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エスペラント

2008年06月16日 | ア行
     エスペラント

 1、エスペラントは近代ヨーロッパ諸語の標準語

 ある言語をよりよく理解するためには,他の言語との比較がきわめて重要であることは、かの有名なゲーテの言葉「外国語を知らざる者は、自国語について何も知らない」を引用するまでもない。その際、比較する言語は多ければ多いほどよい。しかしながら、1個人の外国語習得能力は、天才ならぬわれわれ通常人にとっては限りがある。また、自己の能力を超えて多くを学ぶことによって、かえって混乱して、整理がつかなくなる恐れもある。このジレンマを救ってくれるものは、他ならぬ人工語エスペラントであると私は考える。エスペラントの習得は,自然語のそれと比して、著しく容易であるにもかかわらず、それによって得られる言語一般に村する理解、洞察は、数多くの自然語を学ぶに優に匹敵するものがある。

 私自身いわゆるエスペランチストではなく、それほどこの言語に精通しているわけではないが、以前には鬱蒼としたジャングルのように、あるいは曲りくねった迷路のように思われたドイツ文法の大筋がすっきり見通せるようになり、また意味形態と文法形態の関係が比較的はっきりつかめるようになってきたのは、エスペラントを学んだお蔭だと思っている。

 エスペラントはポーランドの眼科医ザメンホフによって1887年に創始された人工語である。彼は,世界の民族が互いに相争うのは、それぞれの民族が異なる言語を話し、相互理解のための手段をもたないからであると考えて、すべての民族の心を結ぶ世界共通補助語としてこの人工語を考案したのである。

 エスペラントが、それ以前につくられた人工語、たとえばヴォラビュックなどとくらべて優れた点は、きわめて自然語に近いことである。それは、語彙や文法のほとんどすべてをヨーロッパ語から取り入れているからであり、さながら近代ヨーロッパ語の最大公約数の観を呈している。とくにその文法体系は、いわば近代ヨーロッパ語の長所のみによって構成されていると言ってもあえて過言ではない。すなわち、自然語の文法につきものの不規則性を悉く除去し、分詞システムに見られるような自然語における欠落を補うなど、言語の1つのあるべき理想の姿を示している。

 そこで、近代ヨーロッパ諸語を方言とするならば、エスペラントはそれら方言に対する標準語であるという見方さえできるほどである。人工語を自然語に対する標準語に擬することには、納得できない方も多いと思うが、自然語においても標準語というものには、多かれ少なかれ人工語的なところがあることはよく知られることであり、このことはとりわけドイツ語の場合を考えれば理解しやすいであろう。新高ドイツ語の基礎となったのは、ルター訳の聖書であるとされるが、ここに使われているドイツ語は人工的色彩もかなり濃い。当時ドイツにはまだ統一的な文章語は存在せず、各地の方言のみが幅をきかせていた。ルターは聖書を翻訳するにあたって、ザクセンの官庁語、すなわち東中部ドイツ語をベースとしながらも、一方上部ドイツ語の要素をも取り入れ、さらに民衆の話し言葉からも学ぶことも忘れなかった。なお、一般に官庁語そのものにも人工語的なところがある。

 エスペラントの創始者ザメンホフは稀にみる語学の天才であって、近代ヨーロッパ諸語のみならず、ギリシャ語、ラテン語、さらにユダヤ人であったこともあってヘブライ語にも精通していた。彼はたとえば旧約聖書をヘブライ語の原典から、シラーの『群盗』をドイツ語から、またシェークスピアの『ハムレット』を英語から見事なエスペラントに翻訳するなど、この人工語の優れた表現力を実証している。しかも、彼の才能は単に実用語学的な面にとどまらない。彼の偉大さは、彼の創始したこの人工語が、確固たる言語哲学、文法観によって裏打ちされている点にある。

 現在、世界共通補助語としては、英語の果たす役割が決定的に大きく、エスペラントはその意味においては、いささか影が薄れてきている感じは否めないが、これはこれらの言語の優劣とは無関係の政治・経済その他の力関係によるものであって、これによってエスペラントの価値はいささかも損なわれるものではない。エスペラントは国際補助語としての実用的な面を別としても、われわれ言語研究者が絶えず比較の対象とすべき、いわばヨーロッパ語の「原器」とも言うべきものである。この人工語は、言語はいかにあるべきかというザメンホフの主張であり、そもそも人間が意志・感情・思想等の伝達のために必要にして充分な語彙・文法は何かということに対する提案である。それゆえ、われわれはこの人工語の中に自然語のもつ欠陥の指摘、既成の言語に村する批判を読み取ることができる。

