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マキペディア(発行人・牧野紀之)

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内部告発者の保護

2011年07月01日 | ナ行
                    日野勝吾(東洋大学非常勤講師)

 公益通報者保護法の施行から5年が経過した。施行時は企業不祥事の多くが従業員の内部告発(通報)により発覚していたこともあり、企業の法令遵守強化にも資するとされて脚光を浴びたが、今、法の意義が改めて問われている。

 法は施行後5年をめどに見直しを検討すると定めており、今年度から見直しが議論される。その前段階として昨年度、消費者委員会の専門調査会で見直しに関して審議がなされた。最近、最終取りまとめが報告され、見直すべき課題があれば法改正を検討するとして、結論は先送りされた。

 しかし、実務の現場は、悠長に構えていられない危機的状態にある。法施行後もなお、通報した従業員が解雇や不利益な取り扱いを受けているのだ。会社の法令違反と思って通報した従業員が、会社により通報内容を漏洩され、不当な配転を受けた事案もある。この事案の地裁判決は、法が定める「通報対象事実」に当たらず、配転は不利益性が低いとして、この従業員の請求を認めなかった。

 そのほかに自治労共済の職員が厚生労働省に通報したが、同省が通報者の実名や報告内容を通知したことを発端に、「内部情報を取得したこと」を理由に解雇された事案や、大阪市の河川清掃職員の拾得物着服に関する通報をして懲戒免職を受けた事案、さらには同市職員が個人情報流出をめぐり通報したことで上司からパワハラを受けた事案などもある。

 このように法を取り巻く実態は深刻だ。消費者委員会は実態を踏まえ、改正を念頭に置いて、抜本的な見直しに着手すべきだ。専門調査会は法改正が必要な具体的事実や理由がないとして結論を先送りしたが、前記の事案こそが法を改正すべき立法事実である。

 改正点を挙げる。まず、通報先によって通報の要件が異なる現行法は分かりにくい。通報対象となるのは現在約430本の法律に限定されており、これを調べるのは一般人には難しい。通報の要件、特に外部通報の要件は緩和すべきだし、保護の要件も保護対象の法律で制限列挙するのではなく、法令違反全般を対象とすべきだ。

 また、通報者の範囲は「労働者」に限定せず、個人業務委託従事者や下請け事業者などにも拡大すべきである。さらに、通報の根拠資料の持ち出しなど、通報の準備段階の保護や通報者のプライバシー保護規定も新設すべきだ。

 公益通報しようとする従業員の気持ちを踏みにじることは許されない。法が「奨励法」にとどまることなく、従業員が安心して内部告発できる、真の「保護法」に生まれ変わるよう改正すべきだ。

 (朝日、2011年05月14日)

新規就農者支援

2011年03月18日 | ナ行
 新規就農者に対して手厚い支援制度を持つ静岡県内には、県外から多くの若者が移住し農業を営んでいる。地元農家が新たな仲間兼ライバルの登場に刺激を受け、地域全体が活性化する効果も出ている。しかし、制度をさらに発展させるには、受け入れ農家の負担軽減が課題となりそうだ。

 青々と茂った葉の合間に、鈴なりになった青や赤のミニトマト。伊豆箱根鉄道の線路沿いにビニールハウスが立ち並んだ一角に、「ニューファーマーとまと農園」(伊豆の国市)の看板が立つ。20棟ほどのハウスは、どれも新規就農者が営んでいる。横付けされた車に軽トラックは見あたらず、鮮やかなカラーのファミリーカーばかりだ。

 中村克彦さん(49)は、県の新規就農者養成制度を使って2004年に就農した。「食べるものを作る仕事って、人間らしい生き方だな」と農業に興味は持っていたが、実家がサラリーマンでは「婿入りするくらいしか方法がない」。農業大学も卒業していたが、あきらめて横浜市の飼料メーカーに就職した。

 それから15年、インターネットで県の養成制度を見つけた。説明会や見学会に足を運び、決意を固めた。

 ベテラン農家のもとで2年間研修し、栽培技術や農業経営のいろはを教わった。翌年から30アールの畑の経営者になったが、農地の確保や資金融資、販売ルートの開拓まで、農家やJAが面倒を見てくれた。「初めから作ることに専念できた。支援がなかったら、今みたいに農業は出来ていないと思う」と振り返る。

 勉強熱心で一生懸命な新規就農者が増えることは、長く農業を続けていた人々にも刺激を与えている。親の代からこの地で農業を営む鈴木金男さん(74)は「若い衆もいいもん作るから、負けんよう頑張らんと」。新規就農者は「よそ者」ではなく、同じ産地を盛り上げる仲間であり、ライバルだという。

 JA伊豆の国の営農事業部によると、新規就農者を本格的に受け入れるようになった2004年から、果菜販売実績(キュウリ、トマト、ミニトマト)は右肩上がりとなり、昨年は10年前の3倍近い約6億円になった。新規就農者による純粋な増加だけではなく、既存農家が刺激を受けて売り上げを伸ばしたと見ている。

 県が全国に先駆けて養成制度を作ったのは1993年。高齢化が進み、休耕地が増え続けるなか、「土地はあるのに耕作する若者がいない」という危機感が背景にあった。現在は計80人が就農し、土地を探すのが大変になってきているほどだという。就農者をサポートする「地域連絡会」も発足させ、JAや受け入れ農家だけでなく、市や農林事務所が連携して60人規模で数人の就農者を支える。

 ただ、制度全体が受け入れ農家に頼り過ぎている感は否めない。技術指導だけでなく農地確保や就農計画まで、受け入れ農家が中心となって面倒を見なければならない。

 県農業振興課は「土地の借り入れは地元で顔が利く人にお願いすることが多い。研修方法もほぼ一任している」と話す。今後も就農地や受け入れ先を増やしたいとしたうえで、個人ではなく産地ごとの受け入れや、技術指導以外を分散して教えるなどの農家の負担軽減策を検討する必要があるという。

 2011年02月26日、焼津市のJAおおいがわのエリアでは、次年度に就農を目指す人たち向けの現地見学会があった。この地域で扱うのはイチゴ。19人が参加し、実際にハウスの中を歩いて苗を見ながら農家の生の声を聞いた。

 宮城県から来た青木圭介さん(33)は静岡県の制度の充実ぶりにひかれたという。「辞める人も多いと聞いて厳しい現実も実感した。それでもやっばり、ハウスを持ちたい」。


新規就農者支援制度

 経験や知識がなくても、農業経営者を志す意欲的な若い世代を応援する制度。栽培指導、農地確保、資金支援、就農計画など多面的に支える。

 静岡県は1993年、全国に先駆けて制度を発足させた。就農希望者は書類と面接選考を通過すると、1年間農家で実践的な研修を受け、その後研修地で町独立を目指す。

(朝日、2011年02月27日。植松佳香)

農業の現状

2010年11月16日 | ナ行
 農林水産省が2010年09月07日発表した2010年の農林業センサス(速報値)は、農業の就業人口が5年前に比べて22・4%減の260万人となり、比較できる1985年以降で最大の下落率となった。農村の高齢化と担い手不足が加速度的に進行。農家の大規模化を進め、農村の底上げをはかろうとしてきた戦後の農業政策の行き詰まりが見てとれる。
          
 農林業センサスは1950年から5年ごとに調査しており、今回が13回目。

 調査によると、1985年に543万人だった農業就業人口はこの25年間で半減。高齢化で農業をやめる人が増えているのが理由だ。最近はリストラされた都市部のサラリーマンなどが農業を始める例も増えてはいるが、就業減のスピードを補うまでには至っていない。1995年に59・1歳だった平均年齢は、今回、65・8歳と6・7歳も上がった。

 耕作放棄地の拡大も止まらない。センサスによると、2010年の放棄地は約40万ha。滋賀県の面積に匹敵する。5年前よりも1万ha増えた。耕作をやめて数年たつと、農地は原形を失うほど荒れてしまう。

 農水省の試算によると、0・5~1ha未満の農家1人あたりの平均時給は約300円で、最低賃金の全国平均額の半分以下。0・5ha未満は100円の赤字だ。「農業だけでは生活できない」ことが弱体化の根幹にある。

 こうした構造的な問題に対応するため、戦後、農水省は大規模化によって農地を集積し、効率化を進めようとしてきた。コメの市場開放が決まった1993年のウルグアイ・ラウンド交渉をきっかけに、6兆円あまりの税金を投じて、農村の基盤整備など公共事業を推進。小泉政権下の2005年には国際競争に耐える担い手を育てようと、4ha以上(北海道は10ha以上)の大規模農家に補助金を集中する政策を打ち出した。

 ところが、思うように成果は上がっていない。2010年の平均耕地面積は2005年比17・7%増の2・2haと、拡大はしているものの、米国の83ha、フランスの37ha、ドイツの32haなどに比べると、格段に小さい。農業の生産性は低い状態が続いている。
 
 民主党政権は、戸別所得補償制度を農業再生の切り札に掲げる。農業の崩壊を防ぐには、個々の農家に税金を直接交付するしかない、という発想だ。今年度から総額5600億円をかけてコメ農家に10aあたり一律1万5000円を配布。2011年度からは麦や大豆などの畑作についても2万円を配る方針だ。農水省の政務三役の一人は「一定の所得が守られれば離農の動きが止まり、農家をやる若者も出てくるのではないか」と話す。

 静岡県内の稲作農家の男性(70)は「所得補償でお金をもらっても、後継者不足の解決にはつながらない。私が死んだら、集落の農地を維持できる人はだれもいなくなってしまう」と悲観的だ。
 
 新たな農業の担い手として民間企業への期待が高まっている。食品大手のカゴメ、居酒屋チェーンのワタミなどが農業に参入。証券最大手の野村ホールディングスも国内の金融機関としては初めて参入し、高糖度のトマトを生産する計画だ。

 ただ、いまの法律上の規制では企業が単独で農地を購入することができないなどハードルは依然高い。「採算性」や「農地の確保」などの点で二の足を踏む企業は多い。

 (朝日、2010年09月08日。古屋聡一)

内閣法制局(その2)

