瞑想と精神世界

瞑想や精神世界を中心とする覚書

■ マインドフルネス

2004年11月25日 | 瞑想日記
◆マインドフルネス=sati
その時々の自分の関心や問題意識その他さまざまな状況に影響されつつ、次にどんな本を読むかを決める。それが本当に今の自分が読むのにふさわしい場合もそうでない場合もあるだろう。唯識についての本・『知の体系』の後に選んだのは、ベトナムの禅僧・ティク・ナット・ハンの『禅への鍵』であった。

彼の本で、日常生活の中でのマインドフルネスということの意味をもう一度確かめたかった。また、後半で中観や唯識にも触れているので、かれが唯識をどう捉えているかも確認したかった。

最初から影響を受ける。

仏教においては、マインドフルネス(気づき)があるかどうかが最も大事なことだ。マインドフルネスは、サティの英訳である、漢訳は念である。「いまここ、現在の瞬間に起きていることにはっきりと気づいていること」。

「私たちが歩くときには、自分が歩いていることにはっきり気づいています。自分たちが食べているときには、食べていることにはっきり気づいています。‥‥他の人たちは、自分たちが歩いたり、食べたり、洗ったり、据わったりするとき、大抵は、自分のしていることに気づいてはいません。」(釈尊と当時思想家の問答より)

何事も心を専一にして行う、はっきりと目覚めて生きる態度から深い気づき生まれ、存在の真理があらわになる。日常の生活や仕事は、そういう気づきの課題を遂行する場である。目覚めるとは、統制のきかない思考という習慣病から、明晰で純粋なこころの状態に戻ることだ。

◆単調な仕事でこそ
ヴィパッサナー瞑想を知り、わずかながら実践してきたことで、ようやく私も上に述べられたようなことを、少なくとも試みようとする姿勢はできたかな、と思う。ラベリングがこのような生き方への手がかりを与えてくれるからだ。

昨日書いた新たな思いや、ティク・ナット・ハンの言葉に刺激されて、少なくともマインドフルネスを心がけようとする姿勢はあった。午後しばらく比較的単調な事務的な仕事を行っていた。やはりふっと思考があらぬところに飛ぶ。すかさずというわけにはいかないが、気づいて元に戻る。あるいはかすかで微妙な一瞬一瞬の感情の動きに気づく。そんなことの繰り返しだった。