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マキペディア(発行人・牧野紀之)

本当の百科事典を考える

お知らせ

ながく、牧野紀之の仕事に関心を持っていただき、ありがとうございます。 牧野紀之の近況と仕事の引継ぎ、鶏鳴双書の注文受付方法の変更、ブログの整理についてお知らせします。 本ブログの記事トップにある「マキペディアの読者の皆様へ」をご覧ください。   2024年8月2日 中井浩一、東谷啓吾

運命

2007年02月20日 | ア行
   参考

 1、古代人は周知のように必然を運命と考えていたが、近代の立場はこれに反して慰めの立場である。慰めとは一般に我々が自分の目的や利益を断念する時、その代償が得られるだろうという思い込みをもってそうすることであるが、運命はこれに反して慰めのないものである。
 (ヘーゲル『小論理学』 147節への付録)

宇宙

2007年02月19日 | ア行
 1、紀元前二世紀の中国(前漢時代)で著された『淮南子』(えなんじ)に「往古来今謂之宙、四方上下謂之宇」と解かれている。つまり、「宙」とは往古来今すなわち時間を、「宇」とは四方上下すなわち空間を意味するというのである。

 ~宇宙をたんに空間的な広がりとしてだけでなく、時間を含む概念としてとらえたところに注目すべき点がある。~

 西欧で宇宙に相当する言葉はコスモスあるいはユニバースである。天体宇宙にコスモスという名称を与えたのはアルキメデスだとされており、そこにはギリシャ語本来の「秩序」「調和」「美しさ」といった価値観が含まれている。そして人間にとって意味のある秩序だった世界観がコスモロジーである。/

 一方、ラテン語に発するユニバースには「統一」とか「普遍」の意がこめられていて、ユニバースの宇宙は人間中心のコスモスより自律的であるといえるだろう。

 宇宙は人類の存在の有無にかかわらず、より普遍的な法則によって統一されている。ここでは宇宙における人類の意味や地位はおろか、天体の存在や配置すらが、つきつめていえば偶然の所産になる。それがユニバースである。
 (松井孝典『宇宙誌』徳間文庫)

意志

2007年02月18日 | ア行

   参考

 1、精神と思考と意志の関係

  (1) 精神は思考一般である。
  (2) 一方に思考、他方に意志、という関係ではない。
  (3) 思考は理論的振る舞い。意志は実践的振る舞い。

  (4) 意志は思考の特殊な様式である。定存在の中へと自己を移し置くもの、自己に定存在を与える衝動としての思考である。

  (5) 意志は思考の中で始まる。初めは思考に対立しているものとして現象する。行為するとは、自己を規定することである。即ち、区別を立てることである。しかし、この区別行為
の規定は私のものである。

  (6) 理論的なものは実践的なものの中に含まれている。意志は自己規定する。この規定(目的意識のこと)はさしあたっては内的なものである。動物も内的なものに動かされる。しかし、それを表象しないのである。

  (7) 意志なくして思考することはできない。

  (8) 意志の根本規定は自由である。(略)自由なき意志というものは空虚な単語であり、自由はただ意志として、主体としてのみ現実的なのである。
(以上、ヘ-ゲル『法の哲学』第4節への付録)

 2、自我の中に見出されるどのような内容でも捨象しうる絶対的可能性としては、これ(普遍性としての意志)は否定的な自由、悟性の自由である。(ヘ-ゲル『法の哲学』第5節への注釈)

 3、恣意とは意志として現れた偶然性である。それは矛盾としての意志である。その真理における意志ではなく、形式的には自己規定であるが、内容から見ると外から規定されている。(ヘ-ゲル『法の哲学』第15節及びその注釈)

 4、たしかに恣意はあれかこれかを自分で決める能力ですから、その概念からいって自由な意志の一つの本質的な契機ではあります。しかし、それは決して自由そのものではなく、さしあたってはたんに形式的な自由にすぎません。

 恣意を止揚して自己内に含み持つ真に自由な意志は、自己の内容を絶対的に確実な内容として自覚し、その内容を端的に自己自身の内容として認識しているのです。

 それに対して、恣意の段階に止まっている意志は、内容的に見て正しい決定をしたとしても、その気になれば別の決定も出来たのだという思い上がった考えを持っているのです。

 更に細かく見ると、恣意の中ではいまだに形式と内容が対立しており、その意味で恣意は矛盾です。

 恣意の内容は与えられたものであり、意志自身の中に根拠づけられてはおらず、意志の外にある諸々の条件から来るものであることが分かっている。

 従って、そのような内容面での自由とは、選択という形式的な事にほかならない。

 よくよく分析してみると、この意志の選んだ内容を条件づけた外なる諸事情は、この意志がまさにその内容を選ぶように決めているということが分かるのであり、その限りでこういう形式的自由は又通俗的な自由のことにほかならないのである。(ヘ-ゲル『哲学の百科事典』第145 節への付録)

 5、意志は、知性とは違って、外部から与えられた個別的なものをもって始めるのではなくて、自分が自分のものとして知っているような個別的なものをもって始め、次にこの内容(もろもろの衝動及び傾向性)から自己内に反省して、この内容を普遍者に関係させ、そして最後に自分を自己自身において普遍的なもの、自由、自分の概念に対する意欲に高める。(ヘ-ゲル『哲学の百科事典』第387 節への付録)

 6、意志の世界〔つまり歴史の世界〕は偶然に任されてはいない、という信念と思想こそ、歴史考察にあたって持たなければならないものである。(ヘ-ゲル『歴史における理性』29頁)

 7、意志が普遍的なものを意志する時、その時に意志は自由になり始める。普遍的なものを意志するということは、思考の思考(普遍者)への関連を含んでおり、従って思考は自分自身の元にあるのである。(ヘ-ゲル『全集』18巻 118頁)

エネルギー

2007年02月16日 | ア行
   参考

 1、エネルギーという表現は確かに運動の全ての関係を正しく表現してはいない。というのは、それは一つの側面である作用〔の面〕を捉えてはいるが反作用〔の面〕は捉えていないからである。

 それは更に、エネルギーが物質にとって何か外的で、物質に移植されたものであるかのような外観を許している。

 しかし、それは力という表現よりはどんな場合でもより良いものとされなければならない。
 (エンゲルス『自然弁証法』)


