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マキペディア(発行人・牧野紀之)

本当の百科事典を考える

お知らせ

ながく、牧野紀之の仕事に関心を持っていただき、ありがとうございます。 牧野紀之の近況と仕事の引継ぎ、鶏鳴双書の注文受付方法の変更、ブログの整理についてお知らせします。 本ブログの記事トップにある「マキペディアの読者の皆様へ」をご覧ください。   2024年8月2日 中井浩一、東谷啓吾

「能力不足」職員の分限免職

2015年10月05日 | カ行

 大阪市、職員条例を適用 大阪市は9月30日、指導や研修を重ねても仕事上のミスが改善されないとして、職員2人を民間の解雇にあたる「分限免職」にしたと発表した。橋下徹市長の主導で制定された職員基本条例の処分要綱に基づく分限処分は初めて。不祥事での懲戒処分などが理由の分限免職ではなく、「能力不足」での免職は異例だ。

 市によると2人は、都市整備局の男性職員(43)と港湾局の男性職員(33)。パソコンでの数字の入力間違いなど初歩的なミスを繰り返したり、昼休みの時間を守らないなどの問題があったとされ、5段階の人事評価で2013年度から2年連続で最下位の区分だった。

指導してきたが改善がみられなかったとしている。港湾局の女性職員(46)も上司への報告を行わないなどの問題があるとして条例に基づき、降任処分とした。

 条例では、人事評価で最下位区分(全体の5%)が2年続いた職員らを対象に、職場での3ヵ月間の指導▽処分の可能性を伝える警告書の交付や1ヵ月の指導観察──などを段階的に実施。その上で仕事上の問題が改善されなければ分限処分にすると定める。

  感想

 基本的には「分限処分」に賛成です。実際、無気力公務員はどうしようもありません。段階を追った慎重な対処をした上ならば、分限処分をするべきです。実情から見て、それは少な過ぎる位だと思います。

 この事は特に教師(校長などの行政職を含む)について言えると思います。教師については「分限処分」の基準を厳しくするべきだと思います。

 教師については「降格」は何を意味するのか知りませんが、一般行政職に移らせる事を考えるべきだと思います。この道がないから、処分がしにくいのだと思います。とにかく、無能教師で被害を受けている生徒が沢山いるという事実を重く受け止めるべきです。

 更に問題なのは校長です。優秀な先生が校長に成りたがらないようです。そのため、年俸1000万円超で仕事は部下に丸投げの消化試合校長が沢山生まれているのです。

誇るべき長寿企業

2015年09月03日 | カ行

 帝国データバンクの調べによると、創業100年を超える日本の企業は、2014年現在2万7335社で年1千社以上増えている。200年を超える社は3千社以上、最古は木造建築工事を行う大阪の金剛組で飛鳥時代に創業し、1400年以上の歴史がある。

 2位のドイツを大きく引き離して世界一の長寿企業大国である。島国で外敵からの侵略を免れたことが大きいが、勤勉に家業を守ろうとする国民性も企業存続に寄与している。

 長寿企業に共通する特色として、短期的な利益を追わず、長期的視野に立って経営し、人材重視で終身雇用が多い。実務を「番頭」格の社員に任せる所有と経営の分離型も目を引く。資金調達に関しては保守的で、質素倹約を旨とする。環境の変化に敏感で、本業を基調にしながら、新しい事業にも果敢に挑戦する。老舗の当主は「伝統とは革新の連続」で、事業の継承は経営者の継承という。引き継いだバトンを次の走者に渡すことが使命とも語っている。

 第2次世界大戦で焦土と化した国が奇跡的に早く復興したのは、全国各地で長寿企業が
それぞれ懸命に事業を立て直したことも大きい。地域の雇用を守り、文化事業にも貢献して、社会の安定に資している。

 株主重視で短期の利益を追い求める米国式経営が幅を利かせつつある現在、日本の企業風土にあった日本古来の長寿企業のあり方に改めて注目すべきではないか。大部分が中小、中堅企業で一つ一つは地味な存在だが、草の根で日本を支えており、日本の底力となっている。

 「継続は力なり」だ。長寿企業には秘められた力があり、学ぶべき点が多い。日本の誇るべき存在だ。     (朝日、2015年08月11日。経済気象台、提琴)


学問の自由 東大

2015年07月23日 | カ行
東大法文1号館で考える

          氏岡 真弓(教育社説担当)

 東京・本郷にある東京大学法文1号館は、80年前の1935年に完工した。憲法学者の美濃部達吉が軍部や右翼に攻撃された「天皇機関説事件」の年だ。彼の追悼会もここで行われた。

 その大教室で今月4日夜、「学問の自由」をめぐる危機を訴える集会が開かれた。主催したのは「学問の自由を考える会」だ。文部科学相が国立大に式典での国旗掲揚、国歌斉唱を要請した。その動きに「学問の自由と大学の自治を揺るがしかねない」と結成された。

 集会は一風変わっていた。憲法学暑が歴史を考察し、西洋史研究者が外国と比較し、政治学者が現状を分析した。まるで学会のようだ。

それだけではない。彼らは批判を自らにも投げかけた。「小中高の先生が国旗国歌を強制された問題に、大学人は鈍感、怠慢だったのでは」「今の政治家は大学が育てた。考えるとはどういうことかを教えてきたのか」「産学協同で金がもうかれば成果が上がったとされる。学問は手段になっている」。

 国立大が迫られているのは国旗国歌だけではない。「社会に役立つ大学を」との政府や経済界の声を受け、人文社会科学系は組織の廃止などの見直しを求められている。国の交付金も減らされた。配分の仕方も、国の示した改革への取り組みに応じて決まる傾向が強まっている。

 大学がエリートの場だった頃は遠い。特権にあぐらをかいていると言われ、存在意義さえ問われかねない時代だ。どうすればよいのか。容易ではない問いに答えを出す前に会の時間は尽きた。

 糸口はあるのではないか。憲法学者が、安倍政権が成立を目指す安保法制を「違憲」と断じたことが国会審議に深い影響を与えた。誰の考えであれ根本から吟味する学者の批判精神が生きたのだ。学問の自由がなければ、研究は細り、新しい知は生まれない。社会全体も知らないうちに価値観の多様さを失い、窒息してしまいかねない。

 80年前の新聞を見る。幻となる東京五輪の計画が進む。忠犬ハチ公が死ぬ。「そんな日常のなか、天皇機関説事件は起きた」と、登壇した石川健治・東大教授。「大学という堤防が決壊した10年後、日本は国家として滅びた。前兆に早めに気づいていきたい」

 学問の自由は、私たちの問題である。
(朝日、2015年07月17日。社説余滴欄)

感想

 遅かったですが、反省しないよりは好かったと思います。中嶋嶺男は東京外語大学の学長をしてみて、既成の大学では教授会の権限が強すぎて改革はできない、と考えたようです。新設の国際教養大学の学長兼理事長となって新しい大学を作り、成果を上げたようです。

 東大教授達の内部からの改革がどうなるのか、見守って行くつもりです。そのためには、氏岡さんがこの問題を継続的に取材し、レポートしてくれなければならないでしょう。

 学問の自由や大学の自治には、内部での活発な相互批判とそれを通しての自浄作用が前提されているのではないでしょうか。そして、それを保障し、指導する者としての学長のリーダーシップも問われるのではないでしょうか。
      

