佐世保便り

2008年7月に佐世保に移住。
海あり山あり基地あり。そしてダム問題あり。
感動や素朴な疑問など誰かに伝えたくて…

その男 らんぼう?

2010-02-26 | さよなら原発
山口県上関原発建設予定地で、虹のカヤック隊として奮闘している「らん★ぼう」さんが佐世保に来ます。
すんごい熱い男との噂です。是非彼の話を聴きに行きませんか?

と、お誘いメールをもらいました。

プロフィールを見ると、

 北海道札幌出身。現在山口県在住。
 あーすガイド代表
 上関原発を考える若い衆(わかいし)の会 共同代表。
 2005年、世界一周を経験。
 現在はスタディーロードという体験学習ツアーを山口やケニアで主催。

とのこと。
ふむふむ、確かにすんごい行動力。
興味津津。
合唱練習をさぼって聞きに行くことにしました。


茶話会会場となったS君の家はバスも通っていない郊外にあり、
運転できない私は仲間の車に拾ってもらうことに・・・

佐世保駅近くから3台の車で向かったのですが、たまたま私が乗せてもらった車に、
「らんぼう君」も乗っていました。

全く気取りのない、ごく普通の若者で、
知りたがり屋の私の質問に、何でも気軽に答えてくれて、熱心に語ってくれます。
そのうちに、「あ、これはみんな今日しゃべることだったんだぁ・・」と。

それは申し訳ない。私も感動が半減するといけないし・・と会話を中断。
それを待ってましたとばかりに前の助手席から二人のチビッコたちが後部座席に乗り込んできました。
彼女たちは5歳と3歳の姉妹。
運転してるYさんの子どもたち。
すっかりらんぼう君になついてる様子で、まとわりついてはしゃぎます。
それはそれは楽しそうにゲラゲラ笑って、妹のふたばちゃんは苦しそうなくらい笑い転げている。

子どもの感は鋭いから、子どもに好かれる人に悪い人はいない。
彼は「乱暴」者には程遠い人物と見た。
では、なぜ「らんぼう」という名に?

訊きたいのをがまんして、後で話してくれるのを待つことにしました。

さて、会場では、3本のDVDを見せてくれながら、らんぼう君はいろんなことを語ってくれました。

そのうちの1本は、今彼が住んでいる祝島の映像です。
瀬戸内海に浮かぶハート型をした小さな島、祝島。
島民が一丸となって原発建設反対運動を続けている島、祝島。
人工わずか500人で、そのほとんどが漁業に従事している。
主な農産品は枇杷。とても甘くて美味しいそうだ。

棚田がすごいと言う。
長崎の棚田もすごいよ、絶景だよ、と思っていたら、
こちらは高さがすごかった。

一段の石垣が5~6mという!
確かに写真を見ると、人の3倍は十分ある。
「この石垣は親子3代で造ったそうです」との解説に、感動も3倍!

また、島に1軒薬屋さんがあって、らんぼう君が風邪薬を買いに行った時のこと、
薬屋のご主人は「その程度の風邪ならこれを飲んでおきなさい」と、
自分の私物の薬を出してきて彼に渡したそうです。
もちろん、お代は無しで。

彼はこの島の自然にも人にもゾッコンで、その思いは言葉の端々にあふれていました。

1982年以来27年間にわたって原発反対運動を続けている島民の心意気、
(なんと石木ダム建設絶対反対同盟と年月も不変の意志も同じ!)
それに感動した彼は、島の漁民と共に、カヤック隊の一員として闘い続けています。

その映像の一部分。
工事の着工を許すまいと台船の上で頑張るおばあちゃんたち。
「お願いします。帰ってください」
「お願いします。どいてください」
と、頭を下げ合っているおばあちゃんと中国電力職員。
「どうしても始めるというのなら、私を海に沈めてからにしてください」と再び頭を下げるおばあちゃん。

涙が出そうになる。

こういう会話が繰り返され、最後に中電の職員があきらめて去っていく。
おばあちゃんの粘り勝ち!

感動も頂点に・・というところで、
カメラはその隣の船の男に移動。
この命をかけたやり取りをしてる隣では、なんと島の男がのんきに魚の1本釣りを楽しんでいた!
見事釣り上げたりっぱな魚を掲げて見せて、にっこり笑顔。

なんとも好いオチではないか!

