あまりの美しさに
写真をとるのも忘れ
思い出してからも
ただ、じっと眺めていた
ウスパルタの町を見下ろす
薔薇の町の夕暮れは、まさに、薔薇色に染まる
翌日、町を歩きまわって
深い薔薇色の秘密にふれた
町中の建物が薔薇色
薔薇の町は空気までも深い薔薇色に染まり、文字通り薔薇の匂いに包まれている
遠くの空の下、薔薇風呂の中で思い出す、トルコの一ページ
あまりの美しさに
写真をとるのも忘れ
思い出してからも
ただ、じっと眺めていた
ウスパルタの町を見下ろす
薔薇の町の夕暮れは、まさに、薔薇色に染まる
翌日、町を歩きまわって
深い薔薇色の秘密にふれた
町中の建物が薔薇色
薔薇の町は空気までも深い薔薇色に染まり、文字通り薔薇の匂いに包まれている
遠くの空の下、薔薇風呂の中で思い出す、トルコの一ページ
ステンドグラスが投げかける光の宝石に魅せられた後は、
薔薇の花を追いかけて、ミフラーブにそって、天井を仰ぐ。
天井に咲く、薔薇の輪に、
回る、回る、想いの迷宮へと、記憶が吸い込まれていく。
廻る、廻る、逃避への甘い誘惑に誘われ、
いい思い出だけが吸い上げられるように、エラムへ
エラム、楽園へ導かれ、また、薔薇の花をなぞって、外へと出る。
中庭のバラをつたい、茨の奥へと迷い込む。
なんだか、フランス語が聞こえてきそうな、
妙な錯覚にとらわれ、
こんなボンボン入れがフランスにはありそうだと、思い、
しかしそれが、開け放たれた窓から聞こえる「メルシー!」と叫ぶおばさんの声が原因と知る。
中庭の向こう側、ステンドグラスのモスクと対照的な、簡素なつくりと、電飾。
はっと我に返る。
そのままであったならば、そこにある井戸へ吸い込まれ、
シャイターンの住む世界へまっさかさまであったかと、現実に引き戻される。
薔薇の花の魔術。
※エラム…楽園のペルシャ語
ミフラーブ…メッカの方向を示す、モスクの中のくぼみ
シャイターン…サタン(悪魔)
あなたにどうしても行ってもらい処があると、
午前10時に必ずつくようにと、きつく言われて向かった。
10時よりも前でも後でもダメよと念を押されて、
ありがたいことに、道にも迷わず、私はそこへたどりついた。
外からは、そこに来た意味が判らない、高い塀と小さな門。
重い木の扉を押し、暗い通路を通り抜けると、広い中庭に出た。
急に現れた私を見つけたおじさんが、遠くからちょっと待てと呼びとめる。
「マダム、チケットがいるよ」と、言われた。
モスクといえば、青いタイルの涼やかな印象が強い。
しかし、このモスクは淡いピンク色の光を放っている。
近づいてみると、一面薔薇の花のタイルで覆われている。
外観に圧倒されていると、おじさんに早く中に入りなさいと言われた。
朝日が、ペルシャ絨毯の上に、宝石を敷き詰めていた。
その宝石を踏んでしまったら、消えてしまうかの如く、
柱に寄り添うようにつま先立ちに立って、その光を見詰めた。
部屋いっぱいの宝石は、時間と共に、潮が引くように、少しずつ天へと還って行った。
毎日、毎日、太陽が出ている限り、この宝石は天からもたらされ、つかの間、人々の心を洗う。
イランを思い出す時、
この薔薇のモスクも思い出す。
タイルに描かれた、薔薇の一輪、一輪を指でなぞり、
薔薇のかぐわしい匂いが、光の粒となって、絹の絨毯に投げ出される様を、
外国人にも強制される、スカーフと、全身を覆う服装も手伝って、
遠き日、ここに、遊んだ、無邪気な幼い私を、まばゆい光の中に見出す。
日が高く昇ってしまって、暗い室内には、人目を避けて密談をしに来たカップルがひと組。
遠くに聞こえる喧騒。
ふと、我に帰り、何時の日かまた、午前十時に…
