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紛争地からの“ひとりごと”―白川優子 (看護師)国境なき医師団

2018年11月21日 | 社会・経済

  imidas連載コラム2018/11/21

 「なぜ紛争地に入るのか?」

  何度同じような質問を受けてきただろうか? 私は昔から頭で考えるよりも心の感覚で物事を決断する傾向にあるので、「なぜ」という質問を受けた時、うまく言葉で説明ができなくて困ることがある。今回はこの「なぜ」を掘り下げてみたい。

目の前の道をたどり続けて

 2010年に「国境なき医師団」(MSF)に参加して以来、あまりにも同様の質問を受け続けてきた。私が派遣されるほとんどの場所が紛争地だからだ。最近では、「私はそこまで変わったことをしているらしい」という認識がやっと芽生えたこともあり、何とか自分がどのようにして紛争地の援助活動に関わるようになっていったのか、という説明を言葉に落とし込んでいけるようになった。とは言っても、頭で整理しながら言葉にしてみたところで、結局、経緯はとてもシンプルだ。紛争地で活動するようになるまでには、自然な流れでできた道があり、私はなんら疑問を抱くこともなく、目の前に開けたその道を進んで行っただけの話だ。

 心の声に従って、看護師に

 私が7歳の時、テレビを通して出会ったMSFは、医療の届いていない場所に中立の立場で医療を届ける民間の団体である。国籍や人種、信仰する宗教、政治的な信条などの違いを超えて平等に医療を提供している人々がいると知り、心から尊敬と憧れの念を抱いた。

 その後、私は看護師という素晴らしい職業に就くことができ、この仕事が私の人生における軸となっていった。看護師を選んだ理由も実は言葉で表すのが難しい。心の声に従って選んだという説明しか思いつかない。将来の方向性を決めなくてはならない高校3年生の時に、就職先がどんどん決まっていくクラスメートたちのなかで、一体どんな方向に進むべきなのかが分からずに、私は取り残されていた。企業に就職ということに対しては全くピンとくるものがなく、かといって進学するにもそもそも自分が何を目指しているのかが分からなかった。ある日、クラスメートの1人が「私、看護婦目指しているの」と話した時に、「それだ!看護婦だ!」と私の心が飛びついた。ずっと探していた答えが見つかった。でもなぜ看護師なのか? 私は自分自身も身内にも看護師に特別お世話になった経験や思い出はない。周囲に看護師もいなかった。でも「看護婦」という言葉を聞いた時に私の心は躍り、喜び、それが私の進むべき道なのだ、と確実に教えてくれた。

  定時制の看護学校に進むと、半日を学校で過ごし、もう半日は近隣の病院で勤務するという生活が始まった。資格がないので、実際の仕事内容は動くことに不自由な患者さんのベッド上の生活のサポートが中心だった。食事の介助や、トイレのサポート、体を拭くなど、卒業までの4年間、たくさんの患者さんと接してきた。その中で私が学んだことは、患者さんというのは、一人ひとりがそれぞれ違う歴史を背負った「個」であり、でも結局最後はみんなが「同じ」人間でもあるということだった。私はその「人間」一人ひとりと触れ合いながら、日に日に感じていた。看護師とは、サポートという形でその人たちの大切な生活や人生にお邪魔させていただく仕事だ。その尊さや素晴らしさを知った学生時代だった。

 出会いから30年、ついにMSFの一員に

 卒業後、日本で看護師として働きながら、MSFの一員として働きたいという思いが募ってきたのは、私の中では自然なことであった。ただし、実際に一歩を踏み出そうと、海外派遣スタッフの募集説明会に参加してみると、英語(もしくはフランス語)で活動をしなくてはならないという条件があることを知った。その時からMSFで活動したいという夢に向けて、英語が話せないという現実との闘いが始まった。月日が流れる間も、「夢が叶わない現実」に悶々としていたが、結局は夢を諦められず、30歳を超えてから本格的に英語の勉強に取り組む決心をした。オーストラリアで大学に入り、看護師の現地資格を取得した。その後、4年ほどオーストラリアの医療施設で働いた。英語に自信が持てるようになった時には36歳になっていたが、MSFへの憧れは決して衰えることはなかった。7歳の時の出会いから約30年が経過した2010年、私はついにMSFの一員となった。

  世界各地で医療が不足している理由はさまざまである。自然災害や感染症、貧困、そして紛争。これらが複雑に絡み合うことで、病院や医師がそもそも少ない場所があったり、十分な病院や医師が揃っているにもかかわらず、差別や迫害によって医療にアクセスする手段を絶たれてしまっている人々がいたりする。あるいは、環境が整っていても、治療方法の分からない病気が蔓延しているような場所も、世界には存在する。

