about him

俳優・勝地涼くんのこと。

『ムサシ』(3)-10(注・ネタバレしてます)

2017-01-07 09:42:03 | ムサシ
(3)-5で芝居のラストに至って「復讐の連鎖を断ち切る」というテーマに真っ向から対立するような挿話=『孝行狸』のオチを入れ込んだことについて〈観客をあざ笑うため意外にもう一つ思いついた理由がある〉と書いた。
それは井上さんが上述のような意地悪を仕掛けた相手が不特定多数の観客ではなく、特定の人物である可能性だ。特定の人物─すなわち、『ムサシ』の演出家である蜷川さんである。

この可能性に思い当たったのは(2)-※28で書いた〈台本が届かないまま稽古を進めていて、台本が届いてはじめて「みんな死んでいたんだ!」とびっくりした〉という蜷川さんのインタビュー記事を読んだときだ。
遅筆で有名な井上さんの場合新作の台本が上がるのは初日の数日前、書いたはしから数ページずつ演出家や俳優に渡されるのが常であるが、こんな重大な、役者陣の演技に大きく関わってくるプロットくらい前もって伝達しないものなのか。新国立劇場で上演された作品(“東京裁判三部作”ほか)の時には台本に先立ってプロットを少しずつながらも書き上げて渡していたそうなのに。制作発表の時点では全くストーリーが出来てなかったというが((3)-※15参照)、まさかこんな基本的な設定さえ決めないまま台本を書き出すこともないだろうし。
連絡不足というレベルではない。嫌がらせ、とまでは言わずとも何か含むところがあって重要情報を伏せたのではないかと疑いたくなってくる。

蜷川さんは『ムサシ ロンドン・NYバージョン』のパンフレットをはじめあちこちで、初期の井上作品の持つエネルギー、猥雑な魅力に言及している(※78)(※79)。実際『ムサシ』以前に蜷川さんが手がけた井上戯曲は『天保十二年のシェイクスピア』に始まり、『藪原検校』『道元の冒険』『表裏源内蛙合戦』と全て初期作品ばかりである。
井上さん没後の「77フェスティバル」では中期戯曲の『しみじみ日本・乃木大将』『日の浦姫伝説』を演出しているが、これは蜷川さんが自分から手を挙げたのではなく指名されてのことだった(※80)。とはいえこれらは中期でも比較的早い時期の作品であり、『しみじみ日本~』の「馬格分裂」などの奇想天外なプロットと騒々しさ、『日の浦姫~』でメインキャラの一人が喋る海産物尽くしの台詞に見られる言葉遊びなどは初期戯曲に通じる匂いがあって、その意味で蜷川さんの好みに叶った作品だったのではないかと思う。
ただこうした蜷川さんの初期戯曲に対する思い入れは当の井上さんにとってはどう感じられたろうか。自分の作品を評価してくれるのは嬉しい、近年再演されることもそうなかった(『天保~』は2002年に日本劇団協議会十周年記念公演として初演から28年ぶりにいのうえひでのり演出で再演されている)初期戯曲に光が当たるのも有難い、しかし初期戯曲がいいと繰り返し言われると、今の自分の作品はダメだと言われてるような気になってきたりするんじゃないか。