当方のあわただしい島で、午前十時に、このモスクを思い出せる日は、まずない。
思い出すのは、疲れて、疲れた事も良くわからない、
眠いのに眠れない事がよくわからない、
そんなぼんやりした、心の隙間を、この薔薇の宝石が埋める。
オルサさんにご紹介いただいた『パルファム紀行』や、伊藤緋紗子『ローズビューティーブック-薔薇で美しくなる』などで、日本の薔薇好きは、ウスパルタと言う地名を知るかもしれない。
トルコと薔薇を結びつけるのは、日本人にはむずかしいかもしれない。
しかし、確実にトルコの、ウスパルタの薔薇は、日本に浸透してきている。ブルガリア産のダマシュク・ローズにこだわらない、薔薇美容法愛好家は、ウスパルタ・ローズの香りを漂わせている。
満開の薔薇農園で、お土産にと手渡された花は、ホテルの私の部屋を、いい匂いで一杯にした。子どもと犬と、子羊と夕暮れの薔薇農園での思い出を写し取ったかのようなこの写真の、古びたような味わいに、今もあの日のことが、薔薇の匂いとともに思い出される。
私がこの町でバスを降り立った時目にしたのが、この薔薇屋さん。
そして、この薔薇屋さんが軒を連ねているのだ。
ピンク、ピンク、ピンク!
アラブではおなじみの天井まで整然と積み上げられた商品。ピンク色の薔薇製品の壁。
普段であれば、欲しいとも思えない、安っぽいピンクの群れなのに、これだけあると買わずにはいられないような気になってくる。子どものころが懐かしい、おままごと用のかごと、子供用化粧品のようなサボン(せっけん)とシャンプーにクリーム。そして数珠。
もっとクオリティの高い店もある。そういう店は、このピンクに飲まれて、ひっそりとしている。
結局私は、このかごを断念した。
夜店のひよこではないが、日本に持って帰ったら、色あせてしまうと思ったからだ。
もちろん、1kのジャムを抱えて、カッパドキアの奇岩を越えなければならないという、事情もあった。
「旅に出たら、両手に持てるものだけを持って帰る」それ以上は、思い出にして帰る。これが私の旅の仕方。
この町に降り立った瞬間目にした、薔薇屋さん。
そして、バス停を離れたらとたんになくなってしまった薔薇たち…
また町の中心で再会した薔薇と薔薇のモチーフと、薔薇屋さん。
品の良い薔薇立ちの中で、この毒々しい薔薇たちも楽しい思い出のひとつ。
いや、忘れられない思い出…
「この町で薔薇を見ないことなんてありえない」
その言葉通り、日が暮れると次々に咲きはじめる電飾の薔薇。
灯りが一つつくたび、町の奥へとふらふら行ってしまいそう。
何から何まで薔薇、薔薇、薔薇…しかしないものもあった。
それはローズティ。一番ありそうなのに、ない。
薔薇フレーバーのゼリーやクリーム。
薔薇の香りのシャーベットは、アラビアンナイトに欠かせない、甘い恋の味。
この町は観光化に程遠い。
でもそれでよい。
薔薇を愛する人々が、ひっそりと住む、美しい湖の町。
思い出の鍵
缶、壜、ホウロウに土地の思い出を詰めておく。
思い出を呼び覚ますのは匂い。
視覚的なものよりも、匂いは頭の中の錆びついた引き出しを、するりとあける。
薔薇の町の特産は、薔薇ジャム。
薔薇屋さんに積み上げられた、薔薇ジャムの缶は、店によってデザインが違う。
一缶1キロ、町中の薔薇屋さんを廻って、どの缶にするか決め、
へこんでいないか?傷が付いていないか?ためつすがめつ見て、
「味に変わりはないさ!」という、店主のあきれた顔もものともせず、選んだ一缶。
薔薇ジャムは、惜しげもなく入った薔薇の花びらでこってりとしていた。
紅茶に一匙落とすと、ぱあ~と広がる花びら。
美味しいからと配っていたら、あっという間に空になってしまった。
空き缶には、もちろん薔薇を!
