神奈川に住む友人は、NHKの籾井会長問題以前から、全くテレビとは無縁の生活をしていました。
テレビだけではなく新聞も、読売、朝日など大手には強い抵抗を示していました。
たぶん、たくさん取材された経験から植え付けられた実感なのでしょう。
遠回りでも、口コミで伝えていくことの大切さをよく語っていました。
その友人が、珍しく新聞の取材を受け、その記事について知らせてくれましたので、貼付します。
「内容は恥ずかしいものですが、もう、恥ずかしがってひっこんでいる余裕がないほど、
日本の原発事故への対応はおかしな状況に陥っています」と書かれていました。
そして、
「この記事を書いた若い男性記者は幼い子を持つそうで、態度は真剣そのものでした」とも。。。
罪滅ぼしの脱原発
福島第一原発に携わった元技術者が訴え/横浜
カナロコ by 神奈川新聞 3月9日(日)7時0分配信
原子力発電を推進する側に長く身を置き、東京電力福島第1原発にも携わった元技術者が、脱原発社会を目指し講演を続けている。根底にあるのは、贖罪(しょくざい)の念。原発の安全性に限界を感じていたものの、国策を前に見て見ぬふりを続けてきた。原発事故から3年を迎える今、「原発の安全性は理論ではなく信仰だった」と言い切る。講演会で各地を回り、国内すべての原子炉廃炉の必要性を、ためらわずに訴えている。
「この国で原発は駄目なんだと、もっと広く伝えるべきだった」。3年前。放射性物質が拡散し、住民が避難を余儀なくされた福島第1原発事故を目の当たりにした小倉志郎さん(72)=横浜市=は、自責の念に駆られていた。
旧日本原子力事業や東芝に勤務し、原子炉の冷却水ポンプの設計などに携わってきた。1960年代後半から福島第1原発1~6号機のポンプや熱交換機を担当した。
当時の設計思想は、電源などのシステムが1系統しか使用不能にならないとする「単一故障原理」。今回のようなすべての外部電源が失われる事態は想定外だった。「だがそれは、理論ではなく信仰」と小倉さん。なぜか。
「そう信じ込まないと、膨大な対策が必要になる。そんな対策は経済的に成り立たないと今なら言えるが、当時は疑いもしなかった」。国策として原発は推進されている。家族を養わなければならない。長く勤めるうちに原子力産業の問題点も見えてきたが、「見て見ぬふり」をするのが精いっぱいだった。
2002年に定年退職を迎えた。技術を買われ電力会社などから「若い技術者の教育担当に」と再就職の誘いがあったが、すべて断った。「もう関わりたくない」との思いからだった。
安息を得た一方、押しとどめていた原発への懸念や不信感が頭をもたげた。07年、編集者だった友人の勧めで、論文を執筆。電源設備など機器の多くが屋外にほぼむき出しで設置されており、武力攻撃などで冷却機能を失う原発のもろさを指摘した。論文を機に、原発の危険性を伝える講演活動も始めた。
震災後、講演の依頼は急増した。「たくさんの人に伝えたい」と断らずに応じている。原発の内情だけでなく、除染の難しさや内部被ばくのリスクについても紹介している。
だが、目の前の現実は自身の思いから逆行を続ける。原発再稼働の手続きは全国で進み、政府の新たなエネルギー基本計画案は原発を「重要なベースロード電源」と位置付ける。
「同じ考えでいる仲間うちで脱原発を叫んでいるだけでは、手遅れになる」。現状の脱原発運動に危機感を強める小倉さんは、「運動の輪の外にある『日常』を生きる人々と、どうやって自然に思いをつないでいけるか。身近なところから話し合う努力を地道に続けていくしかない」と話す。
そうやって脱原発社会を手繰り寄せていく-。「それが福島に報いることではないか」。小倉さんは、そう考えている。
「この国で原発は駄目なんだと、もっと広く伝えるべきだった」。3年前。放射性物質が拡散し、住民が避難を余儀なくされた福島第1原発事故を目の当たりにした小倉志郎さん(72)=横浜市=は、自責の念に駆られていた。
旧日本原子力事業や東芝に勤務し、原子炉の冷却水ポンプの設計などに携わってきた。1960年代後半から福島第1原発1~6号機のポンプや熱交換機を担当した。
当時の設計思想は、電源などのシステムが1系統しか使用不能にならないとする「単一故障原理」。今回のようなすべての外部電源が失われる事態は想定外だった。「だがそれは、理論ではなく信仰」と小倉さん。なぜか。
「そう信じ込まないと、膨大な対策が必要になる。そんな対策は経済的に成り立たないと今なら言えるが、当時は疑いもしなかった」。国策として原発は推進されている。家族を養わなければならない。長く勤めるうちに原子力産業の問題点も見えてきたが、「見て見ぬふり」をするのが精いっぱいだった。
2002年に定年退職を迎えた。技術を買われ電力会社などから「若い技術者の教育担当に」と再就職の誘いがあったが、すべて断った。「もう関わりたくない」との思いからだった。
安息を得た一方、押しとどめていた原発への懸念や不信感が頭をもたげた。07年、編集者だった友人の勧めで、論文を執筆。電源設備など機器の多くが屋外にほぼむき出しで設置されており、武力攻撃などで冷却機能を失う原発のもろさを指摘した。論文を機に、原発の危険性を伝える講演活動も始めた。
震災後、講演の依頼は急増した。「たくさんの人に伝えたい」と断らずに応じている。原発の内情だけでなく、除染の難しさや内部被ばくのリスクについても紹介している。
だが、目の前の現実は自身の思いから逆行を続ける。原発再稼働の手続きは全国で進み、政府の新たなエネルギー基本計画案は原発を「重要なベースロード電源」と位置付ける。
「同じ考えでいる仲間うちで脱原発を叫んでいるだけでは、手遅れになる」。現状の脱原発運動に危機感を強める小倉さんは、「運動の輪の外にある『日常』を生きる人々と、どうやって自然に思いをつないでいけるか。身近なところから話し合う努力を地道に続けていくしかない」と話す。
そうやって脱原発社会を手繰り寄せていく-。「それが福島に報いることではないか」。小倉さんは、そう考えている。