もともとは井上さんは蜷川さんにいい感情を持っていなかった。※79、※80のインタビューで蜷川さんは近年になるまで井上さんと組むことがなかった理由を〈演出家はコンビを組む作家が自然と決まってしまうため〉〈井上さんと組んでいた演出家の木村光一さん、プロデューサーの本田延三郎さんに反感があったため〉と並んで〈井上さんがエッセイで「物を投げたり怒鳴る演出家は嫌いだ」と書いてるのを読んで「まずこれで井上さんとやることはないなぁと思った」〉ことを挙げている(※81)
井上さんは1990年の『藪原検校』再々々々演のパンフレットに寄せた「イツモ静カニ笑ッテヰル」(『藪原検校』を演出した木村光一さんを「稽古場でむやみに罵声を発したり、灰皿を投げつけたりはしない演出家である」とその人柄と力量を讃えている)でも同様の発言をしている(※82)。1989年に行った講演での「日本の、とくに東京の演劇の世界では、エジンバラの演劇祭に行ったから偉い、とかいう人がいま現にいます。世界のナントカという演出家もいます。ですが、「それがなんぼのもんじゃ」という気がするのです。」(※83)という発言中の「世界のナントカ」というのも、明らかに「世界のニナガワ」と呼ばれていた蜷川さんを揶揄したものだろう。
井上さんは蜷川さんをよく思わず(灰皿投げについては後に多分に作られた伝説だとわかって認識を改めたそうですが)(※84)、蜷川さんもそれを知っていて初期戯曲を評価しつつも距離をおいていたわけだ。

その二人が21世紀になって一緒に仕事をするようになった。しかし蜷川さんが手がけるのはごく初期の作品のみ、さらにト書きで衣裳や装置についても細かく設定してあるのに対して「ここまで指示しなくたって、いいじゃない(笑)と思う時が当然ある」「きっちり井上さんが計算して作ったものを、ちょっと亀裂を入れたくなる」(※85)とト書きの設定に反しない範疇で独自の演出を大胆に入れ込んでくる。
(井上作品の緻密なト書きについては上で名前を挙げた木村光一さんも「演出家としては、こんなにうまく書きやがってもうやることないじゃないか、という思いもあるんですが、逆に敵愾心というか自尊心が湧くということもある」「作家が考えてもいなかったような、井上さんの底にあるものに触れてやろう、といった子どもっぽい敵愾心ですよね」と語っている(※86))
そういう蜷川さんに井上さんとしては複雑な感情があったのではないか。

そしてついに2009年にはじめて蜷川さんは井上さんの新作を上演することになる。しかも20年来構想を練ってきた宮本武蔵の物語。蜷川さんは「井上さんから一定の信頼を得ることができたのかなあ」と嬉しかったそう(※87)だが、上述のようなことを踏まえると、井上さんは一種挑むような気持ちで新作を託したのではないかという気がする。
初期戯曲ばかりを高く評価する蜷川さんが新作─つまりは彼の好みに合わないはずの作品をどう料理するのか。初日ぎりぎりに最後の台本が届くような切迫した状況の中で、緻密なト書きの合間を縫った演出をいかに打ち出してくるのか。キャラクターのほとんどが死者という基本的かつ重要な情報を伏せておいたのも蜷川さんを試すためだったのではないか。
というのも実のところ「キャラクターのほとんどが死者」という設定は最初から匂わされてはいる。今村忠純「最上は、井上ひさしの新作」は宝蓮寺が初めて登場するさいのト書きの「竹林を背にした橋掛かり式の屋根付き廊下が正面をよこぎり、その廊下の上手側に、庭へ大きく迫り出した八帖の客間、そして広くとった前庭」という指定を「三間四方の京間を四隅の柱が支える能の本舞台と橋掛かりを現している」と書く(※88)。『ムサシ』は導入部の時点で物語の基本構造が能に拠っていることを示唆しているのだ。
第一部の時点で宗矩が『孝行狸』ほかの能を舞い、まいと乙女が『蛸』を舞っているのも『ムサシ』が能仕立てであることを早い段階で強調したものだろう(『蛸』については井上さん自身がそう説明している。(2)-※8参照)。とくに「蛸」の内容が能の修羅物(「戦い明け暮れた罪によって死後は修羅道に堕ちて苦しむ」という構造を持つ作品)に通じているのも前掲「最上は、井上ひさしの新作」が指摘するところだ(※89)
そして能とは「何物かの化身の前シテが、中入りをへて後シテとなって再登場し、その本体を現すという構造を持つ」のである。つまり『ムサシ』の構造が能、それも『蛸』が暗示するように修羅能に則っていることを見抜き、かつ乙女が仇討ちを放棄するくだりのト書きで武蔵と小次郎を除く全員が何かを示し合わせ企んでいるらしいことに着目すれば、彼らが全員(修羅道に堕ちて)苦しんでいる死者の化身である、と看破することは不可能ではないのだ(かなりのところ不可能に近いとは思うが)。
そう考えると(2)-7で書いた「大界外相」の石についての疑問も解ける気がする。「井上さんは武蔵がどかした石を宝蓮寺本来の結界石とすることを問題とはしなかった」というより〈ふーん、寺の結界石って設定にしちゃったんだ、へー〉って感じであえて放置したんじゃあるまいか。
芝居の根幹に関する情報を前もってはほとんど開示しない。戯曲の意図を蜷川さんが読み間違ったとしても訂正しない。そうやって蜷川さんの読解力、演出力を試していたのではないかという気がするのである。