毎日のお茶に薔薇は欠かせない。
プーアル茶をベースに、薔薇、そしてカモミールなどをブレンドして作る私だけの暴暴茶。
暴暴とは、暴飲暴食の略。
好きなだけ食べて、飲んで、美容と健康を保てるお茶。
エジプトでごっそり買った薔薇の花を保存しておくのに、
この缶はぴったり。
湖沿いの小さな食器屋さんにも、薔薇食器が一そろい並んでいた。
「薔薇?ただの薔薇なんかいくらでもあるさ。いたるところ、全部薔薇さ」
この町の人の言葉通り、どこを見ても薔薇。薔薇のない生活が考えられない人たちの笑顔も、大輪の薔薇…
私の終の棲家は、
青い空、
碧い海、
白壁の家、
そして咲き乱れる薔薇、薔薇、薔薇…
そんな夢の家を髣髴とさせる、
静かな処へたどり着いた。
薔薇の町へ行きたくて、
薔薇の町でバスを降りて、
数少ない英語を話すお姉さんを紹介され、
「この町にある素晴らしいものは、薔薇と湖よ」と言われ、
たどりつた小さなカフェテラス。
紅茶に添えられた一輪の薔薇、
「ゆっくりしていって」と、ウインクして、どこかへ行ってしまった店員。
迷い込んだすずめがパンくずを探し、
風に揺れる、海岸沿いの薔薇を眺め、
日記を書いたり、手紙を書いたり、
ただ、海を見たり…
紅茶のおかわりがそっと差し出されたり、時間がゆっくりと流れる。
この町に、かつて私がいたかといえば、
その気配はかけらもなく、
私の大好きなものが、トルコという宝石箱の中に、
詰まっていた事を、紅茶の甘さに感じる。
思えば、初めて地中海を見たとき、
私の地中海はここではないと愕然とし、
そのショックに口も聞けないで、流し込んだ甘ったるい紅茶。
まるで溶岩が流れるがごとく、いつまでたっても胃に到達しない、
どろどろとした感触。
美しい甘さは、なんと軽く、さらさらとしたものか。
みぞおちを突き刺すような、ガラスのような鋭さも、
べたべたするしつこさもなく、とけてなくなるただ、甘い余韻。
この湖を、
この町を、
思い描いた事は一度もないけれど、
イメージする世界にぴたりと当てはまる処にこられた喜びは隠す事も出来ず。
帰りぎわ、お金を払おうとする私に店員は、
「なにもいらないよ。君はここに、居たいだけいたらいい。
もっと薔薇を摘んでこようか?お茶のおかわりは?
帰るのかい?またいつでもおいで」
まるでここが、ずっと昔から私の指定席だったかのような店員の態度に、
ただただ、嬉しい顔を見せる私。
店員はそれ以上何も聞かず、追いかけてもこないで、私がまた明日、そこに腰掛けるかのような態度でいた。
この町が、かつてイスラームにとって重要な地であったことを私が知るのは、帰国してだいぶ経ってからのことである。
今から約70年前、許婚がいやで、東京に出てきたという祖父。
その時、持っていたのが手前の柳小折。祖父は旅に出るとき必ずこの小折を持っていたそうだ。
祖母によると、夏休み、終業式の朝には駅に本を詰めた小折を届けて、滞在予定の駅に先に届けてもらったそうだ。教員であった祖父は学校が終わるとその足で、どこかの旅館にこもってしまい、勉強していたと言う。
バック一つで旅に出る。
出たきり、今度はどこへ行くとも知れず、荷物を送った駅名だけしか家族は知らない。
祖父が生きていたら、「なんだ、俺と同じ旅だなあ」と、私に言ったに違いない。
この小折を持って旅に出たいところだが、私にとっては大事な祖父の形見。門外不出、納戸で私の宝物の布類を大事に保管していただくことにしている。
さて、バックを転がしながら街中を彷徨った私。
「ホテルへ行って」と、タクシーを捕まえた。
旅の荷物は少なめに。
あてどない旅もいいけれど、メリハリをつけて。
旅には必ず終わりがある。
ホテルに連れて行った貰った私は、とにかくシャワーを浴びて寝た。
それはもうぐっすりと寝た。
起きて、私はまずフロントのおじさんに話しかけた。
おじさんはまったく英語が出来なかった。
仮にもホテルで、英語が通じないとは!
