震災7年6月22日
21日を迎えると、いつも思い出すのが給与日です。長い間、小学校の教師をやっていましたので、その日が来ると無意識に気になります。しかし、それも、古稀を過ぎた私に取っては、気になりつつも、いつしか過去の出来事となってしましまいした。
古稀とは古きまれなりと書きますが、今では、人生90年時代の単なる通過点のような気がしてなりません。還暦の時もそうでした。ああ、60才になったんだなという思いはありましたが、それ以上に大きかったのは退職という事実です。私もいよいよ退職という時を迎えたんだな。ということは今でも、しっかり覚えています。
明治42年生まれの亡き父の時は55才が定年だったような気がします。父もその後は関連の会社で暫く働いていました。若い頃は家具職人として身を立て、京都にも修行に行っていたとか、朝早く起きて、駅で売り子をやっていたことも聞いた事があります。親父は色々兄弟も沢山いた関係もあり、苦労したのだなと思います。その後、父はピアノ職人としてヤマハやカワイやディアパソン等のピアノ会社に勤めピアノを作っていました。
一方、母は一人娘で母の父親は役場に努め、その後、村長をして退職したようです。村長の娘と職人として、育ちも違う二人でしたから、お互いに大変なこともあったろうにと思います。母は64才で父は80才で他界いたしました。あまり二人とも長生きではなかったようですが、戦後の混乱期を経て、ここまで、愛情深く育ててくれて優しかった両親には感謝の気持ちしかありません。
母からは、父の恩は山よりも高し、母の恩は海よりも深しと言う言葉をよく聞かされた事を想い出します。経済的には大変だったらしいですが、母からは色々な知識を父からは背中を見て育って来たように思います。また、両親はお互いの相手を中途で病気で亡くした者同士が戦後の混乱期に結婚し、まして、母は、異母兄弟となる兄姉を育て大変だったろうと思いますが、愚痴一つ聞いたことがありませんでした。
その後、私と、妹がすぐ生まれ、4人兄弟として仲良く育ちましたが、兄姉共に亡くなってしまい、今は私と妹と、兄弟は二人になってしまいました。
さて、私は定年退職後、当時3年は同職で働けるという選択が合ったのですが、区切りが来たのに、また、同じ仕事ではつまらないなという浮気心が働き、一旦リセットする選択をしました。
それから、アルバイトをしたり、学校の先生に復帰し支援学校、小学校を渡り歩き、地元のコミュニティセンターにも勤務しました。その後、塾に勤めたり就活もしましたが、結局今ではフリーとなり、ウォーキング、菜園作り(120坪)卓球、通販、放課後児童教室で卓球のボランティアをし、古稀を迎えています。
人生は90年時代を考えると、まず、健康年齢に留意し、さしあたり米寿が大きな節目の様な気がいたします。心身共に留意し米寿も単なる通過点となればと願いつつ、毎日毎日を感謝と希望で過ごせたらと思っています。