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美津島明編集「直言の宴」

政治・経済・思想・文化全般をカヴァーした言論を展開します。

日本軍の失敗から私たちが学べること(その3) 沖縄戦Ⅰ

2014年06月28日 04時25分03秒 | 歴史

                   沖縄戦 米軍上陸

当シリーズ(その2)をアップした六月九日から、かなりの日数が経過してしまいました。私は、シリーズ物に着手するといつもこうなのです。最初はスピーディに筆が進むのですが、次第に思ってもいなかった難所に突き当たり、それが次第に重みを増して、進むのに四苦八苦してしまう。どうしても、そうなってしまうのです。もっと器用にやれないものかと思うのですが、どうにもうまくいきません。

今回は、当時の沖縄の人々の振る舞いをどうやってイメージし、その心をどう理解し、それらをどう評価するのか、をめぐって苦慮しました。大東亜戦争の義の問題との絡みで沖縄戦を扱おうとすると、どうしても、その課題と取り組まざるをえないのです。というのは、沖縄の人々は、本土の日本人よりも献身的に軍に協力し、軍を深く信頼し、またそうであるがゆえに多大の犠牲を強いられたからです。

いずれ、その問題に舞い戻ってきましょう。

沖縄戦当時、日本の国力・戦力は枯渇の極にあり、一方アメリカは国力・戦力ともにきわめて充実した状態にありました。そういう状況で両者が激突したために、日本軍の種々の問題点が一挙に白日の下にさらされることになりました。とくに、作戦が成功するうえでの基本的な前提要件である作戦目的の統一に関して、決戦か持久か、航空優先か地上優先かという作戦の根本的性格をめぐる対立が存在したことは、致命的な問題点でした。大綱を掌握すべき上級統帥は、うかつにも、その対立の存在の深刻さを見過ごしたために、米軍上陸後の作戦指導の細部に干渉せざるをえない事態に陥ったのです。

以上を、まずは沖縄戦以前における第三二軍と大本営とのやりとりに即して述べましょう。

昭和十九年(一九四四年)三月二二日、大本営の直轄として第三二軍が創設され、同軍は南西諸島を担任地域とされました。当時の大本営の対米作戦構想の基本は航空決戦至上主義でしたから、創設当初の第三二軍は、決戦兵力である航空部隊の基地設定軍的な性格を持つにすぎませんでした。このため地上戦力は、米軍による航空基地奇襲攻撃に備えることを主眼とし、はなはだ弱体なものでした。第三二軍高級参謀の八原博道大佐は、紆余曲折を経て、大本営のそのような航空決戦至上主義に対して深い疑問を抱くようになっていきました。

大本営の作戦構想に基づいて航空基地群の設定整備に邁進中の第三二軍は、同年五月五日、突然に大本営直轄から西部軍の隷下に編入されることを告げられました。次に、同年七月九日、絶対国防圏の要衝であるサイパン島の日本軍が全滅したことを受けて、第三二軍は、西部軍の隷下から台湾軍(後の第一〇方面軍)の隷下に移されました。この二度にわたる隷下の変更によって、「大本営直轄」という軍の誇りを深く傷つけられたことも、第三二軍の大本営に対するわだかまりを大きくする要因となったようです。また、陣地のたびたびの変更命令も、同軍の士気に直接影響し、戦備の完成を阻むことになりました。同軍の陣地(兵力配備)は、昭和十九年の中ごろから二〇年四月一日の米軍沖縄本島上陸までに、大きく五回変わりました。固い珊瑚でできた沖縄の岩盤を掘り崩すのは、大変な重労働なのです。

サイパン島陥落後、「捷号作戦」を作成し乾坤一擲の作戦態勢をとった大本営は、台湾とともに西南諸島を捷二号作戦の決戦場と予定しました。そのため第三二軍に、四個師団、混成五個旅団の大兵力が充当されることになりました。その結果、第三二軍は空軍基地設定軍の地位を脱したので、その首脳は、高い戦意に燃えて決戦準備に邁進しました。軍の士気が大いに高まったのです。

ところが、レイテ戦が展開され捷一号作戦が発動されると、台湾から三個師団がレイテ戦に引き抜かれ、台湾は親編成の二個師団があるだけになりました。そこで大本営は、沖縄から一個師団を引き抜いて手薄になった台湾に送るほかはないと考え、昭和十九年(一九四四年)十一月四日、沖縄の八原高級参謀に宛てて、「第三十二軍ヨリ一兵団ヲ抽出シ、台湾方面ニ転用スル要ニ関シ協議シタキニツキ、台北ニ参集サレタシ」と電報を打ちました。

