美津島明編集「直言の宴」

政治・経済・思想・文化全般をカヴァーした言論を展開します。

由紀草一氏・闘論!倒論!討論! 今更ながら場外から乱入編 (イザ!ブログ 2013・5・25掲載)

2013年12月16日 06時07分05秒 | 由紀草一
*由紀草一氏の以下の論考は次のふたつの文章をふまえてのものです:編集者

「小浜逸郎氏・宮里立士氏、「チャンネル桜」出演!」
http://blog.goo.ne.jp/mdsdc568/e/4254e48d7a655767879822dbc2d824ea
「チャンネル桜・闘論!倒論!討論!場外乱闘編」
http://blog.goo.ne.jp/admin/editentry?eid=a27592ea88617a2e3813e72e92c9b473

*****

生業が異様に忙しくて、間が空いてしまいましたが、小浜逸郎さんや宮里立士さんが出席なさった桜チャンネルの討論会(4月20日)を見て、自分でも言いたくなったことを書きます。ポイントは4月27日の当ブログの記事で、美津島明さんが言及なさっているところです。

きかっけを与えたのは浜崎洋介氏でした。3時間目の29分あたりで、氏は大略こう言いました(以下、発言の引用の文責は由紀)。

自分には西洋的な神の実感はない。おそらく、日本人ではある人のほうが少ないだろう。では、日本人の超越性はどこに求められるか。それはむしろ、身近な「かけがえのなさ」にある。例えば、あるペンがあり、それが既製品ならば同じ種類のものは何十万本とあるわけだが、そのうちの一本を十年も使ううちには馴染んでくるだろう。それは自分がペンを馴染ませたのか、ペンに自分が馴染んだのか、どちらとも言えない、「間柄」こそ問題である。即ち、間柄は自分を超えており、そこに「馴染み」があり、「かけがえのない」ものがある。自分はそのかけがえのないものを守るためだったら、死ねる、かも知れない。ヨメさんが泣いている、守らなくちゃいけない、というふうに。これを基礎として、この日本では、超越性も絶対も、ナショナリズムも、ある。

ここで宮里さんが発言します。折口信夫によれば、日本文学の本質とは、手に握った雪が消えていく、そのときの痛切な喪失感である。現在、そんなものが一般には感じられなくなった社会状況で、どうやってそれを取り戻すか。宮里さんはそういうつもりで言ったのではないかも知れませんが、浜崎氏の言う「かけがえのなさ」は、いつかはそれも失われてしまうという痛切な哀惜感(=無常感)を含んでいるものでしょう。これは非常に重要な要素です。

次に小浜さんの発言になります。浜崎氏が言うように、カミさんが泣いているから、というのが原点だというのは全くその通りだ。しかし、それが、そのままの延長線上でナショナリズムと繋がるかと言えば異論がある。例えば家族というような身近な繋がりは、そのままでは国家の利害に直結しない。早い話が、国のために命を捧げれば、女房子を泣かせなければならない場合もある。

ここから、水島総氏と小浜さんの、特攻隊を題材にした議論になり、私が外から乱入したいのもそこなのですが、その前に、浜崎氏への異論を述べておきたいと思います。「間柄」については、もっとよく考えるべきではないでしょうか。

このへんは非常に微妙なので、浜崎氏も本当はわかっていながら、話の流れでああいう言い方になってしまったのかも知れません。それはわかりませんので、表面に出たことにだけ反応すると、「間柄」が、西洋的な、超越的な絶対者の位置を占めるはずはありません。間柄は時間が経つにつれて変化しますから。

なるほど、私と他のもの(それが事物であっても人間であっても)との関係は、私一個の都合によってどうにでもできるわけではなく、その意味では私を超えている、と言ってもいいでしょう。それ以前に、「私」は、ある国のある地域の、ある家族の中に生まれ育って初めて「私」になるのであって、間柄は「私」に先んじていると言ってよい。いや、字面からしても、人間とは「人と人の間」ですから、人間の本質は間柄にこそあり、日本人は昔からそう感じてきたのだ、とも考えられます(和辻哲郎による)。そういう意味では、一種の絶対性を帯びているかも知れません。これは、浜崎氏が名を挙げた福田恆存より、吉本隆明の「関係の絶対性」(「マチウ書試論」)という概念に近い、ですかね。

