美津島明編集「直言の宴」

政治・経済・思想・文化全般をカヴァーした言論を展開します。

高橋洋一は「使えるエコノミスト」である(その2)実質賃金低下問題

2014年06月19日 16時52分06秒 | 経済
*今回は、高橋洋一氏をヨイショするのではなくて、結局、その論に対して異議を唱えることになってしまいました。当初の予定では、その論を尊重すべきものとして紹介するつもりだったのですが、それを丹念に検討するに従って、意に反し、論駁するに至ってしまったのです。だから、はじめのところでは、「これから高橋氏をホメるよ」という雰囲気を醸し出しているのにもかかわらず、途中からイチャモンをつけはじめ、結局は、ちゃぶ台をひっくり返し、ホメるはずの高橋氏にけたぐりを仕掛けるような行儀の悪いことをしてしまっています。それほどに、実質賃金低下問題は、物議をかもしやすい難題なのでしょう。タイトルを変えようかとも思いましたが、そのタイトルを裏切るような論の展開にならざるをえないほどに、当問題はやっかいであることを確認する意味で、そのままにしておくことにしました。

***

実質賃金の低下傾向が止まりません。厚労省が六月三日に発表した毎月勤労統計調査(速報)によると、四月の現金給与総額(事業所規模5人以上)は一人平均で27万4761円となりました。 前年比では0.9%増と二カ月連続で増加し、二〇一二年三月(同0.9%増)以来の高い伸びを記録しました。しかし、物価の変動を考慮した実質賃金は前年比3.1%減と二〇〇九年十二月(同4.3%減)以来の大幅なマイナスとなりました。四月からの消費税率引き上げが原因とされています。その結果、実質賃金マイナスは10カ月連続となっています。

それをふまえて、かねてからのアンチ量的緩和論者がここぞとばかりに、「アベノミクスは失敗だ」と激しく批判しています。また、デフレ状況下におけるアベノミクスの画期性には一定の評価を与えつつも、近時におけるその新自由主義的な側面の露呈に対して批判的な陣営からも、同様の批判が惹起しています。

では、実質賃金低下に関して、われわれ一般人は本当のところどう考えれば良いのでしょうか。私見によれば、当問題についてリフレ派の立場から終始一貫した言説を展開している高橋洋一氏の発言は貴重であると思われます。以下、それを紹介いたしましょう。というのは、こういう混沌とした状況においては、経済に関して、世界水準のコモンセンスに裏付けられた、論理的な意味での一貫性のある言説を展開している存在こそが貴重だと思われるからです。とはいうものの、紫色の髪の毛をした老魔女のようなおばさんとか、超整理法のいつも目を三角にしたじいさんとかの発言上の一貫性は、尊重いたしませんけれど。端的にいえば、彼らは“円高バイザイ”と言い放つ段階でアウト、ということです。論外。それに文句のある方は(実はけっこういるような気がします)、コメント欄でご発言ください。こちらの勉強にもなるので、できうるかぎり、(真摯でマトモな議論ならば)お付き合いいたします。

高橋氏によれば、ゼロ金利であっても、金融政策としての量的緩和(quantative easing)は、経済状況を改善し、雇用を創出します。

そのロジックは、以下のとおりです。量的緩和によって予想インフレ率が高まります。その結果、実質金利(=名目金利-予想インフレ率)が下がり、財政出動との相乗効果で消費・投資等の有効需要が創出されて、実質国内総生産(GDP)が増加し、同時に雇用が作り出される、というのがそのロジックです。消費者からすれば、予想インフレ率が上がると、お金を手元に置いておくとその価値が目減りするという判断に誘導されるので、早く使ったほうが得ということです。それは、企業からすれば、消費者の購買力がアップしたことを意味しますから、投資行動を促されることになります。事態はもっと複雑なのですが、それを単純化すれば、そういうことになります。

アベノミクスにおける「異次元緩和」の断行によって、みなさまご存知のように、事態はほぼロジック通りに進行しました。すなわち、(前回に述べたように)予想インフレ率は0.5%程度から2.5%程度へと約2%程度も高まったことで、実質金利はマイナス0.5%程度からマイナス2.5%程度と2%程度も低下しました。そのため実質GDPが増加し、就業者数が増えています。具体的に言えば、平成二五年は、実質GDPが前年度比2.3%増加し(名目は1.9%増)、就業者数は前年より四〇万人強増えています(ただし、GDPデフレーターはマイナス0.4%で、デフレからの脱却が実現したとは言い切れない状態です)。

このまま景気回復基調が続くならば、資金需要が本格的に高まってきます。すると、名目金利が上がることによって、実質金利も徐々に上がり、高橋氏の予想では、三年もすれば2%程度になるとのことです。数字の妥当性はとにかくとして、いずれ上がることは間違いないでしょう。

このように、実質金利が短期的に下がることは、デフレ脱却および景気回復のために必要な通過点なのです。

高橋氏によれば、実質賃金も似たような経路をたどります。というのは、生産手段のうち設備への投資には実質金利が、労働力の雇用には実質賃金が対応するからです。

(正直に言えば、ここはあまり納得できないところです。というのは、実質賃金の低下傾向は、いまにはじまったことではなくて、少なくともバブル崩壊以降の過去二〇数年間の長期的趨勢だからです。つまり、実質賃金の低下傾向は、短期的な金融緩和が原因というよりも、長期円高傾向下において経済のグローバル化が必然的に求める企業の国際競争力強化のための主たる方策と考えるほうが妥当なのではないでしょうか。それをデフレが加速した、と)

高橋氏の議論に戻りましょう。彼によれば、実質賃金が低下するからこそ、就業者数が増加します。

(ここも変です。ミクロレベルの個々の企業ではそういうことが言える場合もあるでしょうが、いまはマクロの議論をしているのですから、有効需要が創出されるからこそ、企業は新たに雇用しようとする、とすべきでしょう。そのためには、量的緩和のみならず、政府による財政出動も必要とされます。高橋氏は、量的緩和と賃金低下とを強引に結びつけようとするから、ミクロとマクロの話がごっちゃになってしまったのでしょう。彼らしくもありません)

ちょっと雲行きが怪しくなってきましたが、論を進めましょう。

この一年で実質GDPが増加しているが、雇用者に支払われた報酬の総額について物価の影響を考慮した実質雇用者報酬も、安倍政権が本格始動する前の二〇一二年十月~十二月と比較して増加している。実質雇用者報酬は、実質賃金と就業者数を掛け合わせたものであるから、経済全体としてみれば、実質賃金の低下は、就業者数の増加によって補われている形だ。このため今の時点で見ても、まったく問題はない。

困ってしまいました。カッコ抜きで反論するより仕方がなくなってきました。実質雇用者報酬は、高橋氏の主張に反して、実は増えていないのです。二〇一三年七月~九月期以降、むしろ減少に転じてさえいて、消費増税による物価高の影響で、二〇一四年以降は、その傾向がはなはだしくなることが確実なのです。
http://www.murc.jp/thinktank/rc/column/kataoka_column/kataoka140516.pdf 図3参照