英雄

2007年02月15日 | ア行
   参考

 1、偉大な行為をなし遂げたいと思う人は、自分を制限することを知らなければならない、とゲーテは言っている。
 (ヘーゲル『法の哲学』第13節への付録)

 2、何か役に立つような事をする人は、あれこれと多くの目的に自分を分散させない。彼はその真の大きな目的にすべてを捧げるのである。
 (ヘーゲル『歴史における理性』)

 3、国家の中では〔国家が出来てからでは〕英雄は存在しえない。英雄はただまだ形成されていない状態でのみ現れるのである。
 (ヘーゲル『法の哲学』第13節への付録)

 感想・ヘーゲルは指導者を革命的指導者(新しい社会秩序を作る運動の指導者)と体制的指導者(所与の体制内でその体制を発展させる運動の指導者)とに分けて、前者だけを英雄と呼んでいるようです。

 4、自分の個人的で特殊な目的が世界精神の意志でもある実体的なものを含んでいるような人々が世界史における偉人である。この内容が彼らの真の力であり、この内容は彼らの無意識的な一般的本能の中にあるのである。

 彼らは内からそこへと突き動かされていくのであって、そのような目的の遂行を自分の利益と考えて引き受けた本能と比べて、自分の利益に反してまでやろうという心構えを一層多く持っているわけではない。

 民衆は彼の旗の下に集まる。彼は民衆に民衆の本当の内在的な衝動は何かを〔民衆を代表して〕示し、それを遂行するのである。
 (ヘーゲル『歴史における理性』)

 5、世界史的人物の立てた目的は人々の心の中に実際にあったものである〔それを外に出して明確に立てただけである〕。
 (ヘーゲル『歴史における理性』)

 6、なるほどすべての偉大な人々は孤独の中で自己を形成した。しかし、それはただ国家が既につくり出しておいたものを自分で加工したにすぎないのである。
 (ヘーゲル『歴史における理性』)

 7、個人の世界史的なあり方、つまり個人の世界史と直接結びついたあり方。
 (マルクス『ドイツ・イデオロギー』)

 8、経済学者たちがブルジョア階級の科学的代表者であるのと同じように、社会主義者たちと共産主義者たちはプロレタリア階級の理論家である。

 プロレタリアートがまだ自己を階級に構成するほどにまで発達していない限り、従ってプロレタリアートとブルジョアジーとの闘争そのものがまだ政治的な性格を持たない限り、そしてまたブルジョアジー自身の胎内で生産諸力がまだプロレタリアートの解放と新しい社会の形成とに不可欠な物質的諸条件を予見させるほどにまで発展していない限り、これらの理論家たちは抑圧されている階級の窮乏を予防するために色々な社会体制を案出したり、社会を再生させるような科学を追い求めたりする空想家にとどまるしかないのである。

 しかし歴史が前進し、それと共にプロレタリアートの闘争が一層はっきりしてくるにつれて、プロレタリアートの理論家たちはその科学を自分の精神の中に捜し求める必要はなくなる。彼らは自分の目の前で起こっていることを理解し、その器官になりさえすればよいのである。
 (マルクス『哲学の貧困』)


衛生

2007年02月14日 | ア行
 1、明治政府の医務局長兼衛生局長だった長与専斎(1838~1902)が「荘子」の中にあるこの語をとってドイツ語の Gesundheitspflege(ゲズントゥハイツプフレーゲ)の訳語とした。
 (2002,8,22,日経の外山幹夫の文章による)


頭の中

2007年02月13日 | ア行
 ① 「頭の中が真っ白になった」という表現がある。茫然自失して何も考えられなくなった時の気持ちを表すのだと思う。

 01、これからという時の致命的なけが。頭が真っ白になり、体から力が抜けていった。(2001,11,14, 朝日)

 感想・これはおかしい。「頭が真っ白になる」というのは頭髪が真っ白になるということである。しかし、その後NHKの番組「京都祇園祭」の中でも「頭が真っ白になったらどうしよう」という台詞を聞いた。こういう言い回しが一般化し始めているのかな、と思った。

 2001年12月19日付けの朝日新聞に載った卓球の福原愛さんの話(日本選手権の開会式で選手宣誓をした感想)の中にこうあった。「もうパニック状態。頭の中が真っ白だった」。これを読んで少し安心した。

 付記。2003年1月14日付けの朝日新聞夕刊の「舞の海、戦士のほっとタイム」で恩田美栄さんの言葉の中にやはり「でも、全日本選手権のときは、正直言って頭が真っ白でした」というのがあった。今ではこの言い方がかなり広まっているようだ。(2003年1月15日記す)

 ② 例えば「真っ赤な嘘」といったように何か必ずしも物質的でない事柄を色で表す場合、それは単に習慣でそうなっているのではなく、心理的な根拠があるのだと思う。「頭の中が真っ白になる」というのもそういう場合に実際に真っ白になったような感じがするからそう言うのだと思う。

 01、しかしその言葉は、つぎの瞬間何の苦もなく腑(ふ)に落ちて、文四郎の頭のなかで音立ててはじけた。文四郎は目の前が真っ白になったような気がした。(藤沢周平『蝉しぐれ』)

 感想・これはやはりおかしいのではあるまいか。「目の前は真っ暗になる」ものではなかろうか。

 ③ 「頭の中」と結びつく言い回しにはこの他にどんなものがあるだろうか。「頭の中が空っぽだ」「頭の中に詰まっている」「頭の中に入っている」「頭の中にない」などが浮ぶが、このほかにもあるだろう。これらは「中」を取って、「頭が空っぽだ」等とも言うかもしれない。

 ④ 今回「頭の中が真っ白になる」という言い回しについて辞書で調べようと思ったが、どこを探していいのか分からなかった。「頭」でも「真っ白」でも出ていなかった。「頭の中」という見出し語はなかった。もちろん私の調べた二三のものだけで言うのだが。辞書を調べる時にはよくこういう事がある。学問的に厳密でなくてもいいから、常識的に引けるようにしてほしいものである。知らないからこそ調べるのだからである。