 関口存男(つぎお)氏もザメンホフのこの人工語をきわめて高く評価し、そのライフワーク『冠詞』全3巻などに、ギリシャ・ラテン・サンスクリット・英・独・仏・露などとともに随所でエスペラントとの比較を試みている。関口氏の全著作の中に、他の語学者の名前はまったく出てこないのに対し、ザメンホフの名だけはしばしば登場する。いわゆる「関口文法」は私見によれば,エスペラントの影響をかなり強く受けて成立したものである(大岩信太郎「ドイツ語のこころ」三修社、67-9頁)。

 2、エスペラントとドイツ語

 (1)=B〔述語〕は印欧系諸語においては副詞的意局に立つことが一般現象であるが、たとえ如何に副詞的意局に立とうとも、性数格の語尾が非常にやかましいために、=Bは厳然として=Bたるの語理を墨守し、A=Bの方程式に従ってBの性数格を決定する。
(略)/

 エスペラントも、形容詞語尾を -a と定め、副詞語尾を -e と定めたために、ある種の場合には -a か -e という問題に直面せざるを得なくなる。たとえば、創設者ザメンホフによるシラーの『群盗』の訳に次のような個所がある。

  Mir ist's, als sah' ich schon deinen alten, frommen Vater totenbleich [..]in seinen Stuhl zurucktaumeln   Sajnas al mi, kvazau mi jam vidas vian maljunan, pian patron mortpale [..]re falanta en sian segon

 独の totenbleichは明らかに副詞ではなくて述語形容詞であるから、印欧系諸語の伝統から言うならば当然 mortpalan(あるいは少なくとも mortpala )が期待されるところが mortpale と副詞になっている。

 やかましく言えばこれは印欧系の伝統語理に違反するわけであるけれども、エスペラント創設者としては、この語理の桎梏から新言語を解放したいという意図があったものかと思われる。

 けれどもこの筋道は必ずしも徹底的に実行されてはいない。たとえば(ザメンホフの「エスペラント撰集」の)La kverko staris tute sola (Die Eiche stand ganz allein.)の sola のごときがこれである。

sole としてもよさそうに思われるが( nurの意には独と同語の nurがあるから、 nurの意に取られる恐れはない)、やはり仏の seul, seule (seulement とは区別される)などを考えてか、 -a 語尾の方を採用している。

 個々の場合には相当面倒な問題が起きるということは、こうした例でもその一斑を察することができよう。

 (2)エスペラントには、この点から見て面白い現象が見受けられる。たとえば Ich fand das Fraeulein erregt.と言う場合、印欧語系の古い伝統に従えば Mi trovis la frauli non ekscititan と述語の語尾を伏在主語のそれに合致せしめなければならない筈であるのに、この際にはわざわざ合致を避けて Mi trovis la fraulinon ekscititaと言う。

 これはおそらく Ich fand das erregte Fraulein.(Mi trovis la fraulinon ekscititan.あるいは Mi trovis la ekscititan fraulinon.)との混同を避けんがためであろうが、いずれにしても、印欧系伝統の厳格な性数格の一致が、ちょっとしたところで崩れて
来た例として興味がある。
 (以上、関口存男『冠詞』第2巻不定冠詞篇)

   説明

 これは何を問題にしているかと言いますと、副詞と述語形容詞の区別のことです。

 ドイツ語におけるその区別については、ブログ「教育の広場」の中の「NHKの広場」の第17で扱っています。

 (3)エスペラントには器具、手段物を意味する -ilo という語尾が特に設けられているのは非常に好い事だと思います。 flug-i (飛ぶ)、 flugilo(翼)、distil-i(蒸留する)、distililo (蒸留器)など。
 (関口存男「趣味のドイツ語」223頁)

 (4)不定詞と否定詞の関係を徹底的に合理化したのがエスペラントで、同語の相関詞45個の全表は、いやしくもインド・ヨーロッパ語系言語について何らかの説をなさんとする者は、徹底的に考一考して脱帽すべき合理化の奇蹟である。
io - nenio; iu - neniu; ia - nenia; ies - nenies; ie - nenie; ial - nenial; iel - neniel; iam - neniam; iom - neniom
 (関口存男『冠詞』第2巻不定冠詞篇 596頁)




アイヌ民族(02、歴史)

2008年06月12日 | ア行
     アイヌ民族(02、歴史)

 先日、アイヌ民族を先住民族と認めるように政府に勧告する決議が国会を通りました。アイヌ民族について朝日新聞に説明がありました。問答式を普通の文に変えましたので、少しおかしいところがあります。