それは、(高橋氏の主張に反して)就業者数の増加によって補いきれないほどに実質賃金の低下がはなはだしくなっていることを意味します。その傾向が、消費増税実施後の四月以降強まることが確実なのですから、「今の時点で見ても、まったく問題はない」とはどうやら言えないようですね。むしろ、非常に困ったことになりかねないのです。高橋氏は、先の引用に続けて、

実質賃金の低下を問題視する人は、新たに就業者が増えていることをどう思っているのだろうか。実質賃金が低下したといっても、統計上の話にすぎない。新たに就業者になった人の賃金が低いため、平均で見た実質賃金が下がったのであり、これまで就業者であった人の賃金が下げられているわけではない。

と言っていますが、残念ながら、ここにも無理があると言わざるをえません。というのは、消費増税実施の四月の物価上昇率3.2%は、新たに就業者になった人々のみならず、これまで就業者だった人々の実質賃金も確実に下げるからです。「就業者であった人の賃金が下げられているわけではない」などと楽観的なことを言っていられる場合ではないのです。エネルギー価格の上昇と相まって、残念ながら、その傾向はこれからも当分続くものと思われます。それは、家計の購買力の低下、すなわち有効需要の低下を招きます。そうなると、私たちは、せっかくデフレ傾向から上向きかけた日本経済がふたたびデフレの泥沼に深く身を沈める悪夢を見ることになるのかもしれません。もしも今後消費増税10%が決定されたら、その趨勢は決定的となることでしょう。

そう考えると、高橋氏のように、量的緩和さえ実行し続ければ、「これから賃金の上昇圧力が高まっていくに違いない」とか「今春闘ではベースアップを実施する企業が増えたが、それが中小企業にまで広がっていくだろう」などと楽観的な見通しを立てるわけにはいかない気がします。

こうやって論を進めてみると、消費増税がどれほどの失策であったのかが、炙りだされてきますね。安倍政権も、おそらくそのことに気づいているからなのでしょう、いまは成長戦略を次から次に打ち出して、海外投資家を喜ばせ、株価を上げることに躍起になっています。株価を釣り上げることで、消費増税という失策をカモフラージュしようとしているのではないでしょうか(さらには、カモフラージュしついでに、消費増税10%も決めてしまおうとしているような感触があります。マスコミはマスコミで、財務省の意を汲んで、消費増税10%があたかも既定路線であるかのようにバカ報道を垂れ流し続けています。日銀黒田総裁の消費増税関連の発言も、財務省の意向を援護射撃するものになっていて生臭いですね)。

しかし、いくら株価が上がっても、資産効果とかは一定程度見込まれるものの、それがダイレクトに実体経済の活況につながるわけではありません。そうして、われわれ一般国民のほとんどは、実体経済のなかでつつましく命をつないでいるのです。それが現実です。ゆめゆめ安倍政権のカモフラージュに幻惑されないようにしましょう。

さしあたり、消費増税10%は絶対に回避すること、次に、円安基調は堅持すること、そのために量的緩和を実行し続けること、金融政策に関する日本政府の不退転の決意を内外にアナウンスするためにも日銀法を改正すること、実体経済の活性化のためにあらためて大胆な精査された公共投資を実施すること、安易なグローバル化は慎むこと(TPP参加を見合わせること)、移民政策の推進をやめること、内需立国に資するような規制緩和だけを実行すること、成長戦略の一環としての成果賃金制度という名の奴隷労働放任制度を阻止すること。以上が、実質賃金の低下に歯止めをかけるために最低限必要とされる措置であると、私は考えています。このように、経済的な現象は、どこまでも政治的意思決定と深く絡まり合っているものなのです。もとより量的緩和が必要であることは認めますが、それだけで実質賃金の低下傾向が収まるとは、ちょっと考えにくい状況であると思います。

参考 高橋洋一『「日本」の解き方』(夕刊フジ六月十四日掲載)
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高橋洋一は、「使えるエコノミスト」である(その1) ECBのマイナス金利

2014年06月18日 12時07分22秒 | 経済
私は、月曜日から金曜日まで『夕刊フジ』を買って読んでいます。それは、嫌韓嫌中記事を読んで溜飲を下げるためではなくて、高橋洋一氏のコラム「『日本』の解き方」を読むためです。彼は、維新の会をサポートしようとするところに、規制緩和を基本的に是とする姿勢が見られます(だからTPP参加には賛成の立場です)。そういう点について、私は彼をあまり評価しません。しかし、その他の彼の発言には、学ぶべきところが実に多いのです。

たとえば、ECB(欧州中央銀行・ドラキ総裁)が六月五日に導入を決定したマイナス金利について。マスコミでは、「初めての措置」ということばかりが取り沙汰されて、これが、金融政策としてどれほどの効果があるのか、さっぱり分かりませんでした。その点高橋氏は、それをきちんと分かりやすく論じます。結論を先に言えば、ECBのマイナス金利政策は、日銀やFRBの量的緩和ほどの効果が期待できない、となります。以下、彼の論の展開に即して、いささか言葉を補いながらその理由を述べましょう。

通常、中央銀行口座への市中銀行の預金には、利息がつきます。日本の場合、法定準備預金を超える預金額について、0.1%の利息がついています。それに対してECBの場合、法定準備預金には利子を付けますが、超過準備預金には付利していませんでした。ところが今回、それについて0.1%の手数料をもらうことにしたのです。これが、いわゆるマイナス金利です。

高橋氏によれば、マイナス金利をそのひとつとして含む金融政策は、民間部門で消費や投資の有効需要を作り出すために、「実質金利」(=名目金利-予想インフレ率)を下げます。通常であれば、名目金利を下げると、予想インフレ率が一定でも、実質金利は下がります。ところが、名目金利がゼロになるとそういう通常の手は使えなくなります。そこで、マネタリーベース(中央銀行が供給する通貨)を増やすと(いわゆるブタ積みが増えると)、予想インフレ率が上昇します。そうなると、名目金利がゼロでも、実質金利が下がります。これが、自国通貨の価値を下げ自国通貨安・株高をもたらすことはこの一年間の日本経済の現実それ自体によって実証されましたね。アンチ量的緩和派は、“量的緩和でブタ積みが増えた”と騒いでいますが、正統派のリフレ理論においては、デフレ脱却の前半期において、ブタ積みがインフレ期待を高めるとされているのですから、それは量的緩和批判として的外れです。

ここで、予想インフレ率の上昇を通じて実質金利を下げるためのマネタリーベースの増加が、すなわち量的緩和です(それと大胆な財政出動とを組み合わせればアベノミクスとなります)。量的緩和は、国債買いオペを伴うので、明示的に名目金利の上昇を抑え実質金利をマイナスにして、企業の投資行動や消費者の消費行動を促し、実体経済における有効需要を創出します。そうなると、ブタ積みされていたベースマネーが次第に市中に出回るようになります。市中銀行からの企業への貸出が増えるのですから、当然そうなります。