学力格差問題

2015年07月14日 | カ行

 親の学歴や年収が同じくらいの子どもが通う学校の中で、全国学力調査の成績が良かった学校は、自分で調べたことを文章にさせる指導や、授業の最後に学習を振り返る活動などを取り入れていた。──

 そんな分析結果をお茶の水女子大の耳塚寛明教授(教育社会学)の研究班がまとめ、7日の文部科学省の専門家会議で報告した。子どもの学力向上のヒントになりそうだ。

 小学6年と中学3年が対象の2013年度の全国学力調査について、抽出した公立校778校と保護者約3万9千人への調査結果を分析。研究班はこれまでに親の年収や学歴が高いほど学力も高くなる傾向を明らかにしている。今回お茶の水女子大教授ら、学力調査分析 その結果、子どもが調べたことや考えたことを文章に書かせる指導を「よく行った」のは、小6国語の基礎知識中心の問題で教育効果の低かった学校のうち26・7%にとどまったのに対し、高かった学校では53・3%にのぼった。

 授業の最後に学習を振り返る活動を計画的に取り入れることを「よく行った」のは、小6算数の基礎知識中心の問題で教育効果の高かった学校の63・3%を占め、低い学校の26・7%を大幅に上回った。

 教育効果の高い学校のうち、学力調査の「活用力をみる問題」で成果を上げるなどした12校には訪問調査をした。その結果、家庭学習は教員が必ず読み、手を入れて子どもに返す▽教科を超えた研究、授業をし、教員は協力し支え合う意識が高い▽教育課程や学習習慣などで小中が連携している▽発展的な学習より基礎基本の定着を重視している、といった共通点が浮かび上がった。
 (朝日、2015年07月08日。片山健志)

国際教養大学

2015年06月29日 | カ行

英語の「対話」で「個」を発揮

             国際教養大学長・鈴木典比古

 すべての授業を英語で行う。「英語を学ぶ大学」ではなく、「英語で学び、英語で深く考える大学」だ。

 6月ごろは1年生はギブアップ状態に近くなるが、ひと山ふた山を越えると授業についていけるようになり、2年生になると積極的に授業に参加する。3年生は1年間海外に留学するが、原則1人1校で、留学生同士で群れることはできない。慣れない環境に放り込まれ、現地の学生と机を並べて30単位の取得を目指す。その外国での取得単位を含めた124単位がないと卒業できないので、真剣に勉強をする。英語は一定の時期、徹底的にやらなければ「離陸」できない。その時期は大学が一番いいのではないか。

 これまでは画一的な「人工植林型」の教育だった。思考や能力が同質的な人材を大量に輩出することが、大量生産の時代には必要だったからだ。グローバル社会のいまは一人ひとりが違う能力、意欲、特徴をもつ人材を育てる「雑木林型」の教育をしなければならない。それは学生がきちんと「個」を発揮する「対話」による授業だ。

 授業は教員と学生の双方向型で主役は学生。1クラスは15人程度と少人数だ。教員の半分以上が外国人、残りの日本人教員も海外大学で学位を取得しており、対話型の授業の技量が高い。シラバス(授業計画)で授業の展開やイメージを共有した上で、学生は予習をして準備万端整えて授業に臨む。そうすることで対話がうまく進む。

 学生は「君はどう考えるか」と問われると、「私はこう思う」と自分の意見を明確に答えなければならない。成績はテストだけではなく、授業への参加の度合いで決まるので、学生も必死だ。こうした授業を4年間続けていくと、自分の意見を持つのと同時に、他者への理解が深まり、「個」の確立につながる。

 秋田市郊外に立地し、学生の約9割がキャンパスの寮または宿舎に住む。学生の5人に1人は留学生で、教室でも学生寮でも一緒なので自然と「多文化共生空間」が生まれる。図書館は24時間365日開いており、いつでも利用でき、午前2、3時まで勉強する学生も多い。日本にあるからユニークでオリジナルな存在だが、世界には多々ある。科目も世界標準にして中身も客観的に分析し、レベルを高めて日本に軸足を置いた「ワールドクラス・リベラルアーツカレッジ」を目指していく。

 注

 国際教養大学 公立大学法人

2004年設立。本部・秋田市。国際教養学部のみで、入学後、「英棄集中プログラム」「基盤教育」を経て、専門教養教育「グローバル・ビジネス課程」または「グローバル・スタディズ課程」に進む。ボランティア活動などを評価する入試など16種類の入試制度がある。専門職大学院グローバル・コミュニケーション実践研究科には「英語教育」「日本語教育」「発信力」の三つの実践領域がある。学部学生数899人、大学院学生数48人(15年4月1日現在)。


 国際教養大学長・鈴木典比古(すずき・のりひこ)

 1945年、栃木県生まれ、一橋大大学院経済学修士課程修了。インディアナ大経営大学院博士課程修了後、イリノイ大助教授、国際基督教大数援、同大学長などを経て2013年6月から現職(理事長も兼務)。専門は国際経営学。

(朝日、2015年06月24日。聞き手・教育総合本部長補佐、桜井透)

  感想

1、学生の選抜と教育方法の多彩なのは分かりましたが、教員の任期制とか評価とかもあるのではなかったでしょうか。訴訟も起きているとか。この方面の事も聞きたいです。

2、この方はICUでも学長をしていたのですから、両大学の比較的考察も聞きたかったです。

3、ともかく、卒業生は会社からは引っ張りだこのようです。明確な目的と方針をもって事業をしている結果でしょう。

 もっとも、所在地である秋田県は過疎化率が相当高いようです。卒業生が地元の活性化に貢献するようになるのはいつでしょうか。

活動報告、2015年06月28日

2015年06月28日 | カ行

・「小論理学」(未知谷版)の翻訳は終わりました。「関口ドイツ文法」の出版の前にした「見直し」(「小論理学」鶏鳴版の見直し)部分の再度の見直しが終わったということです。

「聴講生への挨拶」には、印刷されていない草稿が続いていて、ズーアカンプ版「全集」の第10巻(精神哲学)の巻末に「挨拶」と共に、それの後に、405頁以下に掲載されています。今回はそれも訳しました。これまでにこの部分を訳したのは宮本・真下訳『小論理学』(岩波書店)だけではないでしょうか。

残っている仕事は「付録」に載せる論文の完成です。これも、これまでに発表したものの再掲と書き下ろしとですから、前者は出来ています。後者の執筆が残っています。現在は例によって少し「休憩」をしていますので、この休憩が終わりましたら、新たな決意を持って取りかかるつもりです。

・この間、多分お気づきと思いますが、6月から「マキペディア」にドイツ語での論文発表を始めました。まずは6月2日に「弁証法の弁証法的把握(2014年版)」の独訳を発表しました。

 ドイツ語の言い回しには不適切な部分も多々あるだろうと思いますが、論旨が誤解される心配はほとんどないと思いますので、始めることにしました。

 その目的は、世界の哲学界で認めて貰おうという事ではありません。日本語で発表された学術文献は外国人でも日本語で読む努力をするべきだと思います。しかし、それはいっぺんに実現される事ではありませんから、先ずはドイツ語で、というのは哲学の場合はドイツ語が共通語だと思うからですが、日本の水準の高さを「察して」貰おうという事です。

 この事は最初は関口文法について感じた事です。関口文法は、それが「ドイツ文法」だという理由からでしょうが、国際的な場面では、無反省に、ドイツ語で議論されています。かつて日本で行われたシンポジウムなどでも、ドイツ語で議論が為されたようです。この夏にも中国で国際ゲルマニスト連盟の総会(5年に1度?)が開かれるそうですが、日本の関口派の人もそこでドイツ語で何かを発表したいと思っているようです。私は、こういうやり方に反対なのです。