あらゆる

2007年01月30日 | ア行
 1、語の由来

 動詞「有り」の未然形に上代の助動詞「ゆ」の連体形がつながった出来た語。

 2、意味

 有る限りの、すべての。

 「ありとあらゆる」は「あらゆる」を強めた表現。

 「あらゆる場合を考えた」「ありとあらゆる場合を考えた」等。

 3、否定的な語との結びつき。

 「彼といえどもあらゆる言語に通じているわけではない」といったように、全称命題を否定して少数の例外を言う場合に使うのだと思います。

   用例

 (1) フライシャー大統領報道官は、今後の軍事行動について「大統領はあらゆる選択肢を排除しない」と語り、地上軍の投入もあり得ることを示唆した。
 (2001,9,17, 朝日。
  これは16日にもTVで繰り返し報道された言葉です)

 考察・文脈から判断すると、この「あらゆる選択肢を排除しない」とは、「味方の犠牲の少ない空爆とか巡行ミサイルによる攻撃以外にも他の全ての手段を検討する」「初めから使わないと決めてしまう手段はない」という意味です。

 つまり全称命題そのものです。しかし、この言葉は言葉としてはそういう意味にはならないと思います。「あらゆる選択肢を排除はしない」「いくつかの選択肢を使う」という意味になると思います。

 従って、正しくは、「どのような選択肢も排除しない」と言うべきだったと思います。元の英語でどう言ったのか分かりませんが、訳した人が間違えたのかもしれません。

 (2) 大統領は「悪の枢軸」と名指ししたイラクなどへの対応について「すべての選択肢を排除しないが、平和的に解決したい」と述べた。
 (2002,2,19,朝日)

 考察・船橋洋一氏はこれを(3)のように訳しています。

 (3) 大統領は「彼らの行動パターンを変えるように国際社会が協力する必要がある。どのような選択肢も排除しないが、平和的に解決したいと考えており、外向的努力を続ける」と言った。
 (2002,2,21,朝日)

 (4) イラクへの軍事行動の可能性については、大統領は記者会見で「すべての選択肢はある。テーブルの上にそのまま載せておきたい。何一つ排除したくない」と強い調子で語り
 (2002,2,19,朝日)

 (5) 現在、国立大学すべてに文部科学大臣の任命を受けた運営諮問会議が置かれ、大学運営に参与している。
 (2002,2,25,朝日)

 (6) 国立大学のすべてが同じ状況であるわけではない。
 (2002,2,25,朝日)

 (7) 全少年の関与否定
 (2002,3,21,朝日)

一(いち)

2007年01月24日 | ア行
 1、ドイツ語(英語でも基本的には同じだと思う)の不定冠詞の意味(冠詞に意味なぞないというならば、ニュアンス)について考えました。

 不定冠詞については中学の(そして多くの場合は大学でも)英語の時間に「『1つの』ということだから複数形はない」と教えられていると思います。

 2、フランス語やポルトガル語の不定冠詞には複数形がありますから、この説明は間違いです。

 では不定冠詞の意味は何でしょうか。

 それを説明するのは大変なのでここではしません。しかし、それが「一」と結びついていることは確かでしょう。

 ドイツ語の不定冠詞は einとその変化形であり、「一」を表す eins と繋がっていることは一目瞭然です。そして、その意味についても「1つの」と訳してよい場合は少なくありません。

 しかし「1つの」と訳してはならない場合もあります。私見ではそれは二進法の「1」と関係しています。

 二進法の「1」の意味は「存在」です。

 3、さてそういった関係からなのですが、日本語の「一」の意味を考えてみることになりました。以下はその試みです。

 4、「一」の諸義

 A・自然数の最小のもので「一つの」という意味。

 原則として十進法の「1」が想定されていますが、十二進法などの場合もあるかもしれません。しかしいずれにせよ、二進法の「1」ではありません。これが大切。

   実例──打者が一巡する。一芸に秀でる。一瞥する。

 B・序数詞の最初のもので「第一の」という意味。

 これが価値的な意味合いを持つと、「最高の」「最上の」という意味になります。

   実例──(時刻の)一時。一次試験。一人称。一級品。
       一軍に登録される。 

 考察・「一流」は元は「一つの流派」の意ですが、そこから「その派独特の」という意味が出て「彼一流のやり方で」といったように使われ、更に「一つの流派を為すほどの」ということで「第一級の」という意味が出たのではなかろうか。

 C・(不特定の)「或る」という意味。

   実例──一栄一落。一喜一憂する。一時○○していた。

 D・「短い」とか「少し」という意味。

   実例──一言にして言えば。一時仕事を休む。一興。一見したところでは。一知半解。

 E・「全部」という意味(これは「一任」以外にもあるのだろうか)。

   実例──一任する。

  考察・「一巻の終わり」は「一つの巻物が終わる」→「全部終わる」。ということは「一」は「全部」を含む。二進法の「一」か。「一切」、「一切合切」。一般的と全般的とは同義です。

  「これで俺も一巻の終わりだ」と言う時、自分が死んでも他人 は生きていると考えると、複数に対する一、つまり単数と考えられますが、ここでは他人のことはともかく自分が全部終わるということに力点があるのだと思います。つまり、全部の意味です。

 F・「一気にかつ完全に」という意味。

   実例──一事態は一変した。
         cf. 事態は変わった、事態は急変した。
       攻守は一転した。心機一転。
       人心を一新する。cf. 人心を改める。
       滞荷を一掃した。cf. 滞荷をさばいた。

 G・形容詞を強める働きをする場合
  (これは「一大○○」しかないと思う)。

   実例──一大事件が起きた。cf. 大事件が起きた。
       一大決心をした。cf. 大決心をした。
       一大転機が訪れた。 cf.大転機が訪れた。

  考察・「一死」(死ぬことを強めた言い方、「一死報国」)
     「一驚する」はどれに当たるのだろうか。

疑う

2007年01月20日 | ア行
 1、科学的探究というものは一切を疑ってかかることから出発するのです。疑うということは否定するということではありません。結果として肯定するか否定するかは判りませんが、ともかく与えられたものを「本当にそうだろうか」「別のようには考えられないだろうか」と疑ってかかることから科学研究は出発するのです。(略)