大本営の電報に少なからず衝撃を受けた第三二軍は、“沖縄本島と宮古島を、どちらも確実にわが軍の手に確保しようとする方針ならば、第三二軍から一兵団を抽出するのは不可である。もしもどうしてもそうするというのならば、宮古島か沖縄本島のどちらかを放棄しなければならない”という内容の「第三二軍司令官の意見書」を八原高級参謀に託し、同参謀は同日夕方からの台北会議に臨みました。そのときの会議の模様が、日本軍の弱点をさらけ出しているように感じるので、以下詳細にお伝えします。

同会議に臨むにあたって、八原高級参謀は、長勇(ちょう・いさむ)少将から「台北会議では、黙って当意見書を提出し、多く論じてはならぬ。牛島満軍司令官の決意はこの意見書のなかに強力に示されておる。沈黙こそ、全体の空気を第三二軍に有利に導く所以である」と強く訓示されています。結局八原高級参謀は、その訓示を固く守りました。

会議の席上八原高級参謀は、まず「意見書」を一同の面前で朗読し、「以上は軍司令官の固い決意である」と付言してから、これを諫山春樹(いさやまはるき)方面軍参謀長に手渡しました。その後八原大佐は、長参謀長の訓示に従ってかたくなに沈黙を守ったのです。この八原大佐の構えは、会議の空気を重苦しいものにしました。第三十二軍からの一兵団抽出の発案者である大本営陸軍部作戦課長・服部卓四郎大佐は、八原大佐のそっけない態度に驚き、具体的に論議する気分をそがれ、腹案にしていた「抽出兵団の後詰めは、後で考慮するからとりあえず兵団の転用を」という協議了解事項を発言する機会を失ってしまったと後に述べています。また諫山中将もこれといった発言はしませんでした。ただ方面軍作戦主任参謀の市川大佐だけは、台湾防衛の重要性と兵力不足を訴えました。市川大佐は、″第三二軍は第一〇方面軍の隷下にあるのだから、方面軍司令官にはその兵力運用を自由に裁量できる権限がある″といわんばかりでした。会議は夜半に及びましたが、積極的な論議はまったくと言っていいほどに交わされることなく、要領を得ないうちに終わってしまいました。

ここに見られるのは、山本七平のいわゆる“空気”の支配です。私たち日本人にはなじみのある場面ですね。“空気”とは、場の参加者にとってなんとなく抗いがたい雰囲気と言いかえられるでしょう。私たち日本人は、それに対してとても敏感です。そうであるがゆえに、それを踏まえない姿勢は、場の参加者から否定的な評価しか得られない。つまり、KYです。論理的思考に基づく言葉が力を持ちにくい、あるいは、それを発することがはばかられる。そういう雰囲気に私たちは、しょっちゅう取り巻かれますね。たとえば、脱原発なんかもそうです。脱原発は論理というよりも、脱原発という“空気”であると考えたほうが分かりやすい。それに絡め取られてしまった人たちに対して、いくら論理で迫ってもほとんど効力がありません。かえって、感情的な猛反発を喰らって不愉快な思いをするだけです。下手をすれば、人扱いをされかねない。それを分かっているから、「頭の回る」政治家は原発問題には当たらず触らずの対応しかしないのです。その結果、日本のエネルギー安全保障体制は、脆弱化を余儀なくされ潜在的な危機を深めています。なんと馬鹿げたことでしょうか。“空気”の問題は、過去のものではないのです。

台湾会議の場合、“空気”という観点からすると、ちょっと複雑です。なぜなら八原大佐は、重苦しい“空気”を作りほかのメンバーをそれに巻き込んだ張本人であると同時に、ほかのメンバーが共有したがっている妥協的な“空気”をかたくなに拒むKYでもあったからです。

沖縄本島から一兵団を抽出することは、第三二軍にとって、のみならず、実は日本軍全体にとっても、とても重要な案件でした。だから本当なら、お互い条理を尽くした意思の疎通を図らなければならなかったのです。しかし、参加メンバーは皆、変な“空気”に絡め取られることによって正常な思考力を奪われ、まともに発言することがかなわず、それがまったくといっていいほどに実現できませんでした。

