日本軍の失敗から私たちが学べること(その1)
ある読書会で、児島襄(のぼる)の『太平洋戦争』(上下・中公新書)を取り上げました。それをきっかけに、戸部良一らの編著『失敗の本質 日本軍の組織論的研究』(中公文庫)も個人的に読んでみました。
いずれも、軽やかな気分でリズミカルにページをめくることができなくて、読むのに多大の時間がかかってしまいました。読み進めながら、自分のどうしようもないところを、執拗に見せつけられているような感じを噛みしめ続けたからです。私はどうやら被虐的な性格ではないようで、そういう気分を味わい続けると、気が重くなってくるのです。
だったら、読むのを途中でよしてしまえばよさそうなものですが、運が悪いことに、「大東亜戦争とはいったいどういう戦争だったのか」というテーマは、いつのころからか、私の脳裏の片隅に巣食ってしまったようで、これらの著書は、それに否応なく響くところがあるので、無視しようにも無視できなくなってしまったのです。
読み終えての感想をひとことで言えば、いずれも、日本人としての自己認識の書である、となります。「負け戦」を延々と戦い続けるという民族の極限状況において、私たち日本人の弱点が鮮明にあぶり出されたことが、これらの著書を読めばよく分かるのです。こんなふうに言うと、「日本人には、いいところだってたくさんあるだろう」という声が聞こえてきそうな気がします。それはそうでしょうが、いまは、それを語る気分にはなれません。
大東亜戦争とは、日本民族にとって、壮大な失敗経験であった。やりきれない気持ちに負けない胆力を発揮して、それを冷静に直視し、そこから教訓として掴み取ることができたものこそが、いまに生きる私たちにとっての千金の価値を有する知的財産となる。そんなふうに、私は考えるのです。そう信じたいのです。
児島襄の『太平洋戦争』を読んでいて、大東亜戦争が負け戦の様相を決定的に呈しはじめたと感じたのは、次の、ガダルカナル島の戦いにおけるある日本兵の描写を目にしたときです。
岡連隊長は海岸沿いに東に進んだ。飛行場の南側のアウステン山を占領するのである。途中、ジャングルから迷い出た一木支隊、海軍設営隊の生き残りに出会った。ボロボロの服、青ざめた顔、靴もなく、手をのばして食を乞うた。その悲惨な様相に岡連隊長は驚き、部下の背負う米を分け与えた。深々と頭を下げる姿に、もはや戦士の面影はなかった。連隊長は暗澹として顔をそむけたが、まさか旬日を出ないで同じ運命が自分たちを見舞おうとは、夢想さえできなかった。
一木(いちき)支隊は、昭和十七年(一九四二年)八月十八日にガダルカナル奪回作戦の尖兵として送り込まれたわずか二〇〇〇人の歩兵部隊でした(先遣隊は九〇〇人)。支隊長の一木清直大佐は、帝国陸軍の伝統的戦法である白兵銃剣による夜襲をもってすれば、米軍の撃破は容易であると信じていました。その自信のほどは、出撃に際し「ツラギもうちの部隊で取ってよいか」と第十七軍参謀に尋ねたことにも表れています。彼は、百戦錬磨の武人だったのです。
同島に上陸した米軍は、海兵第一師団を中心とする一三〇〇〇人でした。これは、一木大佐の予想をはるかに超えていました。同大佐は、先遣隊九〇〇人の手勢と、小銃弾二五〇発、糧食七日分で、過去の戦史に例を見ない水陸両用作戦を短期間のうちに開発していた米海兵隊に立ち向かうことになったのです。当然のことながら、一木支隊は、苦戦に次ぐ苦戦を強いられることになりました。突撃を敢行しようとする同支隊に対して、米軍は、機関銃・自動小銃・迫撃砲・手榴弾そうして戦車六両と、あらゆる兵器を動員して応戦しました。戦車をめぐる光景に関して、バンデクリフト第一海兵師団長は、「戦車の後部は、まるで肉ひき器のようだった」と衝撃の証言をしています。結局一木大佐は、八月二一日の午後三時頃、万策尽きたと観念して、軍旗を奉焼し自決して果てました。一木支隊は全滅したのです。わずかに逃げのびた残兵約一〇〇人は、ジャングルに身を潜め、増援部隊の到着を待ちました。先に引いた文章のなかの、戦士としての誇りが崩壊し乞食のようになってしまった兵隊は、そのなかのひとりだったのです。
こういう悲惨な結末の全責任を、無謀な作戦を企てた一木支隊長に帰してしまうことはできません。上層部が何をどう考えていたのかを掴んだうえで、彼らの責任をこそ問わなければならないと思うのです。
昭和十七年(一九四二年)八月七日に、米軍がガダルカナル島とツラギ島へ上陸したという第一報が大本営陸軍部に入ったとき、同部内にその地名を知っていた者はひとりもいませんでした。ガダルカナル島は、南太平洋ソロモン海に浮かぶ、四国の約三分の一ほどの面積の小島です。そこに海軍陸戦隊一五〇人と人夫約二〇〇〇人が飛行場を建設していたのを知ったのも、そのときが初めてでした。その次を話す前に、ガナルカナルの戦いに至るまでの大東亜戦争の流れをざっと振り返ってみましょう。
昭和十六年(一九四一年)十二月八日の真珠湾奇襲以来、わずか半年たらずの間に、日本軍は、太平洋と東南アジア全域を支配下におさめました。それはまさに破竹の勢いと形容しても大袈裟ではないほどのものでした。しかし日本が用意していた戦争計画は、この第一段作戦までで、その後は、余勢をかって戦局の拡大を試みるだけでした。その意味で、日本は壮大な無計画の戦争を断行したと言っても過言ではない。それゆえ、昭和十七年(一九四二年)六月五日に日本の連合艦隊が、ミッドウェー海戦で、四隻の空母を失うというはじめての敗北を米海軍に対して喫したのは、不可避のできごとであったというほかはありません。つまり、遠からず起こるべきことがついに起こったということです。戦力的に劣勢にあった当時の米海軍にとって、日本海軍が広く用いていた戦略常務用の「海軍暗号書D」の解読に、戦いの直前に成功していたことが大きかったようです。これによって、太平洋艦隊ミニッツ司令長官は、ミッドウェー作戦の計画に関して日本側の作戦参加艦長や部隊長とほぼ同程度の知識を得ることになりました。孫子の「彼を知り己を知れば百戦して殆うからず」をまさに地で行ったわけです。ミッドウェーの戦いは、大東亜戦争の海戦のターニング・ポイントと言われています。
ミッドウェー海戦後の米国は、成功が比較的に容易で大損害を避けうる、ステップ・バイ・ステップの上陸作戦を敢行することを決めていました。反攻の第一段としてガダルカナルを選んだのは、日本軍が米豪連絡線を遮断する企図で、そこに飛行場を建設中であったからです。
元来、米国の対日戦略の基本は、日本本土直撃による戦争終結でした(結果論的にいえば、日本には、無条件降伏よりほかの選択肢はなかったのです)。ただし、中部太平洋諸島の制圧なくしては、米軍の対日進攻はありえないし、航空機の前進基地確保は困難でした。米軍は、このような長期構想のもとに、大本営の反攻予測時期より早く、日本軍の補給線の伸びきった先端としてのガダルカナル島を突いてきたのです。
大本営陸軍部の話に戻りましょう。同部は、米軍の反攻開始は早くても昭和一八年(一九四三年)以降であるという根拠薄弱な希望的観測に傾いていたので、“米軍のガダルカナル島上陸は一種の偵察作戦か飛行場の破壊作戦であるにちがいない。それゆえ、米軍の上陸兵力は著しく劣勢であり、そのうえ米陸軍は弱いから、ガダルカナル島奪回兵力は、小さくても早く派遣できる部隊がよい”と判断したのです。同部は、米国の長期戦略の所在もその本質も理解していませんでした。また、日本陸海軍ともに、その時点の米軍が海兵隊を中心とし陸海空の機能を統合して島から島へと逐次総反攻を進める水陸両用作戦という新たな戦法を開発していたことなど、夢にも想わなかったのです。
先に、『太平洋戦争』から引いた文章中の、乞食然としたひとりの日本兵士の登場には、以上のべたような深刻な背景、すなわち、軍上層部の救いがたいまでの錯誤があるのです。私が「大東亜戦争が負け戦の様相を決定的に呈しはじめたと感じた」のは、少なくとも無根拠ではないことがお分かりいただけたでしょうか。
日本軍は、一木支隊先遣隊九〇〇人の全滅後、次は六〇〇〇人の川口支隊と一木支隊第二挺団という、兵力の逐次投入を行い、敵を圧倒的に下回る兵力で攻撃を掛けては撃退されるというパターンを繰り返しました。その間、二度の総攻撃を敢行したもののヘンダーソン飛行場基地の奪回は成らず、糧秣弾薬の補給が輸送船の沈没や駆逐艦の大量消耗により継続できなくなり、日本軍は同年十二月三一日の異例の御前会議でガダルカナル島からの撤退を決めました。撤退命令は翌昭和十八年(一九四三年)一月に伝達されました。第一七軍に対する撤退命令の伝達を担当した方面軍参謀井本熊男中佐の日誌に基づく、撤退命令伝達時の現地の生々しい状況の描写を『太平洋戦争』から引いてみます。いささか長くなります。