しかし、「私」の意思は、部分的になら間柄を変えることができます。ものなら捨てられるし、カミさんとは離婚できます。絶対者と言えば、そのような変更もきかず、時間の影響も受けない、相対的なこの世を完全に超越したもののことでしょう。唯一絶対神の伝統のないわが国人には、それは結局わからない、とはよく言われますが、そうでもないんじゃないかな、と最近私は思っています。「現代人には、鎌倉時代の何處かのなま女房ほどにも、無常といふ事がわかつてゐない。常なるものを見失つたからである」(「無常といふ事」)と小林秀雄の言う、「常なるもの」があるのだとすれば。

これを導くのは、この世はすべて無常、そう観ずる心を含めてすべて移ろいゆく、という思いであり、その思い自体に名を付けようとすると、反面に、永遠、恒常(無常はその否定語ですね)、絶対とかいう概念が立ち現われる、ということになると思います。その事情は、西洋でも東洋でも、日本でもそんなに違いはないのではないか、とも。

違いは、例えば、浜崎氏が討論会の前のほうで言っていた、デカルトが「方法叙説」でしたような、「超越者(神)を語ろうとする試み」にある。周知のようにデカルトは、この世のすべては疑える、として、ところで「すべてが疑える」こと自体は確かだとすれば、疑っている「私」は確かに存在しなければならない、そこからさらに、その「私」を支える絶対に正しい者としての神の存在証明を始めます。よくやるなあ、とここは私も感心します。西洋人だって多くの場合そうらしく、同時代人のパスカルには、デカルトは自分の都合に合わせて神を利用したかっただけだと批判されましたし、後世のカントによっては、こんな証明はインチキだと証明されてしまいます。私は愚鈍なのでそんなふうに頭は働きませんが、直観的に、自分より高次元な「存在」を証明するなんて、無理に決まってるだろ、とは思います。

ただし、こんなふうに無理をしてでも神を見据えようとする指向自体は、何ものかでありましょう。神と対話できるのは、ある種の絶対性を帯びた「私」ではないだろうか。そのような「私」=個人を、我々日本人はいかにも、知りません。善し悪しが言えるようなことではありあませんが、日本の近代(西洋化)を考える場合には、逸することができないポイントではあるでしょう。

ここで小浜さんの論にもどります。人は必ずある共同体(人間=じんかん)に生まれ育って初めて人間になる。そうであれば、その共同体内部の他の成員に対する責務が生じる。というか、「個々人の責任」と言えば、具体的にはこれ以外にありようがない。ところが問題は、この共同体にはいろいろなレベルがあり、家族、地域共同体のさらに上に、近代では近代国家(国民国家)というものがかぶさり、それぞれのレベルから要請される責務が違っていて、対立する場合すらある、ということです。

これは倫理ということを考える場合の一大問題です。恥ずかしながら私も以前に、自分のブログで、大ベストセラーになったマイケル・サンデル『これからの正義の話をしよう』にことよせて、愚考の一端を示したことがあります。

「正しい道はあるのか? その3」
blog.goo.ne.jp/y-soichi_2011/e/8c2d4a1fa3afb5ae3b6ef0f8af7afb3c

水島氏にはこういうことを考える感度が不足しているのでしょうか? たぶん、「私」を去って、国のために命を捧げる者の偉大さ、その身近でじっと耐える者達のけなげさ、という物語に頭からすっぽり入ってしまい、それ以外のすべてを、不純な莢雑物、少なくとも二義的な価値しかもたないものと見る、純粋主義の立場にいるのでしょう。西部邁氏がおっしゃったように、こういうのは歴史的に、右翼にも左翼にもあり、人間性を扼殺する危険きわまる思想傾向として働きます。

しかし、ここにはまた、以前浜崎さんについて述べた、非常に微妙な問題があり、それに触れずにはすまないような気がします。お前(由紀)の文章にありがちな、あっちへ行ったりこっちへ行ったりが、今回は特にひどいな、と言われるかも知れませんが、しかたありませんね。

それというのも、私も自分なりに、知覧特攻平和会館や靖國神社の遊就館を訪れ、展示・刊行されている遺書を読んで、感銘を受けた体験があるからです。明日は死ぬ、絶望感もなく、といって気負いがあるわけでもなく、全く晴朗な気持ちで、という主旨のものは特に印象に残っています。こういう人は、私が論っているようなこととは別の次元で、本当に神の領域にまで達してしまったのだな、と納得せざるを得ません。その心境は、私などには永遠にわからないことの一つであるようです。