この不毛な会議は、第三二軍に、“第一〇方面軍は、自分の裁量で沖縄から一兵団を台湾に転用させることができないため、大本営の威を借りて兵力を増強している”という印象を与えました。それゆえ、台湾会議は、会議そのものが要領を得なかったのに加えて、大本営や第一〇方面軍の統帥に対する不信感を第三二軍に植え付ける契機を与えることになってしまったと結論づけざるをえません。

その後、十一月一三日大本営は、第三二軍に対し「沖縄島ニ在ル兵団中最精鋭ノ一兵団ヲ抽出スルニ決セリ、ソノ兵団ノ選定ハ軍司令官ニ一任ス」と打電しました。第三二軍は、それを受けて、伝統ある最精鋭師団である第九師団を抽出転用することを余儀なくされました。台湾会議のだんまり作戦は何の成果ももたらさなかったわけです。のみならず、第九師団は、最初からもっとも長期間沖縄に駐留していて、県民との交流が深く、その抽出が県民の士気高揚にも大きな悪影響を及ぼしました。それは、第三二軍にとって、必勝の意気込みの支柱を失ったことを意味します。つまり、第九師団を失ったことで、第三二軍は、物質的のみならず心理的にも大きな打撃を受けることになってしまったのです。

このような踏んだり蹴ったりの状況においても、全兵力の約三分の一を失った第三二軍は、作戦構想を練り直す必要に迫られました。まず問題になったのは、軍の基本任務をどう解釈するかということでした。軍は、捷二号作戦計画の決戦準備任務は自然消滅し、その創設当初の「海軍と共同し南西諸島を防衛すべし」というきわめて包括的な任務のみが生きているものと解釈しました。軍の基本任務に関する解釈というきわめて重大な案件について、第三二軍と大本営・第一〇方面軍との間でのやり取りや調整が行われた形跡がまったくない、というのは驚きです。おそらく、相互不信が強かったのでしょう。

基本任務の再解釈に基づいて、第三二軍は、戦場を自主的に本島南部に限定し、それに対応して軍主力を島尻地区に集約しました。そうして、準備した陣地周辺に米軍が上陸した場合は極力これを撃退することとし、米軍の空海基地の設定を阻止するが、配備の及ばない北・中飛行場方面に米軍が上陸した場合は、主として長射程砲による妨害射撃に期待するとされたのです。これは、大本営の航空決戦至上主義の実質的な否定あるいは放棄を意味します。第三二軍が、この重大な意思決定を大本営に伝えなかったのは、繰り返しになりますが、唖然とするよりほかにありません。不信感という私情が命令指揮系統というパブリックな領域をすっかり虫食い状態にしてしまっているのです。第三二軍は、そのツケを後に戦闘状態でたっぷりと支払わされることになります。

米軍の沖縄上陸は昭和二〇年(一九四五年)四月一日ですが、その前哨戦として、B29による三月十日の東京大空襲がありました。目標として、焼夷攻撃の効果を最大限に発揮するために、木造家屋の密集する下町方面が選ばれました。その「狙い」はしっかりと当たり、東京は、焼失家屋約二六七〇〇〇棟、死者約八三八〇〇人、負傷者約四〇〇〇〇人、罹災者約一〇〇万人という甚大な被害を受けました。また、米機動部隊が九州、四国(一八日)、阪神、呉(一九日)を襲いました。そのため、四月一日の米軍上陸時に、上空を乱舞する爆撃機はアメリカのものだけ、という日本軍にとっては痛恨の事態となりました。さらに、硫黄島で栗林中将が最期を遂げる前日の三月二六日、沖縄本島南西の慶良間列島に米第七十七歩兵師団が上陸しました。それは想定外の事態でした。現地日本軍の後手後手の対応は、数日後の島民集団自決の悲劇につながっていきます。そのことについては、大東亜戦争における義の問題を考えるときに、あらためて真正面から取り上げることになるでしょう。