 そもそも言語ないし個別言語について議論をする場合は、何語で議論をするかが問題です。ドイツ文法について日本語で議論する場合は、当事者双方に、ドイツ語と日本語の同程度の理解が求められます。しかるにこの前提条件を満たす事が難しいのです。ここに言語についての議論の難しさがあるのだと思います。関口は「冠詞論」のどこかで、「この本はドイツ語で書こうかと考えたが、こういう事があるから、やはり日本語で書くことにした」と書いていたはずです。こういう本をドイツ語で理解し、議論をすることは、無意味ではありませんが、「本当の事」ではないと思います。

 最近、ドイツ語と英語とフランス語それぞれのウィキペディアでHegel, Marx, Engels, Lenin(仏はLenine)の項を見てみました。それは中々充実していて感心したのですが、その終わりの方に掲載されています「研究文献」欄に日本語で書かれたものは載っていませんでした。つまり、「無視されている」あるいは「知られていない」という事だと思います。この現状は是正しなければならないと思います。

 もう一つ。例によって「ラジオ深夜便」で得た知識ですが、外国での日本語学習のレベルが急速に非常に上がっているらしいという事です。聞いたのはウィーン大学の例とワルシャワ大学の例とカイロ大学の例ですが、この三例だけでも「世界の趨勢」を推測するには十分だと思います。

 機は熟していると言って好いでしょう。理想ないし目標としては、問題提起者の使った言語で議論するべきだと思います。私はこういう考えでまずはそれに向って第1歩を踏み出した訳です。7月には「マルクス主義」(『西洋哲学史要』第二版に掲載)の独訳を載せるつもりです。

6月28日、牧野紀之



学力格差  頑張る学校の知恵共有を

2015年05月06日 | カ行
 
     氏岡(うじおか) 真弓

 昨年の全国学力調査の追加分析から、親の年収や学歴が高いぼど子どもの学力が高いことがわかった。既に各種調査で明らかになっている傾向だ。むしろ注目したいのは、家庭の格差を乗り越える成果を示した学校の存在である。

 国から委託を受けたお茶の水女子大・耳塚寛明副学長らの研究チームが、親の年収・学歴から学校別正答率を推計した。すると、試算を明らかに上回る小中学校が約l割あった。20ポイント以上高い例も見つかった。「奇跡のような学校だ」と耳塚氏は話す。

 研究者がそのうちの7校の聞き取りをしたところ、共通項が浮かび上がってきた。

 まず、家庭学習の指導だ。子どもが自分の関心のあることや、わからないことを調べる「自主学習」に力を入れる。「自学」「自勉」「宅勉」……。各校は様々な名前をつけていた。教員は、させっばなしにせず、ノートを日々提出させ、コメントを書いて返す。

 教師のチームワークのよさも共通していた。授業を見せ合い教え合う。担任の手が回らないと、代わりに教頭や教務主任が子どもの日記に一言書く小学校もあった。

 研修も重視する。文部科学省や教育委員会の方針を聞く研修ではない。よその学校や授業を見に行くのだ。研究課題に取り組む際も、外に発信する派手な形はとらない。全校が、子どもの実態をふまえる姿勢を大切にしていた。

 小中連携にも力を入れている。交流行事や教員の交換より、学習や生活指導方針を共有していた。

 そして、これらの試みを可能にしているのは、少人数指導や少人数学級を組める態勢だった。

 いずれも基礎的なことばかりのように見える。だが、「形」より「中身」を徹底させていることがポイントだと思う。国や自治体は各校の工夫をぜひ広げてほしい。

 その際、大切なのは、しんどい学校がなぜ取り組めないかを検討する視点だ。行政が学校に、ただノウハウとして伝えても生きないだろう。教委が配置する教員を増やし、保護者や地域が学校を支えることが必要だ。

 同時に「教育だけで格差を超えるのは困難だ」というリアルな現実を見つめることが重要となる。学力格差は社会問題だ。親の雇用や生活保護など労働や福祉も含めた多角的な施策が求められる。

 教育は子どもを通して次の社会をつくり出す営みである。家庭の豊かさで学力が左右され、次世代に格差が連鎖するのは避けなければならない。息の長い取り組みが必要だ。それには現状を把握する調査が欠かせない。文科省はこの分析を今後もぜひ続けてぼしい。

 (朝日、2014年05月01日。筆者は朝日の編集委員)

感想

 述べている事実自体は正しいのだと思います。そこから引き出した「結論」ないし「提案」は、①国や自治体は各校の工夫をぜひ広げてほしい。②大切なのは、しんどい学校がなぜ取り組めないかを検討する視点だ。行政が学校に、ただノウハウとして伝えても生きないだろう。教委が配置する教員を増やし、保護者や地域が学校を支えることが必要だ。③学力格差は社会問題だ。親の雇用や生活保護など労働や福祉も含めた多角的な施策が求められる、の3点です。

 ③はこの調査の「前提」ですから、今は除くべきでしょう。①と②は、「分っています」と言いたい。むしろ、①と②がなぜ出来ないか、行われないか、の原因調査が必要でしょう。というより、耳塚らの「調査」がそこまで追究しなかったことの方が問題でしょう。これでは学者とは言えません。そこを批判し、自分の案ないし答えを対置できない氏岡のレベルの低さも問題です。朝日の編集委員のレベルはこの程度なのでしょうか。

こういう事をやっている学校はなぜそうなったのか、やっていない学校はなぜやらないのか、これこそ問題です。私見によれば、多分。、鍵は校長と教育長でしょう。「組織はトップで8割決まる」のです。昔や外国の事は知りませんが、今の日本の学校の最大の問題は校長の勤務評定がないこと、逆に言えば、校長の身分保障が強すぎる事でしょう。


コント

2015年04月23日 | カ行

 再びフォイエルバッハにかえりますと、彼の同時代人としてフランスにはコントがあります。二人の思想は大変よく似ております。

 コントのいわゆる実証主義において最も注目に値するのは、歴史神学的ー形而上学的-実証的という三段階に分けることと、社会学をもって、成立においては一番遅いものであっても、数学・天文学・物理学・化学・生物学・心理学など他のすべての科学を包含した最も具体的な学問、つまり中世において万学の女王であった神学と同じような位置を、実証的な現代において占むべきものとしたこととの二点でありますが、

 これらの二点は、多少の相違はあるにしても、フォイエルバッハにもあるものでして、彼が自分の立場を実証主義と規定したことののあるのももっともなことです。こういうところから普通に実証主義・実証哲学と呼ばれているものをも、ヘーゲルとの関係において、さきにいった意味におけるポジティヴィスムと呼んでよいかと思います。

 もっとも、コントはヘーゲルとはなんの関係もなく思想を形成した人です。しかし彼の思想の根抵にあるものは、やはり人間は世界の主人であり自然の所有者であるという、いいかえるならば絶対者は主体であるという近代意識ではないかと思います。このことほ晩年の彼が人類の宗教religion de l'hommeを提唱せぎるをえなかったことによっても証せられているのでないでし⊥うか。

 もっとも、彼においては実証哲学であったものも、今日では幾多の実証科学と実証技術とに分解してしまいましたが、我々の現代が「科学的-技術的時代」(ヤスパース)であることを裏から支えているものも、やはり右のような近代意識ではないかと思います。(金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』以文社223-4頁)