それが功を奏するとは、後々わかること。
そのとき私は、ウスパルタにきたはいいけれど、
ホテルにたどりついたはいいけれど、
薔薇にたどり着けるのか、お先真っ暗でありました…
今回の旅は、「イランへ来ませんか」というお誘いから始まった。
ペルシャ、行きたくても行かれないと勝手に思い込んでいた、ペルシャ文学の地。
よくよく調べてみれば、内陸は外務省の危険情報でも「きわめて平穏」とのこと。
薔薇の時期を狙い、計画は進められていった。
最初のうち、私はイランだけ1ヶ月いるつもりであったが、2月に行ったエジプトで、「トルコで会おう」という話が持ち上がったり、日本でもタイルの専門家に「トルコのタイルを見に行こう」と誘われたりした。
エジプト人の誘いはともかく、タイルの専門家の話は捨てがたく、私はトルコ訪問も視野に入れて考え始めた。
結局のところ、トルコで日本人やエジプト人の友達に会えるかどうかは、未知数になっていた、出発直前。
私は、またイランに1ヶ月いようかと思い始めていた。スパイさんからも、そのように要請が来ていた。
しかし、ふと、私の脳裏に舞い落ちてきた花びら。
イランが薔薇の時期ならば、隣のトルコも薔薇の時期なのではないか?
イランからは、スパイさんから薔薇情報がやってきたが、トルコの薔薇情報は乏しかった。
ウスパルタ。そこに、ダマシュク・ローズの農園があることだけは知っていた。
有名な日本のガイドブックに、奇跡のように「薔薇の街ウスパルタ」と、5、6行の情報が、小さな写真入で出ていた。
大きな町なのか、小さな村なのかもわからず、薔薇の咲き乱れる一山の畑を想像しながら、私はバックを掴んで、遠くのウスパルタへと、第一歩を踏み出した。
そう。情報はなきに等しかった。
日本でウスパルタを紹介しているのは、フランスのお洒落を日本に紹介している、伊藤緋紗子さんぐらいであろう。
イランからイスタンブールへ出た私は、そこかしこでウスパルタについて聞いてまわった。
イスタンブールの誰もが、「そんなところは知らない」と言った。
そんなことはあるはずがなかった。
しばらくして判ったことは、「ウスパルタを知らない」のではなく、「日本人がウスパルタへ行くと思わなかった」ということであった。
「日本人はカッパドキアさ!カッパドキアへ行くんだよ!ああ、もちろん知っているさ。薔薇の街、ウスパルタだろう?日本人が何の用があるんだ?薔薇しかないぞ」
薔薇しかない。
だから行くのです!
私が降り立った街、ウスパルタ。
降り立った瞬間、飛び込んできたのは、ショッキング・ピンクの薔薇製品。
天井から、歩道に至るまでピンクが溢れかえった店…
バスターミナルを出た私は途方にくれた。
そこは街であった。
ただの街であった。
薔薇のばの字もなかった。
ホテルもなかった。
店と言えるような店も、観光案内所も、交番もなかった。
この時、この街が薔薇と織物の街で、私が来るべき処であったと実感できるとは思っても見なかった。
ウスパルタの街のマークは織機と、織り出されている織物が薔薇であることを、マンホールに発見すことも出来ないほど、私は余裕がなかった。
東西南北、どちらへ行けばいいのか判らなかった。
ウスパルタ、私を呼ばなかった…?
