想い続けることができれば、その想いはいつか成就する

その日その日感じたことを詩、エッセイ、短歌、日記でつづります。野菜も育ててます。

大詰め桝添問題

2016年06月14日 | エッセイ

震災6年6月14日



 桝添問題も大詰めになって参りました。あれだけ、言っていることとやっていることの違いがある政治家も珍しいと思います。厚顔無恥という言葉がありますが、まさに彼のことをいっているのだと思います。


 前々から述べていますが、めざすベクトルの方向が違っています。人様の幸せに究極的には公人として向かわなくてはいけないのに、自分の利益に向かって言っているのです。これでは、恥ずかしい限りです。特にこの点上に立つ人は最大限き気をつけなければいけない立場です。自分の立ち位置があがるにつれ、分からなくなってしまったようです。それでも、まだ、リオのオリンピックまでやらせてくれとよく言えたものだと思います。


 何でも、引き際が大切です。やり始めるときはエネルギーと闘志に満ちあふれているのが、凡人です。問題はやめるとき余裕を持ってやめることにできる勇気が大切です。


 木登りも登りはいいが、下りるときに気をつけなさいと昔からいうでしょう。その辺の空気を読めないといけません。地位が上がれば上がる程、己をむなしゅうしていかないといけません。それができる人が上に立つ人です。


 自分の欲のためにやる人では絶対いけません。その辺が分かれ目です。桝添さんにはその、徳がなかったと言うことです。自分の為にはエネルギーを使えるのですが、利他の為に使うことができなかったのです。利他の心がない人は上に立ってはいけないのです。


 通常の神経では辞職するのが当たり前なのに、何という厚顔無恥でしょう。賢さも行き先を間違えると大変人様に迷惑をかけることになる見本になってしまいました。


 そして、残念なことに、法に触れなければ道義的な責任なんぞ、問題外としている神経のおかしさはなんなんでしょう。自然法という言葉もあるんですよ。法規範以前の問題ですぞ。


 努力家らしいのですが、その努力の方向が違っていました。頭の良さをどこに使うのかが大切だと前々から述べてきましたが、その辺の道徳感はどこへいってしまったのでしょう。


 頭がいいことと、人様の為になる思いやりがあるということが連動していません。恥ずかしい限りです。スポーツで言えばどんな姑息な手段を使っても勝てばいいという勝利至上主義と一緒です。


 何でも倫理的な方向が決まれば、ぶれないで実行するということの大切さが政治家には強く求められています。いわゆる公人としての自覚です。


 人ですので、過ちはあるでしょう。素直に謝ればいいのに、法に触れないとかといって…、変に頭がいいと、その過ちを言葉で言いくるめて誤魔化してしまうようです。素晴らしい才能がこれでは台無しです。辞職してもう一度しっかり反省してきて欲しいです。舛添さんには、残念ながら、頭の良さを超える何かが足らなかったようです。まあ、人徳のようなものかな、今の偏差値教育の弊害なようなものかもしれません。


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