※78-「井上さんの作品の根底には激しい怒りが渦巻いています。殊に初期作品のエネルギーたるや凄まじいもので、非常に前衛的でした。」「初期の井上さんの猥雑で哄笑にあふれる作品世界に強く共感していたぼくは、その凄さを大勢の人に知ってもらいたくて、最近になって4本の井上戯曲を演出しました。」(蜷川幸雄「もっと先へ」、『ムサシ ロンドン・NYバージョン パンフレット』、2010年)

※79-「(初期の作品を中心に演出を手がけていることについて)それはぼくが初期の作品が好きなのね。後期のヒューマニティにあふれていたり、社会問題がきっちりすっきり描かれている作品よりは、混沌として不合理なことがいっぱい出てきて筋も錯綜していて性的なものが氾濫して、なんだって下半身に話がすぐいっちゃうの(笑)。理由もなく下半身。それで、話もめちゃくちゃでしょ。破壊力があって、言葉のボキャブラリーが豊富。その当時、ぼくはシェイクスピアを商業演劇でやったときに、自分の理論的補強をするために、バフチンを勉強していた。(中略)井上さんの作品はバフチンそのものじゃないかって思えるぐらい構造がそうで、大好きだった。それで分析すると、いくらでも分析できていく。それがあって、殊に初期のものがずっと好きだった。それで、初期のものをやって、まあ長いし、場数は多いし、たいへんなんだけども、まるで祝祭空間みたいにして、それをやってることが、井上さんの作品が、そのときに世の中が受け入れているものとまったく違う要素をもった作品のおもしろさがあるんだと。で、そのことのほうがはるかに演劇的な意味があるんだというふうに思ってたのね。」(蜷川幸雄「井上ひさしを伝える」(『悲劇喜劇』2013年1月号)

※80-「この77フェスティバルでやった「しみじみ日本・乃木大将」にしても、「日の浦姫物語」にしても、俺が熱望して選んだのではなくて、プロデューサーたちの意向でやることになった。「ほかの若い演出家がやると、蜷川さんと違って、戦中のにおいが出ないのよね。そういうところは蜷川さんがやってくれると、おもしろくなる。もっとゲラゲラ大笑いする芝居だから、蜷川さんにやってほしい」といったことを言われて、それは喜んだんですよね。じゃあ、やってみようかなって。」(蜷川幸雄「井上ひさしを伝える」(『悲劇喜劇』2013年1月号)