 アイヌ民族は13世紀ごろには北海道、東北北部、サハリン(樺太)、千島に住んでいたといわれる。漁や狩りなどのぼか、幅広く交易もしていた。

 だが江戸時代には松前藩にそれを制限された。その前から物資を奪われることがあり、抵抗闘争も繰り返されていた。

 明治になると、「旧土人」と差別的な呼称をつけられ、大切な食料としてきたサケを捕ると「密漁」となり、長く続いてきた習俗も薬止された。日本語の使用を強制されるなど、「同化」を強いられた歴史があり、今回の決議が民族の権利回復につながると期待する声は強い。

 今回、国会決議が実現した背景には、2007年09月に採択された「先住民族の権利に関する国連宣言」がある。先住民族が土地や資源などを奪われた歴史を踏まえ、それらの権利を持っているとうたっている。

 しかし、国連宣言には「先住民族」の定義が示されていない。定義をまとめようと議論したが、各国の見解が分かれたままで、うまくいかなかった。

 定義のないことが、日本政府がアイヌ民族を先住民族と認めない理由になってきた。政府は今後、有識者懇談会をつくってアイヌ政策を進める検討をする。その中では、先住民族としての権利をどうするかが焦点だ。

 アイヌの人たちの中には、アイヌ文化をきちんと伝承するため、漁や狩りなどができる環境を整えて欲しいとか、アイヌ語を学校できちんと教えて欲しいといった人たちがいる。さまざまな意見を、アイヌ民族最大の団体「北海道ウタリ協会」が集約し、政府側と交渉することになる。

 北海道にはアイヌ語がベースの地名が多く、札幌は「サッ・ポロ」で「乾く・多い」の意味で、G8サミットが開かれる洞爺は「ト・ヤ」(湖・岸)からきている。明治以降に漢字があてられた地名だ。それも、アイヌ民族が先に住んでいたことを示すものだろう。

     アイヌ民族の歴史

1669年、シャクシャインの戦い。
    松前薄の規制で交易が不自由になり、シャクシャインを筆頭に蜂起
1869年、開拓使設置。蝦夷地を北海道と改称
1877年、北海道地券発行条例。アイヌ民族の居住地を官有地に
1878年、開拓使がアイヌ民族の呼称を「旧土人」に統一
1886年、北海道庁設置、北海道土地払下規則公布。
    官有未開地が払い下げられたが、アイヌ民族は対象外
1899年、北海道旧土人保護法公布。アイヌ民族の共有財産は政府管理に
1946年、北海道アイヌ協会設立(1961年に北海道ウタリ協会と改称)
1986年、中曽根首相が「日本は単一民族国家」と発言
1994年、萱野茂氏、アイヌ民族初の国会議員に
1997年、ニ風谷ダム裁判、札幌地裁で判決。
    ダムの土地収用をめぐる行政訴訟でアイヌ民族を先住民族と認めた
    アイヌ文化振興法施行
2007年、「先住民族の権利に関する国際連合宣言」採択

  (朝日、2008年06月07日。神元敦司)

 参考・アイヌ民族(01、先住民族と認めよ)

秋野不矩(あきの・ふく)美術館

2008年05月18日 | ア行
     秋野不矩(あきの・ふく)美術館

 1908年(明示41年)、現在の浜松市天竜区二俣町に生まれ、93歳まで精力的に日本画を描き続けた秋野不矩の作品を展示する。

 54歳でインドの大学へ客員教授として赴任した秋野は、インドに魅せられ、風景や寺院などをモチーフに描きつづけた。

 美術館は二俣の町を見下ろす丘の上にある。設計を手掛けたのは藤森照信。屋根は鉄平石、外壁には藁(わら)や土、天竜の杉材といった自然素材を使用している。

 第1展示室の床には籐(とう)ござ、第2展示室には白大理石が敷きつめられ、壁と天井は漆喰塗り。入り口で靴を脱ぎ、床に座って鑑賞する。

 (美術館への道はかなり急な坂道ですが、体の不自由な人のためには特別の駐車場が用意されている)
  (さんらいふ、2008年05月16日)

あげず(上げず)

2008年03月30日 | ア行
     あげず(上げず)

 1、(連語)。日と日の間を置かないで。(学研「国語大辞典」)

 2、用例

 01、手紙と贈り物とが3日にあげず私のところにとどくのです(宇野「蔵の中」)
   (学研より孫引き)

 02、キャバクラ~に、8年前から週に3日とあげず通いつめるようになった。
  (朝日、2008年03月29日。「愛の旅人」)