私は寝ることにした。
判らなくなったら、考えるのを止めよう。
ゆっくり眠って、ご飯を食べて、のんびり茶を飲んでから、聞いてみよう。
「薔薇はどこですか?」と…
私は十余年、エジプト人の中にイスラームを見てきた。
マグレブ(モロッコ)、アンダルシア、そしてバルセロナやマドリーのイスラーム教徒、日本にいるイスラーム教徒も見た。
私の知っているイスラームは、エジプト的である。
エジプトのイスラームに対する考え方は、緩やかでナイルの流れのようである。
厳格な信者もいれば、いい加減な人もいる。それぞれが、自分流の考えを持ち、その信念は一貫している。
ミニスカートで、街中で人目もはばからず水タバコをふかすお姉さんが、得てして大荷物であることは珍しくない。
大荷物の中味は、タオルと着替えである。
毎日5回の礼拝を欠かさないために、どこにいてもお祈りに行かれるように、お祈りグッズを持ち歩いているのである。
お祈りの時間前になると、デパートのトイレに駆け込み、洗面台に足を持ち上げ洗い、頭や、耳、など清めなければならないところを念入りに洗う。
お祈りの時間前と言うことに気がつかないで、女子トイレのドアを開けると、足を上げた女性が並んでいて、仰天することがある。
そして、アバヤを身につけ、スカーフをきっちりと巻き、近くのモスクへと向かう。
男性も然り、呑んだくれで、日も高いうちから、水のペットトボトルに椰子のどぶろくなどを入れて、ちびちび飲んでいる人が、お祈りを欠かさないことはよくあることだ。
イランはどうだろう?
映像で見る限り、イラン人は非常に真面目そうな顔で、しかつめらしくしている。女性は皆、スカーフを巻き、ゆったりとした体のラインがでない服を着ている。
しかしながら、スカーフなどは外国人も強制的に着なければならないと定められているのが、イランである。自主的にそういう身なりをしているわけではない。
クルアーンには、「髪は性的魅力があるので、家族以外の男に見せてはならない」と書いてある。
エジプトでスカーフを巻いている人は、髪が一筋も出ないようにと、きっちりと巻き、待ち針でずれてこないように、とめる。
イラン人は総じて、真知子巻き。ゆるく結んだだけのスカーフは、ずれていつも前髪が見えている。
それはイラン女性の、政府に対する小さな抗議のように見える。
これだけでも、私には大きな驚きだった。
しかし、モスクにおいて、私は気絶しそうなほどの衝撃を受けた。
エジプトでは、大抵のモスクに、異教徒でも入ることが出来る。
できればスカーフで髪を覆い、露出の少ない格好、もしくは入り口で貸してくれるマントを着ればよい。靴を下足置き場に置くか、バックにしまっておけば、大丈夫である。
しかし、ねっころがったり、メッカに向かって足を投げ出してはいけない。靴を、たとえ靴底を上に向けておいたとしても、お祈りマットや絨毯の上におくと、注意される。
モスクは、クルアーンの朗誦をしたとき、良く響くように造られている。
イランのモスクのタイルはすばらしい。
美しい色彩に惚れ惚れとし、そのタイルを一枚、一枚見てゆく。
古の時へ思いを馳せ、キブラ(メッカの方向を示すくぼみ)に向かって、座り、天井を見上げる。
そこに響いてくるのは、「アッラーフ・アクバル」(アッラーは偉大なリ)という、声である。
そのはずであった。
たとえ、お祈りの時間でなくとも、私の耳にはアザーン(祈りの時間を知らせる呼びかけ)が聞こえてくる。
私は、ありえない音に愕然とした。
回り廊下のようなつくりのモスク。太陽の照り返しで、反対側がほとんど見えなかった。
反対側に回りこんだ私は、そこで衝撃を受けた。
メッカに足を向けて寝ている人が、たくさんいるのである。
そして、響いているのは彼らのイビキ。
かばんも何も放り出し、気持ちよく熟睡する人をよけつつ、祈る人の姿もある。
この対照的な姿に、あっけにとられた。
そして、祈る人の方向と、寝ている人の足の向きに衝撃を受けた。
エジプト人がよく言っている。
「見せ掛けじゃダメなんだよ。僕らは新しいものが大好きだ。民族衣装なんか着ない。でもね、ムスリムとしての努めは大事にしているんだ。信仰とは形じゃないんだ。心でするものだ」
それを聞くと、でも、クルアーンでは服装も定めているじゃない…と、思う。
外国人が見ると、とても敬けんな国民がそろっているように見えるイラン。
本当に国教がイスラームなの?と思ってしまうこともあるエジプト。
どちらが正しくて、どちらが正しくないと言うことはない。
ただ、私は衝撃を受け、混乱した。
こんなにも違うものかと。
今でも、モスクのドーム天井に響くイビキが聞こえてくる。
「ギーバッタン、トントン。きーからから。」
私が遊んでいる時の擬音は、誰に聞いてもこれに尽きる。
飽きもせず、裏庭で、家の中で、ひたすらに
「ギーバッタン、トントン。きーからから。」
細長い下草を撚ったり、編んだり…わらじを作り、
あまり毛糸や、リボンを木の枝や、鉛筆でつくった織り機で、小さな布を織ったり、
「ギーバッタン、トントン。きーからから。」
織機と糸紡ぎ機の音。
裏庭で器用にわらじを作る5歳児。
私。
前世の因縁と言わずして何という…?
