貢蕉の瞑想

青梅庵に住む貢蕉の日々のつぶやきです。

古郷や 臍の緒に 泣としのくれ

2019-04-27 09:12:27 | 日記

古郷や 臍の緒に 泣としのくれ

平成31年4月27日(土)

 あっという間に大型連休突入!

毎日サンデーの私には縁の無い話。

 事故や事件のない楽しい休みに

なることを祈るのみ!

古郷や 臍の緒に 泣としのくれ

 芭蕉の句。

 さて、芭蕉翁記念館。

 昭和34(1959)年、神部滿之助

氏の篤志寄付により俳聖芭蕉翁を

顕彰する事業のひとつとして建立。

 館内の芭蕉文庫には翁の真蹟を

はじめ近世から現代に至る連歌俳諧

に関する資料等が数多く保存され

ている。

 

 芭蕉のふるさと伊賀への思い

は、強い。

 特に、母を亡くしてからは・・・。

 これは、たぶん芭蕉だけでなく、

故郷から離れて老いを迎えんと

する人が抱く故郷感なんだろう。

 芭蕉は、『千鳥掛』に、

「代々の賢き人々も、古郷はわす

れがたきものにおもほへ侍るよし。

我今は、はじめの老も四とせ過て、

何事につけても昔のなつかしき

まゝに・・・。

 古郷や 臍の緒に 泣としのくれ 」

という句も添えていることから

よく分かる。

 芭蕉が江戸へ下ってからも、各旅

ごとに伊賀の実家へ度々帰郷してい

る。

 大別すれば、

1回目 延宝4(1676)年

2回目 貞享元(1684)年から同2年

「野ざらし紀行」の旅中

3回目 貞享4(1687)年から同5年

「笈の小文」の旅中

4回目 元禄2(1689)年から同4年

「奥の細道」の旅を終え、

 近畿巡遊の旅

5回目 元禄7(1694)年 最後の旅 。 

 芭蕉は旅の途中、伊賀の実家を拠点に

京都・奈良・大津等へ赴き、門人たち

と交流を重ねている。

 保守的な貞門俳諧が主流の伊賀俳壇に

新風を吹き込み、伊賀蕉門の形成に

至るのは『笈の小文』の旅の帰郷時。

 友田良品・梢風夫妻の招待、岡本苔蘇

の瓢竹庵での止宿、旧主藤堂良忠公の息・

良長(探丸)公の別邸における花見の

宴での句の唱和をはじめ、各所で

盛んに俳席が催され歓迎されている。

 ここに、芭蕉の故郷伊賀に伊賀蕉門

の存在がクローズアップされる理由も

潜む。

 伊賀蕉門の存在を世に示したのが

『猿蓑』(元禄4年刊)で、一句のみ

の作者が大半を占めるとはいえ、

入集者は半残・土芳・風麦はじめ

全国一の29名を誇る。

 その俳風は、小児のような無心な

態度から生まれた無邪気でユーモラ

スな詩趣で、去来は『去来抄』において

「あだなる風」と評し、伊賀蕉門の

特色としているとともに、

「軽み」の到達とみている。 

 芭蕉は晩年、伊賀の俳人たちに「

軽み」の指導を行っているが、

芭蕉の意を正しく理解し、作品に

具現した門人は土芳・猿雖ら一部

の人たちである。

 元禄7(1694)年8月15日、

伊賀の門人達の合材により一棟の

草庵が芭蕉に贈られる。

 芭蕉は転居祝を兼ね、仲秋の名月

に句会を催す。

 心から門人たちをもてなしている。  

 その折に芭蕉自ら筆をとった

「八月十五夜月見の献立懐紙」は、

今日に伝わっている。

 それから2か月後の10月12日、

芭蕉は大坂で病没する。

 芭蕉没後、伊賀蕉門の中心となった

のが服部土芳で、土芳は蓑虫庵を拠点に

芭蕉の俳諧を後世へと継承。

 土芳の最大の功績は、芭蕉晩年の

俳論を『三冊子』にまとめ完成した

ほか、芭蕉生涯の全作品を集大成。

 『蕉翁句集』『蕉翁文集』『奥の細道』

の三部書等を完成し、亡師の霊前に供え

ている。

 芭蕉はすぐれた俳諧師であるが、

師芭蕉の教えを忠実に守り、後世へと

「蕉風俳諧」を伝えた土芳の存在を

忘れてはならない。

等々と、「芭蕉翁顕彰会」はまとめて

いる。

 伊賀上野城みたさも募り、先を急ぐ

ことにする。