私にもわかって、こだわっているのは、あくまで平凡な人間の領域なのです。

水島氏は日本的な美意識の一例として平敦盛の例を出されました。もっとも、それがどういう意味で、だったのかはちょっとわかりかねるところがあったのですが。こちらに引きつけて言うと、敦盛物語の主人公は、敦盛を討った熊谷次郎直実です。もののふとして、いくさで、敵の武将の首を取った。当たり前すぎるほど当たり前なことだが、その討った相手は自分の息子と同年輩の、青年と言うよりは少年と言ったほうがふさわしいような者だった。「それを殺すことは本当に正義なのか」という形の疑問は、近代以前の日本には出てこないのですが、それでも、「武士のならひ」「いくさの定め」だけで割り切ることができない悲しみは残ります。

悲しみとは、「私心」に属するものであり、そんなものに拘泥していたんでは、いくさはできませんから、武士失格になる。さはさりながら…という形の劇は古来から日本人にはおなじみで、おかげで、敦盛の、というよりは直実の物語は、「平家物語」に採られて以来、能の「敦盛」、幸若舞の「敦盛」(織田信長が好んだという「人間五十年、化天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり」の詞で有名)、浄瑠璃・歌舞伎の「熊谷陣屋」(「一谷嫩軍記」三段目の切)などになって、親しまれてきたのです。こういうのは日本的美意識の、少なくとも重要な一部であり、外国人にもある程度は理解されるでしょう。

この後は、いくらか近代的な観点の混じる話になります。

近世までの日本の文芸では、公(おおやけ)と私(わたくし)の価値では、必ず前者の方が高く、対立が生じたら、私は公のために犠牲にしなければならない。滅私奉公ですな。その上での「さはさりながら」なのです。実際にはいろいろあったでしょうが、表面的には、つまりタテマエとしてはそうでした。その通俗版が例えば、「義理と人情を秤にかけりゃ/義理が重たい男の世界」(「唐獅子牡丹」)でして。これはこれで、三島由紀夫がグロテスクなまでに巨細に描き出したように、エロティックなものではありあます。つまり、「美学」ですね。

小浜さんがおっしゃられたように、美学で国家を語るのは非常に危険です。だからこそ魅力的なんだ、と言われるかも知れませんが…。だいたい、それは「私」が美しいと感じるからこそ存在する、という意味で、「わたくしごと」に属するものですし。

美学を離れたところで、公は必ず私に優先する、は「正しい」のでしょうか? 本当にそう信じますか? または、感じますか?

水島氏はもちろんご存じでしょうが、小林よしのり『戦争論』に採り上げられた話の一つに、藤井一少佐の事績があります。熊谷飛行学校で少年飛行兵の精神教育を担当していた人で、特攻兵士を育てながら、常日頃「お前たちだけを死なせはしない」とおっしゃっていたそうです。しかし、自分自身は操縦士ではないので、特攻を志願しても許されなかった。やがて奥さんは、「後顧の憂いなく、お国のために尽くしてください」と、二人の幼子とともに、玉川上水に身を投げて死ぬ。その後藤井少佐は、改めて血書で嘆願すると、特別に許されて、亡き家族に宛てて、「すぐにお前たちの許へ行く」という遺書を認めて、敵艦に体当たりしたのだそうです。

当時にしてもあまりに壮絶すぎる話だからでしょう、奥さんと子どもさんの死の真相については、報道管制されて、当時は明らかにならなかったらしい。小林氏がとりあげてから、ある新聞社が調査したら、この奥さんは、死ぬ少し前までは、夫に、「どうぞ死なないでください」と懇願していたとのことです。人間にはそういう矛盾したところがある。少しも不思議ではないし、この事実があったからと言って、藤井夫妻に対する畏敬の念が減る、などということはありません。

その上で申し上げたい。奥さんが、最後の最後まで、夫に、「死なないでくれ」と言い続けたとしたら? 私だったら、感動はしませんし、近くで見たとしたら、「未練がましいな」なんて感想は持ったかも知れない。しかし、「それはいけない」などと言う権利が、傍で見ているだけの第三者にあるでしょうか? ない、と私は思います。そして、国は、第三者の中に含まれるのです。

