冷水(ひやみず)教会
冷水にもかなり古くからキリシタンが住み着いていたが、明治元年から激化した弾圧により江袋、仲知、さらにその殆どが長崎に逃げたが明治2年(1869)浦上の四番崩れに遭い、難を逃れて下五島の岐宿、姫島に渡り二度と冷水に戻ることが無かった。
現在の冷水のカトリック信徒達は、その後、彼方此方から移住してきたキリシタンの末裔のようである。
明治39年には信徒戸数20戸を超え、お御堂が必要になった。
カトリックは「ヒラン(開き)のパッタリン」と蔑まされていた時代。いくら腕がよい大工でも簡単には引き受けてくれない。
白羽の矢が立ったのは独立して間もない同郷(青方村)出身の鉄川与助。
与助は青方村青方郷青方で代々伝わる宮大工の名門の四代目。(鉄川家の腕の良さは富江藩主の耳にも轟き、当時富江領だった魚ノ目村榎津郷丸尾-現丸尾郷-に招かれ移り住んだ。)
氏には堂崎天主堂、曽根教会、鯛ノ浦天主堂で野原与吉棟梁の元で修行を積んだ実績もある。
27才の若き鉄川与助、教会建築一作目。
崖から落ちそうになるまで頑張ったのだが、僕の撮影の腕前じゃこの程度。
与助、初の教会建築から、何といきなりコウモリ天井。当時は柳張りと呼ばれていたらしい。
ステンドグラスとは違うようだ。雨戸が閉まっていたのが残念!
現代風に改装してしまっている。少しがっかり。
冷水教会は、海が時化た時にはもろに潮水をかぶるため、塩害を受けやすい。
一時期は建替えも検討されたのだが、専門家を招いて鑑定して貰ったところ、主要な部分は頑強にできているため修理を繰り返せば何百年ももつとの結果が出たそうである。
長崎県の教会は140以上あるらしい。新上五島町だけで約30有る。その中でも特に、鉄川与助が手掛けた教会は評価が高い。
与助が冷水教会を建てなかったら・・・・? 冷水の先人達が与助に発注しなかったら・・・・・?
長崎の教会群が、世界遺産の候補に名が挙がる事は無かった。
画像追加しました。
冷水教会の聖台は、かすかに面影を残すだけだった。
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新上五島町(長崎県)の教会
鯛ノ浦天主堂
廃墟になった教会
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マアぼちぼちやっていきましょう・・・。
仰るとおりボチボチやっていきます。宜しくお願いします。
年代がばれてしまうかも知れませんが、僕も小学生の頃まで正座でした。聖体拝領の時、ジンジやバンバ達が聖台に並んでいたのを不思議に思っていましたが、この年になって当時の年寄達の気持ちが判ります。祈祷文が変わってかなり経ちますが、新しい祈りに未だに馴染めません。
変わると言えば、上五島も少子化の煽りをうけ、女人禁制だったミサの使いは女の子もしないといけなくなりました。
ミサの使い(男の子だけの特権だった筈)
神様に近づける領域の様な気もしていたので(驚きです)
聖台には神聖な場所としてあってほしかった。神の領域だから。
少子化(過疎化が進むにつれ)何もかも変化するのですね。
それから,昔の祈祷文でも,通用すると思います。子供ながらでも
漢字の意味はある程度分かるものだったと思う。難しくても,
自然に覚えて行くものですよね。
徐々に今風スタイル*今現代にも付いてゆくのがやっとなのに。
そう言えば(ここ最近)双子の率が多くなってる気が
するのですが。あちこちで双子の話題を聞きます。
昔は珍しい事でしたよね。今ではそれも普通になってる。