ガダルカナル島
中佐はその夜(昭和一八年一月十二日の夜――引用者注)、ガ島西北端のエスペランス岬付近に上陸した。翌朝まず、中佐の目にうつったガ島の光景は、第一線からエスペランスの糧秣補給所に往復する兵士の群だった。青ざめた顔、のびたヒゲ、申し合わせたように抜身の銃剣をバンドにさしていた。三々五々、無表情でひょろひょろと歩いていた。帰途に向かう者は、各自一〇~二〇キロの糧食を背負ってよろめいていた。ぼんやりと道ばたに座りこみ、銃剣でヤシの実をほじっている兵もいた。セギロー川のほとりに第二師団、東海林連隊の野戦病院があった。病院といっても、ジャングルの下枝をはらい、樹木で床上げをしてテントを張っただけのものだった。カヤも毛布もない。患者たちの顔は、この世のものとは思えなかった。すぐ隣りにある便所は、激しい下痢便で充満し、そのあまりの臭気に中佐は吐き気をおぼえた。なんとか動ける者が、仲間の炊事の面倒をみる。水筒を六、七人分肩にかけ、木の枝につかまりながら、よろよろと水を汲みにいく。中隊長も、将校も、下士官も区別はなかった。いくらか気分のよい患者なのか、杖をつき、よぼよぼと現れて、中佐に言った。「参謀どの。もう四、五日飲まず食わずです。水筒のお湯をひとくち、飲ませていただけませんか」。水筒をはずして渡すと、「ああ、もったいない、もったいない」。そのことばは、まさに乞食そのままである。これが二二、三歳の皇軍の兵士か――井本中佐は思わず叱咤したくなったが、考えてみれば、このような姿にしたのは誰の責任か。中佐は頭をたれて歩いた。
このような地獄絵図が、まだまだ続くのですが、引くのはこれくらいにしておきます。これを読んでいるうちに、読み手の私たちも、井本中佐や著者の児島襄とともに「このような姿にしたのは誰の責任か」と問いかけたくなります。それは、もちろん、軍上層部の責任であります。戦場の最前線において命懸けで戦った兵士たちを、身も心もボロボロになり乞食同然になってしまうまでほったらかしたのは、現場の惨状を把握する能力を欠いた軍上層部にほかなりません。ここを読んでやりきれない思いと怒りが禁じ得なくなってくる自分の心の動きを凝めるうちに、私は、その怒りの矛先が、現在の自民党安倍政権に対しても向いていることに気づきました。どうしてそういうことになるのか。それは、消費増税を断行し、また、国内外のグローバル資本にのみ有利な成長戦略(第3の矢)という名の悪しき規制緩和を矢継ぎ早に実施しようとする安倍政権に決定的に欠けているのは、そういう施策を講じることで、国内の民草がいかに苦しい思いをすることになるか、ということについてのまっとうな想像力であるという点が、ガダルカナルの戦いで(も)誤った意思決定をし続けた軍の上層部とそっくりであるからです。安倍政権は、かつての小泉政権と同様に、欧米社会のパワー・エリートたちの頭脳を支配している誤った思想を後追いしているのです。ここは、安倍政権批判の場ではありませんから、これ以上筆鋒を同政権に差し向けるのは控えます。過去の歴史は常に現在である、という思いを強くします。
ガダルカナル島に投入された日本人将兵は、約三万二千人。そのうち戦死は一万二五〇〇人余り、戦傷死は一九〇〇人余り、戦病死は四二〇〇人余り、行方不明は二五〇〇人にのぼりました。それに対して、米軍の犠牲は、戦闘参加将兵六万人のうち戦死者は一〇〇〇人、負傷者は四二四五人を数えるだけです。餓死した米軍兵士はひとりもいませんでした。ちなみに、ガダルカナルの戦いは、大東亜戦争の陸戦のターニング・ポイントと言われています。
ガダルカナルの地獄絵図と同じような光景が、インパール作戦においても、拡大された形で再現されています。最初に、これもまた地獄絵図の一部を成すのではありますが、そういう状況においても、戦友を思いやる人間的な心が失われていないことを物語る描写を『太平洋戦争』から引きましょう。
日本軍は、山道にハシゴをかけ、木の根をつたって逃げた。飯盒を片手に、杖にすがって悄然と雨にうたれて歩いた。急ごしらえの馬そりにのった病兵、担架にのせられた傷兵も、沛然と降る雨にぬれつづけた。しかし飢えとマラリア、赤痢に苦しむ兵士の中で、傷病の戦友を運ぶことにグチをこぼす者はいなかった。第三十一師団歩兵団長宮崎少将は、作戦開始の直前、チンドウィン河畔の村長から贈られた小猿「チビ」を肩にのせて、病兵をはげましていた。
ここを読んで、竹山道雄の傑作戦争童話『ビルマの竪琴』を思い浮かべるのは、私だけではないでしょう。日本軍に通底していた戦友を大切にする心が、この童話が誕生する精神的な土台のひとつを成していたのではないか、という感想が浮かんできます。
次は、正真正銘の地獄絵図です。
道ばたには点々として負傷兵が横たわっていた。その眼、鼻、口にウジ虫がうごめいている。のびた髪の毛に真白にウジが集まり、白髪のように見える兵が歩いていた。木の枝に妻子の写真をかけ、その下でおがむように息絶えた死体、マラリアの高熱に冒されて譫言(うわごと)を口走る者、ぱっくりあいた腿の傷に指を入れてウジをほじくりだす兵士・・・・・泥のなかにうずくまったまま「兵隊さん、手榴弾を下さい・・・・・兵隊さん」と呼びかける兵士がいる。自分はもう「兵隊さん」ではないと思っているのだ。―――その兵士だけではない。戦闘から解き放された第十五軍は、もはや戦士の集団ではなく、疲れ果てた人間の群れに過ぎなかった。
何が、兵士たちをここまで追い込んだのか。それはもちろん敵軍ではなくて軍の上層部である、というべきです。どうしてそうなのかをはっきりさせるために、上のような惨状に至るまでの流れを追いかけてみましょう。ため息が出てくるような話ばかりが続きますが、お付き合い願えれば幸いです。
昭和十七年(一九四二年)十一月下旬に一度は立ち消えたはずの東部インド進攻作戦が再浮上してきたのは、翌年の三月下旬でした。その背景のひとつは、(日本側に立った場合の)戦争全体の悪化にともなうビルマをめぐる情勢の憂慮すべき方向への変化です。すなわち、連合軍のビルマ奪回のための準備が徐々に本格化するきざしを示したのです。連合軍のビルマ奪回作戦構想は、雲南・フーコン渓谷・インパールの三つの正面から事前に限定攻撃を行った後、この三正面からの攻勢とビルマ南西海岸(アキャブ)およびラングーンへの上陸作戦敢行とによって総反撃を実施しようとするものでした。
インド・ビルマ国境
とくにフーコン方面では、在華米軍司令官スティルウェル中将の指揮下で、ビルマからインドに敗走した中国軍が米式訓練と米式装備をほどこされた新編第一軍として再建されるとともに、インドからビルマを経て中国にいたる輸送ルート(いわゆる援蒋ルート)の建設が進められ、昭和一八年(一九四三年)雨季入りまでにビルマ国境に達しました。
一方、昭和十七年(一九四二年)一〇月以来、英印軍はビルマの南西沿岸アキャブ方面に進出しました。日本軍(第五五師団)はようやくこれを撃退しましたが、その攻防のくりかえしと日本軍の航空戦力のシフトとによって、ビルマ上空の制空権が連合軍側に握られていることが明らかとなってきました。
この制空権を利用して、連合軍はビルマ北部に遠距離挺進作戦を敢行しました。旅団長の名をとってウィンゲート旅団と呼ばれたこの挺進部隊は、空中補給を受けつつ無線誘導によって指揮され、日本軍の占領地域内で戦線後方を攪乱することを目的として編成されたものでした。同旅団の神出鬼没の活躍ぶりには目覚しいものがありました。日本軍は、同旅団に対する掃討戦を展開することになるのですが、その過程で、次のことが判明しました。すなわち、ジュビュー山系からチンドウィン河畔に至る地域(上図参照)は、それまで大部隊の作戦行動至難と判断されていたのですが、ウィンゲート旅団の行動によって、必ずしもそうではないことが明らかとなったのです。それが、一度は立ち消えたはずの東部インド進攻作戦が再浮上してきたもうひとつの背景です。