2010年06月27日 | ナ行
 内閣法制局の定員は77人。キャリア官僚は独自採用をせず、各省庁から参事官(課長級)以上を出向で受け入れている。ただ、戦後生まれの防衛、環境両省には参事官ポストはない。「法律案件がさほど多くない」 ためという。

 この参事官を約5年務めて出身省庁に戻るのが通例だが、「法律にたけている」と目をつけられると、法制局幹部の登竜門とされる総務主幹に起用され、その後の「出世」の道が開ける。こうしたリクルートシステムの中で、明治以来の組織文化が維持されている。

 ふだんの仕事では、憲法や法律の解釈についての「意見事務」より、政府提出法案を事前にチェックする「法令審査」の比重が大きい。各省庁がつくった原案をまな板にのせ、法制局と省庁の担当者が「読会(どっかい)」と呼ばれる会合を開いて、ひざ詰めの検討を繰り返す作業だ。

 例えば、今年3月9日に閣議決定され、5月12日に成立した「改正金融商品取引法」。金融庁から内閣法制局に相談があったのは昨年夏だった。リーマン・ショックのときに当局も金融派生商品(デリバティブ)取引の実情をつかみきれなかったことを教訓に、デリバティブの監視や証券会社の監督を強めようという狙いだった。

 法制局側で金融庁所管の法律を担当するのは第三部。財務省出身の参事官が、まず金融庁の課長補佐と向かい合う。法制局側が課す最初のハードルは「その政策を実行するために、なぜ法律が必要なのか」だ。この場合は「本来自由であるべき取引に制約を課すのには法律の規定が必要」ということでクリアしたが、この段階で法案作成を断念させられることもしばしばあるという。

 次の関門は、法案の大枠づくりだ。金商法改正では、企業をグループとして監督する仕組みをどうつくるか、といった点が議論になり、一部で原案が修正された。 全体の枠組みが固まると、最後は逐条審査だ。改正金商法は昨年11月ごろから、金融庁が作成した個々の条文の素案について、用語の使い方、章立てなどをチェック。法案が最終的に固まったのは2月。読会は40回近くに及んだ。最後に長官が目を通して、決裁印である「太鼓判」を押す。そこでようやく閣議にかけられることになる。

 今国会に提出された法案のうち、政府提出の法案は63件。総務省、外務省、財務省などの法律を所管する第三部はうち23件を扱った。法案1本ごとに同様の作業が繰り返されている。

 審査は連日深夜に及ぶことも珍しくないという。法案によっては、省庁の原案に、法制局の意見や疑義がびっしり書き込まれる。

 法制局側は「条文を新設、改正、削除することで調整が必要になる他の法律の条文の有無に電光石火のように気づく知識と豊かなリーガルマインドが必要」(参事官経験者)と胸を張る。一方、省庁側の審査経験者には「まさに『霞が関文学』の権化。若手官僚にとって、法制局を相手にするのは死ぬ覚悟だった」といった声もある。

★ 内閣法制局長官の待遇

 内閣法制局長官は、特別職の公務員としては、官房副長官や宮内庁長官などと同格。月額給与は144万4000円で、国会議員の歳費(129万7000円)を上回る。これだけでも、政治家の中には「国会議員より高収入の公務員がいるなんて」などと問題視する声もある。

 さらに権力を象徴するように言われてきたのが、五反田・池田山の高級住宅街にある旧長官公邸。延べ床面積1555平方メートルの白亜の御殿は、複数の会議室や、11台の地下駐車場を備え、建設費は11億円。公邸廃止の政府方針に伴って会議室として使われるようになったが、2002~05年には小泉元首相の仮公邸に。「総理大臣公邸より、官房長官公邸より、官僚の公邸の方が上なのかなあ」という小泉節のために、かえって「豪華すぎる官僚公邸」の代名詞になった。

(朝日新聞globe、2010年06月14日)

中村屋

2010年06月16日 | ナ行
 「新宿中村屋」。時代が移り変わっても、東京・新宿の「顔」の1つであり続けている。中村屋本店は新宿の繁華街にある。デパートや家電量販店が軒を連ねる大通りに立つ6階建てのビルは、一世を風靡した「インドカリー」などの伝統の昧を求める人で今もにぎわう。

 1901年に創業した。もともとは東京・本郷のパン屋から始まっている。創業者の相馬愛蔵(あいぞう)は、東京専門学校(今の早稲田大)で学んだが、商売の経験はなく、当時、なじみが薄かったパン屋を選んだ。新聞広告を出し、営業中のパン屋の譲渡を呼びかけ、職人や製造器具も含めて丸ごと買い取った。店名も「中村屋」をそのまま使った。

 3年目、シュークリームにヒントを得た新製品のクリームパンがヒット。順調に売り上げを伸ばし、6年目には支店を開設した。そこが新宿だった。

 当時は「こんなすさんだ場末もなかった」と相馬が振り返ったほどみすぼらしい街。それでも、市電の終点がある新宿に相馬は「興隆の機運」を感じる。読みは的中し、開店初日から本郷の店の売り上げを上回った。2年後には新宿の現在地に本店を移し、和菓子に手を広げた。

 多くの文化人が集い、「中村屋サロン」と呼ばれた店には1927年、新たなメニューが加わる。それが「インドカリー」だ。

 相馬夫妻が、亡命中のインド独立運動の闘士ラス・ビハリ・ボースをかくまったのがきっかけ。娘の俊子がボースと結婚。ボースが伝えた「インド王侯貴族のカリー」を売り出した。

 町の洋食屋のカレーが10~15銭の時代に80銭もしたが、「恋と革命の昧」は、大変な評判を呼んだ。以来80年、食材や製法にこだわり、「伝統の昧」は進化を続ける。「変えずに変えずに変わる」。長く客に支持され、しかも時代に合わせて変化し続ける昧の極意を二宮健総料理長(74)はこう表現する。

 戦後の混乱期を乗り切った同社は、1953年以降は百貨店への直売店進出など、多店舗化を進めた。現在、和洋菓子などの直売店は約110。インドカリーの店や南欧風レストランも首都圏を中心に数多く展開する。

 染谷省三社長(66)は「企業は『環境対応業』。変化する経済や人の価値観に適応できなければ発展は望めない」と話す。

 現在の主力商品、中華まんじゅうは195年以降にコンビニエンスストアでの販売を本格化し、販路拡大につなげた。肉まんだけでも「特撰上肉まん」「ふかひれ肉まん」など十数種類を出している。2001年にはレトルトパックの「インドカリー」を一般消費者向けに、2006年からは「東京ショコラトリー」のブランド名で駅構内での土産菓子の販売を始めた。

 激しい時代の変化の中、染谷社長は改めて創業者の経営哲学をかみしめる。「創意工夫、良品廉価といった考え方を私たちのDNAとして努力していくことが大切だ」 

   企業プロフィル

 東京都新宿区新宿3丁目/創業1901年/染谷省三社長/従業員921人/連結売上高409億円(2010年3月期)

 (朝日、2010年05月21日。武井宏之)

認識論(03、レーニンの真理論)(その1)

2009年12月06日 | ナ行
 レーニンの労作『唯物論と経験批判論』(1908年)は「弁証法的」唯物論や「史的」唯物論よりも、弁証法的「唯物論」を強調したものだとされている。しかし、それは単に古い命題を繰り返しただけではなく、唯物論の認識論を発展させもしたのだという。それは特に、「認識論における実践の基準」と「哲学における党派性」との明確化にあるとされている。

 「理論の党派性」については既に検討した。この問題でのレーニンの意義は、歴史研究における主観的方法と客観主義的方法と唯物史観の方法との異同を明らかにしたこと、そして、理論を事実的特殊研究と一般理論とに分けて、後者でのみ党派性が問題になることを主張したことである。その限界は、理論展開が内在的ではなく、間違った命題に自説を対置する悟性的な方法に終始していること、従って自説からの前衛党論への論理的帰結を引き出しておらず、自称レーニン党の変質の一因を作ったことであった。

 今回は「レーニンの真理論」を検討してみたい。

1、レー二ン理論の要旨

 レーニンの真理論は、その著書の第2章の第4,5,6節にまとめられている。第4節は「客観的真理は存在するか」と題され、第5節は「絶対的真理と相対的真理~について」と題され、第6節は「認識論における実践の基準」とされており、これらは内容を正しく表現した題名となっている。

 第4節の冒頭部分は第6節までの3つの節全体への「はしがき」である。即ち、マルクス主義者のつもりでいるが、実際は観念論に転落しマッハ主義者となっているボグダノフの言を引いて、その中で混乱させられている問題を3つに整理している。この3つの問題が3つの節のテーマとなっているのである。

 さて、本来の第4節はボグダノフの真理概念の引用とそれへの批判から始まる。ボグダノフは、真理をば人間の経験を組織する形式としているが、これでは人間に依存しない客観的真理の否定になると、ボグダノフ自身による修正命題も含めて批判している。続いて、このボグダノフによる客観的真理の否定は氏個人のものか、それともマッハ主義の基礎からの必然的帰結かと、問題を立て直す。そして、そこには、A=認識は感覚から始まるかと、B=感覚の源泉は客観的実在かとの二面があり、マッハ主義と唯物論とはAで一致し、Bで異なるとする。だから、客観的真理の否定はマッハ主義の本質だとなる。

 その後は、そこまで述べてきた本論への「補論」で、唯物論者に対する批判、①唯物論者は客観的実在を認める形而上学者である、②唯物論者は感覚を信頼しすぎる、③唯物論者は物質概念にしがみつく独断論者である、という3つの批判に反論することによって、それ迄に述べたことに念を押している。そして、最後が次のまとめである。

 「物質の概念を受け入れるかそれとも否認するかの問題は、人間の感覚器官の証言に対する人間の信頼に関する問題であり、人間の認識の源泉に関する問題である。~我々人間の感覚を外界の像と見なすこと、客観的真理を認めること、唯物論の観点に立つこと、これは同じ事なのである」(163頁)。

