ちわわ一家の 食べ歩る記・飲み歩る記

美味しい料理と
美味しい酒を求めて
日本を、世界をさまよう
チワワ一家の「食べ歩る記・飲み歩る記」

ダイエー碑文谷店 食品フロア

2016-02-27 11:45:21 | 国内旅行
ダイエー碑文谷(ひもんや)店
店舗西側の3代目ロゴマーク
2005年に制定されたものです

マークとともに制定された
新キャッチコピーは
『ごはんがおいしくなるスーパー』


東側入口

こちらがダイエー碑文谷店のメインエントランスになります

フロア案内

店舗フロアは1階から7階まで
まずは1階と2階をご紹介します

1階テナント 梅丘 寿司の美登利(みどり)総本店

入り口を入るとすぐにあるのはテイクアウトのお寿司屋さん
奥には小さめながらイートインの回転寿司店舗『活(かつ)』も控え
ビールや日本酒などのアルコールも頂けるようになっています

1階テナント サンジェルマン

日本たばこ産業が運営するベーカリー
元は東急百貨店の子会社だったことから、東急線の沿線に多く存在します

2階テナント スターバックスコーヒー

2000年8月4日にオープン
スターバックスは相変わらずどこも混雑しているようです

2階テナント サーティワンアイスクリーム


2階食品売り場

2階は元はレディースのフロアでしたが、1999年の改装により
食品のフロアが増床されました
1階が主に生鮮食料品やお惣菜などを扱い
2階は主に飲料や酒、菓子や調味料などを扱っています

2階ワイン売り場

食品フロアの面積が広いだけあって、ワインの品揃えが豊富です

2階調味料売り場

韓国食品も多く取り揃えていました

2階銘菓売り場

2階レジ前に並ぶ銘店銘菓のコーナー
定番の風月堂やモロゾフをはじめ
目黒の銘店、自由が丘の亀屋万年堂も入っています

2階化粧品とくすりの売り場

食品売り場と近くだと非常に便利です

ではもう一度1階に戻って
今度は生鮮食料品売り場に行ってみましょう

1階 精肉売り場のすき焼き用国産牛肉

セレブの街のお店だけあって、高級なお肉がならんでいます

すき焼き用の牛肉といえば、ダイエーを象徴する品でもあります

ダイエーの創業者『中内功(なかうち いさお)』氏
戦時中の1945年、中内氏が22歳のときフィリピンに召集され
そこで待っていたのが壮絶なる飢えとの闘いでした
食べられる物なら何でも食べ、飢えをしのいでいるさなかに
中内氏は手榴弾を浴びてしまうのです
生死をさまよう中、脳裏に浮かんだのは家族と囲むすき焼きでした
『死ぬ前にもう一度すき焼きを腹一杯食べたい』
この強い思いが中内氏を死の淵から甦らせたのです

奇跡の生還を果たし戦地から帰った中内氏が心に誓ったことは
『これからは飢えのない、豊かな社会をつくらねばならない』
そうして始まったのが、スーパー『ダイエー』だったのです

中内氏が掲げた当時のダイエーの経営理念は
『良い品をどんどん安く、より豊かな社会を』
そこから生まれたのが価格破壊であり、戦後日本の豊かな生活でした

中内氏が起こした価格破壊の象徴的存在もまた牛肉でした

高度経済成長期の真っ只中だった1959年
ダイエー1号店創業から2年後の事です
当時100グラム100円で庶民にとっては高嶺の花だった牛肉を
100グラム39円で売り出しました
瞬く間に売り場は黒山の人だかり
牛肉の価格破壊がその後のダイエーの急成長を後押しさせたのです

ダイエーの牛肉を語る上で、避けては通れない話でした

1972年にダイエーは三越を抜き業界トップとなり
更に全国に店舗を広げ、1975年4月に碑文谷店をオープンさせます

1975年4月のオープニングセールのチラシその1
(ダイエー碑文谷店に掲示されていたものです)


1975年4月のオープニングセールのチラシその2
(ダイエー碑文谷店に掲示されていたものです)


オープン当時の東側入口前の広告塔
(ダイエー碑文谷店に掲示されていた写真です)

1980年2月期に小売業としては初の売り上げ1兆円を達成しました

その後更なる拡大路線に舵を切り、数々の企業や資産を手に入れました

絶好調に見えたダイエーでしたが、当時の経常利益はわずか1%
ダイエーが展開する総合スーパーに陰りが見え始めていましたが
中内氏の原点であるスーパーへのこだわりから
抜け出す事が出来ませんでした

1992年のバブルの崩壊でダイエー含み資産が一気に目減りし
更に1995年の阪神淡路大震災で数百億円の損失を計上
次第に債務返済が追い付かなくなり2001年に中内氏は経営から退きます

北側出入り口


2004年に1兆円を超える負債を抱え
ダイエーは産業再生機構の支援を受けることになります

現横浜市長の林文子氏を代表取締役会長兼最高経営責任者(CEO)に迎え
再建に向けて動き出したさなかの2005年
中内氏は定期検診を受けていた神戸の病院内で脳梗塞に倒れ
83歳で息を引き取る事となります

戦後一代で日本一のスーパーチェーンを築き上げ
自ら巨額の負債を残してこの世を去ったのです

日本一だったダイエーの旗艦店

『ごはんがおいしくなるスーパー』
中内氏が亡くなった翌月に
林文子氏が率いる新体制により掲げられた新しいキャッチコピー

これは中内氏の企業理念
『よい品をどんどん安く、より豊かな社会を』からの決別宣言でもありました

中内氏の理念は戦後の日本に流通革命を起こし
そのおかげで日本は豊かな社会を得る事になりました
この事実に間違いはないでしょう

しかし、物質的な豊かさを手に入れた日本人は
その次に心の豊かさを求めるようになっていたのでした
新生ダイエーは、『ごはんがおいしくなる』という言葉に
安いだけではなく心を満足させるという思いを込めました

次はダイエー碑文谷店の3階から上をご紹介します


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