     関連項目

実証主義

コンビナート阻止の「沼津・三島型」運動

2014年09月17日 | カ行
   最初の見出し

 半世紀前、沼津、三島の両市と清水町に石油化学コンビナートの建設計画が持ち上がったが、住民の大規模な反対運動で中止された。高度経済成長の陰で公害問題が深刻な影響を及ぼしていた当時、公害の発生を事前に予測し、コンビナートの進出を阻止した運動は「沼津・三島型」と呼ばれ、後の住民運動に大きな影響を与えたと言われる。

50年前の熱気あふれる運動を振り返るとともに、今の時代が運動から何を学ぶべきかを関係者や研究者ら5人に聞いた。

解説・石油化学コンビナート計画と反対運動

 静岡県が1963年12月、沼津市に火力発電所、三島市に石油精製工場、清水町に石油化学工場の進出計画を発表。住民らは「水と空気を守れ」と反対運動を展開した。医師や科学者が講師となった学習会が各地で開かれ、三重県四日市市の石油コンビナートでの公害や計画の危険性についての問題意識が住民に広まった。また、「公害は防げる」とした国の調査団に対し、地元調査団は「公害の恐れが十分ある」と報告。反対運動は、農民、漁民、母親、青年ら多種多様の人々を巻き込んで拡大した。64年5月に三島市長が反対を表明。同年9月には沼津市で2万5000人の総決起集会があり、沼津市長が進出拒否を表明。翌10月には、清水町に会社側から進出断念が伝えられた。


 第1回・元沼津工業高校教諭、西岡昭夫さん

 ──運動に参加した理由は何だったのですか。

 県の計画説明会では、環境対策などにまったく触れずじまい。すでに三重県の四日市などで公害は発生していて、大変なことになると直感しました。その一方で、説明があまりにずさんだったから、こちらが科学的な事実を積み重ねて反対すれば、阻止できる可能性があると考えました。

    学習会重ね理解

 ──各地での学習会が運動拡大に大きな役割を果たしたと聞きました。

 国立遺伝学研究所(三島市)の医師や研究者、私たち沼津工業高の教師らが講師になり、数人の集まりから数百人の大集会まで、毎晩のように出かけました。1日に数ヵ所かけもちもざらで、私は計300回ぐらい参加しました。

 四日市視察の映像を見て、現地の人たちの証言を聞くことで、住民はコンビナート進出を生活に関わる具体的な問題としてとらえ始めました。そこに科学的なデータの説明が加わり、危険性への理解が深まっていったと思います。

 その上、最初は聞くだけだった参加者が、次第に積極的に発言するようになった。漁業、農業、主婦ら様々な立場の人が意見を出し合う中で、多くの経験に裏打ちされた知恵が蓄積され、参加者共通の認識ができ上がっていきました。

 ──地元調査団に参加されましたね。

 私は気象学が専門で、工場が出す亜硫酸ガスが地域に広がる様子を調査しました。端午の節句を前に空を泳いでいるこいのばりを見て、「これで風向を調べれば」とひらめきました。

 学校の講堂に生徒が集まった時、こいのぼりによる調査に協力してほしいと頼むと、300人以上が残りました。調査は5月上旬の10日間にわたり、それぞれの家でこいのぼりのしっばがどちらを向いているかを調べてもらった。生徒が学校に来ている間は、母親や祖父母が協力してくれました。

   国報告書は作文

 ──その結果を持ち、国の調査団と対抗したのですね。

 向こうの報告書は、学者でなく役人が都合よく書いた作文みたいで、こちらが追及するとしどろもどろでした。これを機に、「こんな報告書を出す国は信頼できない」という不信感がさらに広まっていきました。

──沼津では2万5000人の大集会がありました。

 私は高い場所にいて、集会場所を目指してあらゆる方向から人が集まって来るのを見ていました。壮観でした。今、思い出してもぞくぞくします。「これで勝てる」と確信しました。

 多くの人が、反対という同じ方向を向けたのは、自分たちの住んでいる場所を守るという強いふるさと意識があったからだと思います。当時の人と話をすると、みんな「あれは俺がやったんだ」と胸を張る。それぐらいの思いで取り組んだということです。
(朝日、静岡版。2014年08月27日。長尾大生)


 第2回・元三島市職員、土屋寿山さん

 ──反対運動は三島市から拡大しました。

 政治に関心のある市民が多かったと思います。戦後すぐ三島には、だれもが参加できる「庶民大学」が開講され、民主主義や人権、平和など新しい価値観を熱心に学びました。政治学者の丸山真男ら新進気鋭の若手学者が講師でした。その時に築かれた土壌が、この運動に結びついたとは、よく言われます。

 ──多くの市民が反対で結集した要因は。

 1958年に完成した東洋レーヨン(現東レ)三島工場の影響による大渇水を経験したことが一番でしょう。工場で大量の水を使ったため、62年3月には上水道が完全に止まり、水の配給が数ヵ月続きました。農業用水も枯渇し、農家も大変さを身をもって知っていました。

   農家がいち早く

 それに加え、バス2台100人で四日市を視察したことも大きな影響を与えました。「空気が汚いので昼間も雨戸を閉めている」「ぜんそくの人が多い」「魚は臭くて食べられない」などと住民から聞き、映像におさめてきました。その話は、あっという間に市民に広がりました。

 ──運動に参加していたのは。

 石油精製工場の予定地だった三島市中郷地区の農家がいち早く動き始めました。その後、婦人会、青年会、商工会議所など、幅広い層の市民に広がっていきました。

 当時の長谷川泰三・三島市長は、基本は保守でしたが、革新と一部保守の支持で1961年に初当選しました。その支持者の大半は反対派でした。とはいえ、国や県からの圧力もあり、市議会も賛成派が多数。市長は悩んだと思います。でも、反対運動を抑えつけようとはしなかった。それが、市民全体に運動が広がっていった大きな要因の一つだったと思います。

 ──地元新聞も反対運動を応援しました。

 「三島民報」は、四日市の惨状や反対住民の動きを詳しく伝えるなど、一貫して計画に批判的な記事を掲載しました。中郷地区へは数ヵ月、無料で新聞を配布するなど、市民が情報を共有するのに大きな役割を果たしました。

   学ぶことに意欲

 ──今、同じような問題が起きたとしたら。

 当時のような動きにはならないでしょう。1960年の安保闘争など、当時の人は政治を真剣に考えていた。それに、学習会に見られるように、学ぶことに意欲のある人が多かった。もし運動がなかったら「水の都」と称される三島は今、その面影もなかったかもしれない。

 新幹線が開通し、東京五輪が開催された高度経済成長期の1964年に、水や空気、自然の価値を認め、守った運動があったことは驚きであると同時に、三島市民が誇っていい運動だったと思います。(08月28日。長尾大生)


    第3回、一橋大学講師・平井和子さん

 ──コンビナート阻止運動では女性が活躍しました。

 私は清水町史編纂(へんさん)に関わる中で、女性が重要な役割を果たしたこの運動に興味を持ち研究をしました。

 かっばう着を身につけた主婦たちが先頭に立った抗議行動、念仏講と呼ばれる集まりに参加する年配女性が「悪魔退散、コンビナート退散」と唱えながらのデモは、運動の象徴的な場面としてよく語られます。