 3、感想

 問題と思ったのは2つあります。

 第1は、「3日にあげず」か「3日とあげず」か、です。つまり助詞は「に」か「と」
かということで、あるいは両方ありかもしれません。もう少し用例を集めてみましょう。


 第2は、元々これは事実上、頻度を表すことになっていると思いますから、02のように
「週に3日とあげず」と言うと、頻度表現が重複してしまって拙いのではないか、という
ことです。

 「週に」と言ったら、「週に3日は通いつめた」くらいでしょう。

 しかし、これも「週に3日は」と「通いつめた」が重複しています。「週に3日は通っ
た」か、ただ「通いつめた」で十分です。

 要するに、この文は重複が3重になっていて、あまり好い文とは言えないと思います。


石堂 清倫

2008年03月18日 | ア行
     石堂 清倫

   失敗から学ぶ明噺な思索力
     評論家・石堂清倫氏を悼む(鶴見俊輔)

 石堂清倫(きよとも)氏がなくなられた。私は一度もお会いしたことがないが、近年、その著作を読んで、すがすがしい風にさらされた。私より二十歳ちかく年長。これから学びつづけてゆきたい人である。

 日本には、日記と私小説の伝統があり、その集積は、みずからもあやまちにまなぶ道をつくる。個人として、自分のあやまちにまなびつづける文人、学者、商人はこれまでにいた。しかし、集団として、民族として、国家としてあやまちにまなびつづける道はつくられていない。

 石堂清倫(私にとっては歴史上の人物なのでこう書く)は、学生運動家、編集者、研究者、政治運動家としての百歳近い生涯を、明晰な思索をもってつらぬき、最後の著作として、『二〇世紀の意味』をのこして、ゆかれた。九十七歳の著作。なくなる一ヵ月半前の発行だった。

 自分の失敗をみとめ、その失敗からまなぶことができるかどうかが、思想の試金石である。その力が、石堂清倫の著作に、うしなわれない若さをあたえた。『わが異端の昭和史』正続、『中野重治と社会主義』は、社会主義運動の内部にいたものとして、その時、その時の失敗を記録し、分析した。その分析は、当然に国境をこえて、日本の運動に命令をあたえたソヴイエトロシア政府の思想におよび、世界さまざまの場所にうちたてられた在権マルクス主義の批判におよぶ。

 このようにひろく同時代を見わたすまなざしは、どこで養われたのか。

 この人は、四高、東大英文科出身であり、同時代人として夏目漱石の影響を受けている。漱石をとおって入ってきたイギリスの気風で、権力を手中にしたマルクス主義の中に見いだすことのできない特色は、権力が腐敗することに対する感度である。

 「すべての権力は腐敗する。絶対的権力は絶対的に腐敗する」というアクトンの警句に煮つめられたこの知恵は、ひろく、イギリス人の中に、高い地位にのぼるものをふくめて共有され、イギリス人の政治感覚として、のこっている。

 二十世紀のさまざまな国の権力を掌握したマルクス主義理論家の著作には、この考え方は共有されることがなかった。

 一九〇五年に、日本は対露戦争を負けることなく終えた。このあと百年近く、先進国としての日本という幻想の中に、政府も国民も住みつづける。

 夏目漱石は、その幻想の外にいて著作をつづけたまれな日本人の一人である。その気風は、石堂清倫の中に流れこみ、日本の全体主義とソヴイエトの全体主義の激突の中におかれた一九三〇年代の彼の思索を養いつづけた。

 1945年敗戦の混乱の中で、満州(現・中国東北部)にのこされた日本の知識人が、ソヴィエトについたり、それに反発したり右往左往する状態を見すえる力を彼はもった。その時その場だけでなく二十世紀の終わりまで、国家権力に弱い日本の知識人のあいだにあって、明晰に現代を見渡すまなざしを石堂漕倫は保ちつづけた。

  (朝日、2001年09月05日)

ある

2008年03月09日 | ア行
     ある

 物は「ある」で、人は「いる」と言うものだ、と言われてきたと思います。

 01、その本はあそこの本棚にある。
 02、その植物園には珍しいバラがある。
 03、あの動物園にはコアラがいる。
 04、彼は今、事務所にいる。

 こう見てくると、植物までは「ある」で、動物以降が「いる」のようです。

 しかし、このところ、何となく、人についても「ある」という言葉を使う例が
出てきているように思います。

 意識したものとしては2例ですが(最初の例は記録しませんでした)、今後、
集めてみようと思います。もちろんきちんとした書き手のものに限ります。

 人について「ある」を使った用例

 01、昔々ひとりの王様がありました。
 (関口存男「冠詞」第2巻 164頁。執筆は1956年頃)
02、この寺には母の懺悔を聞くフラア・マルチノという僧があった
  (安野光雅「絵本即興詩人」講談社、06頁。2002年刊)

