かつては段々畑と棚田が広がるいわゆる里山だった樽見だが、昭和51年頃に無人になる。
確かこの辺に教会は建っていたのだが、教会へ降りる階段は無くなっている。
場所は確実にここだから潜り込んでみる。
樽見(たるみ)教会
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。言葉も無い。
追記
教会には大抵鐘が付き物だが、樽見教会には無かった。
樽見では諸々の合図を鐘の変わりにホラ貝を吹いて知らせていた。僕も小学生の時、一度チャレンジさせてもらったが、全く駄目だった。
その当時の樽見の大人達は、皆が吹けたようだ。
あの音色、も一度聴いてみたい。
ここも鉄川与助設計施工という説も有るが、それにしては少し貧相な教会だったから眉唾かと思われる。
画像追加しました
在りし日の樽見教会。昭和11年(1936)献堂
2006.01.03追記
鉄川与助設計施工という説が間違いである事が判明しました。
昭和11年(1936)地下者(ジゲモン-先住民)である隣の集落の船崎の方々の協力により小さな聖堂が建てられる。設計施工は船崎の出口キジ棟梁。
戦後の混乱期に復員や戦前に職を求めて都会へ行った人達の帰郷などによる人口増加で、聖堂が手狭になった為、昭和20年代の前半に建替えられる。
棟梁は地元の野下辰造氏。前述で貧相な教会と書いてしまったが、木造教会としては内部に柱を配しない斬新な構造だった。
樽見にはその昔から、諸事情により我が子を育てる事のできない人々が、彼方此方から里子に出しに来る人が多かった。樽見の人々は、事情のある不憫な出生の子供達に洗礼を授け、我が子と変わらぬ愛情を持って育て上げている。
迫害時代、他の地域では近隣住民にコンタツ(ロザリオ-西洋数珠)などを見られ、キリシタンである事がバレて通報され拷問を受けていたというのに、樽見では痛い目に有った人が誰もいない。かえって「役人がやって来たから逃げろ」と情報を戴いていたようなフシがある。もしかしたら里子に出した恩義を地下(先住民)の人々から受けていたのかもしれないが、仔細は不明である。
昭和40年代、樽見教会のアンジェラスのほら貝は話題になり、テレビ局が度々取材に来ている。どこかの局には古いフィルム及び音声が残っていると思われる。
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