新上五島町役場は町内の教会の数を
米山教会 仲知教会 赤波江教会 江袋教会 小瀬良教会
大水教会 曽根教会 冷水教会 青砂ヶ浦教会 丸尾教会
大曾教会 青方教会 跡次教会 猪ノ浦教会 焼崎教会
真手ノ浦教会 大平教会 有福教会 土井ノ浦教会 桐教会
高井旅教会 福見教会 大浦教会 中ノ浦教会 浜串教会
佐野原教会 鯛ノ浦教会 船隠教会 頭ヶ島教会
以上の29と公式発表している。
何か足りないような気がして、僕の当てにならない記憶を頼りに探したら在った。
大浦(おおうら)教会-旧新魚目町のほう、同じ名前の教会が2つある。
廃墟
土壁
何だか侘しい。
何も無い。
祭壇は無造作に・・・
畳敷きだったのか・・・。
我々は教会とは言わず、御堂(みどう)とかお御堂とよんでるが、
いかにもお御堂。風情(ふぜい)がある。
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新上五島町(長崎県)の教会
鯛ノ浦天主堂
廃墟になった教会
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必ず全教会の写真を
写して回ろうと思っていました。
車酔いするので、ゆっくり、写して回ってますが、
春先、ちょっと寄り道した時、私も、この教会を見つけ、ドキドキしました。
竜馬さんと同じ時代を過ごした、森松次郎さんの足跡をたどろうと、いろんな本を読んでいました。
五島で語り継がれていないこの人が、外海・出津より、平島によりて、蛤浜より、上陸し、鯛の浦の人と婚約していた為、結婚し五島・頭が島で1866年に、五島初の教会として、今自宅を御堂にしていた年、竜馬さんはワイルウェフ号遭難の為、江の浜へ、来ていたらしいです。
長崎の大浦天主堂で、プチジャン神父と、カトリックを広める活動をしていた松次郎さんが、禁教の時代、五島のあちこちに逃げ回り、行く先々で布教して回ったと・・・。
若松地区の大浦教会の写真も写しに行きました。
松次郎さんを逃がす為、 来た事を隠して、来ていない所で来たと噂を流し、そうした時代が何年もあったと・・・。
五島の多くの教会は、造りなおされ建てかえされて、ステンドグラスなども使用して、きれいに広くなって行きました。大浦地区の、御堂は畳のままで、やはり、この地区の人々も、ひっそりと、信仰を深めて行ったのでしょうか
畳じきの教会は、余り聞いた事がないので、この教会も、復元する事が出来たら、幕末の時代に、松次郎さんが自宅を御堂にしていた感じがわかるのではないだろうかと、感じました。
これは4年前の写真ですね。久々に見て自分でも懐かしく思います。迷蝶探しで時々ここに訪れますが、今はもっと痛んでボロボロです。その内に樽見教会のように崩れてしまうのでしょうね。
畳敷きの教会といえば、北魚目の米山教会が畳敷きだったような・・・・?
なして北魚目地区(江袋を除く)のキリシタンはセンスのないみっともないコンクリートの教会が好きなのか理解に苦しみます。仲知、曽根、米山、あんな教会に神様が居るような気は全くしません。
頭ヶ島教会だけは、
春、桜の季節。
初夏、紫陽花の季節。
秋、秋桜の季節。
冬、椿の季節。
カトリックでは、ないのですが、ライトアップされているので、クリスマス時期には、あちこちの教会へ必ず、行くようにしています。
1865年、長崎の大浦天主堂を建てた後、1866年、五島・頭ヶ島では、森松次郎の自宅を御堂としてつかい、その跡地に建て直しされた、頭ヶ島教会を世界遺産に!と言う働きをしていますが、ローマやイタリア、スペイン、オランダ、マカオ、マニラなどの世界遺産にも、その時代時代に、日本とつながりがあった人や建物も、数多くあると思います。
松次郎さんが逃げた土地には、曽根、江袋、青砂ヶ浦、冷水、茂久里、大平など行く先々でも、布教して行ったそうです。五島での逃げ場がなくなると、長崎大浦天主堂へ行き、プチジャン神父と共に、フランスへ行く途中にマニラへ渡ったと・・・。きっと、松次郎さんが生きた時代より、前の時代。ザビエルさんがキリスト教を伝えた時代、豊臣秀吉の時代や、徳川家康の時代に出された禁教令で、沢山の人が迫害に合い、殉教して行った事実。その時代に、大村藩より、五島藩へ、外海・出津より、五島各地へ、多くの人が渡って来たと・・・。そういう人がいたから、逃げ延びる事が出来たのだと思います。そういう事も、皆さんに分かってもらえると、もっと、世界遺産への関心が増えると思います。江袋教会のように、大浦の教会も、朽ち果てさせる事なく、解体せず、修復する事が出来るように、していけると良いなぁ!と思います!