以上の情勢の変化を背景にして、日本軍は、予想される連合軍の総反攻に対処するために、ビルマ防衛機構を刷新強化する措置をとりました。すなわち昭和一八年(一九四三年)三月下旬、ビルマ方面軍が新設され方面軍司令官には河辺正三中将が就任し、その隷下に第十五軍が入って軍司令官には牟田口 廉也(むたぐち れんや)中将が昇格しました。そして、北部および中部ビルマの防衛・作戦指導は第十五軍に任せ、方面軍はアキャブの第五五師団を直轄として、ビルマの独立準備や対インド工作など、政戦略全般にあたることになったのです。
この防衛機構の再編において注目されるのは、諸般の事情から、インパールをめぐる作戦構想が、幕僚補佐を受けることなく、牟田口軍司令官ひとりのイニシアチブによって切り回されるに至ったことです。つまり、インパール作戦の決定に至る過程は、牟田口を軸として展開されていくのです。
牟田口廉也中将
では、牟田口のインド進攻構想とは、どういうものだったのでしょうか。それを語るには、昭和十七年(一九四二年)十一月下旬に、東部インド進攻作戦(二一号作戦)が一度立ち消えになったことにさかのぼらなければなりません。その当時牟田口は、同作戦の主力に予定されていた第十八師団の団長として、同作戦に反対しました。ところが、第十五軍司令官に就任してからの彼は、その判断が百八十度転換しています。連合軍の三正面からの総反攻準備が進んでいることを知り、ウィンゲート旅団の挺進作戦を見た彼は、従来の守勢的ビルマ防衛ではなく、攻勢防禦によるビルマ防衛論を唱えたのです。
しかし彼の構想は、それにとどまるものではありませんでした。それは、単なるビルマ防衛を超え、インド進攻にまで飛躍するものでした。彼は、同年五月中旬に第十五軍司令部を訪れた稲田正純南方軍総参謀副長に「アッサム州かベンガル州で死なせてくれ」と語っています。そこには、個人的な心情もからんでいたようです。日華事変勃発の直接の原因となった盧溝橋事件のときの現場の連隊長だった彼は、つねづね次のように述懐していました。
大東亜戦争は、いわば、わしの責任だ。盧溝橋で第一発を射って戦争を起こしたのはわしだから、わしが、この戦争のかたをつけねばならんと思うておる。 (『太平洋戦争』より)
こういう、誇大自己感に起因する身勝手な責任感は、通常、周りに多大な迷惑をかけるものです。このような心の構え方をした人物が、なまじ権力を手にしてしまうと、手の付けられない事態を惹起してしまうのです。始末が悪いことに、方面軍司令官河辺中将は、奇しくも、盧溝橋事件当時の旅団長です。ふたりは、それ以来の親しい間柄だったのです。河辺中将は、牟田口中将の「責任感」にあふれた述懐に大きくうなずき、手に手を取って敗色濃厚な国運の打開に邁進しようと、支持を確約するのでした。河辺中将は「なんとかして牟田口の意見を通してやりたい」と語り、方面軍高級参謀片倉衷少将の言葉を借りれば、私情に動かされ、牟田口の言動をあえて抑制しようとはしませんでした。甘やかしたわけです。牟田口も大いに甘えたわけです。
昭和十八年(一九四三年)五月上旬にシンガポールの南方軍司令部(総司令官・寺内寿一)で開かれた軍司令官会同の後の六月下旬の段階で、インパール作戦自体に関しては、第十五軍(牟田口)、方面軍(河辺)、南方軍(寺内)の間に攻勢防禦という点での合意が形成されました。しかし、この作戦がアッサム進攻を含まない純然たるビルマ防衛のための限定作戦であること、補給を重視し南方に重点を移して作戦の柔軟性と堅実性を図るべきこと、という南方軍と方面軍の趣旨は第十五軍には徹底されませんでした。アッサム進攻の企図を秘め北方に重点を指向して敵を急襲撃破するという第十五軍(牟田口)の作戦は、少しも堅実なものに改められなかったのです。さらに憂慮すべきことに、南方軍および方面軍では、兵棋演習(へいぎえんしゅう・状況を図上において想定した上で作戦行動を再現して行う軍事研究)での検討と注意により第十五軍の作戦計画が修正されるはすだと期待して、第十五軍が中栄太郎方面軍参謀長や稲田正純南方軍総参謀副長の所見の趣旨を理解していないことになかなか気がつかなかったのです。要するに、頭の回る人たちにとって、牟田口の頭の硬さや頑なさの程度は想定外であったという側面が否めないようです。いくらなんでもそこまで馬鹿じゃあるまい、と。結果的には、彼らの見通しは甘かったというよりほかはありません。
では、大本営はどうだったのでしょうか。大本営では、インパール作戦自体に関して否定的な見方が有力でした。インパール作戦の兵棋演習に同席して帰国した竹田宮大本営参謀の報告によれば、「十五軍ノ考ハ徹底的ト云フヨリハ寧ロ無茶苦茶ナ積極案」であり、作戦準備の現状からして実施はとうてい無理と見られました。しかし、現地軍が攻勢防禦の必要について合意している以上、大本営としてもこれを無視してしまうわけにもいかず、また、たとえインパールが取れなくてもインドの一角に日本が後押しするインド独立義勇軍の拠点をつくることができれば、東条政権の戦争指導に色をつけ、政治的効果を治めることも期待されました。こうして大本営は、作戦実施如何は将来にゆだねて(先送り、というわけです)、八月初旬、インパール作戦実施準備の指示を南方軍に発しました。
政治的効果、という観点からすれば、昭和十八年(一九四三年)十一月五日に東京で開かれた大東亜会議は重要です。それは、大東亜会議が東条内閣の目論んだ通りの成果を挙げたという意味においてではなくて、大東亜会議の結果をふまえて、東条英機が、インパール作戦を認可するに至った、という意味においてです。どういうことか。以下、説明します。
同会議に集まったのは、汪兆銘南京政府主席、張景恵満州国総理、ワンタイタイ国首相代理、ラウレルフィリピン大統領、バー・モウビルマ首相です。また、チャンドラ・ボース自由インド仮政府首班はオブザーバーとして参加しました。同会議の成果について、児島襄は「内実はひどくお粗末なものだった」「大東亜の代表はただ集まったにすぎず、日本とはお互いに気持ちが離れた状態だった」とかなりの辛口評です。そのことの是非の検討は他の機会に譲りますが、次の指摘は重要です。
ボース首班は、自分の目的は日本の力を借りてインド独立を達成するにあると公言し、四三年十月、シンガポールで自由インド仮政府が発足。日本が十月二十四日承認すると、直ちに米英に宣戦した。大東亜会議に現れると、自由インド政府の領土を求めた。東条首相がアンダマン、ニコバル諸島を将来帰属させる措置をとると、ボース首班は、島ではなくインド領内の土地がほしいと答え、インパール作戦計画の存在を知るや、インパールを自由政府の本拠にしたい、みずから自由インド義勇軍を率いて参加すると、強硬に作戦実施を要求した。
ボースのこの態度が、東条英機首相の心にどのように響いたのかを想像するのは、それほど難しいことではないでしょう。長らくの戦争によって、経済活動が低迷し、町には木炭自動車が走り、陶製のアイロンや紙製の洗面器が出回るなど、国民生活の崩壊が誰の目にも明らかになってきたことにより、東条内閣に対する国民の不満が高まっていました。また、四三年十月には、戦争状態の悪化を背景として、明治神宮外苑競技場で学徒出陣壮行会が催され、戦局が困難になっていることが一般国民にも分かるようになっていました。さらには、政治の世界で東条降ろしの動きがあることも彼の耳に入っていたことでしょう。つまり、彼は色々な意味で孤立感を深めていた。そういう状況において、ボースの存在は、一筋の光明のように、東条の心をパッと明るくし、塞ぎがちな彼の心を奮い立たせた。事実彼は、次のような動きに出ました。
とにかく、戦争に積極的に協力する態度を示したのは、大東亜指導者の中でこのボース首班だけである。東条首相は、大東亜政略の見地からボース首班の希望に耳を傾け、さらに南方軍にインパール作戦の確度を念を押したうえで、四四年一月七日、作戦の認可を与えたのである。 (『太平洋戦争』より)
ついに、軍首脳部のみならず一国の首相までもが、牟田口の妄想じみた愚かで無謀な作戦にゴー・サインを送ってしまった、ということです。
牟田口のインパール作戦(「ウ号作戦」)の無謀さについて、さらに話を進めましょう。牟田口第十五軍の「ウ号作戦」計画は戦略的急襲を前提として成り立っていました。それは、急襲突進によって敵に指揮の混乱と士気の沮喪とを生ぜしめ、それに乗じて一気に勝敗を決しようとするものであり、急襲の効果に作戦の成否がかかっていました。では、もし急襲の効果が生じなかった場合はどうするのか。その場合の対処法がきわめて重要になってきます。すなわち、急襲作戦の場合、コンティンジェンシー・プラン(不測の事態に備えた計画)が事前に検討されていなければならないのです。しかるに、そういうものはまったくありませんでした。