アイヌ民族(01、先住民族と認めよ)

2007年12月31日 | ア行
     アイヌ民族(01、先住民族と認めよ)

 参考1・アイヌ民族を先住民と認めよ

   萱野志朗(かやの・しろう)菅野茂二風谷アイヌ資料館館長

 今年は世界の先住民族にとって歴史的な年だった。

 2007年09月13日、国連総会において「先住民族の権利に関する国連宣言が
採択されたのである。これは先住民族を「国際法の主体」として認め、自己
決定権や返還・賠償・補償など、さまざまな権利を規定た人権文書だ。

 日本も賛成票を投じた。だが、日本政府は我々アイヌ民族を「先住民族」
とは認めていない。先住民族に関する定義はいまだ確立されておらず、アイ
ヌ民族が日本における先住民族か否かを判断できないというのが理由という。

 しかし、これは世界の趨勢や国内の実態に反している。

 09月14日付の朝日新聞「私の視点」欄に、北海道ウタリ協会の加藤忠理事
長による「政府は先住民族と認めよ」という主張が掲載された。私も理事長
の主張に同感だ。

 「先住民族」という概念はきわめて政治的なものである。単に、ある地域
に居住していた時期が早いか遅いかという時間的な後先ではない。世界各地
の先住民族を取り巻く問題に詳しい上村英明・恵泉女学園大教授(市民外交
センター代表)はこう定義する。「近代国家が成立する時点において、合意
なしに国家に統合され、現在被支配的立場におかれ、かつ(固有の民族とし
ての)人権が十分保障されていない人々」。

 これを日本にあてはめてみよう。近代国家の成立は明治政府の発足にあた
る。アイヌ民族は1871(明治04)年の太政官布告によって一方的に日本の国
籍が与えられた。21世紀の今日においても、就職や結婚で差別が存在してい
る。現在アイヌ民族出身の国会議員はいない。為政者側にアイヌ民族の意思
が十分に伝わっているとはいえないのが現状だ。

 すなわち「明治政府はアイヌ民族をその自由な意思によることなく一方的
に統合し、現在被支配者的立場におき、なおかつ人権を十分に保障していな
い」といえよう。アイヌ民族は日本における先住民族なのである。

 判決もある。1997年03月27日、札幌地裁で二風谷ダム訴訟の判決が言い渡
され、「アイヌの人々は~『先住民族』に該当するというべきである」と明
記された。

 アイヌの現状について、外国のメディアや市民団体から「なぜ日本では先
住民族として認められないのか」と問われることも少なくない。

 アイヌ民族は3万人とも10万人ともいわれる。誰がアイヌなのか。血なの
か文化なのか。「自分はアイヌだ」と自覚し、そのコミュニティーから認め
られた者がアイヌなのである。民族とはアイデンティティーの問題なのだ。

 先住民族に認められる権利には、土地に関するもの、外交を含む自治に関
するもの、地下資源や埋蔵物に関するもの、言語使用に関するものなどがあ
る。私の父・萱野茂は「和人に土地を売った覚えも貸した覚えもない。借り
たのであれば借用証を見せろ」とよく言っていた。

 本稿では土地について論じよう。

 1990年代以降、一部とはいえ返還されているケースがいくつもある。カナ
ダではイヌイットの準州ができたし、オーストラリアではアポリジニーに返
還を命じる判決が出た。国際的に見て決して特異なことではないはずだ。

 北海道を全部返せなどと言うつもりはない。すでに何世代にもわたって和
人が住んでいる私有地まで戻すべきだというつもりもない。

 北海道は約834万ha。このうち約半分の414万ha国有地だ。道有地、市町村
所有の公有地も多い。このなかの一部でもいい、返還してほしい。歴史的経
緯を考えた場合、特に政府に求めたい。

 我々の聖地である山や谷も、いまはその大半が国有地だ。もともと我々の
先祖が住んでいたと地である。アイヌ民族には土地所有の観念がなかった。
明治期に、外から来た人々が一方的に法律を制定し「所有」を決めたのであ
る。その結果、神々に祈る行事を行おうにも、政府の許可を得なければでき
ない、などということまで起きた。

 アイヌ民族を「先住民族」と認め、国有地の一部を返還する。国民が理解
し、政府が判断すれば可能なはずだ。返還されたあとも、北海道の道民や来
道者が自由に通行や利用ができるものとしたい。