 「疑う」ということは「考える」ということと同じなのです。かつて拙著『労働と社会』の中に書きましたように、思考の特徴は「感覚の直接性を断ち切る」ことにあるのでして、考えるとは2つ以上の可能性を比較して、どれが一番よいか、これが好いかあれが好いかと、疑って考えることだからです。こういう意識の行為を「思考」と表現するのは一般的な言い方で、「信じる」ということとの関係ではそれが「疑う」と言われるのです。
 (牧野紀之「宗教と信仰」)

 2、以上は広義の「疑う」概念ですが、狭義では「否定する」という意味ないしニュアンスで使うことも多いと思います。「懐疑論」という場合はこちらに近いと思います。懐疑論の項を見てください。

 3、哲学史上で有名なのはデカルトの「方法的懐疑」です。これは1に述べた「疑う」という事の根本的な意味と同じで、それを意識的に自分の考え方としたものです。

 デカルトは「確実な考え」を持ちたいと思った時、まずこれまで自分が無反省に正しいと思ってきた事や世間で正しいとされている事などを全て一端疑いました。そして、「どうしても否定できない事柄」を元にしてそこから「確実な考え」を築いていこうと考えました。この「方法としての懐疑」のことです。

 4、我々が生きていく時には、「何らかの信念をもって生きていく」ことも大切です。定見なくフラフラしているよりは、必ずしも証明されていない事でも、直観的に思った事でも、それを信じて(正しいと思い込んで)それを行動規範にしていった方が成功することもあります。

 では、徹底的に疑うという科学的精神は生活ないし行動にとって邪魔なものなのでしょうか。これは大問題です。この問題を解決しないと、「理論と実践の統一」の問題(両者はどう関係しているかの問題)も正しく答えられないと思います。

   参考

 (1) ただ私が私の本質から引き離すものだけが私にとって疑わしい或る物なのである。従って私は私の本質である神をどうして疑うことが出来るであろうか。私の神を疑うということは、私自身を疑うということである。
 (フォイエルバッハ『キリスト教の本質』第2章)

運動

2007年01月15日 | ア行
   参考

1、太陽系を構成する諸天体は〔力学的〕運動の関係を成しており、それによって互いに関係しあっています。しかるに〔力学的〕運動というのは時間と空間の統一ですから、外面的で抽象的な関係です。従って、そのように〔力学的〕運動によって関係しあった天体はこのような関係なしにもそのような天体であり続けるかのように見えます。
 (ヘーゲル『小論理学』第 200節への付録)

 2、ほんの10年前でさえまだ新たに発見された運動の大根本法則は、たんにエネルギーの保存則として、運動は消滅させることも創造することもできないことの単なる否定的な表現として、かくして単にその量的な面から捕らえられたにすぎなかったが、このような狭い否定的な表現はエネルギーの転化という肯定的な表現によってますます取って代わられている。これによって初めてこの過程の質的な内容が正当に表現され、世界の外にいる創造者を仮定するような最後の根拠も失われたのである。
 (エンゲルス『反デューリング論』)

 3、運動は物質の存在形式である。運動なき物質はかつてどこにも一度もなかったし、どこにも決してありえない。宇宙空間内の運動、個々の天体上での比較的小さな物塊の力学的運動、熱や電流や磁気流として現れる分子の振動、化学的な分解と結合〔原子の運動〕、有機的生命など、世界〔宇宙〕の中のどの物質原子も任意の瞬間にこれらの運動形式のどれか一つの又は同時に幾つかの形式の運動をしている。

 どんな静止、どんな平衡もただ相対的なものにすぎず、あれこれの運動形式との関係でのみ意味を持つにすぎない。例えば或る物体が地球上で力学的平衡状態にある、つまり力学的に静止しているとする。しかし、だからといって、この物体が地球の運動〔自転、公転など〕や太陽系全体の運動に加わっていないわけではなく、また同様に、その物体の物理学上の極小部分がその物体の温度によって条件付けられた振動をしていないわけでも、あるいは又その物体の物質原子が化学的過程の中にないわけでもない。

 運動なき物質が考えられないのは、物質なき運動が考えられないのと同じである。従って運動は物質そのものと同様に創造することも消滅させることもできないものである。この事は少し前の哲学者〔デカルト〕がこう表現している。即ち、宇宙内に現存している運
動の量はつねに同一である、と。

 かくして運動を創り出すことはできず、ただ転移することが出来るだけである。運動が或る物体Aから他の物体Bに転移される時、転移していく能動的な運動は、転移される受動的な運動の原因とみなすことがでそる。この能動的な運動を我々は「力」と呼び、受動的な運動を「力の外化」と呼ぶのである。従って力とその外化との大きさが同じであるのは火をみるより明らかである。なぜなら力とその外化との中には同一の運動が起きているのだからである。
 (エンゲルス『反デューリング論』)

 4、運動は物質の存在形式であり、従って物質の特性以上のものである。
 (エンゲルス『自然弁証法』)

 5、運動は運動の反対である静止の中にその〔運動の〕尺度を見出さなければならない。 (エンゲルス『反デューリング論』)

 6、運動そのものが一つの矛盾である。力学上の単純な場所の移動でさえ既に一物体が或る瞬間に或る場所にあって同時に他の場所にある、即ち或る場所にあって同時にその場所にないという事〔矛盾〕によって初めて起こりうるのである。そして、このような矛盾を不断に立てては不断に解決していくことが正に運動というものなのである。
 (エンゲルス『反デューリング論』)

 7、最も一般的な意味での運動、物質の存在様式、あるいはその内属する属性として捉えられた運動は、単なる場所の変化から思考に至るまでの宇宙の中で起きる全変化及び全過程を含んでいる。
 (エンゲルス『自然弁証法』)

 8、運動はすべて、天体の場所の変化であれ地上の物体のそれであれ、又分子・原子・エーテル粒子の場所のそれであれ、ともかく何らかの場所の変化と結びついている。運動の形式が高まれば高まるほどこの場所の変化は小さくなる。場所の変化は当の運動の本性をいかなる仕方ででも汲み尽くすことはないが、それはその運動と切り離すこともできないものである。
 (エンゲルス『自然弁証法』)

 9、全ての運動の基本形式は近づくことと遠ざかること、収縮と拡散、要するに牽引と反発という古くからの両極対立である。
 (エンゲルス『自然弁証法』)