理論的には、大胆なマイナス金利を実施すれば、量的緩和と同じくらいの実質金利の低下を実現することができます。というのは、「実質金利=名目金利-予想インフレ率」という等式のうち、量的緩和による「予想インフレ率」の上昇分と同じ率の「マイナス金利」を設定すれば良いのですから。

では、今回のECBの措置が実質金利に与える影響は、どれほどのものなのでしょうか。高橋氏は、具体的数値を挙げてそれを説明します。

黒田日銀の量的緩和では、実質金利はマイナス0.5%からマイナス2.5%にもなり、下げ幅は2%である。今回のECBでは名目金利ゼロを名目金利マイナス0.1%にしただけで、実質金利の下げ幅はたった0.1%しかない。

これで、ECBの今回の措置が、危機に瀕したEU経済のデフレ圧力をはね返すだけの強力なものではないことが明らかです。どうりで、市場がほとんど反応を示さなかったはずです。

では、ECBはなぜ量的緩和ではなくマイナス金利政策を選択したのでしょうか。高橋氏によれば、ECBが量的緩和を選択した場合、それは国債の買取を伴い、「EUのどこの国の国債を買うか」でもめるからです。その問題をめぐってEU諸国の国益がぶつかり、収拾がつかなくなってしまうのですね。つまり、経済面での成熟度が異なる諸国家の寄せ集め、というEUの弱点が露呈されることをECBは恐れたのです。それをカモフラージュするために、ECBは、「財政ファイナンスをしない」と去勢を張っているのです。

高橋氏の優れたところは、ECBの金融政策を批判するだけではなくて、ちゃんと代替案を提示し助け舟を出している点です。彼によれば、量的緩和は、実は各国国債でなくとも債券の購入でもできるのだから、例えば、欧州投資銀行(EIB)が大量に債券を発行し、危機に瀕したギリシャなどの南欧諸国でインフラ整備を行う財政政策を発動し、同時にECBがその債券を購入し、量的緩和するという金融・財政のパッケージが、今のEUの仕組みにおけるベスト・チョイスです。そうすれば確かに、EUの弱点に制約された微温的なマイナス金利政策などという消極策に甘んじる必要がなくなります。国境を越えた問題について、そういうクレバーで建設的な提案ができる高橋氏は、たいしたものだと思います。    
(この稿、続く)

参考 高橋洋一「『日本』の解き方」(「夕刊フジ」6月12日号掲載)
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削除動画再アップのお知らせ

2014年06月15日 01時41分52秒 | 音楽
削除されていた動画のうち再アップしたものを以下に掲げます。

You tube にアップされた音楽関係の動画が削除されるのは、仕方のないことなのかもしれません。しかし私としては、粘り強く再アップするよりほかはありません。というのは、みなさんにご紹介した音楽を聴いていただけないのはとても残念ですから。いたちごっこ、と達観してはいられません。個人的には、you tube で聴いているうちにある曲が気に入ってしまい、CDを購入した経験が何度かあるので、強硬に削除することが、必ずしも、ミュージシャンや音楽関連会社の利益を守るとは限らないのではないかと思っています。どちらかといえば、私は「野放しにしろ」派に組みしたい気分です。アップされた曲を削除されたのが癪に障っているだけなのかもしれませんけれど(*´д`*)。

●倍賞千恵子「忘れな草をあなたに」
「ラブソング・ベスト5 邦楽・女性ヴォーカル部門」所収
http://blog.goo.ne.jp/mdsdc568/e/cc38888770bba37da681a9ca94e7c590

*残念ながら、第二位ちあきなおみ「部屋」は、再アップできませんでした。

●ちあきなおみ「矢切の渡し」「さだめ川」
テレサ・テン「さだめ川」
「ちあきなおみ・テレサテン・聴きくらべ」所収
http://blog.goo.ne.jp/mdsdc568/e/f3c7d8c907972485b529e00ee591fe44

*残念ながら、テレサ・テンの「矢切の渡し」は、再アップできませんでした。

●岩崎宏美「夢やぶれて」
「ふたつの『I dreamed a dream』」所収
http://blog.goo.ne.jp/mdsdc568/e/8995ded158a778c91bcceda6ace75b00

●Vamilla Mood「紅唇」
「hanamasライヴ at カフェ・クレール 2月2日(土曜日)」所収
http://blog.goo.ne.jp/mdsdc568/e/d7b9e88e1461f5d0486f9d3980090ceb

●青山和子「愛と死をみつめて」
「昭和の名曲『愛と死をみつめて』」所収
http://blog.goo.ne.jp/mdsdc568/e/6336c806d37ba5d24b26544675470b51
●hanamas「津軽じょんがら節~Life」
「はなわちえは、やはり優れもの」所収
http://blog.goo.ne.jp/mdsdc568/e/dedfa75684896f07f31104182f34f145

●エルガー「威風堂々」
「『威風堂々』エルガー」所収
http://blog.goo.ne.jp/mdsdc568/e/be74dfe0b0e1cd3a3647bc6055fbbf6a
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忘れられた名曲、知られざる名曲 欧米篇

2014年06月11日 02時36分08秒 | 音楽
しばらく、大東亜戦争についての重い内容の文章が続きました。このまま沖縄戦に突入すると、心身ともにはじけてしまいかねない(笑)ので、このあたりでちょっとコーヒーブレイクを、ということで、音楽ネタを披露いたします。題して、「忘れられた名曲、知られざる名曲 欧米篇」。

一曲目は、ジュディ・コリンズの『Both Sides Now』(一九六八年)。邦題は、『青春の光と影』。原題を直訳するならば、「物事を両面から見ること」でしょうか。今回ご紹介する曲のなかでは最も人口に膾炙しているのかもしれません。邦題は一見陳腐な訳のようですが、実はこの曲にとてもよくフィットしていると思います。私がこれをはじめて聴いたのは、大学二年生のころ、学部の一年先輩の(侘しい)下宿にお邪魔したときでした。私が深く心を動かされたことを察して、その先輩は、何度も何度もカセット・テープを回してくれました。そのときの私は、正直なところ、心が震えるほどに感動してしまったのでした。おそらく、恋の悩みだとか自意識過剰などという青年期特有の苦しい思いを抱えて自分の心をもてあましていたので、この曲の初々しいゆらぎやひりひりするような研ぎ澄まされた感性に即座に反応したのでしょう。作詞・作曲ともにジョニー・ミッチェルで、彼女が歌った同曲の方が名が通っているようです。しかし、私の場合は、ジュディ・コリンズの声で同曲を聴いたので、彼女の歌声でないと心が震えた当時の心持ちに還っていくことがかなわないのです。この儚い味わいは、いまでも胸にひびきます。

Judy Collins - Both sides now (HQ)