 第5節のテーマは絶対的真理と相対的真理の関係如何の問題であり、人間の認識の相対性をどう考えるかの問題であった。レーニンはまず、ボグダノフによるエンゲルス批判を取り上げる。即ち、エンゲルスは真理の相対性を認めながら、他方で「永遠の真理」を認めているのは折衷主義だ、というのである。レーニンはこれに対して、まず、ボグダノフはエンゲルスが永遠の真理の実例として挙げた命題の虚偽性を証明していない、という直接的反論をする。そして、次に、『反デューリンク論』の第1篇第9章の真意を積極的に述べ直す。即ち、客観的な真理を認めることは何らかの仕方で絶対的真理を認めることを意味すると確認した上で、その「何らかの仕方」を次のように述べる。

 「人間の思考は、その本性上、相対的真理の総和から成る絶対的真理を人間に与えることが出来るし、〔現に〕与えてもいる。科学の発展の各段階は、絶対的真理というこの総和に新しい粒を付け加える。しかし、各々の科学的命題の真理の限界は相対的であって、知識が更に発展するにつれて拡大したり縮小したりする」(170頁)。

 その後に、フォイエルバッハの説を引用してそれを補強し、「弁証法は相対主義の契機を含むが、相対主義に還元されることはない」とまとめている。

 第6節は認識論における実践概念の問題であった。レーニンはここではボグダノフを取り上げることなく、直ちにマッハの言葉をマルクスとエンゲルスに対置する。即ち、マルクスとエンゲルスが実践概念を認識論の中心に持ち込んだのに対して、マッハは現実と仮象の区別に実践上の意味(行動上の意味)を認めるだけで、理論的意味を認めない。つまり、マッハは実践概念と認識論とを並直して分けてしまい、正しい認識は有用なだけで、それが客観的実在の反映であるかどうかは問わないのである。

 このようにマッハの認識論を性格付けた後、これを哲学史の中に位置付けることによって、マッハの路線もその内容も何ら新しくないことを示し、既にフォイエルバッハによって反論されている、と言う。

 まとめは次の通りである。

 「生活と実践の観点が認識論の第1の根本的な観点でなければならない。そして、〔この観点に立つなら〕それは、必然的に、講壇的スコラ学問の限り無い思い付きを掃き捨てて唯物論に到達することになる。もちろんその際には、その実践という基準も、事の本質から言って、決して人間の観念を完全に確証または論破するものではない、ということを忘れてはならない。即ち、この基準も、また、人間の知識が「絶対者」に転化するのを許さない程度に「不確定的」であり、同時に、観念論や不可知論のあらゆる変種との情容赦無い闘争を行いうる程度に確定的である」(181頁)。

2、レーニン理論の検討

 国民文庫編集委員会の前記「解説」に拠ると、これが、「レーニンの仕事は古いものの繰り返しに終っておらず、唯物論の初歩的真理を一層強固なものに築き上げた」ことになるそうである。が、この評辞は間違っていると思う。まず、「古いものの繰り返しでなく」と来たら、「発展させている」と受けてくれなくては困る。しかるに発展とは潜在的本質の顕在化である。「一層強固に築き上げた」程度では量的進展に過ぎず、発展とは言えない。

 ここのレーニンの真理論には4つの積極的内容がある。第1点=客観的真理の承認、第2点=相対的真理と絶対的真理の弁証法的関係、第3点=認識論への実践概念の導入、第4点=実践による理論の検証における確定性と不確定性、以上である。

 第1点は唯物論そのものであり、初歩的真理である。第3点はそれはど初歩的ではなく、一歩進んだ真理である。レー二ンはなぜか言及しなかったが、フォイエルバッハの自然的実践概念とマルクスの社会的実践概念を区別すれば、それは完全に弁証法的唯物論であり唯物史観に通ずるから、上級の真理となる。

 第2点は、エンゲルスの理論を「相対的真理」と「絶対的真理」という語を使って言い直しただけだが、第4点を明確に定式化したのは、おそらくレーニンが初めてであろう。内容的には、マルクスの『フォイエルバッハに関するテーゼ』の第8に、「社会生活はすべて本質的に実践的である。〔だから〕理論を神秘主義にいざなうすべての神秘を本質的に解決する道は、人間の実践及びこの実践の理解である」という言葉があり、これと関係すると思うが、レーニンのこの定式はマルクスのその言葉に還元されるものではない。だから私は第4点だけをレーニン固有の功績と認める。

 レーニンの叙述の方法は、相手の主張を整理してそれに自説を対置し、次に相手の説と同じ哲学史上の先例を引いて相手の説を一般化し、既に先行唯物論によって行われている反論を対置し、最後にまとめるという方法である。即ち、レーニンの反論方法は間違った説に正しい説を対置するという最も初歩的な悟性的反論方法である。換言すれば、ここでもレーニンの叙述は概念規定からの内在的展開ではなく、従って前衛党論にとっての必然的帰結を引き出してもいない。そのため、本書によっては、「人間の知識が絶対者に転化する」のを防ぐことはできず、自称レーニン党が宗教団体に変質し、一般党員が党と党の幹部を信仰するのを防ぐことができなかった。

 レーニンは本書の「第2版への序文」(1920年)の中で、これが「弁証法的唯物論の参考書」として役立ってほしいと言っているが、それなら基本的概念についてはきちんとした定義をするべきであった。そもそもボグダノフは真理についての定義をしているのである。それを批判するなら、それに代わる定義を出すべきである。それなのに、客観的真理の命名的定義すら与えないで、その存否を論じた。そのために、その主張方法が断定的になっただけでなく、そもそも客観的真理とは何の事か、不明確のままとなった。

 レーニンの用語法からは次の3つの意味が考えられる。第1は、客観的実在を正しく捉えた観念。第2は、客観的実在そのもの。そして、この2つの意味の場合は、その実在自身が現象か仮象か本質かは問わない。第3は、自己の概念と一致した実在というヘーゲル的真理概念、である。このどれかがはっきりしないのに、その存否を論じても始まらないだろう。

 このように概念規定をしないで先に進む非科学的態度は、宗教論になると完全な間違いを引き起こす。レーニンは、あらゆるイデオロギーは歴史的に条件付けられているが、科学的イデオロギーには客観的(絶対的)真理が対応し、宗教的イデオロギーにはそれが対応していない、と言っている(172頁)が、これは間違いである。唯物論というのは、全ての観念(これがある程度以上まとまったものがイデオロギー)は客観的実在を反映しており、その限りで真理(ヘーゲルのいう主観的定義における真理、正しい観念)であることを認めるものである。だから、もしレーニンのように、客観的実在をいささかも反映せず、従って客観的真理の対応しない観念やイデオロギーがあると認めると、唯物論を自ら否定することになる。なぜレーニンはこういう間違いを犯したか。根本的姿勢としては、敵のことは調べもしないで実際以下に悪く言う、悪い意味での党派的な態度であろうが、直接的には宗教と科学の違いを原理的に考えず、それらの概念を規定せず、従ってあいまいな常識的用語法を無批判に受け入れたからであろう。

 不可知論者が唯物論者に投げつけている、やれ形而上学者だとか、やれ独断論者だとかいう非難に対しても、レーニンはそれらの語の意味を検討せず、相手がどのような意味でそれらの語を使っているかを明確にせず、従ってその非難がかえって非難者の間違いと唯物論の正しさを証明していることを内在的に示さず、ただ超越的に不可知論者だとか、反動哲学だとかの悪罵を投げ返すことになった。

 私は以前から、自称共産主義運動家の人々が、一部の情勢分析や綱領などではその表現の微妙な違いに過度にこだわるのに、他の一部の重要な語句についてはその概念規定を抜きにして粗雑な言葉使いをして平気でいられるという事実に、疑問を持ってきた。これを私は「辞書の無い運動」と呼ぼうと思う。私が「ヘーゲル哲学辞典」を書き続けている理由の1つはこの問題意識であり、それによって我々の自然生活運動を「辞書を持つ運動」にするためである。「科学的」社会主義運動とは本来こういうものだったのではあるまいか。

 レーニンは絶対的真理と相対的真理についてもその命名的定義を与えることなく、両者の関係についてだけ述べている。しかし、これはほとんど実害を与えていない。レーニンに代わってそれを規定しておくと、絶対的真理とは「無条件に、いつでもどこでも妥当する命題、または理論体系」のことである。相対的真理とは「何らかの条件下でのみ、あるいは限定された時と場所の範囲内でのみ妥当する命題、あるいは理論体系」のことである。

 この方面でのレーニンの欠点は、第1に、『反デューリンク論』でのエンゲルスの叙述は、自説を絶対的真理と主張するデューリンクへの批判であったために、真理の相対性に力点が置かれたが、レーニンは、その「真理の相対性」を絶対化することを要求するボグダノフを批判することが目的だったために、相対的真理の真理性、即ちその客観性(客観的実在の反映)と絶対性(絶対的真理の粒になること)の主張に力点を置くことになったことを、断らなかったことである。しかしこれは小さな欠点である。

 第2は、欠点というより間違いに近くなるが、相対的真理の「総和」を絶対的真理としたことである。つまり、無数の相対的真理の関係を算術用語の「和」で表現したことである。確かに、分野を異にする複数の真なる命題の関係なら、こういう語で表現してもそう悪くないかもしれないが、同一対象についての低い真理とそれを止揚した高い真理との関係を「和」で表現するのは、拙いを通り越して間違いだと思う。しかも、学問的にも社会生活でも革命運動でも、そこで大きな問題になるのは後者の関係なのである。ユークリッド幾何学と非ユークリッド幾何学、ニュートン力学と相対性理論、古典経済学とマルクス経済学、カント哲学とヘーゲル哲学、自然発生的運動と自覚的運動等、例を挙げればきりが無い。

