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06/10 大手まんぢゅう&藤戸饅頭

2014年06月10日 | スイ-ツ・お菓子

【大手まんぢゅう】

「大手まんぢゅう」は、和菓子で饅頭の一種である。岡山市の銘菓・土産菓子として有名。「大手」の略称でも呼ばれる。

『概要』

薄皮の酒饅頭であるが、小ぶりに丸めた餡を包む皮が極薄に作られているため、饅頭の表面随所で餡の黒色が透けて見える独特の外見を持つ。

岡山市の菓子舖・(株)大手饅頭伊部屋によって作られている。同社は最中も製造しているが、今でも売り上げの9割以上が「大手まんぢゅう」てあるという。
現行品は饅頭の一つ一つが、巾着を思わせる紙箱に包まれているのが特徴である。この形態は1980年代以降に登場したものである。

岡山市の土産菓子としては、吉備団子に比べ対外的知名度では劣るが、岡山市民を中心として非常に愛着を持たれている菓子であり、日常の贈答には多頻度で使われる。
また、岡山市民が県外に土産品として持ってゆくことが多く、土産品売り場において吉備団子を買う者は他地区の者、「大手まんぢゅう」を買う者は地元の者とはっきり分かれる傾向があるという。

また、出来たての温かいものは特に人気があり、売り場でもその表示がされることもあり、温かい饅頭を指名買いする者も少なくない。

『歴史』

天保8年(1837年)に誕生した。当時の店が岡山城大手門のそばにあったことから、自身この饅頭を好んだ時の岡山藩第7代藩主・池田斉敏により「大手まんぢゅう」と名付けられ、その後も池田氏代々の藩主に愛された。
岡山市出身の小説家・内田百聞の大好物であった。百聞は「大手まんぢゅう」について随筆でも幾度となく言及しており、「大手まんぢゅう」になら「押し潰されてもいい」とまで書いている。

現在も本店は旧岡山城下町であった岡山市北区京橋町にあるが、製造工場は現在は岡山市中区雄町に構えている。これは、この地が名水として名高い「雄町の名水」があることから、この水を「大手まんぢゅう」製造に生かすためである。

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【藤戸饅頭】

「藤戸饅頭」は、和菓子・饅頭の1種で、岡山県倉敷市の銘菓・土産菓子である。

『概要』

甘酒で作った麩と餅米で甘酒を作り、絞った汁を小麦粉と混ぜ合わせて出来た薄皮で漉し餡を包んで球状にし、蒸したものである。

「むらすずめ」と並ぶ倉敷市の歴史ある銘菓として有名である。

岡山市の銘菓として有名な「大手まんぢゅう」と見た目・味ともに似ているため混同され、さらに知名度や企業規模では「大手まんぢゅう」の方が勝るが、「藤戸饅頭」の方が歴史が古い。
また、「大手まんぢゅう」との大きな違いとして、消費期限が挙げられる。「大手まんぢゅう」が一週間程度なのに対し、「藤戸饅頭」は3日程度と短い。
そのため、倉敷市民は「大手まんぢゅう」より「藤戸饅頭」を好む傾向があるにも関わらず、土産物として渡す場合に消費期限の関係で「大手まんぢゅう」を仕方なく選択することもある。

『歴史』

倉敷市藤戸地区は源平合戦の古戦場であり、「藤戸の渡し」という史跡がある。そこでかって行われた「藤戸の合戦」に由来する。

平家物語によると、源平両軍が大戦した寿永3年、源氏軍の将である佐々木盛綱は、藤戸村の村人の案内で藤戸の浅瀬を馬で渡り、平家の軍に勝利した。
しかし、作戦上、この村人を斬り殺したという。そこで村人たちの手により殺された村人の供養が藤戸寺で行われ、近くの民家から饅頭が供えられた。この饅頭が「藤戸饅頭」の起源とされる。ただし、饅頭の伝来とされるのは源平の戦いから100年程度後世であることから、現在の「藤戸饅頭」とは同一ではないと考えられる。

現在の形となったのは江戸時代末期であり、天保年間に創業した「大手饅頭」と歴史はあまり変わらない。

元来備中国は、延喜式にも小豆の産地として記載されている一大産地の一つであった。後に北海道、丹波とともに三大産地とされれた。藤戸は備前国であるが、備中との国境に位置するため、小豆が豊富に手に入ったと推測されており、そのことが、餡を大量に使用した饅頭を生んだといわれる。

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