二曲目は、サード・イアー・バンド(Third ear band)の『マクベス』所収の「フレアンス」。『マクベス』は、一九七二年にロマン・ポランスキー監督の映画「マクベス」のサウンド・トラックとして制作されたものです。レコード評的な言い方をすれば、″中近東のアコースティックでゆったりとしたリズムに乗せて中世音楽の暗い雰囲気が見事に表現された傑作盤″という評価が妥当なところでしょうか。少々イッテしまっている人は別として、正直、フツウの人がこのアルバムを通して聴くのはつらいのではないかと思います。けっこう陰鬱で単調なんですよね。そんななかでこれだけは、トラッド風の親しみの持てる旋律を有する叙情的な曲で、真っ暗闇の雰囲気のなかでこの曲が浮びあがってくる様は、異様なほどの美しさを感じさせます。その意味では、一回だけなら通して聴く価値があるといえるでしょう。これをはじめて聴いたのは、たしか三二歳のときでした。ロックにとても詳しい元音楽会社のスタジオスタッフが、職にあぶれて中古レコードの店員のアルバイトをしていたとき、彼の友人と私がいっしょに訪れた店内で聴かせてくれたのです。この曲を歌った女性シンガーは、(名前は忘れましたが)たしかいわゆる素人さんで、この曲以外にその名はクレジットされていないというのをどこかで読んだことがあります。一期一会というわけですね。

Third Ear Band - Music From Macbeth - Fleance


三曲目として、フェアポート・コンベンションの『アンハーフブリッキング』(一九六九年)から「ジェネシス・ホール」をご紹介します。フェアポート・コンベンションは、イギリスのトラッド・バンドの草分け的存在です。トラッドというのは、イギリスの伝統音楽のことですから、それを演奏する人々はもちろん昔からいました。フェアポート・コンベンションが画期的だったのは、エレキギターやエレキベースで、トラッドを演奏したことでした。彼らは、トラッド(フォーク)にロックで使う電気楽器を導入することの是非をめぐって公開討論をしたというのですから、隔世の感がありますね。「ジェネシス・ホール」を歌っているのは、当時二二歳のサンディ・デニーです。若い身空で、生きることのよるべなさ・はかなさをテーマにした当曲の核心をしっかりと表現しています。一時期私は、彼女に心酔していたことがありました。その繊細な歌心が、心に沁みたのですね。彼女は、大仰な歌い方は決してしません。地味と言っていいくらいです。しかし、その肩の力の抜けた呟くようなヴォーカルに、いちど心を掴まえられてしまうと、そこからなかなか抜け出ることがかなわなくなるのです。私はいまでもサンディを、不世出の歌い手としてこよなく尊敬しています。残念なことに、彼女は一九七八年四月十七日に友人宅で階段を踏み外し四日後の四月二一日にオーストラリアから急遽帰国した夫のトレヴァー・ルーカス (Trevor Lucas) たちに見守られるなか三一年間の生涯を終えました。

genesis hall fairport convention - unhalfbricking album


四曲目は、イギリスのトラッド・バンド、スプリガンスの『マジック・レディ』(一九七八年)所収の「グッド・バイ・ザ・デイ」。これを歌っているのは、マンディ・モートン。彼女は、上記のサンディ・デニーに憧れてトラッドを歌い始めた人です。アルバム・タイトルの「マジック・レディ」とは、サンディ・デニーのこと。スプリガンスのラスト・アルバムは、亡くなったサンディ・デニーに捧げられたものなのです。超マイナーなサウンドの世界を作り上げていて、これでは売れないな、とは正直なところ思うものの、捨てがたい魅力があります。三曲目の「ジェネシス・ホール」と「グッド・バイ・ザ・デイ」は、三二~三歳のころ、よく通っていた下北沢のロック喫茶のマスターがしばしばかけてくれました。それで、曲名を覚えたのです。彼は、LPの解説書にある「ジェネシス・ホール」の和訳に違和感を抱いていて、それを添削したものを私に見せてくれたりしました。なかなかのこだわり屋さんだったのですね。店名も所在地も何もかも忘れてしまいましたが、いまごろどうしているのでしょうか。

Mandy Morton And Spriguns - ''Goodbye The Day''


五曲目は、同じくイギリスのトラッド・バンド、スティーライ・スパンの『プリーズ・トゥー・シー・ザ・キング』(一九七一年)のラストを飾る曲「ラブリー・オン・ザ・ウォーター」。オープニングを飾る「ザ・ブラックスミス」も捨てがたい名曲なのですが、好みに従って、こちらを選びました。ヴォーカルは、高音の伸びが美しくて素朴な味わいのマディ・プライア。彼女は、トラッドを歌うために生まれてきたような女性ではないかと思っています。海の戦場に出かけた恋人を待つ女性の切ない思いを歌っている正真正銘のブリティッシュ・トラッドなのですが、不思議に地中海の鄙びた白壁の村の情景が浮かんできます。

Steeleye Span - Lovely on the Water


六曲目は、同じくスティーライ・スパンから。『プリーズ・トゥー・シー・ザ・キング』(一九七一年)の次に出された『テン・マン・モップ』(一九七二年)所収の「ゴワー・ワセイル(gower wassail)です。ティム・ハートの格調高くて清潔感のあるヴォーカルが印象的ですね。無駄なものを一切省いて、極度に研ぎ澄まされた各メンバーの感覚がぎりぎりのところでバランスを保っているような印象があります。曲全体から精神的なものが発散されているように感じるのは私だけでしょうか。私の耳には、空前絶後の名曲として響きます。素材は、ただのイギリス民謡なんですがね。こういう曲を作ってしまったらバンドには先がなくなります。実際この後、ベースのアシュレイ・ハッチングスなどの主要メンバーがごそっと抜けて、スティーライ・スパンは一時期空中分解状態に陥ります。結局、マディ・プライアを前面に立てたポップ色の強いロックバンドとして再出発することになります。思えば、五、六曲目も、先ほどご紹介したこだわり屋のマスターが教えてくれたのでした。

gower wassail Steeley Span



彼らのパーフォーマンスがいかに緊張感に満ちたものであるのかをお分かりいただくために、同曲を別のヴォーカルグループがオーソドックスに歌っているのを参考までに掲げておきましょう。

Gower Wassail by Cupola:Ward
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日本軍の失敗から私たちが学べること(その2) サイパン島陥落

2014年06月09日 02時50分15秒 | 歴史
日本軍の失敗から私たちが学べること(その2) サイパン島陥落

インパール作戦が行き詰まり中止された昭和十九年(一九四四年)七月四日、中部太平洋ではサイパン島が失陥しようとしていました。しかし、「サイパン島陥落」と言われて、ピンとくる現代日本人はおそらくほとんどいないのではないでしょうか。それ以前に、太平洋の地図をパッと広げられて「どこがサイパン島か指差してみろ」と言われるとまごつくだけでしょう。ましてや、「ガダルカナル島は?ラバウルは?」と詰め寄られると万事休すということになるのではないでしょうか。もちろん、身に覚えがあるので、そう言っているのです。太平洋の島々に思いを馳せることって、なかなかありませんからね。その意味で、まずは下の図をご覧いただいて、お互い地理感覚を養いましょう。常識的なレベルでの地理感覚抜きで歴史を論じてもしょうがないですからね。