 婦人会、女子青年団など既成団体だけでなく、「母として、主婦として」一般の女性たちが多く参加したのも特徴です。これほど多様な女性たちが、主体性をはっきりと持って行動したことは、戦後女性史の中でも特筆すべきことでした。

 ──女性たちが行勤した理由は。

 四日市の公害の惨状を知り、「子どもや孫、次の世代の健康と命を守る」「ふるさとの空気と水を守る」という生活に根ざした訴えに共感する部分が大きかったと思います。

   男性も助け合い

 ──女性が運動に参加しやすい状況だったのですか。

 政党や組合を前面に出さず、こぶしを突き上げたりせず、腕章などはつけないという戦術がとられたため、女性も安心して参加できました。

 主婦同士で子どもを預け合い、近所の女性たちが助け合うネットワークも作られました。また、夫たちも妻が夜に出かける時は、子どもに食事をさせ、寝かしつけるなど家事・育児を分担してくれることも多かったそうです。

 ──運動で女性が果たした役割は。

 家にこもりがちだった女性たちが学習会や集会に参加することで、自分たちに身近な問題としてとらえ、政治に目覚めていきます。積極的に行動するようになると、男性も地域の対等なパートナーとして連携を図るようになりました。

 運動の中心だった男性の一人は「女の人が半分以上いると、この集会は成功するだろうと思うようになった」と言っています。今の時代の男女共同参画を先取りするような言葉が、反対運動の中で自然発生的に出てきたことに驚きます。

   成果得た50年前

──生活権や環境保護を訴えて成功する住民運動は今では困難なのでしょうか。

 原発再稼働や秘密保護法の反対運動を見るにつけ、きちんと成果を出すことができた50年前の運動がうらやましくて仕方ないです。

 官邸前での脱原発デモや集会にも、多くの女性が参加していました。脱原発も、生活に根ざし、次世代を守る視点からいうと、女性に訴えるものが大きいと思います。ただ、脱原発は、全国的な規模の運動なので広がっていくのに時間がかかる。でも、女性が男性を説得していくことで、今後、脱原発が無視できない大きな動きになっていく可能性もあると思います。      (08月29日。長尾大生)


   第4回、国際基督教大学4年・木村匠さん

 ──50年前のコンビナート阻止運動を卒業論文のテーマにしていますが、理由は何だったのでしょうか。

 科学技術と社会との関係、その中でも専門家と非専門家との協働について書きたいと思っていました。何か良い事例はないかと文献を探していたら、「三島」の文字を見つけた。私は沼津の出身ですが、中高は三島の学校に通っていたので、「これは何だろう」と関心を持ちました。

 調べてみると、コンビナートがもたらす生活への影響について学ぶ「学習会」が各地で開かれ、専門家と住民が協働して運動を成功に導いた。また、日本初の環境アセスメント調査を実施し、環境基準ができるきっかけになるなど、社会に大きな影響を与えたことを知りました。

   学校で教わらず

 ──学校で、この運動について教わったことは。

 まったくありません。でも大学受験の時、地理の参考書で「1964年・沼津・清水町にコンビナート進出計画」の文字を見たことはありました。高度経済成長期の年表みたいなところに。いま48歳の母親に、当時聞いたことがありますが、「知らない」と言われました。

 ──運動の影響は今も残っていますか。

 運動から50年の記念式典が、三島市で5月にあったので行きました。会場に座りきれないほどたくさんの人がいたことにびっくりしました。学術的、社会的にインパクトがあった運動だということは文献で知っていましたが、あの会場に行ってみて、運動にかかわった人は本当にすごいことをしたと思っているんだと、身をもって知りました。

   なぜ力を持てたか

 ──現在の学生として、運動をどう見ていますか。

 当時は公害があったにせよ、豊かな生活のためならどんどん開発していこう、というムードだった。その中で阻止運動が起きたのだから、自分たちの世代からすると「すごいね」という受け止め方になります。

 なんで、住民がこんなに力を持てたのか、調べてみても、いまだにわかりません。昔と今は考え方が違うのかも。僕たちは割と無関心だと言われます。周りを見ても、同様のことが今起きたら果たしてみんながそこまで熱心になれるのかな、という感じはします。

 ──この運動は地元にとってどんなものだったと考えますか。

 今でこそ、沼津港は全国的に有名で、「魚がおいしい」と言われているけど、コンビナートの進出を許していたら随分変わっていたんだろうなと思います。

 自分の親や祖父母の生活と運動が結びついていたんだと考えると、立ち上がってもらったことには本当に感謝しないといけないと思います。この運動で得られた成果を、自分たちがきちんと引き継いでいかなければという思いは強くなってきています。
 (08月30日。常松鉄雄)


 第5回、元法政大学教授・故船橋晴俊さん

 ──コンビナート阻止運動を調査されていますね。

 私は社会学者として、住民運動や環境問題などについて研究してきました。社会問題を鮮やかに解決した例を探している時にこの運動に出会い、2002年から2年間、現地で聞き取り調査をしました。

 ──この住民運動をどう評価しますか。

 公害防止の観点から、大規模な工場立地を阻止したという日本で初めての例でした。また、この運動は「公論」を形成し、住民の意思が政策に反映された点でも先駆的でした。

 ──公論とは?

 住民が主体となり、討論を通して鍛えあげた一貫性、説得性のある意見のことです。もちろん世論も大事ですが、ムードで変わる流動的な部分がある世論と公論は異なります。

   学習会がすべて

 ──なぜ公論が作り上げられたのでしょう。

 開発計画や公害問題について学ぶために様々な団体が各地で開いた学習会、四日市の現地視察に代表される住民調査、市民団体が作ったパンフレットやローカル新聞の報道などによって質の高い運動になりました。建設予定地だった三島市中郷地区の農家で運動の中心だった溝田豊治さんに会う機会があり、「なぜ運動は成功したのですか」と質問したち、ただ一言。「学習会がすべてだった」と返ってきました。

 シンプルですが本質を突いています。住民の意思がばらばらではなく、学習することで統合されたから、政策に反映できたのです。

 ──住民調査も大きく影響しました。

 沼津工業高校の先生と生徒300人以上が、こいのぼりを使って風向きを調べました。近視眼的に考えれば、コンビナートの反対運動は就職口を閉ざすことになります。しかし、生徒たちは「働く工場が郷土を汚すのは耐えられない」と、調査に参加した。この結果は、行政や企業側が示した大気汚染はないとするデータヘの反論となり公害反対を支える柱となりました。

   主体的な意見を

 ──東京電力福島第一原発事故が起きた福島でも住民運動はありますが、国や自治体の政策に影響を与えるほどではありません。

 避難が大きなハンディキャップになりました。国から体系立った指示はなく自分たちで判断し避難したことで、結果的に誰がどこにいるかが分からなくなり、なかなか住民の公論形成ができていません。だから行政に対し、効果的な要求を出せていないと思います。

 ──今後の住民運動における課題は何でしょうか。

 周りの意見に流される風見鶏型ではなく、自分の頭で考えて主体的な意見を持つことが大切です。そこが、今の日本人はあいまいになってしまっているかもしれないと感じています。
       (08月31日。杉本崇)
   ◇     
 船橋さんは今月15日、くも膜下出血で亡くなりました。インタビューは6月当時のものです。

    牧野の感想

① 「学習会がすべてだった」に感銘を受けました。これは私の言葉に翻訳しますと「真のオルグとは自分をオルグすること、即ち自分を高めることである」という事になります。