島では、毎月曜日の夜、女性たちがデモをするんだそうです。
原発賛成派と反対派の割合は1:9で、反対派がほとんどのこの島で、なんでデモの必要があるのか不思議ですが…

らんぼう君いわく。
こんなこと言っちゃあ悪いかもしれないけれど、みんなどこか楽しんでいるみたいな感じ。

上関原発計画に係る10億円以上の漁業補償金の受け取りを拒否し続けている祝島の漁民たち。
いくらお金を積まれても、心はぶれない。
宝の海を守ることでしか自分たちは幸せに生きていけない、ということをトコトン知っているから。
そのための海上デモや夜のデモ行進、抗議の座り込みなど、それを隣人たちと団結して続けることに、
堅い絆を感じ、満たされ、身体的労苦も凌ぐ心の余裕が生まれるのかもしれない。


彼が初めて祝島を訪れたのは2006年の3月とのことなので、まだ4年ほど。
彼はカヤック隊の一員として、島の漁民と一丸となって海上での阻止行動を続けているが、
春と秋には京都で人力車を引くアルバイトをしている。
やはり生きていくためにも活動するためにも、ある程度はお金も必要だし…ね。

また、祝島の実情を伝えるために、このような講演?活動をしたり、
体験学習型ツアー(スタディロード)を企画したり、
アースガイドと称して、ケニアを案内したりするのだそうです。

ケニア?なぜケニア?
と誰もが思いますよね。

そこから彼の熱い話はますます熱くなるのです。

そもそも彼のこのような生き方は、ある人の影響を受けたからという。

昔は野球少年、野球一筋だったようで、
何歳の時かは聞きそびれましたが、靭帯を切って野球ができなくなって、
これから自分は何をすべきなのか、何ができるのかわからなくなって・・

そのとき、世界を見てみたいと思い立ち、ピースボートに乗り込んだのが運の尽き、
ではなく運命の女神がほほ笑んだのですね~

彼はその船旅でナナオさんという女性に出会い、ものすごく影響を受け、
彼女から、ケニアという国のこと、ケニアのスラム街のこと、
そこに学校を作りスラムの子どもたちを教えている早川千秋さんのこと等々を教えてもらう。

早川さんを日本のマザー・テレサと尊敬するナナオさんはケニアまで早川さんに会いに行き、
そこで見たことを伝えようとドキュメンタリー映画を作成、
そのDVDを多くの人に見てもらいたい、事実を知ってもらいたいと活動している矢先に、
突然亡くなったという。

そのショックはらんぼうさんをどんなに打ちのめしただろう…
が、彼はナナオさんの意思を受け継ぐことで新たな人生をつかんだようです。

彼女が作成したDVDを彼女に代わって多くの人に広めているうちに、
いろんな人との出会いがあったのでしょう。
彼女が伝えたかったことを伝えるために、ケニアへのツアーを企画、自らガイドをして
早川さんに会いに行く。
その早川さんを祝島に招き、祝島の素晴らしさを再認識する。
そこで祝島でもスタディツアーを企画、若者たちに呼びかける…

彼の行動範囲はどんどん広がり、仲間もどんどんふえている。

最後に彼はこう言いました。

僕がこれからやりたいことは、分断されているものを繋いでいくこと。
地域と地域、人と人、課題と課題。

原発推進派と反対派の壁はもうぜったい修復できないと言うけれど、
話していけば、きっとわかりあえる日が来るはず。
そう信じてやっていきたい…と。


頑張れ、らんぼう君。 
応援してます。


帰宅して思い出しました。
「らんぼう」…その由来は? と訊くことを。

「佐世保にはまた来ます」と言ってたから、それまでお預けとしよう。。
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3 コメント

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なんて素敵ならんぼう物語 (ひさごん)
2010-03-06 14:12:12
私もいつかお会いしたい
返信する
Unknown (そんな)
2011-02-14 08:35:19
福岡で会いました。
らんぼうさんの名前はさくらんぼうから来ていると言われていましたよ。
返信する
そうなんだ~ (cosmos)
2011-02-14 10:40:01
「らんぼう」君の名前は「さくらんぼう」からきてたんですか~

そんなさん、教えて下さってありがとう。

でも、らんぼう君とさくらんぼう…あまりイメージが結びつきませんねぇ~
あんなに可愛くないもんね~(失礼!体型のことです)
サクランボが好物なのかナ?
返信する

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