 そして、第三に、レーニンは真理の主体的性格に言及しなかった。即ち、真なる命題も理論も、それを理解している生きた個人に担われている限りで、実際に作用するのであって、書物か何かに書き残されているだけで理解している人がいない場合には、それはいわば眠っているのであり、理解していないのに理解しているつもりの個人が振り回す場合には、それは虚偽に転化し、当人をハッタリ屋にし、周囲の人々を傷つけ、歴史を後退させる働きをするということを、指摘しなかった。そのため、又、低い相対的真理と高い相対的真理の関係は、遅れた個人と進んだ個人の関係として現われることも指摘しなかった。レーニンがもしこれに気付いていたら、両真理の関係を「和」の関係で捉えると、遅れた人と進んだ人を並列することになり、師弟関係や指導者と大衆の関係をうまく説明できなくなることに思い至ったであろう。しかし、不幸にして、レーニンはこれに気付かず、レーニン信者達もこれに気付かなかったために、社会主義運動の組織論は認識論的基礎付けを持たず、時々の政治力学だけに左右されることになった。

 そのため、第四に、この部分でのレーニン固有の功績である「実践による理論の検証の確定性と不確定性の関係」も、その効力を十分には発捧せず、いや、そもそもほとんど注目されなかった。これは、レーニンの叙述自身が、実践の検証性の主張に力点を置いており、この確定性と不確定性の関係については、最後に但し書きとして触れただけだったことも、一因である。

3、認識論の始まり

 レーニンに代わって認識論から解放運動の組織論への内在的展開の骨子をまとめておこう。

 認識論(認識そのものではない)は、「人間の認識は真でありうるのか」の反省と共に始まる。それ迄、そのような反省無しに認識してきた人が、そういう自己反省をし、認識が認識自身を対象とするようになる時、認識論は始まるのである。
 この間いは、当然、「もしそれが真でありうるとするならば、それはなぜか」、又「もし真でありえないとするならば、それはなぜか」という問いに連なっていく。更に、第三に、「認識の真偽は何によって判定されるのか」の問へと進み、そこから、「そもそも真理とは何か、認識するとはどういうことか」という反省までさかのぼる。これがいわば原理論ないし本質論である。

 それに対して、「正しい認識のためには、あるいは認識の間違いを少なくするには、どうしたらよいか」というのが方法論であり、認識における実践論である。直接的動機はどうであれ、認識の本質への反省の根底にはこのような方法への関心がある。

 このように反省してみるとすぐ分かることは、人間は或る予想をもって行動しており、その行動の結果が予想通りだと、そこで前提されていた予想を真と見なしている、ということである。ここでは、その行動が個人または集団が自然に働きかける行動か、それとも他の個人または集団に働きかける行動かということは問題にならない。又、その予想が感覚的な漠然としたものかはっきり考えられたものか、つまりどの程度当人に意識されていたかも、関係無い。

 ともかく、行動の結果が予想通りなら、その予想が真とされる。では、予想とは何か。それは現状認識に基く未来の推定である。その推定の内容は当の対象の未来像である。つまり、対象自身が現実に新しい姿を取る前に、それを主観内で先取りするのである。しかし、対象の未来像は対象の現状の中に潜在しているものの顕在化でしかない。従って、予想とは、対象が現状A(潜在態Bを含む)から現状Bになる前に、主観が現状Aの把握を介して、Bを主観内で顕在化させることである。

 つまり、予想は対象の自己変化の先取りであり、行動が予想の正しさを確証しうるのはこのためである。確かに全ての対象が人間の働きかけの結果として変化するものではなく、天体のように人間の関わり無しに動いている対象も多いが、その変化の結果を予想して観察するのも、この場合の行動の内である。

 では、人間はどうやって対象の現状の把握からその潜在態を推定するのか。それは、その対象の動き方についてのこれまでの経験と知識をもとにしてである。だから、初めて出会った対象については予想は立てられず、せいぜい既知のものの中に外面的に似ているものを連想して、確度の低い推定が出来るだけである。しかし、ここから分かる事は、予想は対象の未来の先取りであると同時に、対象についての過去の経験の反省でもある、ということである。というより、対象の「現状の把握」と言う時の「現状」は、それまでの変化の結果としての現状であり、それを把握するとは、本来、その「変化の過程」という過去とその過程の結果としての現状とを知ることなのである。これが、変化する対象の過去と現在と未来に対する人間主観の関わり方の基本である。

 この現状把握と、従ってまた未来の推定とを意識的に試してみるために行われるのが、実験である。だから、実験は行為の一種だが、本来的には主観内で行われる過程を小規模に対象世界で行うもので、本来の行為というより、本質的には認識の一要素である。

 ここでは認識とは対象の主観による把握のすべてであり、真理とはその把握の正確なことである。これが真理の差し当っての定義である。真理をこう定義する時、認識の真偽は行動の結果によって判定されるものだが、それが真でありうることは経験的事実である。確かに人間の認識には不正確な場合があり、従って行動の結果が予想通りに行かないこともある。しかし、この事から、認識が原理的に真でありえないということにはならない。むしろ間違いの発見による認識の是正により、その後は予想通りの結果が得られるようになることで、かえって認識の真でありうることの証明になる。

 なぜ認識は真でありうるのかとの問いに対しては、逆に、もし認識が真でありえなかったら、人間の行動はつねに予想に反した結果を得ることになり、そもそも人間は生存し続けることができなかっただろう、と答えることになる。


レーニンの真理論(その2)

2009年12月06日 | ナ行
4、認識論から存在論へ

 しかし、認識の間違いにもいろいろある。ちょっとした間違いなら、認識の原理的真理性(認識は真でありうるという考え)に疑いを起こさせないが、何度も検証された理論が完全には正しくなかったとか、その理論は或る限界内でのみ妥当するということが分かると、そこから認識は真でありうるのかという疑問が改めて起きる。

 この反省の結果として種々の認識理論が生まれる。まず、認識の間違いを感覚上の間違いである錯覚と思考上の考え違いに分けることができるが、そのそれぞれを重視し、原理的な間違いと見なす時、2種の懐疑論が生まれる。感覚に対する懐疑論と知性(思考能力)に対する懐疑論である。感覚の証言は感覚が感じたことをそのまま伝えるだけであり、その感覚の感じ方は対象の本当の姿を正しく捉えているかどうか分からないと考えるのが前者であり、古代懐疑論である。

 それに対して、感覚は感じたままを伝えているのだから、そこにうそはないとし、その感覚のデータを思考が加工する時、そこから間違いが始まるのだとするのが、後者であり、近世以降の懐疑論である。これは今日では実証主義と呼ばれている。

 不可知論というのは、言葉としては、対象の一切の認識の可能性を否定するものだが、実際には、感覚的事実だけ認め、思考による解釈の客観性を認めない考え方、即ち知性に対する懐疑論ないし実証主義を意味することも多い。

 以上は、一応対象と主観との区別を認めた上で、主観が対象を認識できるかどうかを考えているのだが、実証主義や不可知論は、そこにとどまらないで、対象の客観的存在自体に疑問を持つようになる場合がある。即ち、主観内に作られた認識は主観外の対象の像ではなくて、ただそれだけとして主観内にあるにすぎない、という考えである。これが主観的観念論である。この考えでいくと、それはもはや「像」と呼べない。像とは本来何かの像なのだからである。

 これに対して、認識はあくまでも像であり、原型を映すものであることを認めるのが、唯物論と客観的観念論である。しかし両者は、その次に、その原型を認識する際の感覚と思考(知性)の役割をどう考えるかで分裂する。唯物論は感覚的認識の根源性を主張する。即ち、思考はただ感覚に与えられたものを加工して、感覚では捉ええなかった側面を引き出すことができるだけだ、とするのである。確かに内容的には、感覚で捉えうる面より思考で捉える面の方が重要なのだが、その認識内容の起源については思考は感覚に依存しており、感覚の中にないものは引き出せないとするのである。

 客観的観念論は、直接的には感覚的認識の根源性を認めるとしても、究極的には感覚に依存しない知性と、そういう知性にしか与えられない存在を認めるのである。

 感覚的認識の根源性を認めることはなぜ唯物論と呼ばれるのか。それは、「まず知性にではなく、まず感覚器官に与えられるものが物質と名付けられている」からである。だから、感覚に与えられることなく直接知性に与えられるものを認めると、物質でないものを認めることになり、唯物論でなくなるからである。

 ここに認識論上の唯物論と存在論上の唯物論との接点がある。前者は、上述のように、認識の反映性の承認を前提した上で、思考に対する感覚の根源性を認めることが出発点である。従って、認識論上の物質概念は、「人間の意識の外に意識から独立して客観的に存在し、感覚を介してしか認識されえない実在」のことである。

 それに対して、感覚は、感覚器官の作用であり、思考は脳の作用であって、それ自身は実体ではないと反省する時、存在論上の唯物論になる。差し当っては認識論上の物質と対置されていた意識は、実際は物質と並ぶ第2の実体ではなく、実体である物質の機能に引き下げられるのである。そして、なぜ思考は感覚に依存するのかと、その起源の性格を問う時、認識論上の唯物論は存在論上の唯物論に行きつくのである。

 逆に、全ての知性とは言わないが、ある種の知性には感覚に依存しない能力を認め、従って思考に対する感覚の根源性を全面的には認めない客観的観念論は、世界の根源なり起源なりに、その特別な知性で直接捉えるしかない知性的実体を認めることになる。この種の観念論的認識論が「客観的」観念論と呼ばれるのは、そのように観念の1種とはいえ個人の認識から独立した客観的な知性体を認める観念論的な世界観(存在論)を前提しているからである。

 認識が対象の映像であることを認める客観的観念論及び唯物論は、そこに留まる低級な理論と、そこから更に先に進む中上級の理論とに分かれる。後者は、その映像は認識主観の対象との行動上の関わりを通してその中で得られることを認め、そのメカニズムの解明に向かう。即ち、ここでは認識主観は実践主体の一面という性格を持つようになっている。これがヘーゲルの実践的観念論とマルクスの実践的唯物論である。

 その骨子は、①人間と対象との関わりは労働から始まり、思考の発生的性格は目的意識性であること、②その内容は、対象及び実践主体の現在の認識から出発し、それぞれの過去を反省することを媒介にして、未来を展望するものであること、③そこでは理論と実践とは全体としては常に一致しており、その一致の仕方は大きく3つに分けられること、である。

5、存在論から人生論へ

   その1、幸福論(個人論)