 社会運動を長らく続けてきて、「真のオルグとは何か」は常に中心的な問題意識でした。一般には「無関心な人とか中間的な人を味方に付けるように働きかける」と理解されています。これは間違いではないと思いますが、そのための方法なり手段はどうあるべきかが問題なのです。

 私は、本質論主義という答えを出し、その後もこれを充実させてきました。しかし、その後も多くの間違いや失敗をしました。今では、「学問は一代、思想も一代」という考えに達しています。ヘーゲルの言うように、「内が充実すればそれだけ外への影響力も大きくなる」のだからです。日本の言葉で言い換えるならば、修身斉家治国平天下です。私の大好きな言葉です。

 左翼運動の在り方の批判からベ平連などは「好いと思ったことは一人でもやる。悪いと思った事は一人でも止める」という「住民運動の原則」みたいなものを確認してきたようです。これも立派な考えだと思います。

 左翼運動の中では「真のオルグとは何か」はほとんど研究され、議論されていないと思います。

② しかし、コンビナート阻止に成功した後、少なくとも表面的には、この運動は受け継がれなかったようです。一概に、住民の意識が低いとは言えないと思います。これは相当難しい問題だからです。

 もっとも三島市ではドブ川になっていた川をきれいにする住民運動みたいなものが起きて、今では「水の都」と言われるようになっているのだと思います。三島は東海道の中で私の一番好きな街です。

 闘争の終わった後の問題に戻りますと、私たちの「都立大学大学院の哲学科」の日韓条約反対闘争は、「敗北後」も「月例政治学習会」として継続しましたが、半年間で中止になりました。私は中止に反対したのですが。

③ 「学校で教えられなかった」というのは大きな問題でしょう。なぜそうなったのか、これは調べてみないと分かりません。

 連想するのは、静岡大学でセクハラ事件が相次いで起きて、社会的に注目された時の事です。学内では誰もウンともスンとも言いませんでした。学生も集会を開いて抗議することをしませんでした。多分、授業で取り上げ、皆に考えを書いてもらったのは、私だけでしょう。その後も、毎年、この話はしました。

④ ローカル新聞の貢献が書かれていましたが、現在静岡県では防潮堤作りが進められています。これは大問題です。先日、NHKテレビは全国放送で取り上げていました。ローカル局でも取り上げているところがあります。

 しかし、その取り上げ方を見てみますと、県の進めている「巨大防潮堤」についてどう考えるか、だけです。宮脇昭さんの「防潮林」構想を実践している人たちがかなりいて、既に実行しているのに、これについては全然言及していません。これでは「公正な報道」とは言えないでしょう。


     関連項目

本質論主義の運動

静岡大学のセクハラ問題

森の防潮堤


が(格助詞)

2014年08月06日 | カ行
問題1、「が」か「の」か

 (2002年)05月15日の朝日新聞に次のような文がありました。

 01、R・バッジョ割り込む余地なかった事実、充実ぶりを物語る。

 感想・格助詞の「が」が3つも繰り返されています。中学で私の習った文法では、名詞に掛かる文の主語は「の」にする、というものでした。

 02、御米宗助に打ち明けないで、今まで過ごしたというのは、この易者の判断であった。(漱石『門』13)

 しかし今ではこういう場合でも「が」を使うのが当たり前になってしまいました。多分、英文法のお粗末な理解から、「主語は(どんな場合でも)『が』で表す」という考えが生まれたのでしょう。

03-1、援助必要な人たちがいるという現実は変わらない。(2001,5,15, 朝日)
 03-2、そんな思い込み強い指導者が多すぎないだろうか。(2002,1,26,朝日)

  そして、ついに「が」を3つ重ねてもおかしいと思わない新聞記者が生まれたわけです。日本語はこうして悪くなっていくのだと思います。

 今の学校では文法の時間にどう教えているのでしょうか。このメルマガの読者に国語の先生がいたら教えて下さい。 (メルマガ「教育の広場」2002年05月26日発行)

 04、岩田社長これほど気分晴れた正月を過ごすことできたのは何年ぶりのことだろう。(2014年1月、日経)

 01と同様、「が」が3回も繰り返されています。やれやれ。


九(く)

2014年08月04日 | カ行
 問題意識・同じ「第九」でもベートーベンの交響曲の場合は「だいく」ですが、憲法の場合は「第九(だいきゅう)条」だと思います。どういう場合は「く」と読み、どういう場合は「きゅう」と読むのでしょうか。その一般的な基準は何でしょうか。そもそもそれを分ける「一般的な基準」はあるのでしょうか。

 新明解には「く」について、「九(きゅう)に比べて使用範囲が狭く、熟した表現において用いられることが多い」とあります。これは、この問題に「気づいてはいるが、追求していない」ということでしょう。「両者の使い分けには一般的基準はない」とか、「一般的基準が何かは分からない」と正直に明確にしないから、この段階で止まってしまっているという一例です。正直は学問の前提です。

 なお、明鏡には何の説明もありません。

★ 「九」の「く」または「きゅう」以外の読み方

九十九(つくも)、九十九髪(つくもがみ)、九十九折(つづらおり)、九重(ここのえ)、


関係性

2014年08月01日 | カ行
問題意識・佐々木健一著『辞書になった男』(文芸春秋)の44頁に「ケンボー先生と山田先生の関係性について言及するかしないかという以前に~」という文がありました。この「関係性」は明鏡にも新明解にも載っていません。

感想・「関係」で十分でしょう。それなのに、このように「関係性」という人が多くなっています。同じような「おかしな言い換え」には「方向」を「方向性」というのがあります。 2014年07月17日の記者会見で菅(すが)内閣官房長官が「方向性」という言葉を使っていました。

こういう風にわざわざ曖昧な語句を使う風潮はどこから来るのでしょうか。日本人の一般的特徴かもしれません。実例を注意深く集めて行きましょう。

 但し、武谷三男が「技術とは人間実践(生産的実践)における客観的法則性の意識的適用である」(『弁証法の諸問題』理論社190頁)という場合の法則性の「性」はこれと同じではない。武谷は「ここに客観的法則性というのは、ただ法則だけをいうのではない、本質的な法則が現象する全構造をさしていうのである。また必ずしも法則を認識してそれを適用することをいうのではない。とにかく何らかの客観的法則性があり、これが目的を媒介しうることを認めさえすればよいのである。すなわち認識という科学よりも先に技術が存在していたことを意味するのである。しかし近代技術と科学の関係を無視する規定は誤りである。また、これによって誤れる技術や偽れる技術として、魔術、占星術、錬金術を扱うことができる」(同書189頁)と言っています。

     関連項目

方向性



掛川市の海岸防潮林

2014年06月11日 | カ行
 海岸防潮林の強化で住民の津波不安を払拭(ふっしょく)する掛川版「万里の長城」整備に向け、本年度から試験施工を開始する方針を固めた。9日、関係者が明らかにした。県の松枯れ対策事業と連携し、国土交通省と民間事業者の協力も得て、低コストで一石二鳥の効果を生む“掛川モデル”の手法確立を目指す。

 試験施工の予定地は、同市沖之須の約3ヘクタール。松枯れ被害が深刻な防災林で枯れ木を除去する県事業に合わせ、市は谷間を埋めて植生基盤を盛り土する計画。完成後の防災林は、県の第4次地震被害想定で最大のレベル2に対応する海抜10〜12メートル程度になる。