牟田口は、“作戦不成功の場合を考えるのは、作戦の成功について疑念を持つことと同じであるがゆえに必勝の信念と矛盾する。そうであるがゆえに、それは部隊の士気に悪影響を及ぼす”と考えました。彼の思考経路には、コンティンジェンシー・プランを検討する余地などまったくなかったのです。
そのことを危ぶんで、昭和十九年(一九四四年)一月中旬、中方面軍参謀長は、第十五軍に攻勢命令を出す際、主攻勢方面と兵力量とを明記することによって方面軍の作戦構想を第十五軍に強要しようとしました。ところが川辺は、「そこまで決めつけては牟田口の立つ瀬はあるまい。また大軍の統帥としてもあまり格好がよくない」と、中の命令案を押さえてしまいました。この重大時に臨んで、「体面」や「人情」が軍事的合理性を凌駕してしまっているのです。
実は、第十五軍の急襲突進戦法の効果は、戦う以前にすでに失われていました。というのは、スリム中将指揮下のイギリス第十四軍が斥候や空中偵察によって日本軍の作戦準備状況をキャッチし、インパール作戦の概要をほぼ正確につかんでいたからです。それに基づいてスリムは、主力の戦場をチンドウィン河東岸に求めるという既定方針を放棄し、後退作戦に転換しました。つまり、敵に過酷な山越えを強要して消耗させ、その補給線が伸びきったところを、インパール周辺地区で叩く、というのがスリムの新たな作戦構想でした。
ところが牟田口は、敵をナメきっていました。次は、牟田口の言葉です。
英印軍は中国軍より弱い。果敢な包囲、迂回を行えば必ず退却する。補給を重視し、とやかく心配するのは誤りである。マレー作戦の体験に照らしても、果敢な突進こそ戦勝の近道である。 (『失敗の本質』より)
自分の、僥倖に満ちた、ささやかな成功体験から割り出された急襲突破一辺倒の作戦構想と敵戦力の過小評価(相手をナメきった態度)が、情報軽視と補給・兵站の不備・軽視を生んでいるのがよく分かります。
牟田口の、(自分が認める者以外の)他人の意見に謙虚に耳を傾けようとしない依怙地な性格は、彼と第十五軍を構成する各師団長とのコミュニケーションをいちじるしく阻害することになりました。これが由々しき事態であることは、軍事の素人である私たちにもよく分かりますね。
インパール作戦を遂行する第十五軍の構成は、次のとおりです。
第十五軍(司令官・牟田口廉也中将)
同軍配下三師団
・第三十一師団(師団長・佐藤幸徳中将)
・第十五師団(師団長・山内正文中将)
・第三十三師団(師団長・柳田元三中将)
三人の師団長のなかで、柳田師団長は、当作戦緒戦段階の昭和十九年三月二七日に、インパール作戦の中止を牟田口司令官に対して具申しました。牟田口司令官は、驚くやら怒るやらで大変なことになりました。その四日後、柳田師団長は、ようやく前進を再開しましたが、その進撃は、一村をおとすたびに停止する「統制前進」に近いものでした。
柳田師団長は、陸大の優等生で(陸士第二六期)、なにごとにおいても理論と計算を重んじる合理主義者でした。それゆえ、非合理のかたまりのようなインパール作戦とは最初から肌が合わなかったのです。だから、緒戦の段階で早くも作戦中止を主張し、督促命令を受けながらなおも前進をしぶったのです。彼は、“太平洋の戦訓は、航空勢力と補給を欠く作戦は必敗であることを明示している。この二つをともなわないインパール作戦の前途も明らかである。また、インパールは攻略後の維持がむずかしい。そこを攻めるのは、単なる戦闘のための戦闘にほかならない”と考えました。その考え方は、山内師団長と佐藤師団長の共感を呼びました。その結果、第十五軍は、とんでもない事態に陥ってしまったのです。『太平洋戦争』から引きましょう。
このような三師団長の思想は、不可能を可能とすることが軍人の本務と信じている牟田口中将には不快だった。牟田口中将は師団長たちを避けた。(中略)一月末、メイミョウの第十五軍司令部で最後のインパール作戦兵棋演習が開かれたとき、集められたのは参謀長、作戦主任参謀たちで、三人の師団長は呼ばれなかった。このため、戦闘責任者の師団長が、軍司令官の意図も作戦内容も十分に納得しないで戦場に臨むという、致命的な欠陥をもたらした。この一点だけでも、インパール作戦の失敗は予告されていたといえるが、同時に疎外された師団長の胸には、軍司令官にたいする反感が強く植えつけられた。
これだけでも唖然としてしまうのですが、こういう険悪な状態を背景とし、糧食の補給の途絶という極限状況がそれに加味されたところで、佐藤師団長の独断退却という、軍として信じがたい下克上的な意思決定がなされることになります。英軍との、雨と泥のなかでの紛戦状態に巻き込まれた第三十一師団の守備隊長白石大佐は、五月三一日の夜、玉砕を決意して、佐藤師団長に告別の電話をしました。それを受けた佐藤師団長は、即座に退却を決意し、病兵一五〇〇人の後送を指示し、宮崎兵団長に六〇〇人を預けて後退援護を命じ、六月三日、第三十一師団はいっせいに退却を開始しました。
佐藤師団長の決断に激しいショックを受けた牟田口中将のもとを、六月六日、河辺方面軍司令官が訪れました。そのときの心境を、ふたりは後に述懐しています。『太平洋戦争』から引きます。
牟田口中将「私は河辺将軍の真の腹は、作戦継続に関する私の考えを察知すべく、脈をとりに来たことを十分察知したが、どうしても将軍に吐露することが出来なかった。私はただ、私の風貌によって察知して貰いたかったのである」
河辺中将「・・・・・ラングーンに帰った・・・・・予の瞼には鬼気ただよう陰雨の下、陣頭に立つ我が将兵、ことにパレル戦線で握手したインド国民軍将兵の顔が彷彿としてやまぬ・・・・・若し冷静にこの戦況を客観することが許されたならば、この時すでに予はこの作戦中止の決心に出たであろう。しかし、この作戦には私の視野以外さらに大きな性格があった。なんらか打つべき手の一つでも残っている限り、最後まで戦わねばならぬ。この作戦には、日印両国の運命がかかっている。そしてチャンドラ・ボースと心中するのだ、と予は自分自身に言い聞かせた」 (元歩兵第五十八連隊戦記『ビルマ戦線』)
ふたりの男の愚にもつかない浪花節的コミュニケーションと、能天気で陳腐な英雄気取りのセンチメンタリズムが災いして、第十五軍は、ふたたびインパールに向かうことになりました。その結果、兵士としてのプライドを徹底的に打ち砕かれ乞食然と化した若者の群れが生まれることになったのでした。日本軍の退却路は、死体の山が散乱したことから、「白骨街道」と呼ばれたことは有名なお話しです。
茶番劇は、それではすみませんでした。佐藤師団長の行為は明らかな命令違反です。軍法会議に付されるのは当然の措置でした。佐藤中将も、それを覚悟していました。しかし、河辺司令官は軍医に彼を「急性精神過労症」と診断させ、予備役に編入したうえで、応召の形式をとってスマトラに赴任させました。また、牟田口中将の、司令官としての統率力の欠如は、軍として大きな問題に発展してしかるべきでした。ところが彼は、十二月に予備役編入され、翌昭和二〇年一月に召集され、応召の予備役中将として陸軍予科士官学校長に補されたのでした。上層部は、温情主義のつもりだったのかもしれませんが、実は、無原則・無節操なただの無茶苦茶人事にほかなりません。
なんと茶番劇は、戦後にまで持ち越されます。というのは、死去する一九六六年までの晩年の四年間、牟田口は、インパール作戦失敗の責任を問われると、戦時中と同様に「あれは私のせいではなく、部下の無能さのせいで失敗した」と頑なに自説を主張し続けたのですから。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%9F%E7%94%B0%E5%8F%A3%E5%BB%89%E4%B9%9F
インパール作戦の愚かしさは、どうやら底なし沼のようです。
作戦終了後の各師団の兵員は、第十五師団約三〇〇〇、第三十一師団約五五〇〇、第三十三師団約三三〇〇。それぞれ作戦開始前の九%、八.五%、九%に減っていました。
(この稿、続く)
