動作にラベリングして一生懸命やろうとしていたのだが、最近は掃除の時などはさっぱりだ。自動食器洗い器にしてしまったので、皿洗い瞑想もしなくなった。

しかし、ティク・ナット・ハンの『禅への鍵』の影響もあって、これではいけないと思うようになった。ティク・ナット・ハンはいう。修行者はどんな行為をおこなうときでも、ある特定の思念をもってそれをおこなう。たとえば、手を洗うときは、「水が両手の上を流れていく。かけがえのない地球を保つために、どうかこの水を上手に使えますように」。こういう「思念」も大切だろう。掃除で言えば、「家族が少しでも居心地よく生活できるように」だろう。

多くの場合、気づけば掃除とは関係ない様々な思考を追っている。まずは、それに気づいて「思考」とサティを入れる。そして「掃除をしている」とラベリングする、あるいは上のような思念で確認をする。途中、何かの音に注意が向いたら「音」とラベリングする。そんな感じだろうか。こうして文章で確認しておくことで、次の作業からは少しはマインドフルネスを取り戻しやすくなるだろう。

■気づきの瞑想

2004年11月28日 | 瞑想日記
今日も午前中、10時前より35分ほど座禅。また何人かの人の顔とその人へのいつもは気づかないような感情がサティされた。浮かんで来るのは身近な人とは限らない。ほとんど話したことさえない人であることも多い。そんな人に対しても、私の中には様々な反応がある。多くは、自分の中の何か、漠然とした不安や劣等感や、同質と感じられる肯定的なもの、そのほか様々な心理を投影しての反応である。この人にこんな感情を投影していたのかと気づく。ある人に対する私たちの印象というのは、自分でもふつうは気づかない無意識の複雑な要素を投影し、それらが微妙に影響し合うことで成立しているのだな、と感じる。

瞑想合宿のときは、これまで気づかなかったような劣等感に気づいたが、ここ数日の瞑想では、不安や恐れが浮かび上がることがおおい。劣等感と関係してはいるが、やや角度が違う。これも日常の中ではほとんど気づかない。そんなものにいちいち気づいていたらたいへんだから心の奥へ押し込んでいるのだろう。しかしそのためのエネルギーは相当であるはずだ。結局は、自分のあるがままが受容されていないのだ。

以上のように否定的な面を強調したが、瞑想そのものは、静かな安らぎの中で進む。脳の深い静まりとバイブレーション。腹へのサティの持続。イメージの浮上。それに伴う感情への気づき。そして腹へのサティ、そんな繰り返しがクリアな静謐のなかで続いていく。