 盛り土には試験施工予定地から約8キロ東の菊川河口近くで進める河道掘削工事で発生する土砂約5万立方メートルを利用する。河川工事主体の国交省浜松河川国道事務所にとっても発生土の処理費用を抑えるメリットがある。

 樹木の成長に必要な覆土2〜3万立方メートルは、地元の砂利採取業者から無料提供を受ける。市が負担するのは、覆土の運搬費と盛り土を締め固める工事費、のり面整備などで計6000万円の見込み。

 盛り土をすることで、マツの根が深く地下に伸び、津波や風雨などに対する耐久性が高まる利点もある。試験施工箇所は3区画に分け、盛り土を固める強さを変えてマツの生育状況を確かめる。

 菊川の河道掘削工事による発生土は今後100万立方メートルが見込まれ、これを活用して市域の海岸線約10キロの防災林を10〜20年で全て強化する構想。市は本年度予算で2300万円を使い、海岸線の地形や地質を調査し、年度内に全体構想をまとめる。

 防災林の海側にはマツ、陸側には常緑広葉樹を中心に植栽する予定。マツは県事業で植え、広葉樹は市がNPO法人や民間企業などと一緒に取り組む「命の森づくり」事業の一環として進める方針。伊村義孝副市長は「防潮堤整備には莫大(ばくだい)な費用が必要で国や県の対応を待つしかないと思っていたが、掛川モデルなら厳しい財政状況でも手が届く。市民協働で、全国的な先進事例を完成させたい」と意欲を示す。

 県内の津波対策取り組み状況

 県内の沿岸部21市町はそれぞれ単独や隣接自治体との共同で、協議会や検討会を設置し、防潮堤整備をはじめとする対応について県と協議を進めている。浜松市の海岸線17.5キロについては民間事業者からの300億円の寄付を元に、県に同市などが協力する形で、既に防潮堤整備の試験施工中。防潮堤の高さは13メートル程度で、砂利とセメントを混ぜ合わせた材料を中心部に据える工法を採用している。
(静岡新聞ネット版、2014年06月10日)

  感想

 浜松市の札束防潮堤とこちらの「頭を使った防潮林」と、どちらが「防潮」の目的を果たすか、興味深いですね。この結果を見届けるまで生きていられるかな。

研究の不正事件をなくすには

2014年06月02日 | カ行
 研究の不正事件について、国立遺伝学研究所教授の有田正規(まさのり)が朝日紙に寄稿しています。

   記(研究不正、背景に論文の「名義貸し」)

 研究不正の報道が続く。理化学研究所のSTAP細胞の論文だけではない。製薬会社ノバルティスの高血圧薬をめぐる論文不正事件は記憶に新しい。東京大学でも、10年以上にわたる論文捏造事件の調査が続いている。これらに共通する問題点がオーサーシップ、すなわち論文著者のあるべき姿だ。

 表向きには、著者の定義は明確だ。医学雑誌編集者委員会という学術専門誌の国際組織が、①研究の発案・デザイン、データ取得またはデータの解析・解釈②主要部分の執筆または修正⑧最終印刷版の承諾④疑義に対し説明できる、のすべてを満たした場合と定めている。逆に、これらを全て満たせば、著者に加える義務が生じる。

 しかし、著名人らのベストセラーに代筆があるように、学問の世界でも名義貸しが横行している。とりわけ、再現実験が容易ではない生命科学の分野では、研究の質を推し量る際に著者の信頼度も手がかりとせざるを得ない。ノバルティス事件では、統計処理は大学の研究室が行ったという虚偽の記載がなされた。STAP細胞に関するネイチャー論文にも、幹細胞研究の権威である笹井芳樹氏の分担が「研究計画を立て、実験を行い、論文を執筆」と明記されている。簡単にいえば、知名度やブランドカがモノを言う。

 大きな問題は、実際の関与の度合いにかかわらず、論文の功績が所属長や研究責任者に流れることだ。スポーツに例えれば、選手が金メダルを獲得しても、昇進したり名営に浴したりするのがコーチという状況に近い。実際に手を動かす研究者も、良い成果を出せば今度は自分がそうしたボスになれると夢見る立場に甘んじる。

 こうした評価体制を改善しないで、末端研究者のモラルや倫理観に不正の原因をなすりつけても、研究環境は悪化する一方である。

 さらなる問題は、不正が明るみに出ても、研究責任者への処分が若手に比して軽い点である。いずれの事件においても、責任著者は自らの関与を否定している。関与を否定すれば、所属機関は、処分に二の足を踏むだろうし、高額研究費を取得する重鎮であるほど長く在籍させたい。研究費総額の3割を間接経費として取得できるからだ。研究費を受け取りつつ、ほとばりが冷めるまで処分を先延ばしすることが、研究者と所属機関の双方にとって最善手となる。

 これを防ぐには、所属機開から独立して調査・処分できる裁量を持つ組織が必要である。著者の責務を明確化し、不正が発覚した際には、論文に記載された通りの責任の重さに基づいた処分が下されるべきであろう。
 (朝日、2014年5月3日。私の視点欄)

   感想

① 理系の事はよく知りませんので、ありがたかったです。根本的には文系でも同じだと思います。

 数人の看板になる教授を特別に雇って、他は大したことがなくても、「我が大学はリベラルアーツを実行しています」と宣伝している大学もあります。

 大学のホームページに「意見と主張の言える人間教育」と書きながら、自分の意見も主張も発表していない教授もいます。自著が一冊もない教授もいます。

 もう少し広く見ますと、回答するべき批判に対して回答をせずにいる有名評論家もいます。私の知っている範囲では、立花隆とか長谷川宏などです。こういう人を「知の巨人」とか持ち上げて、相変わらず使っているメディアもあります。こういう風潮も批判するべきでしょう。

② 解決策として「所属機開から独立して調査・処分できる裁量を持つ組織が必要」という案は適当なのでしょうが、他人頼みなのが気になります。市民としてすべき事もあるのではないでしょうか。

③ まず、こういった不正を正すべきは誰なのかを考えてみましょう。すると、金を出している人ないし機関だということが分かります。特に、公金で為されている仕事とそれを担っている人(公務員)の場合は、予算を出している機関が、その予算の使われ方をチェックし、不正があれば正すのが筋ではないでしょうか。

 しかるに、こういう不正が沢山あるという事は、そのチェックがきちんと行われていない、という事だと思います。研究所の仕事での不正ならば、多分、文科省が予算を出しているのでしょうから、文科省の監視と指導が不十分なのでしょう。最近報ぜられた社会福祉法人のインチキの場合でも、監督官庁の監視が緩すぎるのが一因とされています。

 では、その時は誰が文科省のだらしなさを指導するべきなのでしょうか。文科大臣(副大臣、政務官を含む)でしょう。では、文科大臣がその仕事を適正に行っていないとすると、誰がそれを是正するのでしょうか。総理大臣だと思います。では、最後に、総理大臣がその為すべき仕事をきちんとしていない時はどうしたら好いのでしょうか。国民が批判するとか、選挙で政権交代を要求するとかでしょう。

 結局、国民が公務員に対する監視をどれだけきちんとやっているかが最後の決め手なのではないでしょうか。従って、この点に付いての自己反省をせずに、監視機関を作れといってもあまり効果はないと思います。

