貢蕉の瞑想

青梅庵に住む貢蕉の日々のつぶやきです。

坂井市称念寺:夫婦愛物語と芭蕉の師弟愛の句!

2023-05-07 15:41:54 | 日記
令和5年5月7日(日)
坂井市:  称 念 寺              
 称念寺は
721年(養老5)から続くといわれ、
福井を代表する史跡の一つ。

 「太平記」で有名な、
南北朝時代の武士、
新田義貞公の墓所。
<新田義貞公の墓所>
<その説明>

 また、
明智光秀がこの寺に身を寄せ、
門前で寺子屋を開いたという
言い伝えもある。
<新田義貞公の墓所碑表示の山門>

 元禄2年(1689)8月11日、
松尾芭蕉が称念寺に立ち寄り、
光秀と家族の暮らしぶりを偲んで
詠んだ句の碑も、
境内に建てられている。 
<寺の由緒と文化財の説明>

 明智光秀公は
弘治2年(1556)に
齋藤義龍の大軍に敗れ、
妻の熈子や家族と伴に、
称念寺に逃れる。
 『明智軍記』という書物には、
称念寺住職と和歌を詠み、
漢詩を作ったことが記されている。
「称念寺門前に寺子屋を開くが、
生活は貧しく仕官の芽もなかなか・・。 
そして、朝倉の家臣と連歌の会を
催すチャンスを、称念寺の住職が設定。
 貧困の光秀には資金がない中、
連歌の会は熈子の用意した酒肴で
大成功に終わり、
やがて光秀は朝倉への仕官が叶う。
しかし、
その連歌の会の資金は、
実は熈子が自慢の黒髪を売って、
用立てたもの。  
 光秀はこの妻の愛に応えて、
どんな困難があっても必ずや天下を
取ると、誓った」
という「夫婦愛の物語」は、
称念寺門前の伝承となる。
 江戸時代の松尾芭蕉が、
「奥の細道」の旅の途中取材。
 その後、
芭蕉は伊勢の山田又玄宅を訪れる。
 又玄は貧しい神官で、
才能がありながら、
出世できないことに悩んでいた。
<芭蕉塚>

 そこで、芭蕉は弟子の又玄に、   
「月さびよ 
  明智が妻の 
     咄せむ」
の句を贈って励ましたという。 
<芭蕉句碑>
 
   
 意味は、
「又玄よ、今は出世の芽がでないが、
あなたにはそれを支える素晴らしい妻
がいるじゃないか。
 今夜はじっくり明智の妻の黒髪伝説を
話してあげよう」
という意か。
 芭蕉の師弟愛もまた深い。


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