妻が夫に、「死なないでください」と言うのも、「立派に死んでください」と言うのも、個別具体的な、それまでの夫婦の過ごした、それこそかけがえのない「時間」から出てきたものです。その時間を共有していない者に、その言葉の、その感情の、価値がわかるはずはありません。いや、他人にとっては価値などないのだ、と言いきってもいいでしょう。それが「かけがえがない(欠けた場合には替えはない)」ということの本当の意味です。他人にはせいぜい、自分の中の「時間」に基づいて、彼らにもきっと大切な「時間」はあるのだろう、と思いやることができるだけです。

(水島氏も西部氏も、そろって「時間が…(大切だ)」とおっしゃっていましたが、そこに込められた思いは御両人でけっこう違っていたようです。ただ、確かなことはわかりません。)

明らかに、こんな感情だけでは人間社会を作って維持することはできませんので、最終的には国家という機関が必要とされました。だからそれは、必ず幾分かは非人間的なところを含みます。そうでなければ、意味がないのです。例えば、国家は愛し合っている家族を引き離したりすることもあります。家族に言われて、徴兵忌避をするような者(日本全体なら、必ずいます)を見つけたら、罰しなければならない。それは法的なことで、その限りで正当です。

倫理は、おのずからまた別にあります。普通の人間が普通に生きる場に。いつかは失われてしまう、はかなく、広がりもないものですから、それが何かを、例えば国家を、超えることはありません。けれども逆に、何者も、それを超えることはできないのです。



戦後の人間は、自分のことにだけかまけて公を顧みることがなくなった、いわば「滅公奉私」だ、などと、保守派の人がよく言います。そんなこともないんじゃないかなあ、と私は感じます。ありようは、「公」も、具体的な「間柄」に立つ「私」も関係なく、わがままが通ると思えれば通そうとする、それが目につく、ということではないでしょうか。戦前でも戦後でも、人間にはそういう面があります。ただ、いかにも、わがままが通りそうな場面は、戦前よりは増えたかも知れない。それは絶望したり怒ったりすべきことでしょうか?

現代でも、自分を超えた大きなもののために命を懸ける人や、それを見守る人がいなくなったわけではありません。平成16年5月27日、報道写真家の橋田信介がバグダット付近で襲撃されて亡くなりました。このとき遺体を受け取って帰国した奥様が、記者会見で、「夫は自分の信念に殉じたので、本望だったと思う」「夫を誇りに思う」(大意)とおっしゃいまして、その凜とした姿勢に、私も久々に感動しました。

知人の一人に、「なんだかヘンだ。あの奥さんは旦那を愛していなかったんじゃないか」などと言った者がいましたが、これはいかにも戦後的な、つまらない見方だなあ、とは思いました。けれどまた、これだけを、橋田夫婦がともに過ごしたかけがえのない時間から抜き出して、「日本女性はすべからくかくあるべし」などと、「道徳」のお手本にするとしたら、全く馬鹿げている、とも思います。そういうことはしづらくなったのは、むしろ戦後のよいところだ、とも。

それにしても、国家を守ろうとする姿勢などなくなったのも同様ではないか、と言われるかも知れませんが、これまたそうでもないんではないでしょうか。福島原発事故の時、自衛隊員や消防隊員の方々が、注水作業に行ったではありませんか。この事故そのものについても、その後の措置についても、私などにとってはとても難しいことが多く、現在当ブログの美津島さんや小浜さんの記事など読んで、勉強中ではありますが、今はそれは関係ない。ともかく、また爆発するかも知れない、大量の放射能を浴びるかも知れない、と言われているところへ、命令一つで赴く人は、確かにいるのです。

確かテレビで、その中のお一人が、奥さんに「英雄になってこい、と言われた」とおっしゃっておられたのを覚えています。それが励ましになったのかどうか、家族でない限りは決してわからない。原理的にわからないことについては黙っているのが、最低の「道徳」(倫理と道徳の違いについては棚上げにします)なのだと私は思っています。

いずれにしろ、国民のために、死を賭して働く人はいる、その方々への深甚な敬意だけは忘れてはならない。これは「倫理」として、維持されるように努めるべきでしょう。誰かに対するお説教としてではなく(そういうのは、だいたいにおいて、反発しか呼びません)、自分自身が真摯な感情を持ち続けることによって。

