想い続けることができれば、その想いはいつか成就する

その日その日感じたことを詩、エッセイ、短歌、日記でつづります。野菜も育ててます。

秋ですね、でも、日中は真夏!

2014年10月02日 | 日記

震災4年10月2日 

 朝夕、めっきり、涼しくなりました。朝のウォーキングの足取りもさわやかです。今日も、朝6時に起床し一回りです。堤を歩いていますと、遠くに南アルプスの山々がみえます。なぜか、ここ、二、三日もやがかっかったみたいになっていて、よく見えないのです。
 私は山がきれいに見えるときは、もう、うきうきで、外にドライブです。先日は、秋葉山の方へ行ってきました。
 でも、最近感ずることがあります。それは、秋なのに、日中の日差しが妙に強烈です。青い空を覆っていた、シェードが取れたみたいに日光が皮膚に直接当たる感覚があります。昔の日差しはこんなんじゃなかった。秋ともなればもっと優しく注いでくれたような記憶があります。

 車にUV加工のガラスがはめてありますが、その、UVが効かなくなっている感覚です。
 あれほど、ぎらぎらと照りつけていた太陽も、雲が空を覆うようになると、急に涼しさが増してきます。その関係で一日の寒暖の差も大きくなっているのだろうと思います。1日いや、年間のギャップが益々大きくなっているように感じます。それは、私だけでしょうか。そうは思えません。天空のオゾン層が薄くなってきているのではないでしょうか。客観的なデータがないので、はっきり言えませんが、肌の感覚がセンサーだとすれば、地球に降り注ぐ、日光の量がオゾン層が減ってきて、昔より確実に増えているのだろうと推測されます。

 年間を考えますと5月半ば~9月が夏で、10月~12月半ばが秋で12月後半~2月が冬で3月~5月半ば春でと、こんな感覚になっているのではないでしょうか。益々、春夏が短くなり、夏と冬が交互に訪れているような気さえします。日本の四季はいったいどこへ行ってしまうのだろうと思います。想定内に収まらないことが益々増えて行くのではないでしょうか。

 先日、歩いていて、こんなことを考えました。年々の温暖化が押し寄せているのですが、人間は外気が暑ければ、クーラーをつけ、しのげるのですが、そこを飛び回っているカラスはクーラーはないのに、全然数が減っていないな、なぜなんだろう、カラスだって昔より夏は暑すぎて過ごしにくくなっているのに、と、考えてしまいました。もし、カラスにも熱中症があれば、歩いていて、ばたばたと倒れているカラスを発見するのでしょうけれど、そんな風には見えません。カラスは人間より適応力があるのでしょうか。それも、自然の中で生活しているから、体がそうなっていいるのでしょうか。

 自然というものは本来はバランス感覚が働き、行き過ぎを修正するものなのですが、その機能がうまく働くなっているような気がします。そもそも、人間も生物の一員だと考えれば、その生物のみが肥大化しすぎているような時代ではないでしょうか。地球上至る所に人間があふれている状態です。どんな、生物でも増えすぎれば、その揺り戻しで、減るような力が働きます。その辺の調節弁が働くのです。自然界からこの辺への警告が異常気象になって現れているような気がしてなりません。もっとも、自然には異常も正常もありません。すべて、それは自然現象だからです。

 最近やっと、健康寿命ということが言われるようになってきました。遅すぎた感があります。さんざん、平均寿命を上げるといって、医療費の増大、GDPの増大をいってきましたが、人間、単に生きているのでなく、どう、生きたかが大切であって年数ではないはずです。どう生き、どう社会に還元されたか、孫の世代にもどう影響をあたえたか。など、計る物差しがおかしな時代がだんだん是正されつつあります。より、健康寿命、幸せ感が重要視される世界がもうすぐ、見えてきています。

 地球も、もう、これ以上、経済優先の生活をやめ、自然と共生して生きてゆくという道を選択しないと、孫の世代に深刻な影響を与えるような気がしてなりません。基本的人権は個人を尊ぶ戦後の思想でしょうが、人権とて周りの安定した環境や長い間の祖先の影響もあり、成り立つわけですので、その辺を考えないと将来に大きな禍根を残すでしょう。

 自然はずとるべきと書きますが、このまま、経済優先の生活が続いて行きますと、人類に取って由々しき問題になるのは自明の理となりましょう。人間は万物の霊長だと言われますが、他の生き物と共に人間も存在しているのです。人間おごるなかれです。そのことを忘れずにいたいです。

人は毎朝生まれ変わる

 

コメント (1)
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