 10、仕事〔物理学でいう仕事〕とは運動の形式の変化をその量的な面から考察したものである。
 (エンゲルス『自然弁証法』)

 11、運動の本質は、それが空間と時間との統一であるということである。運動には空間も時間も属している。速度即ち運動の定量とは、一定の時間(経過した時間)との比率でみた空間のことである。(略)空間と時間とは物質によって満たされている。物質なき運動がないように、又運動なき物質もない。
 (エンゲルス『自然弁証法』、
これは皆ヘーゲル『哲学の百科辞典』第 261〔自然哲学〕への付録からの引用である)

 12、運動とは変化一般である。
 (エンゲルス『自然弁証法』)

 13、あらゆる運動は力学的な運動つまり物質の最大部分か最小部分の場所の移動を自己内に含んでいる。
 (エンゲルス『自然弁証法』)

 14、だが第二に、運動はただ単に弁証法の実在性を示すという存在論的意義をもつばかりでなく、さらに重大な認識論的意義ももっている。つまり、それは前述の「内在的考察」の立場を保障するものとなるのである。われわれが或る事物の本質を正しく認識するためには、或る事物を外からどんなにいじくりまわしてもそれはけっして正しく認識されるものではありえない。事物の正しい認識は、その事物固有の運動からのみ得られうる。なぜなら,或る事物の固有の運動こそは、その事物自身が「われはかくかくのものである」ということを自ら告白する言葉だからである。かくしてエンゲルスは次のように指摘した。

 「物質のさまざまな形態や種類それ自体はふたたび運動を通じて認識されるのであって、運動においてのみ諸物質のもろもろの性質が姿をあらわすのである。運動しない物質なるものについては何も言うことはできない」。

 かくして、一般に弁証法が運動や発展の科学であるという古典的定義が生じうるが、しかしこれは、ただ単に運動についての科学であるという意味ではなく、運動から事物を認識する科学である、という意味をも含んでいなければならない。それ固有の運動から事物を認識する態度こそ、事物自身に即して事物を認識する唯一の、真の内在的考察なのである。
 (許萬元「弁証法」、
芝田進午編集『マルクス主義研究入門』1哲学、青木書店所収)

薀蓄(うんちく)

2007年01月08日 | ア行
 1、その意味は、新明解国語辞典によると、「(蓄はもちろん〕薀もたくわえるの意」だそうですから、学問や技芸で充分に研究して研鑽を積んで身に着けたもののことだと思います。

 昔は「薀蓄を傾ける」と言うのが当たり前でしたが、最近は違った言い方も出てきているようです。

 使う人の知識の不足のせいか、それともそういう使い方もあるか、分かりません。

   使い方

 (1) 2002年07月04日の朝日新聞に、船橋洋一氏の文章が載りました。ドイツのシュレーダー首相がW杯の決勝戦を見たいと言いだして、日本の政府専用機に小泉首相と一緒に乗ってきたことに触れた文章です。

 その中に次の文があります。

──機中会談では、シュレーダー首相が「欧州でプレーする日本の選手の最初は(西)ドイツで活躍したオクデラでした」とサッカー通らしい蘊蓄(うんちく)を披露した。
  (2002,7,4,朝日)

 「蘊蓄を披露する」という言い回しはあるのでしょうか。

 「蘊蓄」で辞書を引きますと、その第2の意味として「十分に積みたくわえた知識。深い学識」とあります。そして、用法としては「蘊蓄を傾ける」が載っています(以上、学研の国語大辞典)

 つまり、「蘊蓄」と称するのは個々の知識ではなく、かなりの量のまとまった知識の集合だと思うのです。それを「傾ける」とは、全部ではないにしても溜めた知識の内のかなりのものを吐き出すということだと思います。

 しかも、その知識もかなり深い知識だと思います。

 しかるにここで船橋氏の触れたのは一つの知識ですから、やはり「蘊蓄」とは言えなかったと思います。氏自身「一つの知識」だというおかしさを感じていたので、「傾ける」と言わないで「披露する」と思わず言ったのだと思いますが、「蘊蓄を披露する」はないと思います。

 そもそも奥寺選手のことは「蘊蓄」と表現するほどの「深い知識」ではないと思います。最近のにわかサッカーファンならいざしらず、ある程度以上のサッカーファンならみな知っていることです。

 ここは次のように言ったらよかったと思います。

 「機中会談では、シュレーダー首相が「欧州でプレーする日本の選手の最初は(西)ドイツで活躍したオクデラでした」と、サッカー通らしいところを見せた。」

 (2) スカイパーフェクTVなどで海外のレベルの高い試合を用意に観戦できるようになり、居酒屋や会社内でうんちく(薀蓄)を語る専門的なサッカーファンが増えた。
 (2007年01月06日、朝日)

 感想・ここでは「薀蓄を語る」といっています。

インテリゲンツィア

2006年12月27日 | ア行
   参考

 01、マルクス主義者の流行らせた語の一つ。「インテリゲンツィア」の略語。インテリゲンツィアはロシア語が起源らしい。これはラテン語の intelligentiaに由来する。知識階級を一つの社会階級として呼びはじめた語である。一人一人のインテリを指すのではない。一人一人のインテリを指す場合にはドイツ語では der Intellektuelle を用いる。一時 die Intelligenz(一人一人を言う)が流行ったことがある。ハイネは der Intellektuelle を用いず、 die Intelligenzenを用いていた。インテリという語は術語的で批判的な色彩を帯びている。好い意味での「知識人」という場合は der Gebildete(教養人)、 ein Mann von Bildung (教養ある人士)が普通。(趣味 S.108)

 02、現代の資本主義社会における特別の層としてのインテリゲンツィアを全体として特徴づけるものがほかならぬ個人主義であり規律と組織に対する無能力であることをあえて否定する者は一人もいないであろう。とりわけこの点でこの社会層はプロレタリアートに劣るのである。この点にプロレタリアートがしばしば痛感させられるインテリゲンツィアの無気力と浮動性の一因がある。そして、インテリゲンツィアのこの性質は、彼らの通常の生活条件や、非常に多くの点で小ブルジョア的な生存条件に近似している彼らの生計獲得条件(一人であるいは非常に小さな集団でする仕事など)と切り離せない関連を持っているのである。(レーニン(『一歩前進、二歩後退』、『邦訳全集』第7巻 277頁)