太平洋戦争激戦地

上の図の赤い印が、日米軍の激戦地です。それらの戦いを時系列順に並べてみましょう。

まずは、図の右端中央のパール・ハーバーから。これはもちろん、昭和十六年(一九四一年)十二月八日ハワイ真珠湾奇襲攻撃です。ご存知のとおり、(空母を撃沈しなかったことなど問題点はいろいろとありますが)日本軍の圧勝でした。

次は、その左ななめ上のミッドウェー島です。昭和十七年(一九四二年)六月五日のミッドウェー海戦で、日本軍は、空母四隻を失って大敗を喫しました。この戦いが、大東亜戦争における海戦のターニング・ポイントとされています。

次は、図の真ん中下のガダルカナル島です。前回詳しく述べたガダルカナル島の死闘は、昭和十八年(一九四三年)二月一日日本軍の撤退開始という形で終結しました。この戦いが、大東亜戦争における陸戦のターニング・ポイントとされています。

次は、図のいちばん上のアッツ島です。昭和十八年(一九四三年)五月二九日、三〇〇〇人の日本軍守備隊が全滅しました。太平洋戦線における日本側のはじめての玉砕でした。

次は、図の左端中央のインパールです。インパール作戦については、前回詳述しました。昭和十九年(一九四四年)七月四日、大本営は同作戦を中止しました。

その次が、図のほぼ中央のマリアナ諸島です。マリアナ諸島全域が激戦地であったと言っても過言ではありませんが、サイパン島がその中心です。昭和十九年(一九四四年)七月九日、サイパン島の日本軍は全滅し、米軍スプルーアンス大将は勝利宣言を発しました。

以下、地図中の激戦について年表風に触れておきましょう。
昭和十九年(一九四四年)十月二十五日、日本海軍、レイテ沖海戦敗北
昭和二〇年(一九四五年)三月十七日、硫黄島の日本軍守備隊全滅
(同年三月十九~二〇日、東京大空襲)
同年六月二三日、沖縄の日本軍全滅

さらに、その後の大戦の流れを記しておきましょう。

同年八月六日、広島に原爆投下
同年同月八日、ソ連の対日参戦(スターリンによるヤルタ会談の密約実行)
同年同月九日、長崎に原爆投下
同年同月十四日、ポツダム宣言受諾決定
同年同月十五日、天皇、「戦争終結」の詔書を放送

話を、サイパン島陥落に戻しましょう。当たり前のことですが、反攻に転じた米軍は、いきなりサイパン島を攻撃してきたわけではありません。日本軍の、太平洋の西半分に伸びきった戦線を着実に縮小させるように、システマティックかつ計画的に攻めてきたのです。次の図をご覧ください。



                  勢力圏と戦線と絶対国防圏

米軍の反攻が、ガダルカナル島から始まったことは、前回申し上げました。反攻の第一手として、そこが絶妙のポイントであることが上の図から分かりますね。そこを攻略した後、米軍統合参謀本部は、ふたつの反攻ルートを検討しました。ひとつは、「ソロモン諸島→ラバウル→ニューギニア→フィリピン諸島→台湾→日本本土」ルートで、もうひとつは、「ギルバート諸島→マーシャル諸島→トラック諸島→マリアナ諸島→硫黄島→沖縄→日本本土」のルートです。前者は、南西太平洋方面軍を率いるマッカーサー陸軍大将の主張であり、後者は、それ以外のすべての太平洋地域の指揮権を持つニミッツ太平洋方面最高司令官やキング作戦部長の主張でした。マッカーサーとニミッツの対立関係は有名です。ガダルカナル島を巡る作戦の主導権はとりあえずニミッツが握ったのですが、その後の反攻ルートをめぐるふたりの主張は、平行線をたどっています。統合参謀本部はミニッツ寄りの姿勢を示し、“ラバウル攻略は物的人的資源の耐えがたい消耗を招く」と結論づけました。しかし、ニミッツ・反攻ルートについても、日本本土進攻計画は時期尚早としました。

いささか話が詳細に渡りましたけれど、要するに、ニミッツの反攻ルートとマッカーサー反攻ルートのいずれも、日本の膨張した戦線を着実に少しずつ縮小させる計画的なものであることを確認したかったのです。また、サイパン島攻略が、米軍にとって必然的なものであったことも、おおむねお分かりいただけるのではないでしょうか。

なかなかサイパン島攻略の話にストレートに入れなくて申し訳ありませんが、もう一点、図中の「絶対国防圏」に触れておきましょう。これに触れるには、まず、一九四三年(昭和十八年)九月五日のイタリア降伏の影響について話す必要があります。『太平洋戦争』から引きましょう。

イタリアの枢軸脱落で、ドイツはその下腹から連合軍の脅威を受ける形となり、日本が期待したドイツによる英国打倒、その結果にもとづく米国の戦意喪失という場面は、もはや望むべくもなくなった。イタリアの敗北は、地中海の制海権、制空権が、連合軍の掌中に落ちたことを意味する。(中略)さらに地中海で不要となった連合国艦隊、とくに英艦隊のインド洋回航が見込まれ、イタリアの降伏は、太平洋の戦局にも重大な影響をおよぼすことが予想された。

「電撃」ドイツ軍の足手まといのような存在で、ヒトラー総統の頭痛の種であり続けた弱いイタリア軍でしたが、降伏してしまうと、その影響は甚大だったのです。また日米の戦局も攻守ところを変えて、日本が守勢に回ることが確実でした。それに加えて、船舶事情・造船事情・陸上兵力・航空兵力もすべて憂慮すべき状態でした。長期展望なき(戦略なき)作戦計画のツケが回ってきたと言っていいでしょう。そこで、日本政府は、同年九月三〇日、従来の″長期不敗″を改め、「今明年内に戦局の大勢を決する」ことを目途とし、絶対確保すべき要域を「千島、小笠原、内南洋(中西部)及び西部ニューギニア、スンダ、ビルマを含む太平洋及び印度洋」と定めました。防衛戦を縮小して内を固めようとしたのです。それが、絶対国防線です。

絶対国防線に含められた「内南洋」とは、南洋諸島のことです。一九一八年一月十八日、ベルサイユで開かれた第一次世界大戦の講和会議で、日本は赤道以北の太平洋諸島の統治を委任されることになりました。南洋諸島は、日本の委任統治領になったのです。一般的な「南洋」という言葉と区別するために、 日本が統治する南洋群島を当時「内南洋」と呼びました。また、その外側のフィリピン、ボルネオ、ジャワ、シンガポール、ニューギニア、ソロモンなどを「外南洋」と呼びました。そうして、内南洋の主だった島に支庁が置かれました。当時の日本が、本気で内南洋を統治しようとしたことが、そのことからもうかがわれます。グアム島に支庁が置かれなかったのは、同島が、一八九八年以来ずっと米国領であったからです(一九四一年に日本軍が占領しましたが、一九四四年に奪還されました)。