ある読書会で、児島襄(のぼる)の『太平洋戦争』(上下・中公新書)を取り上げました。それをきっかけに、戸部良一らの編著『失敗の本質 日本軍の組織論的研究』(中公文庫)も個人的に読んでみました。
いずれも、軽やかな気分でリズミカルにページをめくることができなくて、読むのに多大の時間がかかってしまいました。読み進めながら、自分のどうしようもないところを、執拗に見せつけられているような感じを噛みしめ続けたからです。私はどうやら被虐的な性格ではないようで、そういう気分を味わい続けると、気が重くなってくるのです。
だったら、読むのを途中でよしてしまえばよさそうなものですが、運が悪いことに、「大東亜戦争とはいったいどういう戦争だったのか」というテーマは、いつのころからか、私の脳裏の片隅に巣食ってしまったようで、これらの著書は、それに否応なく響くところがあるので、無視しようにも無視できなくなってしまったのです。
読み終えての感想をひとことで言えば、いずれも、日本人としての自己認識の書である、となります。「負け戦」を延々と戦い続けるという民族の極限状況において、私たち日本人の弱点が鮮明にあぶり出されたことが、これらの著書を読めばよく分かるのです。こんなふうに言うと、「日本人には、いいところだってたくさんあるだろう」という声が聞こえてきそうな気がします。それはそうでしょうが、いまは、それを語る気分にはなれません。
大東亜戦争とは、日本民族にとって、壮大な失敗経験であった。やりきれない気持ちに負けない胆力を発揮して、それを冷静に直視し、そこから教訓として掴み取ることができたものこそが、いまに生きる私たちにとっての千金の価値を有する知的財産となる。そんなふうに、私は考えるのです。そう信じたいのです。
児島襄の『太平洋戦争』を読んでいて、大東亜戦争が負け戦の様相を決定的に呈しはじめたと感じたのは、次の、ガダルカナル島の戦いにおけるある日本兵の描写を目にしたときです。
岡連隊長は海岸沿いに東に進んだ。飛行場の南側のアウステン山を占領するのである。途中、ジャングルから迷い出た一木支隊、海軍設営隊の生き残りに出会った。ボロボロの服、青ざめた顔、靴もなく、手をのばして食を乞うた。その悲惨な様相に岡連隊長は驚き、部下の背負う米を分け与えた。深々と頭を下げる姿に、もはや戦士の面影はなかった。連隊長は暗澹として顔をそむけたが、まさか旬日を出ないで同じ運命が自分たちを見舞おうとは、夢想さえできなかった。
一木(いちき)支隊は、昭和十七年(一九四二年)八月十八日にガダルカナル奪回作戦の尖兵として送り込まれたわずか二〇〇〇人の歩兵部隊でした(先遣隊は九〇〇人)。支隊長の一木清直大佐は、帝国陸軍の伝統的戦法である白兵銃剣による夜襲をもってすれば、米軍の撃破は容易であると信じていました。その自信のほどは、出撃に際し「ツラギもうちの部隊で取ってよいか」と第十七軍参謀に尋ねたことにも表れています。彼は、百戦錬磨の武人だったのです。
同島に上陸した米軍は、海兵第一師団を中心とする一三〇〇〇人でした。これは、一木大佐の予想をはるかに超えていました。同大佐は、先遣隊九〇〇人の手勢と、小銃弾二五〇発、糧食七日分で、過去の戦史に例を見ない水陸両用作戦を短期間のうちに開発していた米海兵隊に立ち向かうことになったのです。当然のことながら、一木支隊は、苦戦に次ぐ苦戦を強いられることになりました。突撃を敢行しようとする同支隊に対して、米軍は、機関銃・自動小銃・迫撃砲・手榴弾そうして戦車六両と、あらゆる兵器を動員して応戦しました。戦車をめぐる光景に関して、バンデクリフト第一海兵師団長は、「戦車の後部は、まるで肉ひき器のようだった」と衝撃の証言をしています。結局一木大佐は、八月二一日の午後三時頃、万策尽きたと観念して、軍旗を奉焼し自決して果てました。一木支隊は全滅したのです。わずかに逃げのびた残兵約一〇〇人は、ジャングルに身を潜め、増援部隊の到着を待ちました。先に引いた文章のなかの、戦士としての誇りが崩壊し乞食のようになってしまった兵隊は、そのなかのひとりだったのです。
こういう悲惨な結末の全責任を、無謀な作戦を企てた一木支隊長に帰してしまうことはできません。上層部が何をどう考えていたのかを掴んだうえで、彼らの責任をこそ問わなければならないと思うのです。
昭和十七年(一九四二年)八月七日に、米軍がガダルカナル島とツラギ島へ上陸したという第一報が大本営陸軍部に入ったとき、同部内にその地名を知っていた者はひとりもいませんでした。ガダルカナル島は、南太平洋ソロモン海に浮かぶ、四国の約三分の一ほどの面積の小島です。そこに海軍陸戦隊一五〇人と人夫約二〇〇〇人が飛行場を建設していたのを知ったのも、そのときが初めてでした。その次を話す前に、ガナルカナルの戦いに至るまでの大東亜戦争の流れをざっと振り返ってみましょう。
昭和十六年(一九四一年)十二月八日の真珠湾奇襲以来、わずか半年たらずの間に、日本軍は、太平洋と東南アジア全域を支配下におさめました。それはまさに破竹の勢いと形容しても大袈裟ではないほどのものでした。しかし日本が用意していた戦争計画は、この第一段作戦までで、その後は、余勢をかって戦局の拡大を試みるだけでした。その意味で、日本は壮大な無計画の戦争を断行したと言っても過言ではない。それゆえ、昭和十七年(一九四二年)六月五日に日本の連合艦隊が、ミッドウェー海戦で、四隻の空母を失うというはじめての敗北を米海軍に対して喫したのは、不可避のできごとであったというほかはありません。つまり、遠からず起こるべきことがついに起こったということです。戦力的に劣勢にあった当時の米海軍にとって、日本海軍が広く用いていた戦略常務用の「海軍暗号書D」の解読に、戦いの直前に成功していたことが大きかったようです。これによって、太平洋艦隊ミニッツ司令長官は、ミッドウェー作戦の計画に関して日本側の作戦参加艦長や部隊長とほぼ同程度の知識を得ることになりました。孫子の「彼を知り己を知れば百戦して殆うからず」をまさに地で行ったわけです。ミッドウェーの戦いは、大東亜戦争の海戦のターニング・ポイントと言われています。
ミッドウェー海戦後の米国は、成功が比較的に容易で大損害を避けうる、ステップ・バイ・ステップの上陸作戦を敢行することを決めていました。反攻の第一段としてガダルカナルを選んだのは、日本軍が米豪連絡線を遮断する企図で、そこに飛行場を建設中であったからです。
元来、米国の対日戦略の基本は、日本本土直撃による戦争終結でした(結果論的にいえば、日本には、無条件降伏よりほかの選択肢はなかったのです)。ただし、中部太平洋諸島の制圧なくしては、米軍の対日進攻はありえないし、航空機の前進基地確保は困難でした。米軍は、このような長期構想のもとに、大本営の反攻予測時期より早く、日本軍の補給線の伸びきった先端としてのガダルカナル島を突いてきたのです。
大本営陸軍部の話に戻りましょう。同部は、米軍の反攻開始は早くても昭和一八年(一九四三年)以降であるという根拠薄弱な希望的観測に傾いていたので、“米軍のガダルカナル島上陸は一種の偵察作戦か飛行場の破壊作戦であるにちがいない。それゆえ、米軍の上陸兵力は著しく劣勢であり、そのうえ米陸軍は弱いから、ガダルカナル島奪回兵力は、小さくても早く派遣できる部隊がよい”と判断したのです。同部は、米国の長期戦略の所在もその本質も理解していませんでした。また、日本陸海軍ともに、その時点の米軍が海兵隊を中心とし陸海空の機能を統合して島から島へと逐次総反攻を進める水陸両用作戦という新たな戦法を開発していたことなど、夢にも想わなかったのです。
先に、『太平洋戦争』から引いた文章中の、乞食然としたひとりの日本兵士の登場には、以上のべたような深刻な背景、すなわち、軍上層部の救いがたいまでの錯誤があるのです。私が「大東亜戦争が負け戦の様相を決定的に呈しはじめたと感じた」のは、少なくとも無根拠ではないことがお分かりいただけたでしょうか。
日本軍は、一木支隊先遣隊九〇〇人の全滅後、次は六〇〇〇人の川口支隊と一木支隊第二挺団という、兵力の逐次投入を行い、敵を圧倒的に下回る兵力で攻撃を掛けては撃退されるというパターンを繰り返しました。その間、二度の総攻撃を敢行したもののヘンダーソン飛行場基地の奪回は成らず、糧秣弾薬の補給が輸送船の沈没や駆逐艦の大量消耗により継続できなくなり、日本軍は同年十二月三一日の異例の御前会議でガダルカナル島からの撤退を決めました。撤退命令は翌昭和十八年(一九四三年)一月に伝達されました。第一七軍に対する撤退命令の伝達を担当した方面軍参謀井本熊男中佐の日誌に基づく、撤退命令伝達時の現地の生々しい状況の描写を『太平洋戦争』から引いてみます。いささか長くなります。