四月一日、米軍が沖縄に上陸を開始したとき、第三二軍はほとんど抵抗することなく、上陸第一日目に北・中両飛行場は米軍の手中に落ちました。しかしこれは、第三二軍にとって想定内の作戦展開であり、軍としてはその後の組織的陣地による持久作戦に大きな期待を抱いていました。しかし、大本営等は、あまりにも早い北・中飛行場の失陥に大きな衝撃を受け、第三二軍に対して両飛行場奪回のために「積極的な攻勢を」という要求・指導を執拗に重ねることになります。当論考の冒頭で「作戦が成功するうえでの基本的な前提要件である作戦目的の統一に関して、決戦か持久か、航空優先か地上優先かという作戦の根本的性格をめぐる対立が存在したことは、致命的な問題点でした。大綱を掌握すべき上級統帥は、その対立の存在の深刻さを見過ごしたために、米軍上陸後の作戦指導の細部に干渉せざるをえない事態に陥った」と申し上げた最悪の事態が露わになってきたのです。なぜ、最悪か。上級統帥のそういう執拗な干渉は、彼らにとっては当然のことなのかもしれませんが、命をかけて最前線で敵と戦っている現地の軍にしてみれば、ひたすら足を引っ張られているだけのことになってしまうからです。

大本営の「積極的な攻勢を」という要求は、一糸乱れることなく作戦準備に努力を傾注してきた第三二軍司令部の内部に、大きな亀裂を生むことになりました。上級司令部からの北・中飛行場奪回の要望電報が来信するたび、八原大佐は軍司令官・参謀長に対して、平素からの軍の戦略としての持久の方針こそが正しいことを強く具申します。長(ちょう)参謀長も、当初は既定の持久方針によって作戦を指導してきたのですが、国軍全般の作戦上の要求を無視して、あくまで第三二軍独自の持久作戦を遂行することは、軍司令官牛島満中将の立場としては出来得ないと感じるに至ったのです。参謀の大多数は、次第に長参謀長の攻勢転移(北・中飛行場奪回)の意見に賛成するようになり、八原大佐は、孤立無縁状態となりました。しかし、八原大佐は大勢に対してあくまでも反対の立場を貫こうとしました。彼は、腹の底で次のように考えていました。

北・中飛行場をそのままに残しておいたのが愚の骨頂だ。軍が徹底的に破壊すべきであると意見具申したときに許可しておれば、こういう問題は起こらずにすんだのであって、それをせずにおいて、今頃攻勢とは、馬鹿馬鹿しい限りだ。つい先ほど玉砕した硫黄島の栗林中将も『・・・・・殊ニ使用飛行場モ無キニ拘ラズ敵ノ上陸企図濃厚トナリシ時機ニ至リ第一、第二飛行場拡張ノ為兵力ヲ此ノ作業ニ吸引セラレシノミナラズ陣地ヲ益々弱化セシメタルハ遺憾ノ極ミナリ』と戦訓を打電してきているではないか。    (『失敗の本質 日本軍の組織論的研究』)

このように、意見は真っ向から対立しましたが、結局、牛島司令長官の忸怩たる胸の内を察した長参謀長の意見が幕僚のそれとして採択されることになりました。しかし情勢の変化によって、四月八日の攻撃は小部隊の斬込みに終わりました。また同月十二日に実施された総攻撃は、第二十二連隊が地形不明のために戦闘不参加、第二十三大隊は半数、第二百七十三大隊はほぼ全滅に近い打撃を受けて失敗に終わりました。さらに、五月三日からの攻勢決行も失敗し、第二十四師団は戦力の三分の二を失い、第三二軍は、一日一〇発に砲弾を節約しながら首里に立てこもることになりました。要するに上級統帥の要求は、現実的には実行不可能なもので、あえて実行しようとすれば、第三二軍の戦力を無意味に消耗させるだけだったのです。私はここに、戦争という特殊状況を超えて、日本官僚組織の病根を目の当たりにする思いを禁じえません。すなわち、日本官僚の最上層部は、一度決めた方針は、現場が悲鳴を上げようとどうしようと、あくまでも貫き通そうとする悪癖が抜き難くある、ということです。目下の政治問題の例を挙げれば、消費税問題しかり、放射線基準しかり、TPP参加問題しかり、教育行政しかり、と枚挙にいとまがありません。どんなに不都合な現実や理を尽くした議論を突きつけられたとしても、行政のパワー・エリートたちは、まるで狂ったコマンドをインプットされたロボットのように、一度決めたことをあくまでもゴリ押ししようとするのです。もしかしたら彼らは「自分たちは日本でいちばん優秀なはずだ」という思い込みやチンケなプライドに振り回されているのでしょうか。とても不思議です。

話を戻しましょう。

沖縄の錯綜した戦いを整理するために、四月七日から六月二三日の牛島軍司令官自決までの年表を掲げておきます。
(http://www.okinawabbtv.com/culture/battle_of_okinawa/battle_of_okinawa_history.htmを参照しました。ありがとうございます)

