about him

俳優・勝地涼くんのこと。

『少年メリケンサック』(1)

2012-09-11 14:47:00 | 他作品
2009年2月公開。人気脚本家・宮藤官九郎さん監督作品第二弾、宮あおいちゃん主演ということで当時結構な話題を集めた映画。勝地くんに歌に対する苦手意識を植え付けた作品でもあります(笑)。
もちろん主人公はあおいちゃん演じるレコード会社の契約社員・栗田かんなですが、彼女は一種狂言まわし的な役割で、ストーリーの中心に来るのはおじさんパンクロッカーたち、25年前の映像が今さら脚光を浴び、しかも現在進行形のバンドと勘違いされたことでいきなり再結成いきなり全国ツアーという異常事態の中で四苦八苦する「少年メリケンサック」のメンバーたちの葛藤が一番のテーマなのだろうと思います。それは宮藤さんがインタビューなどで、もともと兄弟の確執の話をやりたかった、それと別口でパンクバンドの話もやりたくてそれが一つにまとまったと話していることからもわかります。
といっても視点になるのは基本的にかんなであり、メリケンサックのメンバーはそれぞれにやりたい放題、マイペースなので彼らの葛藤する姿はそれほどはっきりは見えてこない、もっぱら彼らの言動に振り回され泣いたりわめいたり苦しんだりするのはかんななんですが。

この映画を見て、そして今回見返してつくづく考えたのは「パンクとは何か」ということ。それは作中でもかんなが元パンクスの社長やメリケンサックのメンバーにたびたび質問しています。
私自身はパンクは全く聴かないし、パンク・ロックの母体であるロック自体にも詳しくない(ギターとベースも見た目で判別できないくらい)ですが、一言でいえば「カウンターカルチャー」なのかなと思っています。既存の文化に対して若い世代が反発・抵抗する中で生まれてきた新しい文化。
それは前の世代から見れば眉をひそめたくなるほどに過激であり前衛的、攻撃的と映り、それゆえに冷遇されたりはっきり排撃の対象にされることもある。そうした扱いが彼らのさらなる反発、さらなるエネルギーを生んでゆく。
70年代に発生したパンク・ムーブメントが階級社会の窮屈さに加え当時深刻な失業問題を抱えていたイギリスで大きく発展を遂げたのも、パンクが社会の閉塞感、抑圧へのアンチテーゼである証明でしょう。
個人的に音楽・パフォーマンスとしてのパンクには「うるさい」「汚い」(「FUCK」や「SHIT」といった歌詞を多用したがるところとかやたらツバを吐くこととか)「これがパンクだ、と言えばどんな非常識な行動(ステージ上で脱糞とか)も許されるみたいなのがずるい」といったマイナスイメージがあってあまり好きではありませんが、体制に立ち向かう意志、闇雲なエネルギーみたいなものには惹かれるところがあります。
かんながパンク、そしてメリケンサックの演奏についても最初から「嫌い」だとはっきり口にしながら、「嫌い」だし「苦痛」なのだけど「なぜかひっかかる」「くりかえし見ちゃう」と言っているのも、まさに彼らの「エネルギー」に引き寄せられているからなのだと思います。

そしてそのエネルギーを生んでいるのは、「自分のために演奏している」ことではないか。メイプルレコードの社長は「初期衝動」という言葉を使ってますが、自分の内部からこみあげる思い、怒りや悲しみ、喜びといった生々しい感情をストレートにぶつけるというスタイルがストレートであるゆえに聞くものの心を揺さぶる。
「パンクは下手でいい」の言葉どおりそこでは演奏のテクニックは問題にはならない、ある意味赤ん坊の泣き声と同じようなもの。メリケンサック誕生の瞬間がジミーやハルオの「ギャー」という意味のない叫びだったというのがまさにその象徴です(とはいってもいくらなんでも最低限の技術はないと、歌とさえ呼べないものになってしまいますけどね)

かつては人前で音楽を演奏するということはまず聞き手を楽しませることが第一義だった。それがおそらくはロックミュージック、若者の音楽が台頭しはじめた頃から自己表現の手段としての音楽が主流になっていった。
そこでは聞き手より演奏者が主役となり、彼らは自分たちの激しい思いを音楽という形で相手に投げかける。それは既存の音楽に比べはるかに暴力的にならざるを得ないわけで、相性が悪い相手には徹底的に嫌われることにもなる。しかし肌の合う相手ならそのメッセージは受け止められそこに共感が生まれる。
聞き手優先の音楽に比べこれら新しい音楽の方がエネルギーを持ちえた、音楽で世界を変えられるという“幻想”をも呼び起こしたのはこの共感を生む力、メッセージの伝播力に拠るものだったと思います。