ガダルカナル島
中佐はその夜(昭和一八年一月十二日の夜――引用者注)、ガ島西北端のエスペランス岬付近に上陸した。翌朝まず、中佐の目にうつったガ島の光景は、第一線からエスペランスの糧秣補給所に往復する兵士の群だった。青ざめた顔、のびたヒゲ、申し合わせたように抜身の銃剣をバンドにさしていた。三々五々、無表情でひょろひょろと歩いていた。帰途に向かう者は、各自一〇~二〇キロの糧食を背負ってよろめいていた。ぼんやりと道ばたに座りこみ、銃剣でヤシの実をほじっている兵もいた。セギロー川のほとりに第二師団、東海林連隊の野戦病院があった。病院といっても、ジャングルの下枝をはらい、樹木で床上げをしてテントを張っただけのものだった。カヤも毛布もない。患者たちの顔は、この世のものとは思えなかった。すぐ隣りにある便所は、激しい下痢便で充満し、そのあまりの臭気に中佐は吐き気をおぼえた。なんとか動ける者が、仲間の炊事の面倒をみる。水筒を六、七人分肩にかけ、木の枝につかまりながら、よろよろと水を汲みにいく。中隊長も、将校も、下士官も区別はなかった。いくらか気分のよい患者なのか、杖をつき、よぼよぼと現れて、中佐に言った。「参謀どの。もう四、五日飲まず食わずです。水筒のお湯をひとくち、飲ませていただけませんか」。水筒をはずして渡すと、「ああ、もったいない、もったいない」。そのことばは、まさに乞食そのままである。これが二二、三歳の皇軍の兵士か――井本中佐は思わず叱咤したくなったが、考えてみれば、このような姿にしたのは誰の責任か。中佐は頭をたれて歩いた。
このような地獄絵図が、まだまだ続くのですが、引くのはこれくらいにしておきます。これを読んでいるうちに、読み手の私たちも、井本中佐や著者の児島襄とともに「このような姿にしたのは誰の責任か」と問いかけたくなります。それは、もちろん、軍上層部の責任であります。戦場の最前線において命懸けで戦った兵士たちを、身も心もボロボロになり乞食同然になってしまうまでほったらかしたのは、現場の惨状を把握する能力を欠いた軍上層部にほかなりません。ここを読んでやりきれない思いと怒りが禁じ得なくなってくる自分の心の動きを凝めるうちに、私は、その怒りの矛先が、現在の自民党安倍政権に対しても向いていることに気づきました。どうしてそういうことになるのか。それは、消費増税を断行し、また、国内外のグローバル資本にのみ有利な成長戦略(第3の矢)という名の悪しき規制緩和を矢継ぎ早に実施しようとする安倍政権に決定的に欠けているのは、そういう施策を講じることで、国内の民草がいかに苦しい思いをすることになるか、ということについてのまっとうな想像力であるという点が、ガダルカナルの戦いで(も)誤った意思決定をし続けた軍の上層部とそっくりであるからです。安倍政権は、かつての小泉政権と同様に、欧米社会のパワー・エリートたちの頭脳を支配している誤った思想を後追いしているのです。ここは、安倍政権批判の場ではありませんから、これ以上筆鋒を同政権に差し向けるのは控えます。過去の歴史は常に現在である、という思いを強くします。
ガダルカナル島に投入された日本人将兵は、約三万二千人。そのうち戦死は一万二五〇〇人余り、戦傷死は一九〇〇人余り、戦病死は四二〇〇人余り、行方不明は二五〇〇人にのぼりました。それに対して、米軍の犠牲は、戦闘参加将兵六万人のうち戦死者は一〇〇〇人、負傷者は四二四五人を数えるだけです。餓死した米軍兵士はひとりもいませんでした。ちなみに、ガダルカナルの戦いは、大東亜戦争の陸戦のターニング・ポイントと言われています。
ガダルカナルの地獄絵図と同じような光景が、インパール作戦においても、拡大された形で再現されています。最初に、これもまた地獄絵図の一部を成すのではありますが、そういう状況においても、戦友を思いやる人間的な心が失われていないことを物語る描写を『太平洋戦争』から引きましょう。
日本軍は、山道にハシゴをかけ、木の根をつたって逃げた。飯盒を片手に、杖にすがって悄然と雨にうたれて歩いた。急ごしらえの馬そりにのった病兵、担架にのせられた傷兵も、沛然と降る雨にぬれつづけた。しかし飢えとマラリア、赤痢に苦しむ兵士の中で、傷病の戦友を運ぶことにグチをこぼす者はいなかった。第三十一師団歩兵団長宮崎少将は、作戦開始の直前、チンドウィン河畔の村長から贈られた小猿「チビ」を肩にのせて、病兵をはげましていた。
ここを読んで、竹山道雄の傑作戦争童話『ビルマの竪琴』を思い浮かべるのは、私だけではないでしょう。日本軍に通底していた戦友を大切にする心が、この童話が誕生する精神的な土台のひとつを成していたのではないか、という感想が浮かんできます。
次は、正真正銘の地獄絵図です。
道ばたには点々として負傷兵が横たわっていた。その眼、鼻、口にウジ虫がうごめいている。のびた髪の毛に真白にウジが集まり、白髪のように見える兵が歩いていた。木の枝に妻子の写真をかけ、その下でおがむように息絶えた死体、マラリアの高熱に冒されて譫言(うわごと)を口走る者、ぱっくりあいた腿の傷に指を入れてウジをほじくりだす兵士・・・・・泥のなかにうずくまったまま「兵隊さん、手榴弾を下さい・・・・・兵隊さん」と呼びかける兵士がいる。自分はもう「兵隊さん」ではないと思っているのだ。―――その兵士だけではない。戦闘から解き放された第十五軍は、もはや戦士の集団ではなく、疲れ果てた人間の群れに過ぎなかった。
何が、兵士たちをここまで追い込んだのか。それはもちろん敵軍ではなくて軍の上層部である、というべきです。どうしてそうなのかをはっきりさせるために、上のような惨状に至るまでの流れを追いかけてみましょう。ため息が出てくるような話ばかりが続きますが、お付き合い願えれば幸いです。
昭和十七年(一九四二年)十一月下旬に一度は立ち消えたはずの東部インド進攻作戦が再浮上してきたのは、翌年の三月下旬でした。その背景のひとつは、(日本側に立った場合の)戦争全体の悪化にともなうビルマをめぐる情勢の憂慮すべき方向への変化です。すなわち、連合軍のビルマ奪回のための準備が徐々に本格化するきざしを示したのです。連合軍のビルマ奪回作戦構想は、雲南・フーコン渓谷・インパールの三つの正面から事前に限定攻撃を行った後、この三正面からの攻勢とビルマ南西海岸(アキャブ)およびラングーンへの上陸作戦敢行とによって総反撃を実施しようとするものでした。
インド・ビルマ国境
とくにフーコン方面では、在華米軍司令官スティルウェル中将の指揮下で、ビルマからインドに敗走した中国軍が米式訓練と米式装備をほどこされた新編第一軍として再建されるとともに、インドからビルマを経て中国にいたる輸送ルート(いわゆる援蒋ルート)の建設が進められ、昭和一八年(一九四三年)雨季入りまでにビルマ国境に達しました。
一方、昭和十七年(一九四二年)一〇月以来、英印軍はビルマの南西沿岸アキャブ方面に進出しました。日本軍(第五五師団)はようやくこれを撃退しましたが、その攻防のくりかえしと日本軍の航空戦力のシフトとによって、ビルマ上空の制空権が連合軍側に握られていることが明らかとなってきました。
この制空権を利用して、連合軍はビルマ北部に遠距離挺進作戦を敢行しました。旅団長の名をとってウィンゲート旅団と呼ばれたこの挺進部隊は、空中補給を受けつつ無線誘導によって指揮され、日本軍の占領地域内で戦線後方を攪乱することを目的として編成されたものでした。同旅団の神出鬼没の活躍ぶりには目覚しいものがありました。日本軍は、同旅団に対する掃討戦を展開することになるのですが、その過程で、次のことが判明しました。すなわち、ジュビュー山系からチンドウィン河畔に至る地域(上図参照)は、それまで大部隊の作戦行動至難と判断されていたのですが、ウィンゲート旅団の行動によって、必ずしもそうではないことが明らかとなったのです。それが、一度は立ち消えたはずの東部インド進攻作戦が再浮上してきたもうひとつの背景です。