 何度も検証されたはずの真理が絶対的なものではないと自覚させられた時、本来の認識論上の反省が始まるのであった。その結果としてさまざまな認識理論が生まれる。その時、たとえ客観的観念論か唯物論の道を採って、人間の認識の原理的真理性に対する信念を持ち続けたとしても、それだけでは問題は解決しない。それだけでは真理の相対性を説明できないからである。従って、知性に対する懐疑論である現代の実証主義の問題提起に答えていないからである。

 これに対するエンゲルスとレーニンの考えは次の通りであった。デューリンクが自説を絶対的真理として主張したのに対して、エンゲルスは、①個々の命題でもいつまでも変らない「永遠の真理」というのは確かにあるが、それは「パリはフランスにある」といった大した意味の無い事柄についてだけである。②逆に、重要な事柄についての永遠の真理は、1命題に表わせるものではなく、少しずつ完成されていくものである。③真理と誤謬の対立も、善と悪の対立も、ごく限られた範囲の外では相対的である、と答えていた(『反デューリンク論』第1篇第9章)。

 レーニンは、認識の絶対性を全否定するボグダノフとマッハに対して、①個々の真理は相対的だが、絶対的真理の粒を成し、その総和が絶対的真理である。②実践による検証は、人間の知識を絶対者に転化させないほどに不確定的だが、相対主義に転落するのを許さない程度に確定的である、と答えた。

 しかし、これらによっては「人間の知識が絶対者に転化する」のを防げなかった歴史的経験を経た我々は、この問題をもう一度初めから考え直さなければならない。

 そもそも多くの人が認識の相対性を自覚し、考えるようになるのは、どういう経験からか。それは、デューリンクやマッハが、従ってまたエンゲルスやレーニンが扱った、ほとんど自然科学に限られた学問上の問題からか。私は、決してそうではないと思う。確かに自然科学の発展によって、旧来真理とされてきた理論の絶対性が揺らぎ、それを正しく説明できないために、おかしな哲学が出て来ることはある。しかし、それは一部の学者の間だけの問題だし、自然科学自身は、そういう間違った解釈によって進歩を遅らされることはあっても、進歩し続けるものである。だから、「自然科学に正しい方法を与える」ことも必要なのだが、それは哲学的反省を正しく行った自然科学者の一部によってなされている。自然科学も哲学も知らない自称「マルクス主義哲学者」がその方法を与えたいと言うなら、やらせておけばよい。笑い話の種くらいにはなるだろう。

 多くの人が真理の相対性を考えるようになるのは、自分の今の考えがどれだけ正しいか分らないとしたら、自分は自信を持ってそれを実行できないとか、先生を選んで勉強したり、運動に参加していくにしても、正しいと思って選んだ先生や運動が間違っていたらどうなるのか、その正しさの確証が無いのに選んで、1人なり1つに賭けることはできない、とかいったことではあるまいか。これが個人内の問題とするなら、対他人の態度の問題としては、○○に随分決め付け的な言い方をされて不愉快だったけれど、人間には決め付け的発言をするどれだけの権利があるのだろうかとか、逆に、自分は今迄随分断定的な言い方をして敵を非難し、自分の正しいと思う運動をオルグし、自分の方針を主張してきたが、個人の判断には間違える可能性があり、他人の幸不幸に責任を負えないのに、そういう強い主張をする権限が人間にあるのだろうか、といった反省ではあるまいか。反省の始まる迄は倣慢ですらあった人が、何らかのきっかけでこの種の反省をしておとなしくなったり、あるいはこの問題に答を出せないで一切の自信を失い、おかしくなってしまう人もいる。実際、人間の幸福はその大部分が信念の持ち方と人間関係に依存しており、それは認識論的には、ほとんど、人知の相対性をどう考えるかの問題に関係する。

 現実には、これらの問題は煮詰められることなくあいまいに処理されていると思う。多くの場合、それは、自説を絶対的真理として主張し、かつ何らかの方法で自説を他人に納得させる術をわきまえている親分と、よい親分の子分でありたいという人々との関係となっている。私は、こういう関係はとても広く行き渡っていると思う。会社の長と部下の関係は言うに及ばず、教師と生徒の関係でも、夫と妻の関係でも、あるいは多くの友人関係でも、一方が第1ヴァイオリンで他方が第2ヴァイオリンという例は多いと思う。いや、第1ヴァイオリンと第2ヴァイオリンならまだよい。投手と捕手の関係で、それも捕手にサインさえ出させないで勝手に投げる投手とそれを受ける捕手の関係が多いのではあるまいか。理論的には、人間の外に絶対者を求め、それによって全ての人間を相対化するはずの宗教の中でも、これは変わらない。そこにも人間関係があり、それが正しく処理されない以上、事実上こうなっている。

 これは本当の民主主義ではないのではないかという反省から、我々は民主主義を原理的に考え直し、認識論的に基礎付けることになった。それは、人格の平等と能力の不平等と個人の有限性(どんなに優れた人でも間違いを犯す)を三大原理とするものである。

 人間の有限性を自覚せず、口の巧さと押しの強さを自分の正しさと思い込んでいる人に付ける薬は無いが、自信喪失の人に忠告しておこう。経験によって検証された真理は、たとえその後乗り越えられることになっても、より高くより包括的な真理の1要素になるだけで全否定はされないから、あなたの行動が無意味になることはない、と。又、先生を選び間違えれば自分も傷つくが、現時点で出来るだけの調査と研究をして一番正しいと思う道を選ぶ以外に、人間には行動のしようが無いし、一度選んだならば、その選択の当否を知るためにも、又間違っていた場合にはどこがどう間違っていたのかを知るためにも、その道を真直ぐ歩まなければならないし、そうしたならば、たとえ間違っていたと判明した時でも、その時にはもちろん改めるのだが、自分に誠実に精一杯生きたという「真理」は、無駄にはならない、と。


レーニンの真理論(その3)

2009年12月06日 | ナ行
   その二 唯物史観(社会観)

 単なる個人論や人間関係論から社会観への移行を引き起こすものは何か。それは、人間関係には、個人の性格や心の持ち方や考え方では説明の付かない領域があることに気付くことである。大抵は、個人あるいは集団の相争う場面に接して、あるいはその渦中に巻き込まれて、なぜ争うのかと追求して行くことからその事実に気付くのだが、表面的には平和な人間関係の根底に個人的理由を超える原因を見抜くこともある。思想史的には、多くの先行者があったとはいえ、この事実はマルクスによって明確に意識され、定式化された。

 彼は、新聞記者として現実生活の諸問題を報じている間に、世の中の争いというものは経済上の利害に基くものだという事実に気付いた。確かにそれは争いだから、表面上は言葉の争いであり、考え方の争いなのだが、その考え方の違いは根本的には経済的利害の違いによって説明されることを発見したのである。

 この程度の事ならマルクス以前にも気付かれていた、と言うかもしれない。その通りである。しかしマルクスは、この事実から出発して、人間関係を、事実としての人間関係、即ち人間は実際にどういう関係をもって生活しているかと、当為としての人間関係、即ち人間関係はいかにあるべきかについての考えとに二分し、事実(存在)の当為(意識)に対する根源的規定性を定式化したのである。即ち、人間の社会的存在は社会的意識を規定する、と。ここに経済的利害の重要性は単なる指摘から、社会観の一般的方法となった。

 この唯物史観が「言葉として」知れ渡っている世に生まれてくる人々は、特別の努力をしないでも経済的利害の問題に気付くし、マルクスによるこの一般的定式を知ることになる。そして、その定式の表面上のもっともらしさを理解しただけで、一部の人は唯物史観に賛成し、他の一部の人々は「それだけが全てではない」として、唯物史観に反対する。私は、いずれも間違いだと思う。私見によるならば、現代において唯物史観を本当に理解する鍵は、価値判断の問題であり、善悪と高低と好悪の区別と関係の問題である。

 価値判断が人によって違うということから、「価値判断は主観的なもので、そこには客観性は無い」とする考えが、公理のようにまかり通っている現代で、これはおかしいのではないか、価値判断の争いとは、一通りでしかありえないものについての複数の考えの争いであり、従ってそれは自然科学上の論争と何ら変わらないのではないか、と気付くことから、唯物史観の主体的捉え直し、その創造的継承が始まるのだと思う。逆に、この問題意識を介して唯物史観を考え直さない人が、どんなに政治運動をやっても、どんなに経済史を勉強してみても、『資本論』を何度読み返しても、唯物史観は絶対に理解できない、と私は考えている。

 さて、マルクスは人間関係を事実としてのそれと当為としてのそれに二分した後、前者は人間の物質生活の中で事実上築かれている人間関係であり、分配や消費を含む広義の生産活動の中で結ばれている関係なので、それを生産関係及びその総和と捉え直した。そして、生産関係がイデオロギー上の関係を決定するということは、それ迄考えられてきたような、精神世界の自立性を否定し、逆に、生産関係こそ独自の歴史を持つものだという考えに導いた。マルクスが『ドイツ・イデオロギー』の中で、経済史の独立性と思想史の経済史への従属の2つを跡付けようとしたのはこのためである。

 この説を貫徹するために、彼は「二種類の言語」という説を立てた。即ち、人間の活動にはつねに意識と観念と言語が伴うにも拘らず、やはり、生産関係(社会的存在)とイデオロギー上の関係(社会的意識)を分けるために、前者の中に組み込まれている言語と、後者の言語とを分けたのである。論理的性格からは、直接的言語と反省された言語と捉え直すこともできるだろう。その上で、先の2つの歴史を調べ、所与の時代の支配的な思想はその時代の支配階級の思想だと見抜いたのである。

 しかし、我々が個人的人間関係に悩み、社会的人間関係に関心を持つのは、それについての学問を作るためではない。1度しかない人生をよりよく生きるためである。個人はいつからこの「いかに生くべきか」の問題意識を持つようになるか。言うまでもなく、自我の目覚め以降である。その時、その問いに答えるために「人間とは何か」を考え、人間にとっての万物の意味を考えるのである。そして、この時、本人には自覚されていないが、事実上、概念的思考が始まっている。即ち、事物の現象や本質を知るだけではなく、それと人間との関係を考え、それを全てのものについて考え、統一的な像を作ろうとする努力である。それは、同時に、真理概念の変革を伴っている。事物の人間にとっての意味を考える時、人は「本当の物」とか逆に「偽物」といった言葉を使うが、ここでの「本当」とか「偽(にせ)」とかは、もはや単なる認識上の事柄ではない。これをはっきりと意識し、真理の客観的概念として定式化した人がへーゲルであった。

