私のあこがれる墓石は、ジャン・バルジャンの墓石。
四角い石、誰かが鉛筆で詩を書きつけ、それもまた雨に消される…
時に、誰かか疲れた足を休め、
荷物を置き、
通りすがりに、ふと、目に入るか入らないか、
そんな、草むらに覗く、苔の生えた石の下に眠りたいと思っていた。
トルコの墓地は、薔薇で一杯。
日本の墓の花立のところが、薔薇を植えられるようになっている。
墓石を埋め尽くすように薔薇を植えているところもあれば、
上品に、一対の薔薇の苗を植えているところもある。
そして、墓石に彫られている薔薇、薔薇、薔薇…
イスタンブールの墓地で、素敵な墓石を見つけた。
まだ、咲ききらない花が、枝ごとぽっきりと落ちる…
まだ先のある、若い命が突然奪われたかのような墓石に目を奪われた。
本来、イスラーム教徒の墓は、簡素であるはずである。
死とは、第二の人生の始まり。
現世の全ての契約は解除され、
伴侶も、死の瞬間、他人となる。
何も持たず、真っ白な布に包まれ、砂漠に埋められる…
ところが、エジプトではファラオの時代を未だに踏襲し、塀で囲った大きな墓が存在する。イランの墓碑も美しい、立派な詩が掘られた墓碑や石棺を見た。
トルコも然り、はるか昔からの埋葬を続けているのであろう。
墓地では、墓石にすがってなく人もいた。咲き乱れる薔薇の中で、人目もはばからず、愛しい人の墓石に額を寄せ、涙する。
トルコ人のイスラームとは?と、しばしば疑問を感じたが、これもその一つ。
死は不思議と、その人々の民族性をあらわにする。
トルコにおいて、イスラームの歴史は長い。
トルコ人の誰しも、イスラーム以前を意識している事はないだろう。
薔薇、薔薇、薔薇…
石に刻まれた、永遠の、その人だけの薔薇。
ジャン・バルジャンの墓石か、それとも薔薇のなかに建つ薔薇の彫刻か。
煩悩に捕らわれた私は、今日本人であると実感した。