 私は活動家ではない。「アイヌ語ペンクラブ」の一会員であり、こうして
書くことで訴えている。

 先住民族を取り巻く問題にどう向き合うかは、法治国家ニッポンの成熟度
を測るバロメーターとなるに違いない。

  (朝日、2007年12月29日)

 参考・アイヌ民族(02、歴史)(2008年06月12日

オルグ

2007年07月21日 | ア行
     オルグ

 1、社会運動で個人の採る態度を分けますと3種あります。
  A・相手と直接戦う。
  B・自分のことを反省し、自分の向上を目指す。
  C・第3者に働きかける、

 こう整理しますと、オルグとはAでもBでもなくCをすることだと分かります。

 2、これをオルグと言う習慣は、多分、オルガナイザー(組織者)の略語として、主として左翼運動の中で定着したのだろうと思います。ロシア語から来たというなら元はオルガニザーチアだったかもしれません。いずれにせよ、そういう活動をする人のことを意味する場合もありますが、そういう活動自体を指すことも多いと思います。

 3、オルグはセールスあるいは営業活動に似ています。事業に営業(広義)が必要不可欠であるように、思想運動や社会運動にはオルグが必要です。仲間を増やすことは目的達成に必要だからです。

 4、問題はどういうオルグをするかだと思います。事業にとってどういう営業をするかにその事業主(会社)の考えと性格が良く出るように、オルグの仕方にはその思想運動の性格が良く出ると思います。

 行き過ぎる傾向のある点でも両者は良く似ています。最悪のセールスがねずみ講であるように、最悪のオルグは「友人や家族をオルグしてくれ」という「オルグのオルグ」でしょう。

 思想運動には自分たちの質的向上をはかる面と人数(仲間)を増やす面がありますが、前者も実質的には(自分のオルグですから)オルグであることを理解して、自己向上を中心にしてやっていくのが正しいのではないかと思います。

 しかし、現実には、何か社会的活動に目覚めた人がすぐにも考えることは、どうやって他の人に知らせ、理解してもらい、仲間になってもらうかということです。

 5、左翼運動のオルグが嫌われるようになってから、「(やるなら)一人でもやる、(悪い事は)一人でも止める」という考えないしスローガンが出てきました。小田実さんや宇井純さんの名が知られています。

 これは立派な態度であり、それなりの成果を挙げていると思いますが、歴史的に見ると、やはり、オルグをうまく組織的に行った有能なリーダーの率いた運動の方が大きな成果を挙げているのも、残念ながら事実だろうと思います。

 キリスト教でもイスラム教でもそうですし、創価学会もそうです。もちろんいわゆる社会主義革命でもそうでした。

笑み

2007年06月18日 | ア行
     笑み

 1、「満面の笑みを浮かべる」という言い回しに出会うことが多
くなりました。いつ頃からかは知りません。2007年06月18日、朝日
紙連載中の夢枕漠の「宿神」にもついに「実能(さねよし)は、満
面の笑みを浮かべている」という句が出てきました。これほど古典
に詳しい人でも使うようになったのです。私見では「満面に笑みを
浮かべる」だと思うのですが、少しまとめてみました。

 2、小学館の「類語例解辞典」にはこう書いてあります。

 「笑い」は、声を立てる大笑いから、口元だけの小さな微笑みま
で幅広く使われるが、「笑み」は、声を立てないでにっこりするだ
けである。

 用法としては、「笑いを浮かべる」「笑みを浮かべる」と「浮か
べる」とならどちらも使える。

 「止まらない」のと「人から受ける」のは「笑い」だけで、「絶
やさない」のと「満面に浮かべる」のは「笑み」だけとなっていま
す。

 3、大野晋・浜野正人著「類語国語辞典」(角川書店)は、「笑
い」の使い方としては、「口元に笑いを含む」「笑いが止まらない
」「人の笑いを買う」を挙げています。「笑み」の方は、「口元に
笑みを浮かべる」「顔に笑みが広がる」の2つです。

 4、小学館の「現代国語例解辞典」と三省堂の「新明解国語辞典
」には「満面に笑みをたたえる」が載っています。

 5、学研の「国語大辞典」には「蒼い顔に笑みを作って挨拶した
」という田村俊の文例が載っています。

 6、たくさんの用例を載せているのは教育社の「現代国語用例辞
典」です。

 「満面に笑みを浮かべて」「静かに笑みをたたえた母の顔」「会
心の笑みをもらした」「顔には笑みがあふれ」「笑みがこぼれてい
た」「笑みを含んだ表情」「少女たちは笑みを交わして」「顔から
見る間に笑みが消えていった」。