 03、既に第1条に関する論争の際に日和見主義的な論議と無政府主義的な空文句とへの嗜好を示して現れてきたインテリゲンツィア的個人主義には、あらゆるプロレタリア的な組織と規律とが農奴制度のように思われるのである。(レーニン(『一歩前進、二歩後退』、『邦訳全集』第7巻 381頁)

 04、組織上の関係を精神的にしか承認しないインテリゲンツィア的個人主義(レーニン(『一歩前進、二歩後退』、『邦訳全集』第7巻 394頁)

 05、グラムシの知識人論については「前衛党」の項を見よ。


意識

2006年12月19日 | ア行
   参考

 1、すべての意識は統一と分離とを含んでおり、従って矛盾を含んでいる。かくして例えば家についての表象は私の自我に全く矛盾するものであるが、それにもかかわらず私の自我に担われているものなのである。
 (ヘーゲル『哲学の百科辞典』第 382節への付録)

 2、意識は主体性であり、主体性は自己を個別化しようとする欲求を自己内に持っている。 (ヘーゲル『歴史における理性』 178頁)

 3、意識の存在様式は知である。つまり、或る物が意識されるあり方は知である。知は意識の唯一の行為である。従って何かが意識されているというのは、意識がその物を知る限りにおいてである。知は意識の唯一の対象的な振る舞いである。
 (マルクス・エンゲルスエン『全集』補巻1、 580頁)

 4、思想とか観念とか意識といったものの生産は、さしあたっては、人間の物質的な活動と物質的な交通との中に直接織り込まれている。これが実際生活の言語である。ここではまだ、思ったり考えたりといった人間の精神的な交通は人間の物質的な振る舞いから直接出てきたものである。

 民族の政治、法律、道徳、宗教、形而上学などの〔生活から離れているように見える〕言語に現れているような精神的な生産についても同じ事が言える。つまり、人間は自分たちの観念や思想の生産者である。

 しかし、その人間とは、その生産力の一定の発展とそれに対応する交通の一定の発展とによってその最も遠い形成物に至るまで条件づけられた、実際の生きた人間のことである。意識 Bewusstseinとは「意識された存在」 bewusstes Sein 以外の何物でもなく、人間
の存在とはその実際の生活過程のことである。
 (マルクス・エンゲルス『全集』第3巻、26頁)

 5、精神は元々「物質に憑かれている」という呪いを負っている。その物質とはここでは運動する空気層、音、つまり言語という形を取って現れている。
 (マルクス『ドイツ・イデオロギー』、『全集』第3巻30頁)

 6、意識はもちろん最初はたんに身近な感性的環境についての意識にすぎず、また意識的になりつつある個人の外にある他の人間及び他の事物との限られたつながりの意識にすぎない。

 (略)従ってそれは自然についての純粋に動物的な意識である(自然宗教)。

 (略)しかも他方ではまわりの諸個人と結合すべき必然性の意識、人間がとにかく一つの社会の中に生活するということについての意識の端緒が現れる。この端緒はこの段階の社会生活そのものと同様に動物的であり、それは単なる群居意識である。そして、ここで人間が羊から区別される点はただ人間にとっては意識が本能の代わりをするということ、即ち人間の本能が意識的なものであるということにすぎないのである。
 (マルクス『ドイツ・イデオロギー』、『全集』第3巻、31頁)

 7、自然発生的要素とはその本質上意識性の萌芽形態にほかならない。
 (レーニン『全集』第5巻 394頁)

 8、労働者たちの利害が今日の政治的・社会的体制全体と和解しえないように対立しているという意識、即ち社会民主主義的〔社会主義的〕意識。
 (レーニン『全集』第5巻 3 95頁)

 9、本能性とはまさに無意識性(自然発生性)であり、(レーニン『全集』第5巻 411 頁)

 10、労働者階級の自己認識は現代社会のすべての階級の相互関係についての完全に明瞭な理解――単に理論的な理解だけでなく更に、(理論的な理解よりもむしろ、と言った方が正しくさえある)政治生活の経験に基づいてつくり出された理解――と、切り離しがたく結びついているからである。
 (レーニン『全集』第5巻 440頁)

 11、階級的・政治的意識は外部からしか、つまり経済闘争の外から労働者と雇い主との関係の圏外からしか、労働者にもたらすことができない。この知識をくみとってくることの出来る唯一の分野は、すべての階級及び国家及び政府との関係の分野、すべての階級の相互関係の分野である。
 (レーニン『全集』第5巻 451頁)

 12、人間の意識についてはいろいろな説明がなされている。しかしそれを発生的にみる限り、人間の意識は本来、人間の一般的な本質である労働の一契機としての目的意識であり、この目的意識は対象意識と自己意識との統一であり、これが思考の始まりである、と言わなければならない。
 (牧野紀之『労働と社会』60頁)

 13、そもそも人間に意識という変なものが備わっているという事は、一面非常に有り難いようであって、また他面においては甚だ有り難くないことがある。というのは、よくある意識生活の一局面ですが、意識するということは甚だ自分にとって都合がわるく、目をつぶって通った方が気が楽な場合があるからです。「自分自身に対して頬かぶりをして通る」方が得策なことが起こって来ます。

 意識というのは、つまり、前に述べたように、我々自身の鼻の先に鏡が置いてあるのと同じ関係にあるものです。ある種の場合には自分のやっている事が自分自身の眼に映ずるのは甚だ困ることが起こってくる。そこで、自分自身の意識を躊躇したり、自分には一寸内緒にしておいたり、自分自身の陰に隠れてこっそりとやってしまったり、その他意識の明鏡を曇らせることによって現実我の意図を貫徹しようとする局面が生じてきます。