しかるに社長が「パンクは死んだ。アニメや深夜バラエティのエンディングテーマに成り下がった」(宮藤さん自身がパンクバンドをやってることを思うと自嘲的な台詞でもある)と言っているように、近年の音楽は60年代、70年代頃に比べてパワーを失っている感がある気はします。現在、パンク以外でもムーブメントと呼べるほどのパワーを持っている音楽ジャンルが存在しているだろうか(あえていうならアニソン関連ですかね)。
思うにこれはメインストリームが力を失っている、なにがメインカルチャーなのかもよくわからなくなっていることに由来しているのでは。既存の文化への抵抗勢力であるカウンターカルチャーは、メインカルチャーが堅固であってこそ成り立つ。軽く押せばあっさり崩れてしまうような壁では、それを打ち壊すためのエネルギーは育たない。つまりパンクが生き返るためにはまずパンクが抵抗すべき巨大な既存の権力が必要だということ。
要はカウンターカルチャーはメインカルチャーにいわば寄生してるわけで皮肉といえば皮肉なんですが。物わかりのよい親ばかりになると子供も反抗のしがいがないとでもいいますか。
子供が逞しく育つためには親は乗り越えるべき壁として存在していなくてはならない。そう考えると大人になっても音楽も生き方もあいかわらずパンクな、「メリケンサック」のメンバーのような人間が増えることこそが、次の世代の成長を阻んでる、パンクをつまらなくしてるとも言えるわけです。

社長が今はパンクから足を洗いレコード会社社長として一応の成功をおさめているように、パンクは本来若者のもの、若者の精神性に基づく音楽ジャンルで大人になってまでやるようなもんじゃない。それをあえてやっている「メリケンサック」のメンバーはその点でよじれているわけで、実際全体にコメディとして見せてはいるものの、彼らの内情は相当にブラックではある。
定職につかずふらふらと飲んだくれているアキオは、かつて弟をハメて前科者にし、そのために父親が自殺未遂して25年後の今も寝たきりになっているという経緯があるし、ハメられた側のハルオは実家の酪農業を継ぎながら父の介護をし、自分と父親を追い込んだあげく自分は一切の責任を負っていない兄を恨み続けている。
25年前兄弟喧嘩の側杖をくって大ケガしたジミーはそのために身体障害者となった、と思わせてどうやら障害者に見せかけての詐欺を行っている形跡がある。随所で登場する元マネージャーの金子の(ストーリーには直接ない)もろもろの言動も含め、メリケンサック関係者は(ヤング以外は)ここぞとばかり暗黒面が描かれまくっている。

それを緩和しているのがかんなの存在。彼女も自分の思い込みが元で苦労し、バンドメンバーといさかいもし、たびたび職も失いそうになり失恋もするし、こう列挙すると悲惨このうえないんですが、彼女のキュートさ、泣いたり怒ったり笑ったりの生き生きとした百面相が、この映画が根本的に持つ真っ黒さを上手く覆い隠してくれている。かんなのような女の子を主人公に据えたのは大正解、というより彼女がいなかったら真っ黒すぎてエンターテインメントとして成り立たなかったと思います。
そしてそんなかんなを演じるうえで存在感といい演技力といい可愛さといい、あおいちゃん以上のキャストはありえなかったと思います。あの顔面筋の柔らかい動き、この映画で見せてくれた実にさまざまな表情には「人為的にこんなに表情って動かせるものなのか」と何度となく驚かせてくれました。

そのあおいちゃんの彼氏であるマサルを演じるのが勝地くん。前年の(撮影時期でいうとほぼこの映画の直前くらいになりますが)『未来講師めぐる』に続いて宮藤さん関連作品(『めぐる』の脚本は宮藤さん)への参加となります。
シンガーソングライター志望のマサルは、まさにカウンターカルチャーがカウンターカルチャー足りえなくなった時代の落とし子というか、音楽的にも人間的にも全くアクがない、甘ったるいほどに優しいけれども覚悟というものがおよそ欠落している弱々しい男子として描かれています。
それをわかりやすく示しているのが彼の口癖の「なんか違う」という言葉。はっきり否定するわけではない、自分でもどこが違うのかはっきりとはわかってないんだけど、「なんか違う」ような気がする。この曖昧な「気持ち」に乗っかって彼はふわふわと世渡りをして、ふわふわかんなと付き合いふわふわと浮気もした。音楽に対する態度も理屈ばかりこねてて結局ふわふわ。メリケンサックのメンバーとは音楽的にちょうど対極にいるといえます。
ただ人間的にはメリケンのメンバーもアキオを筆頭に覚悟があるとは到底いえない生き方をしてきている。だからこそ最初はあんなよれよれの演奏で「こんなもんだろ」とムリに自分を納得させ妥協したりもしていた。しかしかんなとツアーをする中で彼らはどんどん尖ってゆきバンドを続けることへの覚悟も決めていった。
そしてラストでマサルはかんなに無理矢理助っ人としてメリケンサックに突っ込まれることになり、どうやら嫌ってたはずのパンクにすっかり染まってしまったらしい。かんなの夢の中でメリケンサックを象徴する怪獣に踏み潰されたように、本物のパンクの前に敗れ去る、かんなの心もメリケンサックに奪われる、そういう「負けキャラ」として設定された存在がマサルだったのだと思います。
そして勝地くんはこのマサルのふわふわぶり、頼りなさと可愛らしさ、情けなさをも実によく体現していたと思います。そして前半のかんなとのいちゃいちゃぶり。あおいちゃんとは少年時代から何度も(主として恋人役で)共演してるだけに本当のカップルのごとき甘々さ加減でした。
あのあおいちゃんとの呼吸の合い方もまた勝地くんならではで、ミュージシャン志望のくせに致命的に歌が下手であるにもかかわらず(笑)、マサルも勝地くん以上に演じられる人はいないんじゃないかと思います。むしろあの歌の下手さ加減もマサルのヘタレキャラをより印象づけていた点で結果オーライじゃないですかね。
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