 では、人間の本質は何か。従って人間の使命は何か。マルクスはこの問いに対して3種の定義を与えた。それは、人間だけは他の動物と違って、「自己に成る」必要があると見抜いたからである。人間以外の動物は、その完成した形態上の特徴によって定義され、分類されている。しかし、人間は形態上はサルと変らないから、機能上の特徴によって定義するしかないのだが、その機能上の特徴が完成されておらず、人間は人間化の途上にあるのである。

 マルクスによる3種の人間規定、①人間は道具を作る動物(労働する動物)である、②人間の現実的本質は社会的諸関係の総和である、③人間は類的存在であるは、このように理解して初めて統一的に理解できる。

 マルクスは、このような全体的視座を定めた後、自分の生きていた時代における「人間の現実的本質」を研究した。これが『資本論』に集約される彼の経済学研究である。そして、その結論として、かつて封建制下の小生産者を収奪して生まれ成長してきた資本家達が、今度は、組織された賃労働者に収奪されて社会主義社会になる、と推定した。

 このマルクスの理論を認めない場合はもちろん、認めた場合でさえ、個人がどう生きるかは一義的には決まらない。それは、根本的には、本人がどういう人生を生きたいかによって条件付けられているのだが、個人を取りまく事情や本人の才能によっても影響されるからである。そして、直接的には本人の判断によるのだが、この判断は歴史の運動や自他の諸条件についての認識に基くとはいえ、その認識は完全無欠なものではありえず、そこには多かれ少なかれ飛躍があり、分からないけれどやってみるという要素が残るからである。仕事に就く場合でも、何かの団体に入って社会運動をする場合でも、あるいは結婚する場合でも、調査と思索の上で選択をするのだが、そこには必ず分からない部分が残るのであり、分からないが選択し、行動するという要素が残る。この要素を不当に拡大して、人間の行為の選択にはいかなる客観的根拠も無いとしたのがサルトルの実存主義であり、その「投企」概念である。

 こうして決断した結果、何らかの社会運動をしようということになると、その人は同じ考えの人々と組織を作ることになる。その時、その人は本項のテーマであった社会観のほかに、前項のテーマであった狭義の人間関係論に直面することになる。それは、換言するならば、人間関係を律する規律のあり方の問題であり、組織論ということになる。この問題についての前項での結論は、人類の解放という目的を持つ運動にあっては、その問題は、人格の平等と能力の不平等と個人の有限性を認め、その三大原理を正しく処理した組織論に行きつく迄は、本当の解決に達しないだろう、ということであった。

6、方法論

 認識は真でありうるのかという素朴な反省から始まった認識論は、検証された認識が否定されるという経験を介して深まる時、一方では存在論から実践的認識論へと進み、他方では個人論及び個人的人間関係論から社会観へと進んだのであった。

 これを見た今、我々は「認識を正しく導くにはどうしたらよいか」という方法の問題に直面する。これは、既に、近世初期に認識論が始まった時から問題とされていたことであり、個人が認識論的反省をする際にも多かれ少なかれ意識されているテーマである。人間の反省はよりよい実践のためであり、認識におけるよりよい実践とはより正しく認識することだからである。

 よりよい認識を考えるには、その前に、認識とは何かということをこの面から規定しておかなければならない。すると、認識とは今迄知らなかった事を知ることだ、と言える。従って、それをよりよく行うには、未知の対象についての知識を予め持っていなければならないという矛盾のあることが分かる。又、それを知る知り方の特徴についても知っておかなければならない。なぜなら、対象は認識の特質を介して認識されるからである。

 その認識の特質については前節まででまとめた。感覚の根源性、ここからは「調査無くして発言権無し」とか「大衆路線」というスローガンが生まれてくる。思考の加工性、ここからは概念操作能力の訓練ということが出てくる。実践的認識論、ここからは歴史的反省の重要性が引き出される。人知の相対性、ここからは、決めつけを排して冷静に話し合い、真偽は歴史の判定に待つという落ち着いた態度が結論される。唯物史観、ここからは事実としての人間関係と当為としての人間関係(人間観)を分けて考えることが要請され、社会思想と特定の階級の歴史的傾向とを結びつけて考える態度が生まれてくる。

 残されたものは、未知の対象について予め知っていなければならないという矛盾である。これは次のようにして、次の各項が妥当する範囲内で解決される。即ち、方法というのは、①それ以前の研究の成果であり、結果である、②しかしそれが一般化されているが故に、今後の研究の導きの糸になる、③それはあくまでも導きの糸であって、証明手段ではない。

 そして、このように方法の性格が分かると、それは知識の問題というより知識の使いこなしを含んだ能力の問題だということも分かってくる。そうすると、それを高めるには、多くの場合、生きた先生について修業をしなければならないということになり、ここでも又、狭義の人間関係の問題に帰ってくる。

 以上は個人の認識をよりよく導く方法であった。しかし、集団の認識をよりよく導く方法も、これと原理的には変わらない。変わる点は、個人の頭の中での迷いは同一能力者の2つの考えのくい違いだが、意見を異にする複数の人間の間には能力の差があるということ、認識能力外の好悪の感情や利害やメンツといったものが介入しやすいことであろうか。情報機器の発達や使いこなしで話し合いがスムーズに行くなどというのは、個人の調査研究でも、カードや機器の活用で左右される部分のあることと同じである。

 このような認識論を意識的にせよ無意識的にせよ、正しく適用した個人や組織が、それなりの成果を上げてきた。自然生活運動はそれを自覚することで、人間関係こそ鍵であるとして、真の民主主義を考える研鑽を中心に据えることになった。

(1)寺沢恒信訳国民文庫版の第2版(1960年6月20日刊)への「解説」による。以下、引用の頁数はこの訳書のものである。但し、訳文は少し変えた所もある。
(2)『鶏鳴』第94号所収の拙稿「理論の党派性」(本書にも「党派性」で所収)
(3)これらの語は、語としては以前からあったようで、既にヘーゲルにもある。エンゲルスには「相対的誤謬」(『反デューリンク論』第9章)、「絶対的真理」と「相対的真理」(『フォイエルバッハ論』第1節)などの用例がある。
(4)真理という語をどう定義するかで既に諸説がある。ヘーゲルはそれを主観的定義と客観的定義と絶対的定義とに分けたが、前二者については拙稿「ヘーゲル哲学と生活の知恵」(『生活のなかの哲学』所収)で説明した。客観という語についても諸定義があるが、ヘーゲルの『哲学の百科辞典』第41節への付録2(牧野紀之訳『小論理学』第41節への付録3)にその分類がある。
(5)レーニンは宗教をまともに研究したことがほとんど無いようだが、宗教の中には沢山の真理が含まれている。これを弁証法的唯物論の立場から止揚するのが真の理論であり、「具体的普遍」概念の実行である。宗教を原理的に考える観点については拙稿「宗教と信仰」(『先生を選べ』所収)に書いた。
(6)「形而上学」の諸義については拙著『関口ドイツ語学の研究』の「単語の心」の「メタフユジーク」の項に書いた。「独断論」の語義については「ヘーゲル哲学辞典」の「教条主義」(本書所収)に書いた。
(7)このような私見に対しては、「青木書店の『哲学辞典』や新日本出版社の『社会科学辞典』が出ているし、ソ連や中国でも各種の辞典が出ているではないか」という反論が予想される。私としては、これらの辞典が運動に十分役立たないと考えたので、自分で作っている。上記の物で満足だという人は、どうぞそれをお使い下さい。言葉ではお互いの異同を確認するにとどめ、お互いの考えを実行し、判定は歴史に任せるのが理性的だと思う。
(8)①以上に述べた「現実認識の論理」については、拙稿「『パンテオンの人人』の論理」(『生活のなかの哲学』所収)で詳しく原理的に展開した。②実験については、多分、エンゲルスが「フォイエルバッハ論」の第2章で「実践、即ち実験と産業」という句を書いたためだと思うが、無批判に実践の1種とされてきた。中国では「三大実践」として、産業と実験と階級闘争を挙げるのが常であった。しかし、実践はつねに理論との相関関係の中で考えることと、相対的観点と絶対的観点を忘れないで、どちらの観点で考えているのか意識して考えることが、大切である。絶対的観点からは、それは人間の物質的生活そのものであり、従ってこの場合は、理論とは精神生活となる。この時、実験は理論の一要素である。相対的観点からは、人間の一切の行為について、直接的なものと反省されたものとの関係が成り立つ時、前者を実践とし、後者を理論という。だから、ある文章を書くことは、文章論との関係ではその文章論の実践だが、その文章の内容との関係では理論である。実験は産業の反省としての理論の一部だが、仮説の実践でもある。
(9)人間の行動こそが認識の真理性を確認するという点については、エンゲルスが『自然弁証法』の「弁証法」とされている項で述べた。内容的には、これは、ヘーゲルの『哲学の百科辞典』の第232節の本文及び付録にあることと一致する。
(10)「そもそも思考とか意識とは何か、それはどこから来たのかと問うてみるならば、それは人間の脳の産物であり、人間自身が自然の1産物であり、その環境の中でその環境と共に発展してきたのだと、分かるのである。その時には、また、人間の脳の生んだもの〔思考と意識〕は、結局はそれもまた自然の産物なのだから、その他の自然の関連と矛盾せずに合致するという事は、自から理解されるのである」(エンゲルス『反デューリンク論』第3章)。なお、ヘーゲルは「理性は歴史の中に理念があることを確信している」と言っているが、そこにもこのエンゲルス説と同じ考えがある。この点は拙稿「唯物弁証法問答」(「ヘーゲルと共に』所収)の第13問答にくわしく書いた。
(11)この2種の懐疑論の区別はヘーゲルに拠る。「哲学の百科辞典』第39節参照。また、「実証主義」の語義については、『鶏鳴』第84号所収の「ヘーゲル哲学辞典」の同名の拙稿にまとめた。
(12)物質概念の定義については、そもそも定義するとはどういうことなのかから考え直さないと混乱する。これについては拙稿「かわいい子には旅をさせろ」(『生活のなかの哲学』所収)にまとめた。
(13)レーニンによる物質の定義については、拙稿「唯物弁証法問答」(前出)の第9問答に書いた。
(14)思考の物質的性格については、「認識論の認識論」(「哲学夜話』所収)にくわしく書いた。
(15)エンゲルスが「近世哲学の根本問題」として「思考と存在の関係の問題」を挙げ、その第1の面として「精神と自然の関係の問題」を述べたのは、存在論上の唯物論か観念論かの問題に当たる。その第2の面として「思考と存在の同一性の問題」を述べたが、それは認識論の問題である。エンゲルスがこの二面を並列させ、存在論を先に持ってきたのは、根拠が挙げられていない。自分で原理的に考え直してみないエンゲルス盲従分子を彼は念頭に置いていなかった。
(16)この3点を詳しく述べたものが、それぞれ、拙稿の「労働と社会」と「『パンテオンの人人』の論理」と「理論と実践の統一」である。許萬元氏の力作「ヘーゲルにおける現実性と概念的把握の論理』(大月書店)は前2点についての優れた研究である。
(17)これが哲学史的には、ヒュームによって独断の微睡(まどろみ)から目覚めさせられたカントの経験に当たる。
(18)マルクス『経済学批判』への「序言」。
(19)レーニンは『人民の友とは何か』の第1分冊で、社会関係を物質的社会関係とイデオロギー的社会関係に分け、それぞれを、形成される前に人間の意識を通らない関係と通る関係として特徴付けたが、これは間違いである。生産関係のほとんどは、形成される前に人間の意識を通るし、社会主義的生産関係はなおさらそうである。レーニンがこの両概念の定義で間違えたのは、認識論上の物質と意識の違いを社会関係の区分に無反省に適用したからだが、その「無反省」とは、命名的定義と概念規定的定義の違いについての反省に欠けたということである。多くの人々もレーニンのこの定義に釈然としないものを感じているようだが、それをはっきり言えないのは、左翼陣営の非民主主義的体質が背景にあるからだと思う。どこがどう間違っているかを指摘できず、代案を出せないのは、社会的意識とは人間関係についての当為なのだということを見抜けないからだと思う。
(20)拙稿「価値判断は主観的か」(『生活のなかの哲学』所収)を「書斎の窓』誌に発表した時、当時はまだ付き合いのあった許萬元氏は電話を寄こし、「少し強引ではないか」と批判してくれた。氏と私との違いはもちろん生き方の違いが根本だが、理論的にはここにあると思われる。
(21)古在由重訳『ドイツ・イデオロギー』(岩波文庫)31頁
(22)拙稿「子供は正直」(『生活のなかの哲学』所収)、その他。
(23)拙稿「ヘーゲル哲学と生活の知恵」(前出)に書いた。尚、個人の考え方の成長の諸段階については、「恋人の会話」(『生活のなかの哲学』所収)にまとめた。
(24)「サルの人間化における労働の役割」(『ヘーゲルの目的論』所収)への訳者の注解の59, 62、63、64、65, 68, 72、76参照。
(25)拙稿「労働と社会」
(26)「価値判断は主観的か」(前出)
(27)その1例としてデカルトの『精神指導の規則』を挙げておこう。
(28)拙稿「中国共産党の論文『プロレタリアート独裁の歴史的経験について』への評注」(『ヘーゲルからレーニンヘ』所収)の評注21に書いた。
(29)拙訳『経済学批判への序言』への訳注31参照。
(30)拙著『先生を選べ』
            (1988年08月10日)