以上の情勢の変化を背景にして、日本軍は、予想される連合軍の総反攻に対処するために、ビルマ防衛機構を刷新強化する措置をとりました。すなわち昭和一八年(一九四三年)三月下旬、ビルマ方面軍が新設され方面軍司令官には河辺正三中将が就任し、その隷下に第十五軍が入って軍司令官には牟田口 廉也(むたぐち れんや)中将が昇格しました。そして、北部および中部ビルマの防衛・作戦指導は第十五軍に任せ、方面軍はアキャブの第五五師団を直轄として、ビルマの独立準備や対インド工作など、政戦略全般にあたることになったのです。
この防衛機構の再編において注目されるのは、諸般の事情から、インパールをめぐる作戦構想が、幕僚補佐を受けることなく、牟田口軍司令官ひとりのイニシアチブによって切り回されるに至ったことです。つまり、インパール作戦の決定に至る過程は、牟田口を軸として展開されていくのです。
牟田口廉也中将
では、牟田口のインド進攻構想とは、どういうものだったのでしょうか。それを語るには、昭和十七年(一九四二年)十一月下旬に、東部インド進攻作戦(二一号作戦)が一度立ち消えになったことにさかのぼらなければなりません。その当時牟田口は、同作戦の主力に予定されていた第十八師団の団長として、同作戦に反対しました。ところが、第十五軍司令官に就任してからの彼は、その判断が百八十度転換しています。連合軍の三正面からの総反攻準備が進んでいることを知り、ウィンゲート旅団の挺進作戦を見た彼は、従来の守勢的ビルマ防衛ではなく、攻勢防禦によるビルマ防衛論を唱えたのです。
しかし彼の構想は、それにとどまるものではありませんでした。それは、単なるビルマ防衛を超え、インド進攻にまで飛躍するものでした。彼は、同年五月中旬に第十五軍司令部を訪れた稲田正純南方軍総参謀副長に「アッサム州かベンガル州で死なせてくれ」と語っています。そこには、個人的な心情もからんでいたようです。日華事変勃発の直接の原因となった盧溝橋事件のときの現場の連隊長だった彼は、つねづね次のように述懐していました。
大東亜戦争は、いわば、わしの責任だ。盧溝橋で第一発を射って戦争を起こしたのはわしだから、わしが、この戦争のかたをつけねばならんと思うておる。 (『太平洋戦争』より)
こういう、誇大自己感に起因する身勝手な責任感は、通常、周りに多大な迷惑をかけるものです。このような心の構え方をした人物が、なまじ権力を手にしてしまうと、手の付けられない事態を惹起してしまうのです。始末が悪いことに、方面軍司令官河辺中将は、奇しくも、盧溝橋事件当時の旅団長です。ふたりは、それ以来の親しい間柄だったのです。河辺中将は、牟田口中将の「責任感」にあふれた述懐に大きくうなずき、手に手を取って敗色濃厚な国運の打開に邁進しようと、支持を確約するのでした。河辺中将は「なんとかして牟田口の意見を通してやりたい」と語り、方面軍高級参謀片倉衷少将の言葉を借りれば、私情に動かされ、牟田口の言動をあえて抑制しようとはしませんでした。甘やかしたわけです。牟田口も大いに甘えたわけです。
昭和十八年(一九四三年)五月上旬にシンガポールの南方軍司令部(総司令官・寺内寿一)で開かれた軍司令官会同の後の六月下旬の段階で、インパール作戦自体に関しては、第十五軍(牟田口)、方面軍(河辺)、南方軍(寺内)の間に攻勢防禦という点での合意が形成されました。しかし、この作戦がアッサム進攻を含まない純然たるビルマ防衛のための限定作戦であること、補給を重視し南方に重点を移して作戦の柔軟性と堅実性を図るべきこと、という南方軍と方面軍の趣旨は第十五軍には徹底されませんでした。アッサム進攻の企図を秘め北方に重点を指向して敵を急襲撃破するという第十五軍(牟田口)の作戦は、少しも堅実なものに改められなかったのです。さらに憂慮すべきことに、南方軍および方面軍では、兵棋演習(へいぎえんしゅう・状況を図上において想定した上で作戦行動を再現して行う軍事研究)での検討と注意により第十五軍の作戦計画が修正されるはすだと期待して、第十五軍が中栄太郎方面軍参謀長や稲田正純南方軍総参謀副長の所見の趣旨を理解していないことになかなか気がつかなかったのです。要するに、頭の回る人たちにとって、牟田口の頭の硬さや頑なさの程度は想定外であったという側面が否めないようです。いくらなんでもそこまで馬鹿じゃあるまい、と。結果的には、彼らの見通しは甘かったというよりほかはありません。
では、大本営はどうだったのでしょうか。大本営では、インパール作戦自体に関して否定的な見方が有力でした。インパール作戦の兵棋演習に同席して帰国した竹田宮大本営参謀の報告によれば、「十五軍ノ考ハ徹底的ト云フヨリハ寧ロ無茶苦茶ナ積極案」であり、作戦準備の現状からして実施はとうてい無理と見られました。しかし、現地軍が攻勢防禦の必要について合意している以上、大本営としてもこれを無視してしまうわけにもいかず、また、たとえインパールが取れなくてもインドの一角に日本が後押しするインド独立義勇軍の拠点をつくることができれば、東条政権の戦争指導に色をつけ、政治的効果を治めることも期待されました。こうして大本営は、作戦実施如何は将来にゆだねて(先送り、というわけです)、八月初旬、インパール作戦実施準備の指示を南方軍に発しました。
政治的効果、という観点からすれば、昭和十八年(一九四三年)十一月五日に東京で開かれた大東亜会議は重要です。それは、大東亜会議が東条内閣の目論んだ通りの成果を挙げたという意味においてではなくて、大東亜会議の結果をふまえて、東条英機が、インパール作戦を認可するに至った、という意味においてです。どういうことか。以下、説明します。
同会議に集まったのは、汪兆銘南京政府主席、張景恵満州国総理、ワンタイタイ国首相代理、ラウレルフィリピン大統領、バー・モウビルマ首相です。また、チャンドラ・ボース自由インド仮政府首班はオブザーバーとして参加しました。同会議の成果について、児島襄は「内実はひどくお粗末なものだった」「大東亜の代表はただ集まったにすぎず、日本とはお互いに気持ちが離れた状態だった」とかなりの辛口評です。そのことの是非の検討は他の機会に譲りますが、次の指摘は重要です。
ボース首班は、自分の目的は日本の力を借りてインド独立を達成するにあると公言し、四三年十月、シンガポールで自由インド仮政府が発足。日本が十月二十四日承認すると、直ちに米英に宣戦した。大東亜会議に現れると、自由インド政府の領土を求めた。東条首相がアンダマン、ニコバル諸島を将来帰属させる措置をとると、ボース首班は、島ではなくインド領内の土地がほしいと答え、インパール作戦計画の存在を知るや、インパールを自由政府の本拠にしたい、みずから自由インド義勇軍を率いて参加すると、強硬に作戦実施を要求した。
ボースのこの態度が、東条英機首相の心にどのように響いたのかを想像するのは、それほど難しいことではないでしょう。長らくの戦争によって、経済活動が低迷し、町には木炭自動車が走り、陶製のアイロンや紙製の洗面器が出回るなど、国民生活の崩壊が誰の目にも明らかになってきたことにより、東条内閣に対する国民の不満が高まっていました。また、四三年十月には、戦争状態の悪化を背景として、明治神宮外苑競技場で学徒出陣壮行会が催され、戦局が困難になっていることが一般国民にも分かるようになっていました。さらには、政治の世界で東条降ろしの動きがあることも彼の耳に入っていたことでしょう。つまり、彼は色々な意味で孤立感を深めていた。そういう状況において、ボースの存在は、一筋の光明のように、東条の心をパッと明るくし、塞ぎがちな彼の心を奮い立たせた。事実彼は、次のような動きに出ました。
とにかく、戦争に積極的に協力する態度を示したのは、大東亜指導者の中でこのボース首班だけである。東条首相は、大東亜政略の見地からボース首班の希望に耳を傾け、さらに南方軍にインパール作戦の確度を念を押したうえで、四四年一月七日、作戦の認可を与えたのである。 (『太平洋戦争』より)
ついに、軍首脳部のみならず一国の首相までもが、牟田口の妄想じみた愚かで無謀な作戦にゴー・サインを送ってしまった、ということです。
牟田口のインパール作戦(「ウ号作戦」)の無謀さについて、さらに話を進めましょう。牟田口第十五軍の「ウ号作戦」計画は戦略的急襲を前提として成り立っていました。それは、急襲突進によって敵に指揮の混乱と士気の沮喪とを生ぜしめ、それに乗じて一気に勝敗を決しようとするものであり、急襲の効果に作戦の成否がかかっていました。では、もし急襲の効果が生じなかった場合はどうするのか。その場合の対処法がきわめて重要になってきます。すなわち、急襲作戦の場合、コンティンジェンシー・プラン(不測の事態に備えた計画)が事前に検討されていなければならないのです。しかるに、そういうものはまったくありませんでした。