               戦前における日本の委任統治領

サイパン支庁がマリアナ諸島を管轄し、パラオ支社・ヤップ支社・トラック支社・ポナペ支社がカロリン諸島を管轄し、ヤルート支社がマーシャル諸島を管轄しました。つまり内南洋は、マリアナ諸島・カロリン諸島・マーシャル諸島の三つの諸島で構成されていました。そのうち、マーシャル諸島は、絶対国防線から外されました。しかし、海軍のトラック確保のためには、マーシャル諸島という前衛拠点が必要となります。実際、日本が絶対国防線を設定した四ヶ月後にマーシャル諸島来攻を敢行した米軍を、日本軍は迎え撃っています。その意味で、絶対国防線はけっこうあいまいだったのです。

ところで、上の図を見ていると、サイパン島が、ほかの内南洋地域と日本本土とをつなぐ中継地の位置にあることが分かります。そういう位置にある地域は栄えることになっていますね。実際そうだったようで、Wikipediaは、当時のサイパン島の繁栄の様子を次のように伝えています(一部、表現・表記を変えてあります)。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%82%A4%E3%83%91%E3%83%B3%E5%B3%B6#.E6.97.A5.E6.9C.AC.E7.B5.B1.E6.B2.BB.E6.99.82.E4.BB.A3

日本の委任統治領となった後、サイパン島は内地から南洋への玄関口として栄え、サイパンで産出された砂糖の積み出し港としての役割にとどまらず、同じく日本の委任統治領であるパラオやマーシャル諸島、カロリン諸島などとの間での貿易の中継地点としても発展した。この時期に、プランテーションにおける労働力、港湾荷役労働者、貿易商、行政官吏として、日本(主に沖縄県出身者)や台湾、朝鮮からの移民が移住した。

その間、準国策会社の南洋興発株式会社(本社所在地はサイパン島・チャランカノア)がサイパン島、ロタ島、テニアン島に製糖所を建設し、アジア最大の製糖産地として発展させた。設立者(社長)の松江春次は、「砂糖王(シュガーキング)」と呼ばれ、彼の功績が称えられて、彩帆(さいぱん)神社境内に「彩帆公園(現砂糖王公園)」が造園され、現職社長としては異例の寿像が建立された。

一九四三年八月の時点での人口は日本人(台湾人、朝鮮人含む)29,348人、チャモロ人、カナカ人3,926人、外国人11人となっていた。


サイパン島には、約三〇〇〇〇人の無辜の民間人がいたのです。そこが、それまでの戦いと大きく異なる点です。内南洋全体で、一九三九年頃には七〇〇〇〇人以上の民間人がいたそうですから、本土帰還の流れを勘案すれば、一九四三年八月時点で、内南洋全体の約半分の人口がサイパン島に集中していたことになりそうです。その後、本土疎開がなされたので、戦闘開始段階での在留邦人は約二〇〇〇〇人と推計されています。

この二〇〇〇〇人がどうなったのか。サイパン島の戦いに関して、私はそれがいちばん気にかかります。というのは、私は以下のように考えるからです。近代国民国家の戦争は、それが追い詰められてやむを得ず始めたられたものであろうと、なんであろうと、国益を守るためになされるべきものです。君主の私権のためになされるべきものではない、ということです。そうして、国益の核心には、無辜の一般国民の生命を守ることがあります。つまり、無辜の一般国民の生命を守ることとのつながりを絶った戦争に、義はない。だから、戦争に義を求めるとすれば、あくまでも無辜の一般国民の生命を守ることとのつながりを保とうとしなければなりません。つまり、私は大東亜戦争のそれぞれの局面にできうることならば義とのつながりを求めようとするがゆえに、二〇〇〇〇人の行方が気にかかるのです。言いかえれば、「速に禍根を芟除(せんじょ)して、東亜永遠の平和を確立し、以って帝国の光栄を保全せんことを期す」という開戦の詔勅の精神をあくまでも尊重しようということです。これは、大東亜戦争が、大和民族にとって壮大な失敗体験であったことと必ずしも矛盾しません。失敗経験を重ねたりそれに巻き込まれたりしながらも、義を求めようとすることは可能であるからです。そういう姿勢を保持しえたならば、私はそこに義を認めようと思っています。

たとえば、硫黄島の死闘における栗林忠道中将の作戦思想に、私は義を認めます。なぜなら彼は、兵隊たちの命を決して粗末にしないという原則を貫き通すことによって、理にかなった作戦を展開することができたからです。「兵隊たちは一般国民ではなかろう」というのは屁理屈にほかなりません。兵隊たちの命を決して粗末にしないという原則を貫き通す姿勢に、無辜の一般国民の生命を守る精神が保持されているのです。たとえ絶体絶命の閉塞状況においても、人は合理性を貫き通すことによって、義とのつながりをキープしうるのです。そうして、あくまでも合理性を貫こうとすることにおいて、精神の強靭さが発揮される。それこそが、本当の精神主義なのではないかと私は考えます。硫黄島の戦いについては、ほかの戦いと同様に、いろいろな議論があるようですが、私はそう考えます。



                 サイパン島

では、二〇〇〇〇人は日米両軍の死闘のなかで、いったいどうなったのでしょうか。ふたたび、Wikipediaから引きましょう。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%82%A4%E3%83%91%E3%83%B3%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84#.E6.97.A5.E6.9C.AC.E4.BA.BA.E5.B1.85.E7.95.99.E6.B0.91.E3.81.AE.E6.9C.AC.E5.9C.9F.E7.96.8E.E9.96.8B

戦闘の末期になると、多くの日本人居留民が島の北部に追い詰められ、アメリカ軍にとらえられることを避けるためバンザイクリフやスーサイドクリフから海に飛び込み自決した。多いときでは1日に70人以上の民間人が自決したといわれる。民間人の最期の様子はアメリカの従軍記者によって雑誌『タイム』に掲載され、世界中に配信された。特に入水自決の一部始終を撮影したフィルムは1シーンしかなく、入水者は会津出身の室井ヨシという婦人であった。アメリカ軍は島内の民間人を保護する旨の放送を繰り返していたが、当時の多数の日本人が信じていた「残虐非道の鬼畜米英」や帰国船撃沈事件の恐怖イメージのためにほとんど効果がなかった。また退避中の民間人に米軍が無差別攻撃したため、民間人の死傷者が続出していたことも影響した。サイパン島の日本軍が民間人に対する配慮を欠いていたことも自決の原因として指摘される。この点、テニアンの戦いでは日本軍が民間人に対し自決行為を強く戒めた事が効果を出し、民間人の自決行為が少なかったのと対照的である。
(中略)
戦闘終了後、アメリカ軍は非戦闘員14,949人を保護収容した。内訳は、日本人10,424人・朝鮮半島出身者1,300人・チャモロ族2,350人・カナカ族875人となっている。逆算すると8,000人~10,000人の在留邦人が死亡したとみられる。