 只今挙げた母親の挙動の描写などがその局面のなかなか微妙複雑な場合で、これは、自分が平素あまりかまってやらなかった子供が病気になって眠っているところへ母親がやってきて、寝息をうかがって見たが、別に変わった事もなく、すやすやと眠っているらしいので、安心したような、すまないような、何となく物足りない中途半端な気持ちのままで、また部屋を出ていってしまう所の描写ですが、介抱したいにも介抱する事がないものだから、彼女はベッドの布団の上を撫でて皺を延ばしてやる。布団の皺を延ばしたからと言って病気が楽になるという話はまだ聞いたこともないが、とにかく何かしないと自分の気が済まないものだからそうするわけです。けれども、そうしながらも、それは単に自分が自分自身に対して演出して見せる芝居にすぎないのだという「意識」があるから、彼女は多少恥ずかしくもあって、そう大げさにはやり切れない。やりかけた途中で、あいまいにごまかしてしまう。だいいち、皺を撫でたからと言って病気に何の関係もないということは「薄々知っている」ものだから、勿論真面目に撫ではしない。では全然撫でる必要はないではないかと言えば、それはまあそうですが、そこがその──面白いところです。

 要するに、人間という奴は、意識という鏡を突きつけられていながら、格別突きつけられ甲斐もなく、実に齟齬矛盾そのものの如き行動に出る動物で、時には現在ありありと鼻の先に見えている事をすらも強いて見まいとする。「意識という浄玻璃(じょうはり)」としての理想我に対して、「無意識な塊」としての現実我は常に犯罪者の警察に対するが如く逃げ隠れしていると思ってよろしい。どんなに意識が明瞭な、どんなに頭の好い人間でもそうです。否、意識が発達して全てを克明に反射してくれば来るほど、即ち文明人になればなるほど、不透明な現実我の方はますます甚だしく暗にもぐり、地下に隠れ、ますます甚だしく犯人意識が発達して来ると言うも過言ではありません。

 ここでちょうど好い機会ですから「意識」という現象を再帰哲学的に定義すると、こういう風に考えられます。「意識とは、とにかく吾人自身の眼の前に置かれた、どうしても取り除くことのできない宿命的な鏡の如きものである。自分自身が反射屈折して、自分自身が欲すると欲せざるとにかかわらず、自分自身に向かって帰ってくる現象である」。

 鏡の例を幸いに、もう一段飛躍して面白く言うならば、「言わば自分自身が逃れようなく自分自身に突きつけられているかたちである」とも言えましょう。

 またハイデガーの思想を持ち出して言うならば、意識という現象だけではなく、そもそも人間、人生、自我というのが、ハイデガーの用語で言うと、我々が、我々自身の現境(da)の真っ只中に向かって「投げつけられている」(geworfen)かたちなのだそうです(この「かたち」(相)のことをハイデガーは Sein という用語で言い表します)。故に、私が只今述べた「突きつけられている」という変な形容は、このハイデガーの Geworfensein 〔投げつけられたあり方〕の一種だと思っていただきたい。変な形容かもしれませんが、再帰的な考え方に入り込んでしまった西洋哲学としては、当然こうした解釈に到達しなければならなかったのではありますまいか。
 (「関口ドイツ語論集」 323-4頁)

板倉聖宣と仮説実験授業(その1)

2006年12月05日 | ア行
この小論文は今年の9月頃、板倉さんたちの仮説実験授業の機関誌的な雑誌である「たのしい授業」に電話をした上で送ったのですが、返事もなく、掲載されないようです。とても意外でした。理由は聞く気もしません。よってここに掲載します。(2005,11,24)

 最近、遅ればせながら、板倉聖宣(きよのぶ)氏(1930~)の仮説実験授業について関心を持ち、少し読んでみました。膨大な著作群ですので、全部を読むことは出来ませんが、10冊くらいは読んだと思います。従って、以下の感想はこの少ない資料にあたった限りでのものです。事実誤認とか間違いを指摘されたらいつでも訂正します。

 板倉氏は「皆悉(かいしつ)主義」と言って、或るテーマに取り組むときにはそれに関する資料を古本屋巡りなどをして全て集め、それらを全て読んで考えるそうですが、私にはそういう事はできません。もっとも板倉氏のその皆悉主義も、私の専門とする哲学なり唯物論なり弁証法なりについての発言をみると、必ずしも実行されていないようです。まあ、最後に載せました板倉語録にありますように「1割許容の原理」ですから、少しくらいの欠陥は互いにうるさく言うのはよしたいと思います。

 それはともかく、私の特徴は、「少ない資料でも考える力」にあると思っていますので、問題提起にはなると思います。と言いますのも、板倉氏の定年退職にあたって支持者たちがまとめた『板倉聖宣、その人と仕事』(つばさ書房、1995)を見てみましても、板倉氏の仕事の意義と限界をきちんと指摘できた人は1人もいないと思われるからです。

 実際、関口存男(つぎお)さんが亡くなった時にも直弟子たちは『関口存男の生涯と業績』(三修社)という追悼文集を出しましたが、それは関口さんの業績の批判的・創造的継承をしないことの言い訳でしかありませんでした。偉い人の直弟子などというものはたいていこういうものです。例外はプラトンの弟子のアリストテレスとフロイドの弟子のユンクくらいでしょうか。本当の弟子ないし後継者はたいてい直接的な関係を持たない人です。カントの真の後継者はヘーゲルでした。ヘーゲルの真の後継者はマルクスでした。いずれも直弟子ではありません。

 全体として、氏の業績は素晴らしいもので、その実績に相応しい名声と評価を得ていないと思いました。職が研究所の所員だったこともあるし、理科教育の革新が中心だったので主として理科教師の間で知られ評価されていたということもあるのかもしれません。

 まず経歴を振り返ります。

 元々偏見のない人だったようですが、学生運動に関係するなかで、その非科学的性格に疑念を持ったようです。そこで、「科学的な考え方ないし態度はどうしたら育てられるか」という問題意識を持ち、それを終生(といってもまだご健在ですが)追求することになったようです。

 東大に在職している教授たちより三浦つとむ氏や武谷三男氏や小倉金之助氏の著書に触れて方向が固まったようです。科学史を研究して「科学的思考の成立過程」を研究することになったようです。

 国立教育研究所(当時)に就職してから或るきっかけで理科教育と関わるようになり、結果として「仮説実験授業」というものを生み出すことになりました。

 その「科学的思考」は自然科学においてだけではなくその他のあらゆる学問領域(教科)でも同じだということで、対象を社会科学などにも広げたようです。

 学校教師たちと一緒に仕事をすることになり、元々学生時代から会を作って活動してきた経歴もあり、氏の仕事は組織的なものとなり運動となりました。初めは「仮説実験授業研究会」とかいった名でやっていたようですが、いつからか、その根本の精神を捉えて「たのしい授業学派」と名乗るようになったようです。