※81-「それぞれ演出家はコンビを組む作家が決まっているんですね。井上さんには木村光一さんがいて、清水邦夫にはぼくがいる。そういう形でなんとなく、ある種の棲み分けができて、パートナーが決まっているというわけです。 まずそれが、井上さんの作品をいいと思ってもなかなかできない理由の一つ。それからもうひとつ、ぼくの育った青俳は、演出家がいないため、木村光一さんが演出をしにきていた。ぼくらはそういう来て去る木村光一さんに対して批判をもって見ていた。(中略)ぼくが演出をしようとしたけど、劇団プロデューサーの本田延三郎さんはやらせてくれなかった。だから青俳批判をして、ぼくは劇団を辞めました。(中略)そのあと本田さんも青俳を辞めて、五月舎を作って、井上ひさしさんの作品を木村光一さんの演出でやっていたのね。だから余計、井上さんの作品がいいと思っても、絶対にできなくなったなあと思っていた。(中略)そのあと、本田さんが自分たちの集団がうまくいかなくなって「天保十二年のシェイクスピア」の演出をやってくれないかとぼくに言ったことがある。それは、何の事情だか知らないけれど、壊れちゃったんだよ。(中略)それと、ぼくらが青俳を辞めて現代人劇場を作ったころ、井上さんのエッセイを読むと「物を投げたり怒鳴る演出家は嫌いだ」って書いてあった(笑)。井上さんとはお会いしたことがなかったし、井上さんはぼくの稽古場を見ているはずがないから、誰かから聞いて、そういうふうにお書きになったんだと思うんです(笑)。それで、まずこれで井上さんとやることはないなぁと思ったんだよ。」(蜷川幸雄「井上ひさしを伝える」(『悲劇喜劇』2013年1月号)

※82-「木村光一さんは稽古場でむやみに罵声を発したり、灰皿を投げつけたりはしない演出家である。むろん罵声や灰皿投げにも効能はあるだろう。(中略)大声や灰皿は本質的には何も創り出しはしない。それぐらいのことで芝居がよくなるのであれば、芝居なぞ皿洗いより簡単な仕事である。怒鳴ったり、モノを投げつけたり、剣道着をつけ竹刀で俳優を追いかけ回したりする演出家がいい舞台を創造することも稀ではないが、それは彼に別種の力があったからであって、大声や灰皿や剣道着のせいでは決してない。」(「イツモ静カニ笑ッテヰル」、『演劇ノート』、白水社、1997年、初出1990年)

※83-「日本の、とくに東京の演劇の世界では、エジンバラの演劇祭に行ったから偉い、とかいう人がいま現にいます。世界のナントカという演出家もいます。ですが、「それがなんぼのもんじゃ」という気がするのです。 彼らのいう「世界」はほとんど欧米のことにしかすぎませんし、欧米の物差しでちょっと上に評価されたからのぼせるというのは、あまり立派な姿勢とはいえないと思います。なぜ、自分の足元の物差しを信じられないのでしょうか。(中略)日本の人びとがほんとうに感動してくれる芝居は、おそらくどこへ持って行っても感動されるのです。ロンドンでやったとか、エジンバラへ行ってきたとか、フランスのナンテールの演劇祭に参加したとかで、勲章のつけっこをするより、いま自分のいるここにユートピアの時間をつくり出すことのほうが、演劇人としても、人間としても、大事なことではないでしょうか。」(「ユートピアを求めて ─宮沢賢治の歩んだ道─」(講演・原題「なぜいま宮沢賢治か」、1989年5月3日、井上ひさし『この人から受け継ぐもの』(岩波書店、2010年)

※84-井上「蜷川さんはすごく怖くて、稽古場では灰皿を投げたりテーブルをひっくりかえしたりするという伝説。僕もずーっと最近まで信じていたんですが、あれは実はたった1回か、2回。稽古場に大部屋の役者たちがサングラスをかけて、時代劇なのに浴衣も着ないで、スリッパ履きで現れて、しかも掃除用具で立ち回りをしたからなんですってね?」蜷川「僕、商業演劇で仕事を始めたときに、他人の金で仕事ができる人たちがすごくうらやましかったんです。コーヒーだって自分で淹れたことしかなかったのに、稽古場へ行くとコーヒーが出てくるんですよ、商業演劇って。それなのに座敷箒でフェンシングはないだろうと。だからね、その怒りをぶつけたんです。闘争だったですね。」(「演劇界の両雄、初顔合わせ 「リア王」よりも「怒れるジジイ」でいたい 井上ひさし×蜷川幸雄」、http://hon.bunshun.jp/articles/-/4861、初出『オール讀物』2006年1月号)