③ この方は国立の研究機関に勤務しているようですが、自分の所の内部について「内部告発」までゆかなくても、ネットで「あるべき情報公開」をしてみたらどうでしょうか。

 「自分の所属する機関」では難しいというならば、よその機関について「カウンターホームページ」を作ることも出来ると思います。

 同等の機関ではなく、近隣の学校について、そのホームページを批評するホームページを作っても好いと思います。

 日本はとっくの昔に成熟社会になったと言われています。しかるに、成熟社会とは官僚に指導される社会ではなく、民間の方が官僚より上になる社会だと聞いたことがあります。、市民が自分で自発的に「公」を監視するようになる事が大前提だと思います。

換称代名詞とは何か

2014年05月06日 | カ行
 「小論理学」(未知谷版)の準備を続けています。存在論の最後のMass(程度)論の所に出てくるRegel(規則)という概念に引っかかって調べています。その関連で寺沢訳『大論理学』(第一巻)を検討しています。この訳の「始原論」はpdf鶏鳴双書「ヘーゲルの始原論」で検討しましたが、今回は「程度論」です。

 「程度論」の内容について考えた事、特にRegel論は、機会があればまた書くつもりですが、まずはドイツ語の読み方について、この記事の表題に掲げました「換称代名詞」について書きます。

 換称代名詞という言葉は関口存男の造った言葉です。一応の説明は「関口ドイツ文法」の601頁以下に載っています。最近では特にスポーツ選手などについては、外国のまねをして、「23歳は」などと言うことが多くなったようですが、これがそうです。

 さて、程度論の冒頭の段落の原文は次の通りです。

Im Maße sind die Qualität und die Quantität vereinigt. Das Sein als solches ist(1)
unmittelbare Gleichheit mit sich selbst. Diese Unmittelbarkeit hat sich aufgehoben. Die Quantität ist das in sich selbst zurückgekehrte Sein, einfache Gleichheit mit sich(2) als Gleichgültigkeit gegen die Bestimmtheit. Aber diese Gleichgültigkeit zeigt sich, reine Äußerlichkeit zu sein, nicht an sich selbst, sondern in anderem die Bestimmung zu haben. Das Dritte ist nun die sich auf sich beziehende Äußerlichkeit; um der Beziehung auf sich willen ist sie zugleich aufgehobene Äußerlichkeit, Gleichgültigkeit gegen das Bestimmtsein(3), dadurch dass sie an ihr selbst ihren Unterschied von sich hat.

 寺沢訳──度量のうちには質と量とが合一されている。存在そのものは自己自身との直接的相等性である(1)。この直接態は揚棄されている。量は自己へと還帰した存在であり、規定態に対する無関心性としての・自己との単一な相等性である(2)。だがこの無関心性は純粋な外面性であること・自己自身のもとにではなく他のもののうちに規定をもつことが示される。第三のもの〔度量〕はいまや自己自身へと関係する外面性である。自己へと関係するそのゆえにこの外面性は同時に揚棄された外面性であり、それが自己からのそれの区別をそれ自身のもとに〔顕在的に〕もっていることによって、規定された存在に対立する無関心性である(3)。

 牧野訳──程度では質と量が一体化している〔程度は質と量の統一である〕。存在そのもの〔存在の第一段階、即ち質〕は自己自身との直接的同等性であった(1)。この直接性〔即ち質〕は自己を止揚した〔第二段階の量に成った〕。〔第二段階の〕量は自己内に還帰した存在〔質〕であった。〔従って〕それは(2) 単なる自己同等性であり、従って規定性〔質〕に無関心なものであった。しかし、〔量の運動の結果として分かった事は〕この無関心性〔量〕は純粋な外面性であって、自己の規定を自己自身の中には持たないで他者の中に持っている、という事であった。かくして生成した第三のもの〔第三段階の程度〕は〔前二者の統一だから〕「自己関係する外面性」である。自己関係するのだからその外面性は〔外面性であると〕同時に止揚されてもいる〔量のような「単なる外面性」ではない〕。つまり、〔ここでは〕規定への無関心が止揚されている(3)。この外面性は自己内の区別を自己の表に出しているのである。

(1) この文はistとなっていますが、日本語としては過去に訳した方が当たるでしょう。これまでの経過を振り返っている訳ですから。以下同じです。

(2) このeinfache Gleichheitは無冠詞ですが、不定冠詞が付いているのと同じだと思います。前の語の「説明」でしょう。『辞書で読むドイツ語』の171頁で「定冠詞と不定冠詞の同格付置の4つの場合」を説明しましたが、その最後に「冠詞の付かない無冠詞形はほとんどありませんから、この際除外します」と書きました。しかし、実際にはこのように「稀にはあります」。こういう場合どう考えたら好いでしょうか。私の方針は「完全無欠は目指さない。根本的な事をしっかり押さえる。八割分れば十分」です。例外や「稀な事」が出てきたら、その場で考えるだけです。

(3) このGleichgültigkeit gegen das Bestimmtseinはその前にあるどの語句と並んでいるのでしょうか。考えられる案は2つです。

 A案・aufgehobene Äußerlichkeitと並んでいる。従って、ist sie zugleich aufgehobene Äußerlichkeit, d.h. sie ist Gleichgültigkeit gegen das Bestimmtseinとなる(寺沢の理解)。
 B案・Äußerlichkeitと並んでいる。従って、ist sie zugleich aufgehobene Äußerlichkeit, d.i. sie ist zugleich aufgehobene Gleichgültigkeit gegen das Bestimmtseinとなる(牧野の理解)。

 文法的には両方とも可能でしょうが、内容的には両方の案では意味が逆転します。なぜならA案ではGleichgültigkeit gegen das Bestimmtseinにはaufgehobene(止揚・否定された)が掛からないことになりますが、B案では掛かることになるからです。Geichgültigkeit gegen das Bestimmtseinは上の原文の4行目のGleichgültigkeit gegen die Bestimmtheitの繰り返しで、これは量の性格ですから、これを肯定することになる解釈は拙いでしょう。

 「規定された存在に対立する無関心性」という訳も正確ではないと思います。「規定された存在〔あり方〕に対する無関心性」でしょう。そういう無関心性を止揚している。つまり、無関心ではなくなっている、です。ではなぜ寺沢はこういうおかしな訳を付けたのでしょうか。4行目のGleichgültigkeit gegen die Bestimmtheitは正しく「規定態に対する無関心性」と訳しているのに、です。思うに、寺沢はこの句を「規定された存在〔あり方〕に対する無関心性」と正しく理解して訳すと、内容的におかしくなる事に気づいていたのでしょう。しかし、B案の訳が可能だとは気づかなかったので、仕方なしにA案で訳したのでしょう。

 ★ 以上の注番号は、原文と寺沢訳と牧野訳とで対応させてあります。

 さて、テーマの換称代名詞です。寺沢も「第三のもの〔度量〕」の一カ所では言い換えであることを、事実上、正しく注記しています。しかし、その他の言い換えは気づかなかったのか、注記していません。私は気づいただけは角括弧で補いましたので、それで検討してください。主要なものだけ繰り返しておきますと、

 1行目のDas Sein als solchesはQualitätの換称代名詞です。
 2行目のDiese UnmittelbarkeitもQualität の換称代名詞です。
 4行目のdiese Gleichgültigkeit はQuantität の換称代名詞です。

 一般的に言っても、換称代名詞を正しく取らないと、欧米の言葉は誤解してしまう事が多いですが、まあ、ヘーゲル以外の事は門外漢ですので、ほらを吹くのは止めますが、ヘーゲルでは言い換えはもの凄く重要で、「この語句はどの語句の言い換えかな」と常に考えて読まないと、全然読めないと思います。