牟田口は、“作戦不成功の場合を考えるのは、作戦の成功について疑念を持つことと同じであるがゆえに必勝の信念と矛盾する。そうであるがゆえに、それは部隊の士気に悪影響を及ぼす”と考えました。彼の思考経路には、コンティンジェンシー・プランを検討する余地などまったくなかったのです。
そのことを危ぶんで、昭和十九年(一九四四年)一月中旬、中方面軍参謀長は、第十五軍に攻勢命令を出す際、主攻勢方面と兵力量とを明記することによって方面軍の作戦構想を第十五軍に強要しようとしました。ところが川辺は、「そこまで決めつけては牟田口の立つ瀬はあるまい。また大軍の統帥としてもあまり格好がよくない」と、中の命令案を押さえてしまいました。この重大時に臨んで、「体面」や「人情」が軍事的合理性を凌駕してしまっているのです。
実は、第十五軍の急襲突進戦法の効果は、戦う以前にすでに失われていました。というのは、スリム中将指揮下のイギリス第十四軍が斥候や空中偵察によって日本軍の作戦準備状況をキャッチし、インパール作戦の概要をほぼ正確につかんでいたからです。それに基づいてスリムは、主力の戦場をチンドウィン河東岸に求めるという既定方針を放棄し、後退作戦に転換しました。つまり、敵に過酷な山越えを強要して消耗させ、その補給線が伸びきったところを、インパール周辺地区で叩く、というのがスリムの新たな作戦構想でした。
ところが牟田口は、敵をナメきっていました。次は、牟田口の言葉です。
英印軍は中国軍より弱い。果敢な包囲、迂回を行えば必ず退却する。補給を重視し、とやかく心配するのは誤りである。マレー作戦の体験に照らしても、果敢な突進こそ戦勝の近道である。 (『失敗の本質』より)
自分の、僥倖に満ちた、ささやかな成功体験から割り出された急襲突破一辺倒の作戦構想と敵戦力の過小評価(相手をナメきった態度)が、情報軽視と補給・兵站の不備・軽視を生んでいるのがよく分かります。
牟田口の、(自分が認める者以外の)他人の意見に謙虚に耳を傾けようとしない依怙地な性格は、彼と第十五軍を構成する各師団長とのコミュニケーションをいちじるしく阻害することになりました。これが由々しき事態であることは、軍事の素人である私たちにもよく分かりますね。
インパール作戦を遂行する第十五軍の構成は、次のとおりです。
第十五軍(司令官・牟田口廉也中将)
同軍配下三師団
・第三十一師団(師団長・佐藤幸徳中将)
・第十五師団(師団長・山内正文中将)
・第三十三師団(師団長・柳田元三中将)
三人の師団長のなかで、柳田師団長は、当作戦緒戦段階の昭和十九年三月二七日に、インパール作戦の中止を牟田口司令官に対して具申しました。牟田口司令官は、驚くやら怒るやらで大変なことになりました。その四日後、柳田師団長は、ようやく前進を再開しましたが、その進撃は、一村をおとすたびに停止する「統制前進」に近いものでした。
柳田師団長は、陸大の優等生で(陸士第二六期)、なにごとにおいても理論と計算を重んじる合理主義者でした。それゆえ、非合理のかたまりのようなインパール作戦とは最初から肌が合わなかったのです。だから、緒戦の段階で早くも作戦中止を主張し、督促命令を受けながらなおも前進をしぶったのです。彼は、“太平洋の戦訓は、航空勢力と補給を欠く作戦は必敗であることを明示している。この二つをともなわないインパール作戦の前途も明らかである。また、インパールは攻略後の維持がむずかしい。そこを攻めるのは、単なる戦闘のための戦闘にほかならない”と考えました。その考え方は、山内師団長と佐藤師団長の共感を呼びました。その結果、第十五軍は、とんでもない事態に陥ってしまったのです。『太平洋戦争』から引きましょう。
このような三師団長の思想は、不可能を可能とすることが軍人の本務と信じている牟田口中将には不快だった。牟田口中将は師団長たちを避けた。(中略)一月末、メイミョウの第十五軍司令部で最後のインパール作戦兵棋演習が開かれたとき、集められたのは参謀長、作戦主任参謀たちで、三人の師団長は呼ばれなかった。このため、戦闘責任者の師団長が、軍司令官の意図も作戦内容も十分に納得しないで戦場に臨むという、致命的な欠陥をもたらした。この一点だけでも、インパール作戦の失敗は予告されていたといえるが、同時に疎外された師団長の胸には、軍司令官にたいする反感が強く植えつけられた。
これだけでも唖然としてしまうのですが、こういう険悪な状態を背景とし、糧食の補給の途絶という極限状況がそれに加味されたところで、佐藤師団長の独断退却という、軍として信じがたい下克上的な意思決定がなされることになります。英軍との、雨と泥のなかでの紛戦状態に巻き込まれた第三十一師団の守備隊長白石大佐は、五月三一日の夜、玉砕を決意して、佐藤師団長に告別の電話をしました。それを受けた佐藤師団長は、即座に退却を決意し、病兵一五〇〇人の後送を指示し、宮崎兵団長に六〇〇人を預けて後退援護を命じ、六月三日、第三十一師団はいっせいに退却を開始しました。
佐藤師団長の決断に激しいショックを受けた牟田口中将のもとを、六月六日、河辺方面軍司令官が訪れました。そのときの心境を、ふたりは後に述懐しています。『太平洋戦争』から引きます。
牟田口中将「私は河辺将軍の真の腹は、作戦継続に関する私の考えを察知すべく、脈をとりに来たことを十分察知したが、どうしても将軍に吐露することが出来なかった。私はただ、私の風貌によって察知して貰いたかったのである」
河辺中将「・・・・・ラングーンに帰った・・・・・予の瞼には鬼気ただよう陰雨の下、陣頭に立つ我が将兵、ことにパレル戦線で握手したインド国民軍将兵の顔が彷彿としてやまぬ・・・・・若し冷静にこの戦況を客観することが許されたならば、この時すでに予はこの作戦中止の決心に出たであろう。しかし、この作戦には私の視野以外さらに大きな性格があった。なんらか打つべき手の一つでも残っている限り、最後まで戦わねばならぬ。この作戦には、日印両国の運命がかかっている。そしてチャンドラ・ボースと心中するのだ、と予は自分自身に言い聞かせた」 (元歩兵第五十八連隊戦記『ビルマ戦線』)
ふたりの男の愚にもつかない浪花節的コミュニケーションと、能天気で陳腐な英雄気取りのセンチメンタリズムが災いして、第十五軍は、ふたたびインパールに向かうことになりました。その結果、兵士としてのプライドを徹底的に打ち砕かれ乞食然と化した若者の群れが生まれることになったのでした。日本軍の退却路は、死体の山が散乱したことから、「白骨街道」と呼ばれたことは有名なお話しです。
茶番劇は、それではすみませんでした。佐藤師団長の行為は明らかな命令違反です。軍法会議に付されるのは当然の措置でした。佐藤中将も、それを覚悟していました。しかし、河辺司令官は軍医に彼を「急性精神過労症」と診断させ、予備役に編入したうえで、応召の形式をとってスマトラに赴任させました。また、牟田口中将の、司令官としての統率力の欠如は、軍として大きな問題に発展してしかるべきでした。ところが彼は、十二月に予備役編入され、翌昭和二〇年一月に召集され、応召の予備役中将として陸軍予科士官学校長に補されたのでした。上層部は、温情主義のつもりだったのかもしれませんが、実は、無原則・無節操なただの無茶苦茶人事にほかなりません。
なんと茶番劇は、戦後にまで持ち越されます。というのは、死去する一九六六年までの晩年の四年間、牟田口は、インパール作戦失敗の責任を問われると、戦時中と同様に「あれは私のせいではなく、部下の無能さのせいで失敗した」と頑なに自説を主張し続けたのですから。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%9F%E7%94%B0%E5%8F%A3%E5%BB%89%E4%B9%9F
インパール作戦の愚かしさは、どうやら底なし沼のようです。
作戦終了後の各師団の兵員は、第十五師団約三〇〇〇、第三十一師団約五五〇〇、第三十三師団約三三〇〇。それぞれ作戦開始前の九%、八.五%、九%に減っていました。
(この稿、続く)
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