貢蕉の瞑想

青梅庵に住む貢蕉の日々のつぶやきです。

田三反味噌八斗

2019-04-06 08:41:10 | 日記

田三反味噌八斗

平成31年4月6日(土)

 花に浮かれてエイプリル!

あっという間の一週間だった。

 今朝は、結びの大垣へ。

 旧友木因との再開のくだりでは、

「大垣に泊りける夜は、木因が

家をあるじとす。武蔵野出でし時、

野ざらしを心におもひて

旅立ければ、

「死もせぬ 旅ねの果てよ 

      秋の暮れ」」 と、

旅の緊張感をほぐし、冒頭の句文に

対応させて大垣での様子を表現して

いる。

 ちょうど大垣がこの旅の締め括りの

ような感じを与えている。

 初旅の不安は見事に消去され、

歓喜の大垣という印象。

 元禄元年(1688)の春より、大和

から大阪・兵庫を巡歴しての後、

京都に滞在していた芭蕉は、夏五月、

大津より帰東の途中、岐阜妙照寺

住職である己百上人の案内で、

美濃に来遊する。

 大垣木因亭にて、

「来てみれば 獅子に牡丹の 

         住居哉」

という句を詠み、ここから芭蕉は、

名古屋・鳴海方面をまわり、

8月11日、美濃路を経て、

「更科紀行」の旅に出立する。

 芭蕉は、「奥の細道」の旅の結びで、

大垣を訪れたのが三回目。

芭蕉が初めて大垣に谷木因を訪れて

から、5年の歳月が経過している。

 芭蕉を慕っていた大垣の俳人たち

にとって、格別の意義深い来遊で

あっただろう。

『奥の細道』「大垣」の段では、

「路通も此みなとまで出むかひて、

みのゝ国へと伴ふ。

 駒にたすけられて大垣の庄に入ば、

曽良も伊勢より来り合、越人も馬を

とばせて、如行が家に入集る。

 前川子・荊口父子、其外したしき

人々日夜とぶらひて、蘇生のものに

あふがごとく。且悦び、且いたはる。

旅の物うさもいまだやまざるに

長月六日になれば、伊勢の遷宮おがま

んと、又舟にのりて、

「蛤の ふたみに別 

       行秋ぞ」

と記し、三回目の来垣だなというのが

わかる。

 少し脇道にそれたが、朱塗りの住吉橋を

過ぎると、「田三反句塚」という

芭蕉句碑がある。

「隠家や 菊と月とに 

         田三反」

 月によく菊も賞すべくまことに

恰好の隠棲の地であるの意。

「田三反」とは、一休禅師の詠んだ、

「山居せば 上田三反味噌八斗 

小者ひとりに水の能所 (よきとこ)」

を引用している。

 隠棲の料として、理想的な程度。

木因は舟問屋を営む富家、もとより

三反どころではないが・・・。

 そして、四季の広場へ。