  MSFは、これらの現場のニーズと、抱えている人材のスキルや経験をマッチングさせ、派遣を成立させる。

 紛争地では、空爆や砲弾、地雷、銃弾など、戦争の暴力による外傷で、外科手術の必要な患者さんがおおぜい運ばれてくる。私は、外科病棟や手術室で長く積んできた看護師経験を生かせる場所として、主に紛争地にある外科プロジェクトに派遣されるようになった。

 「日本でも救える命があるのに、なぜわざわざ海外に行くのですか?」

  この質問も、よく受ける。

 日本には120万人を超える看護師がいる。故に、私一人がいないからといって医療体制が崩れる状況など想像がつかない。一方、たった一人の看護師が欠けてしまうことで、医療が回らなくなるような場所が世界には本当にあるのだと、私はMSFに入ってから目の当たりにし続けてきた。そのような地域では一人の医者、一人の看護師の重要性はとても高い。そして、今まで医療が不足していた人たちのもとへ医療を届ける喜びも格別だ。

 30年も追い続けてきた夢であるMSFの一員として働くことは、常に私の喜びと誇りそのものである。紛争地であろうとなかろうと、MSFからの依頼であれば私は派遣を断ることも、派遣先を選り好みすることもない。もし非紛争地でのプロジェクトであっても、MSFから依頼されれば、やはり喜んで引き受けるだろう。

 私にとっては「紛争地で活動をしている」という認識よりも、「MSFで活動をしている」、つまり「医療の不足している人々のもとへ医療を届けに行く」という感覚のほうが大きいのだ。

 もちろん、MSFの組織的なバックアップがなくては、この感覚を持つことも難しいだろう、ということはつけ加えておきたい。長年の活動で蓄積された経験と知識や、さまざまな政府、勢力、地元の人々との交渉力などを駆使し、MSFは徹底して、私たちスタッフの安全管理に努めてくれている。病院施設や医薬品も、可能な限り整えられている。こういった支援態勢があってこそ、私は心の声に従って、危険地域に行くことができる。

 紛争地のこんな「現実」、知っていますか

 しかしMSFに参加した当初に大きく大きく感じていた喜びは、紛争地に繰り返し派遣されるうちに、次第に怒りや憤り、無力感や挫折感へと取って変わっていった。

  紛争地で運ばれてくる患者さんの中には、手や足がもぎれかけた状態だったり、爆発時に吹き飛んだ破片が身体中に突き刺さっていたり、また病院に着いた時には息を引き取っている患者さんもいる。お年寄り、妊婦、大人に限らず乳飲み子であろうと無差別に、血を流して運ばれてくる。

 私は紛争地に生きる子どもたちが夜中に遊んでいることなど、現場に行くまで知りもしなかった。空爆と銃撃戦から身を守るために、昼間は家の中で閉じこもり、攻撃の音が止んだ夜になってから外に出て遊ぶのだという。ある夜、8人の子どもが一度に運ばれてきた。道端でとても面白そうなものを発見し、みんなで蹴ったり突いたりして遊んでいたのだが、それは時限爆弾で、そこにいた8人の男の子たちの手や足を吹き飛ばした。私たち外科チームは、朝まで彼らの四肢を切断する手術に追われた。ようやく手術が終わり、まだ麻酔で眠っている子どもたちの寝顔を見ながら、私は苦しくてたまらなかった。目が覚めたら、この子たちは、もう自分の手や足がないのだという現実を知らなくてはならないのだ。

 空爆で夫と4人の子どもと、自分の片足を失くした50代の女性は、麻酔から目を覚ました時、私の目を見て「死なせて」と言った。

任務中は泣かないようにしているが、この時は彼女の手を握りながら泣いた。

 ある地域では、空爆から逃れるために、地雷原と分かっていてそこを通り、安全地帯への脱出を試みる人々が続出した。

 連日、地雷の被害者を収容しているうちに私はある法則に気づいた。集団で運ばれてくるのは家族や親せきで、このうち必ず1人が息を引き取るか、両足を切断しなくてはならないほどの重傷を負っている。重傷者はいつも一家の主。それには理由があった。彼らは1列になって地雷原を歩いてくるのだ。一家の主が先頭に立ち、自分の足で地雷の上か、安全な地面かを判別しながら歩いていく。途中で地雷を踏めば命とりだ。その背中を見て、後に続く妻や子どもたちは、先頭に立つ者の足跡を一歩一歩進む。それは、一家の主が自分を地雷の犠牲にして家族を守るためだった。

  家族を空爆と地雷から守るために、命を失うほどのリスクを自ら引き受けたお父さんたちのずたずたになった両足を見ながら、胸が引き裂かれそうだった。

 怪我は治せても、戦争は止められない

 紛争地では、中立の立場で人道援助活動を行っていても、さまざまな障害が立ちはだかる。私たちの安全の確保も、活動するうえでの絶対条件なのだが、特に近年は、医療施設が空爆される事件が続発し、この条件を脅かしている。