大浦教会が朽ち果ててしまうのは勿体無いですよね。
北魚目の教会は、曽根と大水は昔の教会を復刻して欲しいものです。曽根の旧天主堂は、僕は写真でさえも見た事がありません。
旧曽根教会(現存せず)と、書かれてありました。 やはり木造でつくられた建物は、残して行くのは、大変なのでしょうか?
私は、神社の神楽や、お寺、お堂を見るのも好きなので、神社や薬師堂なども、写してまわってます。 建てられたイキサツを調べるのも好きです。そういう場所を維持して行くのも、大変ですよね?
その時代時代に、生きていた人々を感じれるのが、好きなんだと思います。
旧教会を残すのはさほど難しくないと思います。中野の鯛ノ浦教会は旧天主堂を残しています。
鉄川与助の折上天井の大水教会、与助の師匠の野原与吉が建てた曽根教会も肝心なところには良い資材、材料を使っていたはずです。
昭和40年代の上五島は大漁で何処も景気が良かったのでしょう。当時の青年達は木造の建物が貧相に見えていたのかもしれません。
僕等には折上天井や柳張り天井の教会が立派に見えて、鉄筋コンクリートの教会はあまりにも貧相で、そんな教会で神様を拝み奉る気には全くなりません。
1863年、松次郎さんが、鯛の浦に居着いてから、
1865年、大浦天主堂ができ、それを見たいと16歳、桐古里の与作さんが長崎に渡り、
1866年、松次郎さんも、長崎に渡り、プチジャンに逢え、大浦天主堂で、こ使いをしている、まだ、10代の与作とも、逢って会話をしたらしいとの事で、熱く語り合ったんだろうなぁ!と思いました。五島に帰った後、プチジャンを五島に呼ぶために、頭ヶ島に、松次郎さん達が、御堂を構えましたが、プチジャンが来ることが出来ず、クゼン神父が来たのは、1867年なので、松次郎さん達は、その後の頭ヶ島移住になります。行ったり来たりはしていたかもですが、竜馬さんとの事、ドキドキして、あつく語ってしまいましたが、
まだ、鯛の浦にいたのでしょうね!
なかなか、文字が進まず、実は、5時間かかってます。失礼しました!
お休みなさい。
旧上五島町の初期の大曽教会(樽見、大曽、青方、浜ノ浦周辺、折島、今里真手ノ浦周辺)の記録が何も有りません。当時の代官かお役人にキリシタン関係のものは全て処分されてしまったと言い伝えられています。若松方面の記録に樽見から逃れてきた人が有ったと何かの本で見た記憶が有るだけです。上郷地区(当時は奈摩内)を除く青方村と浜ノ浦村のキリシタン関係の記録が何か出てくれば何か新事実が分かるかもしれませんね。
もし大曽教会周辺の古い記録などご存知でしたら教えて頂けると幸いです。
1492年、コロンブスによる西インド諸島の発見!