そんな私が、ヤズドのキャランバンサライで目にした部屋。
窓辺に置かれた糸繰りを一目見て、これが私の部屋!と、確信したのは言うまでもない。
オーナーが鍵を持ってくる前に、もうこの部屋の前に荷物を運ばせた。
荷物を運んでくれた子どもが「この部屋か判らない」と、必死の手振りで、私を中庭のベンチに座らせようとしたが、私には確信があった。
オーナーが持ってきた鍵は、果たしてこの部屋の鍵1本。
「ギーバッタン、トントン。きーからから。」
イランで、私は懐かしむ。
「ギーバッタン、トントン。きーからから。」
私が織っていたのは、イランの立派なペルシャじゅうたんとはほど遠い、もっと素朴な織物。
「ギーバッタン、トントン。きーからから。」
イランは織物の国。
そうだ、私はイランで探さなければならない、じゅうたんがあった。
この時、私はまだ、その幻のじゅうたんに出会っていなかった…
私のあこがれる墓石は、ジャン・バルジャンの墓石。
四角い石、誰かが鉛筆で詩を書きつけ、それもまた雨に消される…
時に、誰かか疲れた足を休め、
荷物を置き、
通りすがりに、ふと、目に入るか入らないか、
そんな、草むらに覗く、苔の生えた石の下に眠りたいと思っていた。
トルコの墓地は、薔薇で一杯。
日本の墓の花立のところが、薔薇を植えられるようになっている。
墓石を埋め尽くすように薔薇を植えているところもあれば、
上品に、一対の薔薇の苗を植えているところもある。
そして、墓石に彫られている薔薇、薔薇、薔薇…
イスタンブールの墓地で、素敵な墓石を見つけた。
まだ、咲ききらない花が、枝ごとぽっきりと落ちる…
まだ先のある、若い命が突然奪われたかのような墓石に目を奪われた。
本来、イスラーム教徒の墓は、簡素であるはずである。
死とは、第二の人生の始まり。
現世の全ての契約は解除され、
伴侶も、死の瞬間、他人となる。
何も持たず、真っ白な布に包まれ、砂漠に埋められる…
ところが、エジプトではファラオの時代を未だに踏襲し、塀で囲った大きな墓が存在する。イランの墓碑も美しい、立派な詩が掘られた墓碑や石棺を見た。
トルコも然り、はるか昔からの埋葬を続けているのであろう。
墓地では、墓石にすがってなく人もいた。咲き乱れる薔薇の中で、人目もはばからず、愛しい人の墓石に額を寄せ、涙する。
トルコ人のイスラームとは?と、しばしば疑問を感じたが、これもその一つ。
死は不思議と、その人々の民族性をあらわにする。
トルコにおいて、イスラームの歴史は長い。
トルコ人の誰しも、イスラーム以前を意識している事はないだろう。
薔薇、薔薇、薔薇…
石に刻まれた、永遠の、その人だけの薔薇。
ジャン・バルジャンの墓石か、それとも薔薇のなかに建つ薔薇の彫刻か。
煩悩に捕らわれた私は、今日本人であると実感した。
薔薇好きもここまでくるとどうでしょう?
といいますか、表だって華美にすることが出来ないイランでも、他のイスラーム諸国同様、あの「真っ黒」の下はとても華やか。というか、ギラギラなことも…女性の下着が派手なことに、私などはまったく驚かない。
しかしまあ、殿方もでしたか…と、しばしため息。このパンツに見入ってしまいました。
2度は通り過ぎたのですが、やはり気になって写真を撮ってきました。
実に私の持っているシーツにそっくり。薔薇模様のシーツの上から、もう一枚真っ白で薄手のシーツをかけて、その透けた中に見える大輪の薔薇に、そっと頬をよせると、良く眠れるような気がするのです。
それがまあ、片方に私の両足が入りそうな、大きなパンツとそっくりだなんて!