 7、暫定的な結論。

 「満面の笑みを浮かべる」という言い方はこれまではなかった。
 (2007年06月18日)


イエス・キリスト

2007年03月09日 | ア行
     「イエス・キリスト」は誤訳である

 イエス・キリストという日本語は Jesus Christ という英語の訳語として生まれたのでしょう。しかし、これは誤訳だと思います。

 そしてこれが誤訳であるために、つまり日本文法に反しているために、多くの人が「イエス・キリスト」という言葉を誤解している面があると思います。

 まずどういう風に誤解されているかと言いますと、これ全体を人名と思っている人がいます。そもそもこの言葉が何を意味しているかを知らない人が多いようです。クリスマスを利用して遊んだりするカップルがこれほど多いのにです。

 この言葉の「イエス」とは「ナザレ〔出身〕のイエス」という意味です。昔は苗字がなかったので、出身地を付けて言うのが普通でした。「キリスト」とは語源的には「油を塗られた者」とかいう意味らしいですが、要するに「旧約聖書で約束された救い主」の名です。つまり「イエス・キリスト」とは「イエスこそがキリストである」という意味であり、背後に判断を含んでいるのです。

 従って「イエス・キリスト」という言葉を口にしていいのはキリスト者だけなのです。ユダヤ教の人達はイエスをキリストと認めていませんから「イエス・キリスト」などとは絶対に言わないそうです。

 我々門外漢はイエスがキリストであるか否か分からないのですから、やはり「イエス・キリスト」などと言うべきではありません。知りもしない事を言うのをハッタリ屋と言います。「ナザレのイエス」と言うのが科学的に正しい言い方でしょう。

 さて「イエス・キリスト」の意味は分かりました。問題は日本語との対比です。日本語では、個人名に評価を表す言葉を付けて言う時には、例えば「仏の牧野」とか「鬼の牧野」といったように、評価の語を先に持ってきて、たいてい「の」でつないで、そして個人名を後に持ってきます。

 しかしヨーロッパの言葉では英語でもドイツ語でもフランス語でも日本語とは逆で、個人名を先に出して評価を表す言葉を後に付けます。ですから Jesus Christ となるのです。

 私は英語やフランス語のことへ良く知らないのでドイツ語で言いますと、「仏の牧野」を独訳すると Makino der Engelでしょう(多分)。「鬼の牧野」を独訳すると Makino der Teufelです(これは確実)。

 従って Jesus Christ を日本語に訳した人が「キリスト・イエス」とか「キリストのイエス」と訳していれば、少しは誤解が防げたと思います。「救い主イエス」が一番よかったと思います。実際、キリスト教の文献などでは「キリスト・イエス」という言葉も使われているのです。

 しかし、日本文法の本の中にはこういう法則についてもきちんと書かれているのでしょうか。

茨の道

2007年03月07日 | ア行
     茨の道

 次の文がありました。

──マイナー契約で、キャンプには招待選手として参加。大リーグ
昇格を狙い、若手らとともに、しのぎを削る毎日だ。1球1球の結
果が、今後の選手生活を左石するかもしれない綱渡りの状態に身を
置いている。

 いばら道は続く。が、桑田は「楽しんでやっている。マウンドに
立てるだけでも幸せです」。ひたむきな気持ちが、「オールド・ル
ーキー」の挑戦を支えている。
 (2007年03月05日、朝日、村上尚史)

 まず問題にしたいのは、「いばら道」と言うか、です。これは
「いばらの道」と言うのが決まった言い方ではないでしょうか。

 次に、「いばらの道は続く」の「は」です。こういうときは、
「いばらの道が続く」だと思うのですが。

 次の「が、桑田は」の「が」と重なって拙いというなら、こち
らを「しかし、桑田は」か「それでも、桑田は」にすればよいと
思います。

大人

2007年02月24日 | ア行
     大人

   参考

 1、一人前の人というのは、自分で自分のテーマを決め、自分で自分を鍛え、自分で自分の若さを保つ。
 (大村はま『教えるということ』共文社25頁。『大村はまの国語教室』小学館13頁)

 2、自分の思想を率直に述べて、その価値の決定を将来の発展にゆだねるといったありふれた一人の哲学者、社会主義者
 (エンゲルス『反デューリング論』第2章)


家(うち)

2007年02月23日 | ア行
 1、自分の家のことを「うち」と言う場合の「うち」の漢字としては「内」が元の姿だと思います。これはもちろん「内」と「外」の対比で考える日本人独特の思考方法と関係しています。

 それはともかく、これは普通は「家」と書くようでもあります。「家」といっただけでは誰の家のことか分からないという屁理屈も考えられますが、それはそうではないと思います。