  たった一つの命令、たった一つのボタンによって爆弾が落ちてくる空の下で、医療活動は妨害され、罪のない多くの一般市民が恐怖にさらされ、血を流し、泣き叫んでいる。誰もが平等に与えられてしかるべき医療すら自由に提供できない紛争地で、全く戦争に加担をしていない一般市民を救っても救っても、すぐにまた血だらけの死にそうな人が運ばれてくる。そんな日々を繰り返すうちに、私は戦争そのものを止めなくてはいけないと思うようになっていった。

  MSFは医療援助団体だ。もちろん私に与えられた任務も、目の前の患者さんに医療を提供することだ。しかし、私が行っている活動は、戦争を止めるための根本的な動きに繋がっていない。そのことにジレンマを抱くようになっていった。

 ジャーナリストを志す

 このジレンマが頂点に達した時、私は人生の軸としてきた看護師という職業をやめ、常に憧れと尊敬の対象としてきたMSFを去り、ジャーナリストになろうという大きな決心をした。

 私は怒っていた。自分が目撃している現状を国際社会に訴えて、戦争を止めるための動きに繋げようと思ったのだ。報道では、どの国で戦争が繰り広げられ、空爆され、何人が死亡した、というニュースが流れる。しかし、私の目の前の光景――砕けた骨が皮膚から飛び出し、裂けたお腹から内臓が突き出し、もはや人間の姿をとどめていないような人々の姿までは伝わっているのだろうか。誰かが伝えなくてはならないのではないか。さもないと実情は知られないまま、いつまでも戦争が終わらず、さらに多くの人々が世界に見向きもされずに血を流し死んでいくことになる。

 ただし、私にはジャーナリストになるための手段が全く分からなかった。紛争地から日本に戻ったときに、何人かのジャーナリストに相談もしてみたが、彼らはそろって同じことを言った。「それは自分たちが頑張っているから任せておきなさい」。

  看護師として現場の援助を続けるようにと説得されたのだった。

 「看護の力」に気づく

 一体どうしたら良いのだろうか。心の整理がつかないまま、再び紛争地派遣の依頼を受けた。また同じようなジレンマに苦しむことは分かっていたが、今、苦しんでいる患者さんがいると知っていて依頼を断る気にはなれなかった。

 しかしこの時の派遣先で、私のその後の人生を左右する大きな気づきを与えられる。きっかけは、ある女の子との出会いだった。彼女は戦争が始まる前まで、普通に高校に通っていた。一瞬で始まってしまった紛争の中で、彼女は空爆の被害に遭った。両足がめちゃめちゃになったことで完全に心を閉ざし、ふさぎこんでいた。そんな彼女に、私は手術室以外でも毎日話しかけ、その手を握り、気にかけ続けていたが反応はなく、彼女はベッドで独り、傷の痛みと、心の痛みと戦っていた。

 そんな日々を過ごしているうちに、帰国しなくてはならない期限がやってきた。そこで、最後に、と彼女に声を掛けてみた。私はもう帰国してしまうけど、あなたのことを忘れたくない、日本でもあなたの顔をずっと見ていたいから、だから一緒に写真を撮りたいのだと伝えた。すると、シャッターを切る時、ついに彼女が笑った。私と手を繋ぎながら一緒に笑っている素敵な写真が撮れた。思わず彼女を抱きしめた。

 この時に気づいたことがある。それは、私が看護師だから、この子の笑顔を見ることができた、ということ。看護師として、この子の手を握り、気に掛けていたから、見ることができた。この日の彼女は言葉を発しなかったかもしれない。でも笑った。私はこの笑顔から、言葉以上のメッセージを受け取った。ジャーナリストの仕事も大変尊い。だけどやはり私は看護師なのだ。看護師として現場に戻ってきて良かった。かつて心の声に従って選んだ、看護師という職業の素晴らしさに改めて気づいた瞬間だった。

 理想の医療など紛争地に存在しない、そう思っていた。物資にも薬剤にも人材にも限りがあり、思うような医療を提供できない中では、志さえ踏みにじられてしまう、そう思ってもいた。医療行為では戦争を止めることはできない。それも事実だ。では、その限界を知ったうえで、私たちに求められているのは何だろうか。

 それは、その時にできる、最善を尽くした医療を提供することだ。時には、手を握ること、話しかけること、これだけでも良いのかもしれない。傷や病気の治療という、直接的な医療ではない。しかし、誰かに話しかけ、その手を握るということは、その人を気に掛けること、その人に寄り添うことだ。恐怖や、絶望、悲しみ、怒り、憎しみが交差する中で、誰かがそばにいて手を握ってくれるということは、現地の人々に大きな力を与えているかもしれない。私はそれが看護の力だと信じたい。

 


 

 本格的な雪になりました。雨よりはましです。ただ、運転は慎重に!

なぜそんな危険な場所へ行くのか?
つい先日も話題になりました。