大本営は「おおむねほとんどの民間人は軍と運命をともにした」と発表し、当時の日本の新聞各紙も上記『タイム』の記事を引用して民間人の壮絶な最期を記事にした。(中略)半数以上の民間人がアメリカ軍によって保護されたことは一般国民には伝えられなかった 。

戦闘終了後にアメリカ軍が生存者に対して行ったアンケート調査では、サイパンの日本兵が民間人にガダルカナルの戦い(日本の民間人がいなかった)で民間人がアメリカ軍に虐殺され女子は暴行された話を語っていたことが、サイパンの日本人民間人がアメリカへの投降を躊躇わせた原因として挙げられている。


民間人二〇〇〇〇人のうち、約半数は米軍に保護されることによって一命を取り留めたのでした。ということは、単純な引き算ですが、約半数の一〇〇〇〇人が戦闘の犠牲になった。『太平洋戦争』によれば、スプルーアンス大将がサイパン占領を声明した一九四四年七月九日に、約四〇〇〇人の日本人(そのほとんどが民間人)がサイパン北端に追い詰められたそうですから、そのなかの少なからぬ人たちが、バンザイクリフやスーサイドクリフから海に飛び込み自決したことになります。

サイパン島バンザイ・クリフの悲劇は米軍の強姦と虐殺が誘発した、という主張がおもに保守系の論客からなされる場合があります。その場合の論拠は、どうやら田中徳祐氏の『我ら降伏せず サイパン玉砕の狂気と真実』のようです。私は未読ですが、実際にサイパン戦を戦った者の証言ですから、そこには、自ずからなる説得力があるのでしょう。

また、児島襄の『太平洋戦争』においても、サイパン戦における米軍の民家人に対する虐殺行為や米軍兵の日本人に対する憎悪の強さがきちんと書き記されています。

サイパン米軍の″掃討前進″は徹底的だった。どんな小さな洞穴、くぼみ、草むらも見逃さず、前方に動く影には容赦なく銃弾を浴びせた。このため、日本兵だけでなく、水を求め、かくれ場所をさがしてさまよう市民も、すくなからず射ち倒された。
                     *
七月三日、第二海兵師団第二連隊は、ガラパン町(精糖・水産・牧畜等で繁盛したサイパンの中心地で、料理飲食店が九五軒を数えた―――引用者注)に入った。かつて繁華を誇った町も、いまは焼け焦げた柱とトタン板が散乱する瓦礫の街だった。人間と動物の死体が路上にころがり、死臭が霧のようにたちこめていた。
                     *
米兵たちは、日本人を憎んでいた。その憎悪が、呵責ない掃討作戦を支えていた(後略)。


「鬼畜米英」のイメージを叩き込まれてそれを素直に信じていた人々が、兵と民間人の区別なく無慈悲に掃討作戦を繰り広げる、赤い顔をした阿修羅のような巨漢の群れに臨んで恐怖のどん底に叩き込まれ、パニックに陥ったとしても何の不思議もありません。また、戦場という命のやりとりをする極限状況において、圧倒的な優位にあることからくる不埒な征服感に突き上げられ、日本の女性たちを強姦する不届者の米兵もおそらくいたことでしょう。戦争には、人間の暗黒面を誘発する側面があることはつとに語られています。

だから、サイパン島バンザイ・クリフの悲劇は米軍の強姦と虐殺が誘発した、という主張には、たとえ田中徳祐氏の著書における数々の証言の真偽をカッコに入れたとしても、傾聴に値する側面があるものと思われます。

しかし、だからといって、″「生きて虜囚の恥ずかしめを受けるなかれ」という戦陣訓の縛りによって、サイパン島陥落時に邦人男女が「万歳」を叫んで次々に断崖から海に身を投げて自殺した、と私たち日本人が信じてきたのは誤りだった。それは、戦後のGHQに叩き込まれたウォー・ギルド・インフォメーション・プログラムによる洗脳にほかならない″と主張するのは、私には極論であるように感じられます(そうであってくれれば、分かりやすくていいのですが)。

私が申し上げたいのは、サイパン島民間人二〇〇〇〇人の約半数を死に至らしめたのは、米軍だけではないということです。むろん現象としては、そういう様相を呈します。敵味方に分かれて戦争をしているのですから、それは当然のことです。しかし、大東亜戦争の展開過程を見渡すならば、失敗に次ぐ失敗を積み重ねてきた軍の上層部こそが、彼らを追い詰め、死に至らしめた張本人たちである、という感慨を私は禁じえないのです。また、そこには、戦争の義の問題も深く絡んでいます。

こういうことを観念的にぐだぐだと言っていてもしょうがありません。具体的にお話ししましょう。

まずは、島にいたら戦争に巻き込まれていることが分かっているのに、なぜ二〇〇〇〇人もの人々が、米軍上陸時に島にいたのか、という点について。その点については、日本政府も気づいていました。米軍のサイパン島上陸(六月十五日)の四ヶ月ほど前に、兵員増強の輸送船の帰りの船を利用して、内南洋に住んでいる婦女子・老人の日本本土への帰国が計画されました(十六歳~六十歳の男性は防衛強化要員として帰国が禁止されました)。その計画によって、日本への帰国対象者はマリアナ諸島各島からサイパンへと集結しました。しかし、三月の帰国船「亜米利加丸」がアメリカの潜水艦に撃沈され、五〇〇名の民間人ほぼ全員が死亡する事件があったため疎開はなかなかはかどりませんでした。そのほか、六月四日沈没の「白山丸」などでも多数の民間人犠牲者が出ています。アメリカ海軍は、太平洋戦争開戦当初から民間船への無差別・無警告攻撃を行う無制限潜水艦作戦を実施していたのです。そのため、二〇〇〇〇人もの民間人が米軍上陸時に島にいることになってしまったのです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%82%A4%E3%83%91%E3%83%B3%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84#.E6.97.A5.E6.9C.AC.E4.BA.BA.E5.B1.85.E7.95.99.E6.B0.91.E3.81.AE.E6.9C.AC.E5.9C.9F.E7.96.8E.E9.96.8B

では日本軍は、なにゆえ米軍の無制限潜水艦作戦に対処できなかったのでしょうか。それは、端的に言えば、米軍にマリアナ諸島近海の制海権と制空権を握られていたからです。

さらに、ではなぜ米軍にマリアナ諸島近海の制海権と制空権を握られていたのでしょうか。それは、昭和十七年(一九四二年)六月五日のミッドウェー海戦で空母四隻を失って大敗を喫してからずっと、太平洋の島々の攻防戦において負けがこみ、日本の勢力圏が着実に縮小し続けたからです。