 話者の立場からみて一番大切な個物はあえてそのものでは言わずに普遍的な言葉を使うのです。政治家は自分の党のことをただ「党」と言うし、さまざまな会でもその会に属している人は自分の会のことをたいていただ「会」としか言いません(これは認識論的に大切な事ですが、関心のある人は拙稿「昭和元禄と哲学」を読んでほしい)。

 2、この「うち」はもちろん一般的にも使われます。そして「誰々さんのうち」と言います。しかし子供はたいていそれを「○○さんち」と言います。そこで有名な「山口さんちのつとむ君」という歌ができるのです。

 3、さて、この用語法に基づいて自分の「家(うち)」の事を「うちんち」と言う人がいます。子供だけかと思っていたら、大学生でもそれを使う人のいることに気づきました。

 「内」=自分の家という使い方から、○○さんの家(うち)=○○さんの立場に立っての家(うち)という言い方が出てきた。今度はその「家(うち)」が一般的なものと理解され、「うちんち」=家(うち)の家(うち)という言い方が生まれた、ということでしょう。

 言葉の誤用や変化にも法則があるのです。

言わば

2007年02月22日 | ア行
 1、「言わば」とは「敢えて言ってみれば」ということであろう。すると、その「敢えて言う」時、なぜ「敢えて」言うのか、その理由によってニュアンスが違ってくるのではあるまいか。

 関口存男氏はこの「言わば」を3段階に分けています。

 2、第1は、「不適当な言葉を使う場合の申し訳」です。

   私は言わば間違って結婚したようなものだ。
  Ich heiratete sozusagen aus Versehen.
   I got married, so to speak, by mistake.

 3、第2は、「~と言うも過言にあらず」という意味です。

   私は言わば間違って結婚したようなものだ。
   Ich heiratete gleichsam aus Versehen.
   I got married, as it were, by mistake.

 4、第3は、一番強い言い方で、「端的に評辞を出す言い方」です。「簡単に言って」「端的に言って」

   彼は言わば自殺したようなものだ。
  =彼はなんてことはないまるで自殺したようなものだ。
   Er beging geradezu Selbstmord.
   He possibly committed suicide.
   (関口存男『趣味のドイツ語』)

 5、氏はこれについて更に次のような説明もしています。

 A. Deine Behauptung wirkt geradezu komisch.
   (君の主張はむしろこっけいな気がするよ)
   この「むしろ」は、出立点となるべき否定の要素(例えば「誤っていると言うよりは(むしろ)」)を言わないで、直ちに肯定的要素に向かう「むしろ」である。

  これに対して「どちらかと言えばむしろ~」の意を表すには eher, mdehr, vielmehrである。

  B. Sie ist geradezu schoen.(彼女は端的に美しい)
   別に非常に美しいとか、どういう風に美しいというのではなく、単に schoen という言葉が「多少極端かもしれないが」非常によくあてはまる、という意味である。
  (関口存男『独作文教程』)

異例

2007年02月21日 | ア行
 次のような文がありました。

 「ピエルサ(アルゼンチンのサッカーチームの代表監督)は無名選手から27歳で指導者に転身。卓越した分析力を武器に1998年、43歳の若さで異例の代表監督に就任した」(2002,06,22,朝日)

 私の問題にしたいのはこの「異例の」という言葉の使い方です。意味はもちろん分かります。しかし、この言い方で好いのでしょうか。

 教育社の「現代国語例解辞典」で似た例を見ますと、「新人でいきなり主役にばってきされるのは、異例のことなんだよ」がありました。

 ほかに、通常の使い方では「この冬は、太平洋側でも大雪になるなど、異例の寒さであった」が挙げられています。

 つまり「異例の何々」と言う場合は、「何々は異例だ」と言えなければならないのです。

 しかし、先の例では「代表監督は異例だ」と言えるでしょうか。「43歳の若さで代表監督になることが異例」なのです。ここに私の感じた「おかしさ」の理由があります。

 ではどう言ったら好いのでしょうか。あまり好い対案は出てきませんが、一応次のものを考えました。

 A・卓越した分析力を武器に1998年、43歳の若さでは異例の代表監督に就任した。(「は」を入れる)
 B・卓越した分析力を武器に異例にも1998年、43歳の若さで代表監督に就任した。(「異例」が評辞であることをはっきりと出す)
 C・卓越した分析力を武器に1998年、43歳の若さで代表監督に就任した。(「43歳の若さで」の中に既に「異例にも」という趣旨が入っていると考える)

 私見ではCBAの順で好い日本語だと思います。