このパンツを思い出して不眠症になったらどうしようなどと、文学と詩の街、シーラーズの商店街で呆然としたのであります。
クルアーンには、繰り返し、書かれている。
「悪いことをしたら、神は見ておられる。必ずその報復を受ける」
私が生まれた頃、イランは華やかで自由なシャーの時代であった。
その絶対王政が崩れ始めたのは、私が3つの頃。
テレビで見たモノクロの映像を、今でもはっきりと思い出すことが出来る。
ホメイニ氏の大きな肖像を掲げた民衆のデモ行進。
「ホメイニさんなんか嫌い」
当然、アメリカよりのニュースに、日本人がイラン革命を応援する意見を持ったとは思えない。祖父と見ていて、どんな説明をされたのか、何を語ったかまでは覚えていない。ただ、「この肖像の人は、良くない人」。そう感じていたことだけを良く覚えている。
「ホメイニさんなんか嫌い」と、3つの私は言っていたという。
私がイランに行くと言った時、母はこのエピソードをおかしそうに話してくれた。
前世はアンダルシアで、ちょいと立ち話をする名前も知らない間柄だったジプシーに、ひょんなことで再会した。
前世ジプシーだった彼女は、日本に生まれ変わっても、日本列島を彷徨う運命にあった。彷徨うのが宿命とも知らず、現世の夢は「スパイさん」
各地で捜査活動に余念がなかった。ある時、聞き込み中の彼女は、私の名前を偶然耳にする。「ああ、前世アラブの洗濯女?会いたいの?」その人は何も知らずに、彼女を私に紹介した。
さて、そんなこととは露知らず、現世の夢は「探偵」になりたかった私。洋服のポケットを検めたり、スーツやドレス、バックから靴に至るまで何でも丸ごと洗濯してしまうのは、前世からの宿命とは知らず、盗聴器が仕掛けられていないか、丹念に調べていた。
こんな二人が再会して、イランを旅しようとは…お釈迦様はご存じなくとも、アッラーはご存知だったようである。
本人たちの意思とは関係なく、運命の巡り合わせは、私たちにペルシャ語やアラビア語を習わせ、「本当はスペイン語が一番しっくりくるのに!」と、ぼやきつつも、どんどんイスラーム世界へと引きずり込まれていく。
二人きりで初めての旅。
前世でもなかった、初めての長い時間。
長い、長い、それは長い時間。
その時間は、前世を懐かしむのにはあまりにも長い、
しかし、スパイと探偵には一瞬の時間。
その日は、ホメイニ氏の命日。
政府は「ホメイニ廟へお参りしなさい」と、言っていた。
3連休、全国民が廟へ行ったら大変なことだ。
当然、遊びに出かける多くの人々がいる。
バスターミナルには、廟に行くバスだけで、他に行くバスがなかった。
スパイと探偵は走り回り、か弱い外国人観光客の不安そうな顔を見せて、
密か仕立てられたバスに乗り込んだ。
テヘラン脱出に成功と喜んでいたのは、そう長く続かなかった。
まもなくバスは、渋滞に巻き込まれ、そして完全に停止するまでに、大して時間はかからなかった。
私たちが目的地に着くまでに要した時間。
ほとんど飲まず食わず、トイレもない20時間。
スパイと探偵ですもの。へいっちゃらです。
クルアーンの中に繰り返し出てくる言葉とともに、幼い頃、自分が言った言葉を反芻する。
人の悪口は言ってはいけない。
このたび、私はイランに触れて、決して「ホメイニさん嫌い!」なんて思ったりはしない。
ただ、そう言った天罰を、こんな形で下されようとは思っても見なかった。
神は見ておられる…
そう痛感した。
翌日のニュースでは、「多くの人が移動しようとしたので、渋滞が起きた」とまことしやかに報道されていた。
ホメイニさん、神にかけてそうだったのでしょうかね?
※このエピソードについては、是非スパイさんのブログもごらんください。