日本(04、人口)

2009年10月04日 | ナ行
 総務省は08月11日、住民基本台帳に基づく2009年の人口調査結果(03月31日時点)を発表した。

 総人口、1億2707万6183人。前年比・1万0005人(0・01%)増加。2年連続の増加。
 海外への転出入などによる「社会増減」は5万5919人増。
 出生数から死亡数を引いた「自然増減」は4万5914人減。

 「自然増減」は、出生数が108万8488人(前年比7977人減)と3年ぶりに減少に転じたのに加え、死亡数が113万4402人(同8818人増)と過去最多を更新したことから減少幅が広がった。

 「社会増減」は2003年に次ぐ2番目の多さ。同省は「不況で海外から撤退する企業が増えているためではないか」と分析している。

 3大都市圏の人口では、東京圏(埼玉、千葉、東京、神奈川)と名古屋圏(岐阜、愛知、三重)で増加が続く一方で、減少が続いていた関西圏(京都、大阪、兵庫、奈良)の人口は1823万3496人(同2796人増)と5年ぶりに増えた。

 都道府県別では、人口が増えたのは、東京、神奈川、千葉、愛知、埼玉」沖縄、大阪、滋賀、兵庫、福岡の10都府県。前年増加だった栃木、静岡両県は減少に転じた。

 (朝日、2009年08月12日)

★ 目次は「ブックマーク」にあります。

日本(03、2008年の経済競争力)

2009年10月01日 | ナ行
 世界経済フォーラム(本部・ジュネーブ)は09月08日、今年の世界競争力ランキングを発表した。

 競争力ランキング
1(2) スイス
2(1) 米国
3(5) シンガポール
4(4) スウェーデン
5(3) デンマーク
6(6) フィンランド
7(7) ドイツ
8(9) 日本
9(10) カナダ
10(8) オランダ
29(30) 中国
49(50) インド
56(64) ブラジル
※()内は昨年の順位。

 世界経済フォーラムは、世界の政財界の指導者が集うダボス会議の主催者。133ヵ国・地域の統計をもとに世界の経営者ら1万3000人以上の意見を加えて分析した。

 日本は、技術革新の能力が1位、科学者や技術者の活用しやすさが2位になるなど技術基盤の高さが評価されたのに加え、消費者の洗練ぶりも首位だった。一方で、政府支出のムダが99位、政治家への信頼感は54位だった。

 (朝日、2009年09月09日。有田哲文)

        関連項目

日本(01、2007年の競争力)

河村たかし・名古屋市長

2009年07月08日 | ナ行
                      宮永 正義

 河村たかし名古屋市長の「市政チェック」と、市長が掲げる「市民革命のサポート」を目的とする「ナゴヤ庶民連」が催行した「市議会見学ツアー」2、3日目を報告する。

 本会議は6月24日が代表質問。時間配分は民主=111分、自民=100分、公明=67分、共産=45分、諸派ゼロと「議席数に応じた按分」とかで、素人は「そうなんだ」と納得するのみ!25日、26日、29日が個人質問で、30日以降の各種委員会を経て7月7日に議決という日程だ。

 連日の本会議にもかかわらず、朝10時の開会から結構な人数が毎回詰めかけていた。傍聴者のうちどれだけが庶民連の呼びかけに応じた方なのか確認できないから、まったくわからない。ただ日を追うごとに顔見知りのメンバーが増えていったのは事実で、毎回、開会直前に傍聴席で「議席配置表」を配っている小生に、声をかけたり握手をされたり「ナゴヤ庶民連」への会員登録をされる方も増えていった。

 そのなかで印象に残った質問や市長答弁を以下に列記してみよう。

吉田伸五議員の質問

 まず初日24日、最初に代表質問に立った「民主党」吉田伸五議員。いきなり冒頭近くで「河村市長は織田信長の再来」という持ち上げに「そこまで言うか」と筆者は唖然!

 対して河村氏。 「身に余る光栄です。庶民革命の気概だけは持っとります。吉田さんとは26年前、春日一幸さんのところで同じ釜の飯を食いました。選挙に落ちて一番苦しいとき。人生はいろんなプレゼントをしてくれるもんです」、と昔話を持ち出してエールを返し、傍聴者にも「へーそうなんだ」と、本論以外で感心させる展開。
 
 もちろん答弁書を読み上げるなんてなし。当意即妙の「わかりやすい名古屋言葉」での答弁のはじまり。

 「市民税10%の減税」について問われると、ずらりと横や後ろに並んだ幹部を指して、

 「ここにみえる偉いさんが、事業の要、不要を一番知っている局長級の皆さん、しっかりやるよう指示しとります。クリスマスプレゼントにと思ったんですが、財源が行政改革だから、どうしても時間がかかる。今回は憲法だけでも、と出させてもらった」。

 また職員について。 「市役所の人が〈いらっしゃいませ〉、〈ありがとう〉とフランクに言えるようにしたい。英語もしゃべれるもんで」と笑いを誘う余裕もある。

 「導水路事業の撤退」については、 「長良川河口堰も含め、持論ですから、市長になっていきなり変えるわけにはいきません。名古屋の水は十分ある。渇水のときはみんなで助け合うしかしょうがない。農政局は農業用水の関係者と会うのはいかんというが、私は農水大臣に会わせろといってあります」、と議員時代からのコネの強さ、人脈の広さを暗に強調。

横井利明議員の質問

 25日、「自民党」横井利明議員の個人質問が出色のでき。特に項目3「本市が財政負担する団体の埋蔵金について」が凄かった。
 
 その前に、まず前日の質疑を受け、横井議員の発言。
 「市長が織田信長とすれば、大うつけとも言われていたが」で笑いを誘い、「また明智光秀は誰なのか?」とジョークぽい質問を繰り出したのに対し、河村市長。
 「誰が光秀か分かっておったら、そんなに苦労せん。あまり意識せず市民のために努力します」と大まじめの回答。

 そして項目3。名古屋市が財政負担する団体の埋蔵金について調査結果を追及。

 名古屋市が国などの団体に多額の分担金や委託料を出している詳細を列挙。平成19年度決算で、市長室は自治体国際化協会はじめ4団体、総務局20団体、財政局13団体、市民経済局11団体、環境局10団体、健康福祉局8団体、子ども青少年局5団体、住宅都市局47団体、緑政土木局62団体、市会事務局12団体、監査事務局3団体、人事委員会事務局3団体、教育委員会10団体、消防局14団体、上下水道局2団体、交通局3団体。合計222団体に12億5695万円と500米ドルを拠出している。