また、次のようにも考えています。ある切迫した危機(西部氏の口真似をしてみると、英語ではcrisisで、この原義は「分かれ道」)のとき、家族を取るか国を取るか、そこには普遍的な一定の「正解」など決してあり得ない。人はそのようなとき、いつも悩んで、自分なりの答えを見つけなければならない。しかし正にそのように悩むところにこそ、人間が倫理的な存在であり得る、そして偉大であり得る根拠があるのだ、と。

以上です。また長々と失礼いたしました。



〈コメント〉

Commented by kohamaitsuo さん

人間の機微をよく嗅ぎ分けた筆致に感銘を受けました。「ああでもない、こうでもない」の文体の魅力は、こういうところに現われるのだと思います。
しかも、最後の文章がすごく決まっていますね。
しかし、私は野暮な質で、理屈っぽく整理するのが好きなので、ここで扱われている問題を、以下の四つくらいに整理してみました。自分勝手な判断が混入しています。ご参考になればさいわい。

①「美学」(精神主義)で戦争が肯定的に語られるときには、すでにその語り手共同態は戦争に負けているのである。

②戦後社会の風潮をもっぱら「義の喪失とエゴイズムの蔓延」(その逆に「戦前はそうではなかった」)と決めつける言説は、実態に鑑みて間違いである。

③これからも「公」のために「私」を捨てなくてはならない局面はいくらでも生じるが、そこに生じる「決断」の潔さやエロスの「悲しみ」は、文学や芸術や宗教(鎮魂と祈り)のテーマとして、後追いのかたちで永遠に追求されていく。そういうものでしかなく、またそれでこそ一人ひとりの「生」に意味が与えられる。

④「自分を超えたなにものかの価値に己を託す」というヒロイックな「言葉づかい」は、その抽象性のゆえに、根本的な欺瞞を含んでいる(これはオトコが作ったホモセクシャルな言葉づかいだとオトコの一人である私は思っております。オトコってダメねえ)。「愛する具体的なだれか」のために命を捨てることと、「国家のような共同幻想」に殉ずることとは、どちらが崇高か否かの議論の前に、そもそもけっして抽象化・同一視できない命題である。まず両者を区別する具体性のレベルに降りるのでなければ、はじめから議論にならない。


Commented by soichi2011 さん
To kohamaitsuoさん
 わざわざのコメント、ありがとうございます。
 私の「あーでもない、こーでもない」文体は苛立たしい、とはけっこうよく言われます。小浜さんなど、よく読んでくださるなあと、感心するぐらいです。それは、思い切りの悪い性格の然らしめるものですが、半分は意識的にやっています。
 ペンディング状態を保ち続けるのが思想的な力量ではないか、などといつの頃からか勝手に思い込むようになりましたので。
 それで、小浜さんのすっきりしたまとめにつなげて、もう一段階、私の「どっちつかず」を御目にかけましょう。「美学」ということに関連しまして。

(1)戦争という、最も危険な事業こそ、最も理性的にやらなくてはならない。でも、これは矛盾した言い方。人間が完全に理性的になれるとしたら、たぶん戦争など起きない。
 拙著『軟弱者の戦争論』の最後でこれを論じ、戦争に勝つ、というよりは、あんまりひどいことになる前にやめるような方策を立案、実行することこそ軍隊の役割だ、と申しました。その思いには変わりませんが、この世で最も難しいことの一つでしょう。

(2)「己を超えたもののために己を捧げる」には、欺瞞があるのは本当でしょう。でも、具体的な誰かや、何かとともに暮らす時間の中に、全く欺瞞はないかと言えば、そうでもない。一般論として、人はウソをつかないで生きてはいけない。
 この点でも、両者に別に価値の高下はない。ただ、前者は、人を、特に男性を酔っぱらわせて、例えば戦争というようなとんでもないことに駆り立てる力があるので、剣呑だ、とは言える。
 「酔った状態」と権力との関係は、とても興味深いテーマだと思いまして、例えば以下のような形で考えております。
「権力はどんな味がするか その2」
http://blog.goo.ne.jp/y-soichi_2011/c/721c153451fdfecf59d7cfdc1a68f323

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