・四月七日 沖縄本島を目指した戦艦大和、撃沈される。連合艦隊の最期である。
・四月十二日 ルーズベルト大統領が死去。トルーマン副大統領が大統領に就任。
・四月十六日 米軍、伊江島に上陸。当時、伊江島には東洋一と言われた飛行場があったため、米軍占領の二〇日まで激しい戦闘が行われた。犠牲者四七〇六人、その内地元の住人は約一五〇〇人にのぼった。
・四月二〇日 米軍、伊江島を占領。
・四月二二日 米軍、本部半島を占領。(伊江島と本部半島とは、伊江水道を挟んで向き合う)
・四月二四日 嘉数(かかず)高地、陥落。十六日間におよぶ攻防戦が展開された。
・四月二六日 嘉数高地と首里の司令部との間に位置する前田高地での戦闘始まる。
・五月六日 前田高地、陥落。宜野湾から浦添(うらそえ)の約10キロの中部戦線は、太平洋戦争最大規模の砲爆撃が集中した。激戦地となった嘉数、前田、西原(にしはら)では約半数の住民が犠牲になり、一家全滅も三割を超えた。
・五月十一日 那覇市郊外にある「安里52高地(シュガーローフヒル)」(最後の首里防衛線)で戦闘始まる。地形を巧みに利用した日本軍と、圧倒的な兵力・戦力・物量の米軍の攻防戦は、ここでも熾烈を極めた。米軍は死者二六六二人。また、一二八九人の極度の精神疲労者を出すが、十八日、制圧に成功。米軍、首里に向けて総攻撃を開始する。
・五月二二日 第三二軍司令部、南部撤退。持久戦続行の作戦方針を決定する。
・五月二二日 米軍、那覇市を占拠。
・五月二五日 後に「ひめゆり部隊」と呼ばれる学徒看護隊が配属されていた南風原(はえばる)陸軍病院に南部撤退命令が下される。
・五月二七日 第三二軍司令部、残存兵約三〇〇〇〇人の南部撤退を開始する。
・五月二九日 首里、陥落。第三二軍司令部、沖縄本島の最南端、摩文仁(まぶに)の自然壕の中に撤退。徹底した持久戦に入る。既に南部一帯には多くの住民が避難しており、そこに南下して来た残存兵、軍と共に移動して来た住民とが入り混じって、沖縄最南端の喜屋武岬(きやんみさき)に追い込まれた。未曾有の悲劇、南部戦線の始まりである。
・六月十一日 海軍主力玉砕。
・六月十三日 大田実少将率いる海軍部隊、小禄の司令部で全滅する。大田実少将が最後に海軍次官宛に打った「沖縄県民斯ク戦エリ」の電報は、沖縄県民に対する国の配慮を訴えたもので、玉砕の電報では異例の電文として有名である。
・六月十七日 米軍、激戦の末、南部戦線の防衛線を突破する。これが日米最後の戦闘であった。米軍の沖縄作戦のバックナー軍司令官は、牛島軍司令官に降伏勧告。牛島司令官、黙殺。
・六月一九日 第三二軍牛島司令官は、「各部隊は各地における生存者中の上級者これを指揮し、最後まで敢闘し、悠久の大義に生くべし」と最後の命令を出し、指揮を放棄する。日本軍の組織的抵抗の終結。ひめゆり部隊や鉄血勤皇隊などの学徒隊に解散命令。ひめゆり部隊がいた壕内に米軍のガス弾が投げ込まれ、教師・生徒四〇名が無残な最期を遂げる。
・六月二三日 牛島軍司令官、長参謀、摩文仁の司令部壕にて自決(二二日という説あり)。

牛島満陸軍中将麾下(きか)の第三二軍将兵約八万六四〇〇人と、バックナー陸軍中将麾下の米第一〇軍将兵約二三万八七〇〇人との沖縄の地における約三ヶ月間の激突によって、戦死者は日本軍約六五〇〇〇人、日本側住民約一〇万人、米軍一万二二八一人に達しました。