 定年退職してからは、私立の研究室みたいなものを設立して今でも活動しているようです。HPを探したのですが、見つからなかったので、詳しいことは知りませんが、最低でも、氏の創刊した『たのしい授業』(仮説社)という雑誌は今でも出ているようです。

 次に氏の大きな業績について考えてみます。

 氏の仮説実験授業はなぜ大きな成果を挙げたのでしょうか。それは、理論的には、「個体発生は系統発生を繰り返す」という法則を具体化したものになっているからだと思います。私の読んだ範囲の著書にはこの言葉が出てこないのが不思議なのですが、板倉さんたちはこの法則を自覚していないのでしょうか。

 子どもが大人になっていく過程、つまり成長とか学習とか教育というのは、系統発生を純化した形で受け継ぐ過程ですから、この法則を具体化した授業が成果を上げたのは考えてみれば当たり前だと思います。

 ですから、偶然とはいえ、科学史の研究家である板倉さんが理科教育に取り組んだことはとても幸運な事だったと思います。

 しかも、教師にとっての当然の大前提でありながら、実際には必ずしも満たされていない「教育への熱意」というものが板倉さん(たち)にはありました。ですから、その個々の内容も本当に生徒が夢中になるようなものになったのだと思います。

 第2点として挙げたいことは、氏はこの授業を「誰でも出来るように」ということで、授業書というものにまとめたことです。これが、例えば大村はま氏の国語の授業のように、「本人ないしそれと同程度の実力のある人でなければできない授業」との大きな違いだと思います。授業形態としても、仮説実験授業の方は一斉授業で、大村氏のものは個別指導だという違いがあります。

 氏は科学的精神に満ちた人で自分の直面した問題から逃げることなく研究し自分なりの答えを出していったと思います。

 実験概念の革新もその成果の1つです。板倉さんの実験概念は、「自然であれ社会であれ、対象に対する正しい認識を得るために、対象に対して、予想・仮説をもって目的意識的に問い掛けること」(『新哲学入門』仮説社、1990、40頁)です。しかし、これも、氏自身は必ずしも自覚していないようですが、従来の概念(人間の行動ないし目的意識概念)を純化したものです。つまり、人間は何かの行動をするとき、必ず意識的・半意識的・無意識的に目的(こうしたらこうなるだろうという予想)を持っていますが、仮説実験授業では生徒に個々の場面でその予想を自覚的に立てさせて、しかも議論をさせてから実験をした、ということです。

 氏の確認した事柄(私はほとんど正しいと思いますので、敢えて言うならば、真理)は沢山ありますが、そのほかに「誤謬の意義を認めたこと」(『科学と方法』季節社、1969、70頁など)と「教師の指導性と生徒の自発性の矛盾を解決する道を発見したこと」の2点を挙げておきましょう。

 氏は「誤謬が一面合理性をもち、なおかつ真理ではないということの弁証法的認識」ということを主張し(『科学と方法』季節社、1969、67頁)と言い、それを実行して「私の力学史の特色は、アリストテレスやスコラ学派などの『まちがった』力学理論をも馬鹿にせず、その認識の根拠、失敗の理由を詳しく追求したことにある」(『科学の形成と論理』季節社、1973、 248頁)と述べています。

又、「授業科学の『生徒の自発性と教師の指導性の矛盾』に話をもどすと、つまりこういうことになる。『理想的な授業というのは、生徒の自由な活動にある種の束縛を与えて教師の指導性を発揮することがかえって生徒の自発性をよびおこし、その自由な発想をトコトンつきつめさせることによって教師の指導性を高めることができるような、そういう授業ではないか』というのである。最初の問題は生徒たちから出させずに教師の側からえりすぐった問題(予想の選択肢を含む)を与える。そして、その選択肢をえらばせたあとの討論は、全く生徒の自由にまかせ、そのあと、実験を行なって討論をしめくくる。そして一連の問題がすんだあとで、生徒たちに問題を作らせるようなこともする。・・こういう仮説実験授業の展開
の仕方は、まさに生徒の自発性と教師の指導性との矛盾(どちらか一方の側から見れば、自由と束縛の矛盾、おしつけと放任の矛盾)の構造を意識的にトコトン活用したものに他ならないのである。(同上書、 265~ 7頁)

 氏の活動が個人的なものではなく或る種の運動になったことは先に述べましたが、その中でも新しい事を実行して成果を挙げたと思います。

 私の興味を引いた事としては、「分からない事は分からないと言おう」というスローガンがあります。こんな当たり前の事でも、学者や教員の実情を知っている人なら、なかなか実行されておらず、大切な事だと認めると思います。

 次には、「質問には答える義務」です。これは、東京数学会社設立の主唱者の一人で初代の社長であった神田孝平氏(1830~1898)が「東京数学会社雑誌第1号題言」〔これは数学の大衆化の主張です〕に書いた6つの規範の第2項にあります。曰く、「各人が質問を受けた時は必ず答えること」。

 板倉さんによると、社則第9条には、次のような事も書かれているそうです。

 「本社は数理を研究するがために設けたるものなれば,数学を教授することを為さずと雖も,社員は勿論広く世間の質問に応じ之れが答弁を為すべし。質問の事項通常なるものは常務委員之を担当し60日を限り之を答弁なし、其事項高論なるものは広く社員に通知し其答を募り、90日間を限り質疑者に答うべし。其理深遠にして解し難きものは広く宇内の数理大家に解義を請うて質疑者に答うることあるべし。」

 質問に答えない、あるいは真面目に答えないNHKのドイツ語講師たちを見ていると、本当にこの精神は大切だと思います。

 因みに、関口存男(つぎお)さんは、敗戦後、疎開先で民主主義を教える芝居を作って指導した時、その芝居の題名を「争へ! 但し怒るべからず」としたようです。「感情的にならずに議論すること」、これが民主主義の根本精神であり、人間を成長させるのだということでしょう。議論のないどころか、議論から逃げて逃げて逃げ回っている日本の教師たちを見ていると、関口さんの言葉はますます新鮮だと思います。(つづく)