※85-「井上さんの作品は、「道元の冒険」も「表裏源内蛙合戦」ももちろんですけど、ト書きが綿密で出入りがものすごく細かく決まっているんですよ。それで、その指示通りにやった方が、よくできる。ただ、ここまで指示しなくたって、いいじゃない(笑)と思う時が当然あるわけですね。(中略)そうすると演出家の俺は、どこにやるべきことが存在しているのだろうかと思うのね。(中略)ぼくはそういうとき、井上さんの本の中に生々しいものをちょっと入れたくなる。(中略)きっちり井上さんが計算して作ったものを、ちょっと亀裂を入れたくなるんだよ。」(蜷川幸雄「井上ひさしを伝える」(『悲劇喜劇』2013年1月号)

※86-「(『藪原検校』について)縄を使うというのも井上さんの発想です。戯曲に書いてあるんです。あとで考えてみれば、それをぼくが考えたかったのに、ということになるんですが。そこでもう負けですよね」「井上さんの中では演出ができあがっているのではないかと思いますね。どうやったってうまくいく、といったところがあるのです。舞台のイメージが非常に鮮明にできあがっているのですよ。演出家としては、こんなにうまく書きやがってもうやることないじゃないか、という思いもあるんですが、逆に敵愾心というか自尊心が湧くということもあるのです。 あくまで戯曲中心で、作家が何を語りたがっているかということをどうやって出すかに専心するわけですが、作家の意識の底にあるものをつかみ出してやろう、という考えもあるのです。作家が考えてもいなかったような、井上さんの底にあるものに触れてやろう、といった子どもっぽい敵愾心ですよね」 と木村は話している。」(桐原良光『井上ひさし伝』(白水社、2001年)

※87-「井上さんから一定の信頼を得ることができたのかなあって思うんですね。作家が新作を書き下ろしても、ちゃんと演出してもらえるなあという思いを持ってもらえた。それまでは、テスト期間みたいな感じだったのかな。やっぱり、新作を書こうと思ってくれたのは、うれしかったですね。」(蜷川幸雄「井上ひさしを伝える」(『悲劇喜劇』2013年1月号)

※88-「竹林を背にした橋掛かり式の屋根付き廊下が正面をよこぎり、その廊下の上手側に、庭へ大きく迫り出した八帖の客間、そして広くとった前庭、ト書きの指定は、そっくり三間四方の京間を四隅の柱が支える能の本舞台と橋掛かりを現している。能舞台は、もともと屋外に建造されている。その能舞台がこの劇の仕掛けになっていた。 そして武蔵と小次郎とが、寺開きの参籠禅に立ち合う旅人だったことはとても重要である。橋掛かりは、この世とあの世にかけわたされていた。二人はその架け橋をわたってきた。能とは、いわば人間の情念を写す鏡の劇の別言である。二人はここで人間の情念をのぞきこむ。 前後二場に別れた能や狂言は、何ものかの化身の前シテが、中入りをへて後シテとなって再登場し、その本体を現すという構造をもつ。「ムサシ」にはこの能の構造が引用されている。さらに別にいうと例えば三修羅と呼ばれ広く知られる重い曲も思い出せる。戦い明け暮れた罪によって死後は修羅道に堕ちて苦しむというそれらに代表される修羅物のパターンが「ムサシ」にも活かされていた。」(今村忠純「最上は、井上ひさしの新作」、『悲劇喜劇 3月号』、早川書房、2010年)

※89-「(まいと乙女が演じる舞狂言「蛸」は)能の修羅物に通じており、またこの場面からは老女が月明りに舞う「姥捨」も想起することができるはずである。「ムサシ」という劇の仕掛けがあらかじめ舞狂言「蛸」に準備されていたことは、井上ひさし自身の解説がある。」(今村忠純「最上は、井上ひさしの新作」、『悲劇喜劇 3月号』、早川書房、2010年)

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