圧倒的な物量を誇り、絶対制空・制海権を確保してまるで巨大な津波が押し寄せるように来攻する米軍に対し、第三二軍将兵は沖縄県民と一体となり、死力を尽くして約三ヶ月におよぶ長期持久戦を戦い抜きました。その結果、米軍に予想以上の犠牲を強いることになり、硫黄島の戦いとともに、その心胆を寒からしめました。現地の第三二軍は、上級統帥の無理解や執拗な干渉によって少なからず打撃を受け、結局敗れてはしまいましたが、米軍に日本本土への侵攻を慎重にさせ、本土決戦準備のための貴重な時間をかせぐという少なからぬ貢献を果たしたといえるでしょう。だから、“沖縄の第三二軍は犬死をした”、などとは口が腐っても言えないと思います。また、“結局、広島・長崎に原爆が投下され、本土決戦に匹敵するほどの被害が出たのだから、「本土決戦準備のための時間稼ぎができた」というのは意味がなくなったのではないか”という批判は、結果論にすぎません。六月の段階では、トルーマン大統領の耳に、原爆実験成功の知らせは届いていないのですから、その段階で、硫黄島戦と沖縄戦での日本軍の戦闘ぶりが、米軍側に日本本土への侵攻を慎重にさせたことは間違いありません。現地の第三二軍を、さまざまな制約のなかでよく戦ったと評価するのは妥当なことなのです。大本営等の外圧に屈してしまうことなく、持久戦という基本を守り抜いたことが功を奏したというべきでしょう。

現実的で有効な作戦目的の設定をなしえたかどうかという観点から厳しく批判されるべきは、上級統帥としての大本営です。大本営は、沖縄戦のときだけではなく、実は、大東亜戦争のほぼ全過程を通じて、現実的で有効な作戦目的の設定をすることが基本的にはできませんでした。つまり、戦略的思考ができなかったのです。児島襄は、『太平洋戦争』の終末部近くで、日本軍の戦いぶりを振り返って、こう言っています。少々長くなることをお許しください。

日本を支えてきたのは、戦争即戦闘、戦闘即兵士の戦い、という戦争観だった。開戦そのものも、単純に戦闘の勝利を見込んで決定された。真珠湾攻撃から、ミッドウェー、比島沖海戦、そして沖縄特攻攻撃まで、海軍がつねに輸送船や施設攻撃を二の次にし、″艦隊決戦″を求めつづけたのも、この″戦術的戦争観″にもとづいている。陸軍もまた、戦闘に一勝をあげることをもって戦争と考えてきた。その結果は、決戦を呼号しながらも、いつもその後の一勝を期待して後退をつづけ、いまや文字どおり″絶対″国防圏たる本土を残すのみとなった。むろん、戦闘を第一とする戦争観に立脚する以上、戦場がある限り、戦士が存在する限り、戦いつづけるのは、論理の当然の結果といえる。だが、もはや戦場はあっても戦士は少なかった。サイパン戦において端緒的にみられ、沖縄戦において本格化したごとく、戦闘は直接、市民=非戦闘員に頼る国民戦争に転化しつつあったが、統帥部にはこの種の″新しい戦争″にたいする認識も用意もなかった。あるのは、かつて開戦時に永野軍令部総長がいった「たとえ一旦の亡国となるとも最後の一兵まで戦いぬけば、われら子孫はこの精神をうけついで再起、三起するであろう」という気概だけだった。

日本軍首脳は、その思考経路に戦略的思考を欠如させたまま戦争に突入することによって次第に窮地に追い込まれ(将兵を窮地に追い込み)、万事休すの状態に至りました。その、理の当然のツケを「本土決戦」「一億総玉砕」という形で国民に支払わせようとすることは、最高責任者としての失敗を事実上カモフラージュするに等しい破廉恥きわまる振る舞いと評するよりほかはありません。卑怯者の振る舞いであるとさえいえるでしょう。それは、その自覚の有無にかかわらずそうであると、私はあえて断言したい。特攻隊作戦についても、同じ観点から、上級統帥が現場の将兵に遂行させる作戦として、私はこれを全否定します。なぜなら、「戦略的思考なき戦術的戦争観」によって、貴重な熟練戦闘機操縦士の命を湯水のように使い果たした末に、未熟練戦闘機操縦士の命をむざむざと浪費することでなおも戦争を続行しようとする構えは、特攻隊の生みの親とされる大西滝治郎中将がいうように「統率の外道」にほかならないからです。大東亜戦争を肯定しようとするあまり、勢い余って特攻作戦までも許容しようと試みるのは、私からすれば、「歴史観の外道」です。そう思うので、本土決戦に向けての参謀本部の次のような振る舞いに対して、私は嫌悪と蔑み以外のなにも感じません。