1498年、ヴァスコ・ダガマによる、アフリカ南端の希望峰を回ってインドに至る、航路が出来る。
1510年、ポルトガルのインドゴア占領
スペイン、南米を征服
ポルトガル、アフリカ、インド、マカオ、日本、
1540年、中国・明の海賊・王直さん、五島・深江着
1542年、平戸着
1543年、ポルトガル人が、種子島に漂着した時も、王直さんは、同船していたらしいです。
1549年に、ザビエルさん、マラッカへ着。
マラッカで、鹿児島出身の日本人男性ヤジローに会い、日本へ行こうと・・・。
1549年平戸着。平戸にて、キリスト教の布教をはじめたが、松浦隆信が貿易は、したいが、キリスト教を信仰しなかった為、ザビエルさんはスペイン国王・ポルトガル国王へ、日本を征服するのは、不可能と、便りを出したらしいのです。
1550年、マゼラン着
その後の貿易は、横瀬浦へと変わり、大村純忠は、日本人初のキリシタン大名として、大友宗麟や、有馬晴信らも、貿易しながら、キリシタン大名となっていきました。
ルイス・フロイスの本、日本史には、日常の細かい事まで載せてました。
どんな暮らしをして、どんな物を食べてなど、日々の生活も、書き込んでました。
1566年、五島の宇久純定のところに、アルメイダと、五島・岐宿出身の琵琶法師ロレンソが来島。
下五島では、福江、奥浦、宗方で120 名入信。
上五島では、上五島、高仏、若松、久・久賀ですか?の人が入信したと・・・。五島純尭も洗礼し、キリシタン大名となり、福江に教会を建てたと・・・。
1582年、昨年、備蓄センターで、忘れられた少年と言う、町民オペラがありましたが、第一期の天正遣欧使節として、伊東マンショ、千々石ミゲル(ミカエル)、原マルチノ、中浦ジュリアンらが、長崎より、マカオ、インドのゴア、希望峰より、ポルトガルのリスボンまで、スペイン、フランス、イタリア・ローマに至り、8年5ヶ月後、
1590年、帰国して、豊臣秀吉に会い、楽器を引き、どんなに素晴らしかったかを伝え、しかし、その後、徳川家康の時代には、キリシタンの弾圧が更に厳しくなり、多くの人々がマカオやマニラなど、国外への追放となり、日本では、多くの人々が殉教していきました。
上五島や若松のカトリック信徒の方は、皆で、隠していたのだ思います。
私なりに、ちょっとずつ調べていくと、あの時代は、多くの寺が焼かれて、変わりに、教会が建ったと、知りました。キリスト教を受け入れてしまっていたら、インドのゴアや、マカオ、マニラ、南米マチュピチュや、マヤ文明のように、今頃、日本もスペイン領として、今のような日本では、なくなってしまっていたかもしれないと思います。
松次郎も、感じていたと思います。安部真造はプチジャンより、横浜天主堂に引き止められたらしい。松次郎もフランスから帰国後、横浜へ呼ばれたらしいのですが、行かなかったらしい。安部真造は、後に、信仰を捨てたらしい。二人とも、何かしらを感じたのでしょう?高木仙右衛門の息子、高木源三郎は、プチジャンの、はからいで、迫害から逃れて、マレー半島のピーナン神学校へ留学した。父の死後、ローマ法王へ、書簡をしたためて直訴したため、司祭職停止処分を受けたと・・・。パリ宣教会の日本布教の在り方について思い、悩んでいたのだと・・・。五島には本当に、色々な宗教の建物があります。神社・・シントウサイ、天理教。寺・薬師堂・観音堂・・浄土宗、浄土真宗、真言宗、法華宗。教会・・カトリック、エホバ等々、他にもあるのかもしれませんが、長い間、多くの方が、代々の家系で続いた宗教を継いだり、何かを信じて新しい宗教に入ったりしながら、生きて来たんですよね!
私は、色々な事が気になって、色々な人の事を調べてますが、人間、7、80歳、どう長寿と言われるくらいまで長生きしても、100歳位しか、生きられないので、誰かに伝えなかったり、間違って伝わったり、秘密、内緒事で語り継がれなかったりしたら、それまでなんだろうなぁ!と、思います。
その時代の事が見えたら、一番良いんですが、無理なので、もっと、たくさん、いろいろな事を追求して行きたいと思っています。
付き合ってくださって、ありがとうございます。
>上五島では、上五島、高仏、若松、久・久賀ですか?の人が入信したと・・・。五島純尭も洗礼し、キリシタン大名となり、福江に教会を建てたと・・・。
高仏にも南蛮寺が建てられていたそうです。
旧若松町の神道際の殆んどのご先祖様はキリシタンです。
1797年に五島盛運が開拓団を大村藩に依頼したら、その殆んどがキリシタンだった為たまげて即刻移民を中止したそうなのですが、その後も密入島者が後を絶たなかったとか・・・
記録も伝承もない大曽(樽見、大曽、青方、折島、浜ノ浦(猪ノ浦)、今里(真手ノ浦))から何か出てくれば、
明治12年(1879)という物凄く早い時期に大曽に柳張り天井のゴージャスな天主堂が建ったのか・・・?
上五島にも永い間潜伏していた隠れキリシタンが居たのでは・・・?
移民中止後、誰かが密入者を手引きしていたのではないか・・・?
など等・・・・謎が解けそうな気がするのですが・・・どうなのでしょうね。