 天下り団体と批判を受けている団体も多く、まさに国の団体を地方が支える構図が浮き彫りになっている。また内部留保比率が極めて高率。要するに、事業規模の何十倍もの「使いきれないほどの多額の財産を保有している団体」に、請求書どおり市の負担金を拠出している例があまりに多い。

 例えば、経産省所管の財団法人ファインセラミックスセンターは、事業規模が年間34億円で、財産を105億円有している。内部留保比率は320%で、本市は平成19年度決算で1億5000万円負担している。

 また、財団法人地域創造は、事業規模が23億円で財産を237億円有し、内部留保比率は1022%、こんなところにも名古屋市は平成19年度決算で2320万円負担している。

 独立行政法人環境保全再生機構にいたっては、事業規模57億円に対し、財産を3243億円有し、内部留保比率は5685%となっている。使い切れないほど財産があるにもかかわらず、名古屋市は464万円を負担している。

 名古屋市が負担する全222団体の事業規模1773億円に対し、財産は6305億円+4300米ドルあり、埋蔵金を多額に保有する団体に、なぜ、名古屋市は請求書1枚で12億を越える分担金や委託料を出し続けるのか。年間事業規模が1万円の団体に負担し続けている例もある。景気の悪化で、財政が厳しさを増す中、このまま請求書通り負担金を拠出し続けていいのかと、その対応を厳しく迫った。

 これに対し河村市長。
 「はじめて聞いた話、びっくらこいた。ろくでもない金は払わん」との答弁。さらに、監査委員に各団体の経営実態や使い道を調査するよう指示したとし、議場でもあらためて監査委員に指示をした。

 横井市議は河村市政では「政権野党であり対立する会派」に属している。しかし「慣例通りに支払われる12億もの血税の使途」に着目し「真に市民のためになる」コスト削減を図ろうとした議員根性には思わず脱帽した。

 市民の目線で考えれば敵も味方もない。まずは、有権者から負託を受けた公僕としての責務を見事に果たしたと言え、是々非々という今後の議会運営に希望の光が見えた個人質問であり市長答弁だった。

 (インターネット新聞JanJan。2009年07月04日。漢字の使い方と句読点等を少し変えました)


西田幾多郎

2009年04月15日 | ナ行
   参考

1、辰野隆(ゆたか)が昭和21年09月から12月まで「週刊朝日」で十数人の各界名士を相手に対談してのちにそれらを「忘れえぬことども」(三笠文庫)と題して一巻にした。(略)

 ~西田哲学にふれているところは同感に耐えないからかいつまんで言わしてもらう。今井登志喜を相手に辰野は当時(昭和22年)としては大胆不敵な発言をしている。

  - 西田(幾多郎)先生にしても田辺(元)先生にしてもただの哲学の教授だ、哲人の俤(おもかげ)も思想家の姿もみじんもない。もう1つご両人ともドイツ語で専門以外のものを読みこなせるか、ゲエテを読みハイネを読みそれらを味到し得るか。かつまた和漢のものを附焼刃でなく読めたら、決してあんな哲学的表現にはならなかったと思うな。ご両人は日本語にはどこまで思想を盛り得るか盛り得ないか、そういう国語の領域(ボルテ)をもっとも知らないね。その意味では二人とも日本語を所有していない云々。

 (山本夏彦「完本文語文」文春文庫、277-9頁)

日本の港湾力

2008年11月27日 | ナ行
 日本の港湾の行く末が暗雲に包まれている。上海、香港、シンガポールなどアジアの巨大港の背中は遠くなるばかり。全国100を超す港へ分散投資してきた日本の港湾政策のつけが、大きくのしかかっている。

 「年2、3回は魚を放流しなければ。このままでは釣具店がつぶれてしまうよ」。

 有明海に面した福岡県大牟田市の三池港。釣り糸を垂れていた地元の建設業関係者(44)はこう話した。政府が指定した「重要港湾」だが、入ってくる船はまばら。「巨大な釣り堀」にも見える。

 人件費など港の運営に必要な経常支出は2006年度で約8700万円。収入は週1便の貨物船による施設使用料など約460万円にすぎない。もっばら県の支援が頼りだ。

 利用を増やそうと、2006年度から大型船が入れるよう浚渫(しゅんせつ)工事も始めた。国や県が約115億円をかけ、2010年度に工事を終える。今夏には有明海を囲む地域高規格道路が三池倦まで延びることが決まった。約30㌔離れた熊本市までの延伸構想もある。だが、熊本市には人工島に開設された熊本港があり、物流は三池から熊本に流れる恐れもある。

 全国約1000ある港湾のうち「重要な物流拠点」として建設補助率がかさ上げされる重港湾は128。互いに競合し、実際、熊本港は九州最大の港、博多港に貨物を取られつつある。その博多港は、対馬海峡を隔てた韓国・釜山港にまるで歯が立たない。

 2006年のコンテナ取扱個数は、アジアと日本の主要港で大差がついた。日本よりアジア主要港の方がコンテナ取扱料金が安く、輸入手続きも簡素。博多港など日本の港湾から釜山で大型船に積み替えてから、米欧や中国に運ばれる貨物便が増加。あたかも博多港が釜山港を「母港」として頼る構図だ。

 アジアは少数港に集中投資してきた。128港に分散投資する日本の港湾整備に批判は根強い。終戦直後、連合国軍総司令部(GHQ)は重要港湾を6港に絞ろうとしたが、日本側の要望で1951年に47港でスタート。その後もなし崩し的に増え続けた。

 政府も手をこまぬいていたわけではない。国土交通省もアジア主要港を追いかけるための構想「スーパー中枢港湾」をまとめて3港湾を指定し、「重点投資」をうたうようになった。指定を受けた大阪港では新埠頭建設のため、国や大阪市、民間が資金を出し合う方式を導入した。

 ところが、大阪市は「なにわの海の時空館」や「ふれあい港館」など港湾建設に直接関係のない施設に計約250億円を投じた。新埠頭の民間出資分のほぼ倍に当たるが、「時空館」は赤字が続き、「港館」は今春閉鎖された。

 出資企業の役員は「無駄な投資は大阪市だけではない」と言う。「政府はスーパー中枢港湾を助ける政策を採らないで、いまだに需要の少ない地方港に投資し続けている」。

  (朝日、2008年11月18日。佐藤章)

年金(01、確認困難な年金)

2008年11月01日 | ナ行
 社会保険庁のコンピューター上にある国民年金の納付記録1億3900万件のうち、原簿となる台帳が市町村に保存されているのは9030万件にとどまることが30日、同庁の調査でわかった。

 社保庁の保存分と合わせても現存する台帳は1億件程度で、全体の約4分の1、3千数百万件の台帳が存在しないおそれがある。

 政府が今後進めるコンピューター上の記録と台帳との照合に支障がおきるほか、コンピューターでも台帳でも納付確認できない「消えた年金」が増えるのは確実だ。

 国民年金の保険料は2001年度までは市町村が徴収しており、「被保険者名簿」と呼ばれる市町村独白の台帳で管理。

 2002年度に徴収業務が社保庁に移り、台帳の保存義務はなくなったが、今も保管している市町村がある。

 調査では1636市町村で台帳が残っていた。

 05月31日現在の集計では、紙の台帳での保管が3057万件、マイクロフィルム2313万件、磁気媒体3660万件の計9030万件だった。

 一方、社保庁も国民年金の台帳を持っていたが、記録のコンピューター入力が終了した直後の1985年に、台帳の原則廃棄を各社会保険事務所に通知。保険料の未納や免除期間などがある複雑な記録を「特殊台帳」として保存している。

 一部の事務所は台帳を廃棄しておらず、残存する台帳の総数は3300万件程度。

 市町村の台帳には特殊台帳と重なる部分があり、重複を差し引きすると、現存するのは1億件強程度と見られる。

 コンピューター上の記録には、名前の入力ミスなどで「宙に浮いた」記録があり、政府は台帳と1件ずつ手作業で突き合わせ、修正する方針だ。

 だが、コンピューター上にはあっても台帳がない記録が多いと、持ち主を特定できず「宙に浮いた」ままになる記録が多数出る恐れがある。

 領収書など納付を証明する書類がなく、コンピューター上にも記録がない「消えた年金」も、台帳で確認できないケースが多くなる
とみられる。

   (2007年07月01日、朝日。太田啓之)

     表にすると

1、市町村に台帳が残る記録 9030万件
     紙の台帳     3057万件
     マイクロフィルム 2313万件
     磁気媒体     3660万件

2、社会保険庁にあるもの  3300万件
  (1と2とは少し重なる)

3、台帳が残っていないもの 3千数百万件


内閣法制局

2008年10月01日 | ナ行
 1、内閣(首相)に直属する機関らしい。トップは内閣法制局長官で、閣議にも出席します。

 2、仕事は2つに大別されます。1つは「意見事務」で、憲法や法令の解釈についての政府の統一見解を示すことです。もう1つは「審査事務」で、各省庁が立案した法案、政令案、条約案などを審査することです。

 3、最高裁判所には違憲立法審査権がありますが、これは具体的な事件の訴訟で問題になった法律が憲法に合致しているか否かを判断するだけです。

 又、最高裁判所は、国防などの高度な政治性を持つ国家の基本政策については、司法審査になじまないという立場(統治行為論)を取っていますので、全ての法律について憲法との整合性を判断するわけではありません。

 4、以上は、2007年06月12日の朝日新聞の「ニュースが分からん」欄の説明の要旨ですが、これだけでは分からないことがあります。

 (1) その記事にある表を見ますと、「衆議院法制局」と「参議院法制局」というのが書いてありますが、これらは何をする所なのか、そして「内閣法制局」とはどういう関係にあるのか。

 (2) 内閣法制局はどのようにして生まれて、どういう変遷をとげて今日に至ったのか。

 知っている人は教えてください。