参謀本部は、特攻機、人間乗りロケット爆弾(桜花)、人間魚雷(回天)、特殊潜航艇(蛟龍)、爆装小型潜水艦(海竜)、爆装機動艇(震洋)、人間機雷(伏竜)、人間地雷など、人間と爆薬を主とした決戦を計画していた。      (児島襄『太平洋戦争』)

ただし私は、特攻隊員たちの死を犬死だとは決して思いません。上級総帥の「統率の外道」によって無残に強いられた死を、彼らが葛藤の末に従容として(あるいは本心ではしぶしぶと、でも、陰惨な気分で、でもかまいません)引き受けることで、内面的に選択し直して、それぞれの個性に応じて精神の自由を獲得する場合、彼らの特攻による死に、私は、犯し難い威厳を感じざるをえません。彼らの遺書を読むとそのようにおのずから感じられるのです。たとえ、遺書を書いた後、彼が操縦桿を握りながら恐怖のあまりに正気を失ったとしても、その気持ちに変わりはありません。それは、特攻作戦を戦術として全否定することとはおのずと別の、言ってしまえば文学の問題です。その意味で、悲惨の極みであることと崇高であることとは同居しうるのです。それくらいには、人間は捨てたもんじゃないと私は思っています。だから私は、戦争を語るのに、二言目には、やれ犬死だ、犠牲者だ、被害者だ、と言挙げしたがる手合いとどうしても馴染めないのです。″お前たちは、人間のことがちっとも分かっていないんじゃないか″と思ってしまうのです。

上級統帥の戦略的思考の欠如について、『失敗の本質』はどう言っているのか。児島襄と問題意識を共有しながらも、おのずと別の光の当て方をしています。

日本軍は、近代的官僚制組織と集団主義を混合させることによって、高度に不確実な環境下で機能するようなダイナミズムをも有する本来の官僚制組織とは異質の、日本的ハイブリッド組織をつくり上げたのかもしれない。しかも日本軍エリートは、このような日本的官僚制組織の有する現場の自由裁量と微調整主義を許容する長所を、逆に階層構造を利用して圧殺してしまったのである。そして、(中略)日本軍の最大の失敗の本質は、特定の戦略原型に徹底的に適応しすぎて学習棄却ができず自己革新能力を失ってしまった、ということであった。

傾聴に値する考察であると思います。言い方を変えると、日本軍は、過去の成功例を祭壇に祭り上げて、硬直した一種のイデオロギー集団と化してしまったということです。そうなった場合、組織の戦略的な目的は、「天皇のため」とか「大東亜共栄圏のため」などといった抽象的なものにとどまらざるをえなくなります。それは、実は不明確な目的しか持ち得ないことを意味します。というのは、抽象的な目的を少しでも具体的な次元に落とした場合、多義性を免れえないからです。つまり、組織の成員間で、現実的具体的な意味での目的の共有ができないのです。その具体例と弊害を、私たちは、沖縄戦に即して見てきたところです。出発点からそういうことであると、戦略的思考など鼻からできないことになります。つまり、日本軍における戦略的思考の欠如の根本原因は、その組織が、硬直した一種のイデオロギー集団と化してしまったことに求められる、という結論が得られそうです。その結果、「日本的官僚制組織の有する現場の自由裁量と微調整主義を許容する長所を、逆に階層構造を利用して圧殺」するに至ったのです。これでは戦争に勝てるはずがありません。″日本はアメリカの物量に負けた″という言い方がありますが、それは物事の一側面であって、それを盲信し敗北の本質への洞察を怠るならば、私たちはふたたび別な形でアメリカに負けるだけです。あるいは、負け続けるだけです。いまの日本の行政府における硬直性の根本原因は、「アメリカの言うことに追随していれば日本は大丈夫」という過去の成功例へのしがみつきであると、私は思っています。過去の日本軍といまの行政府の体質は、基本的に変わっていないのです。

「日本軍の失敗から私たちが学べること」というタイトルからすれば、一応の結論が得られたような気がします。沖縄戦との絡みで、大東亜戦争の義の問題を論じることが、最後の課題として残りました。それを、沖縄島民の集団自決問題を論じることで、次回、果たそうと考えています。沖縄島民の顔の見えない沖縄戦の叙述というのは、おかしいですから。
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