つまり、サイパン島民間人の帰国がうまくいかなかったのは、負け戦が続いたことの当然の帰結であった、と結論づけざるをえないのです。

以上を踏まえたうえで、『太平洋戦争』からの次の引用をご覧ください。それは、六月二十四日に参謀本部が下した、サイパン放棄に関する記述が見られる「機密戦争日誌」からの孫引きです(ちなみに、「機密戦争日誌」は、大本営陸軍部の第二〇班(戦争指導班)の参謀が、毎日の業務を交代で記述し、庶務将校が清書した、第二〇班としての業務日誌です。第二〇班の業務は、戦争指導に関する事務と大本営政府連絡会議に関する事務でした。だから、当日誌には、当時の政府と陸軍さらには海軍が、戦争指導についていかに考え、いかに実行しようとしたかが記録されている、と言えるでしょう。これに類する記録は、政府側にも海軍側にも残されていません。だから、当日誌は、当時の政府と陸海軍の戦争指導について知り得る第一級史料であるといえるでしょう)。

海軍は『あ』号作戦に関し陸軍と協議の上、中止するに決す。即ち帝国はサイパン島を放棄することとなれり。来月上旬中にはサイパン守備隊は玉砕すべし。最早希望ある戦争指導は遂行し得ず。残るは一億玉砕に依る敵の戦意放棄に俟つあるのみ。

継戦中の戦争指導者たちの口から、「最早希望ある戦争指導は遂行し得ず」という事実上の敗北宣言の言葉が洩れているのには、正直ビックリしてしまいます。また、なんと無責任な、という思いも禁じえません。そういうお話しをする前に、引用文中の海軍の「あ」号作戦に触れておきましょう。

軍令部によれば、「あ」号作戦とは「我が決戦兵力の大部を集中して敵の主反攻正面に備え、一挙に敵艦隊を撃滅して敵の反攻企図を挫折」させようとする決戦方針でした。小沢中将が、その任務を遂行する第一艦隊(空母九、戦艦七など)の総責任者となりました。当初決戦海面は、パラオ近海とされていましたが、米軍のサイパン攻略が明らかとなった段階で(上陸は六月十五日未明)、小沢部隊はサイパンに急進しました。

六月十九日午前10時に火蓋を切られたマリアナ沖海戦は、米軍側の″マリアナの七面鳥打ち″という俗称からもうかがわれるように、惨敗に終わりました。一年がかりで養成した日本母艦部隊は、わずか二日であっけなく壊滅してしまったのです。敗因は、いろいろとあるのでしょうが、航空部隊搭乗員の未熟さが決定的でした。これまでの戦いで、日本軍は、あまりにも多くの有能な熟練搭乗員の命を失ってしまっていたのです。

これで、サイパン島守備隊は、自国の艦砲射撃や航空部隊の援護を受けられなくなりました。それで、先の「機密戦争日誌」の文言が繰り出されることになるのです。しかし、東条参謀総長は「サイパンは難攻不落です」と海軍側に胸を張って言明していたのではなかったでしょうか。それを思うと、児島襄の次の激しい言葉はもっともであるという思いを禁じえません。

しかし「サイパン確保の自信あり」の公言はどうなったのか。参謀本部の自信は、海軍に頼ってのことではなく、陸軍独力で島を保持できる意味のはずだった。それなのに、かくもあっさり放棄を決めるとすれば、参謀本部の公言は世にも無責任な虚勢であり、サイパン三万人の将兵と二万人の市民は、ただその虚勢のために砲火にさらされたことになる。東条首相はサイパン邦人に対して激励電報を打つことを提案したが、あまりにしらじらしい措置だとして、大本営政府連絡会議で否決された。

私は、軍指導部が負うべき責任は、上の児島襄の激語にとどまるものではないと考えます。軍指導部は、「最早希望ある戦争指導は遂行し得ず」という事実上の敗北宣言をしています。とするならば、指導部が考えるべきは、自分たちの、指導者としての失敗の責任を深く反省した上で、この失敗した戦争をなるべく早く終わらせて、兵士と無辜の一般国民のこれ以上の犠牲を防ぐにはどうしたらよいのか、です。それは、国体の護持を図ることと結局は同義です。その実現のために、指導部は、身を挺するべきだったのです。

しかるに指導部は、敗北宣言を発した舌の根も乾かぬうちに、「残るは一億玉砕に依る敵の戦意放棄に俟つあるのみ」と口走っているのです。これは、最高責任者としてのノーブレス・オブリージュ(高貴な者であるがゆえの責任)を放棄し、失敗のツケを国民に回そうとする恥知らずの言葉であるのみならず、大東亜戦争から義を奪う言葉でもあります。なぜなら、さきほど申し上げたとおり、戦争に義を求めるとすれば、あくまでも無辜の一般国民の生命を守ることとのつながりを保とうとしなければならないからです。「残るは一億玉砕に依る敵の戦意放棄に俟つあるのみ」という言葉を発する精神は、それと正反対のものです。

その「一億玉砕」には、当然、サイパン島民間人二〇〇〇〇人が含まれます。つまり軍指導部は、サイパン島民間人二〇〇〇〇人の玉砕を是としたことになります。だからこそ、約一〇〇〇〇の民間人がアメリカ軍によって保護され一命を取り留めたことは一般国民には伝えられなかったのです。アッツ島で玉砕したのは将兵でした。サイパンの戦いでは、将兵のみならず民間人まで玉砕し、かつ、そのことが称揚されたのでした。救いようのないほどの酷い敗北をあえて称揚しようとする構えは、ボロ負けの敗者に特有の倒錯的な精神勝利法であると認識したほうがよいのではないでしょうか。むろん、その死それ自体は、掛け値なしに悼まれるべきですが。

このように筋道を立てて考えれば、サイパン島民間人二〇〇〇〇人を追い詰め、その約半数を死に至らしめ、バンザイクリフやスーサイドクリフから身を躍らせることを余儀なくさせたものの正体は、上陸した米軍であるというよりも、むしろ当時の日本の戦争指導部であると結論づけるほうが、正鵠を射ていることがお分かりいただけるのではないでしょうか。

そこから汲み上げることができるのは、日本人の(すくなくとも近代以降の)権力思想には、民草の命を奪うことを美名の下に是とする暗黒面が存するという認識ではないかと思われます(それは、デフレ期にブラック企業が猖獗を極めることと通じているような気がします)。にもかかわらず、われわれ近代人は、国家権力の存在を自らのものとして引き受けるほかないと考えるところで、おそらく、私は反権力思想なるものと袂を分かつのではないかと考えています。

ひとつ付け加えなければならないことがありました。サイパン島攻略の成功によって、米軍は、日本本土を戦闘機で爆撃することが可能になりました。それを技術的に可能としたのは、B29長距離爆撃機の登場です。B29は、三万フィート以上を飛び、高射砲弾を受ける心配が少なく、戦闘機による迎撃も困難なほどの高々度を飛びます。サイパン島から、新兵器のB29が飛び立ったならば、東京・大阪・名古屋・北九州を含む日本列島の約半分が、その射程に入ってしまうのです。当時の日本の戦争指導部は、「本土決戦による一億玉砕」などと沈痛な面持ちで妄想をふくらませて息巻いていましたが、サイパン陥落は、将棋のたとえを使うと、相手から大手を指されるに等しかったのです。
                                                                                     (この稿つづく)
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