今日は、今年最後の「さよなら原発させぼの集い」。
そして、ようこさんの追悼集会。
黙祷の後、私はこんなことを語りました。
ご通行中の皆さん、もし少しだけお時間があったら、足を止めていただけないでしょうか?
私たちは、原発に依存しない、安全なエネルギー社会を希望している市民です。
いま、日本中のほとんどの原発が止まっています。
日本にある原発54基中、動いているのはたった2基です。
九州管内では、1つも動いていません。
九州電力が保有する6基の原発全てが止まったままです。
しかし、私たちは普通に生活しています。
電車も動くし、エアコンもテレビも洗濯機もレンジもすべて今まで通り動いています。
きらきらフェスティバルのイルミネーションも例年通り輝いています。
それなのに、新政権の茂木経産相は、
「安全性が確認された原発は、政府の責任において再稼働を決めていきたい」と
昨日語りました。
私は理解できません。
昨年の3・11の原発事故はまだ何も解決していないのに、
未だに避難生活を強いられている福島県の町民・村民がたくさんいるのに、
原発を動かすという、その考えが全く理解できません。
被害にあったのは、福島県民だけではありません。
ここ佐世保市にも、東京、埼玉、千葉など関東各県から避難してきた親子が暮しています。
原発から200km以上離れていても、放射能汚染のひどい地域ができて、
そこに住む幼い子どもたちに影響があらわれています。
そういう子どものお母さんは子どもの健康、命が心配で、とにかく逃げてこられたのです。
ほとんどのケースが母子疎開です。
お父さんは仕事がありますから簡単には移住できず、たいていお母さんとこどもです。
そんなお母さんのお一人が、この集いに参加していました。
ここで思いを語ったり、さよなら原発のデモをやったり、署名活動をやったりしていました。
いつも幼い女の子と一緒でした。
そのお母さんが、5日前、突然の心臓発作で亡くなられました。
いつも明るく元気な方でしたので私たちは気づきませんでしたが、
やはり心労が溜まっていたのでしょう。
クリスマスは千葉に帰って、親子3人で過ごすのを楽しみにしていたのに、
その前日、帰らぬ人になってしまいました。
彼女が苦しむ姿をずっと見ていたのは幼い女の子だけでした。
もし原発事故が起きなかったら、娘が放射能による下痢や発疹で苦しまなかったら、
彼女は佐世保になどやってこなかったでしょう。
夫や友人たちとも遠く離れて暮らすことなどなかったでしょう。
一人で悩み葛藤することもなかったでしょう。
きっと日本中に、このような隠れた原発被害者はたくさんいると思います。
どれだけ被害者を出せば原発をなくなるのでしょう?
もうたくさんです。
子どもたちの命を守るために、
その母親を守るために、
住み慣れた場所で家族と共に暮らす、そんな当たり前の生活を守るために、
原発にさよならしましょう。
残念ながら、足を止めてくださる方はいませんでした。
ただ、向こう側に並んだたこ焼きの屋台のオジサンが、
じーっとこちらを見ながら聴いてくださっていました。
今日は前回よりもぐっと多くて、それでも14人です。
久しぶりの方もいましたし、
以前飛び入りで参加した若い男性が、また一緒に歩きに来てくれました。
「これはどんな団体ですか?」と通りがかりの中年男性に質問されたので、
「え?原発をなくしたいと思ってる普通の市民ですけど…」と答えると、
「私も東京のデモに参加してるんですよ。いま帰省中ですが」とおっしゃって、
なんとなく嬉しくなりました。
ゴール地点で来年の再会を約束して解散しようとしたとき、
息を切らせて走ってきたのは、西海町のよっちゃんと息子のゆうちゃん。
5時に仕事を終えて、急いで車を飛ばしたけれど、道が混んでいて…
たぶんまだ終わってないかも…と思って、向こうから歩いてくる人に、
さよなら原発のデモを見ませんでしたか?と聞いたら、
あっちの方へ歩いて行きましたよと教えてくれたので、走ってきました。
間に合って良かった~と。
仕事帰りの疲れた体で、こんな遠くまで…と思うと、
申し訳ないやら感動するやら…
きっと、よっちゃんもようこさんの追悼デモに少しでも参加したい思いでいっぱいだったのでしょう。
帰りにSさんと、Tさんと、よっちゃん母子と私の5人で、ミスドに寄って、
ささやかなお疲れさん会をして別れました。
天国のようこさん、あなたの分までみんなで頑張るからね。
見ていてください。
弱気になったら、時々喝を入れに来てネ。。