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マキペディア(発行人・牧野紀之)

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ながく、牧野紀之の仕事に関心を持っていただき、ありがとうございます。 牧野紀之の近況と仕事の引継ぎ、鶏鳴双書の注文受付方法の変更、ブログの整理についてお知らせします。 本ブログの記事トップにある「マキペディアの読者の皆様へ」をご覧ください。   2024年8月2日 中井浩一、東谷啓吾

長崎県(01、実力)

2008年09月30日 | ナ行
 日本で一番大陸に近く、古代から江戸時代まで海外交易の最大拠点だった長崎県。戦前は炭田や軍需産業が発展し、戦後は造船が繁栄を支えた。

 しかし、次のスター産業はなかなか育たず、人口当たり所得水準は都道府県42位(2004年)。バブル最盛期の1990年から2005年までの人口増減率(国勢調査)は、秋田県に次ぐワースト2位だ。

 ところが、小売り販売額は1990~2006年に4%と全国3位の伸びを見せた(ちなみに東京は8%の減少で42位)。人口当たりに直すと沖縄に次ぎ2位だ。

 最大の要因は、佐世保市の通信販売会社「ジャバネットたかた」。県内の人口が減るなら全国の市場を相手にしようと急成長し、多数の地元雇用と人流・物流を生んだ。ただ、同社を除いて人口当たり小売り販売額を試算し直しても、同期間の長崎の増減率は8位で、東京の17位に比べてもはるかに上をいく。

 人口減少下で郊外型商業施設が過度に出店すると、過当競争で売り上げが低下する危険があることに自治体が早くから気付き、歯止めをかける努力をしてきた成果でもある。

 佐世保市の裏通り、深夜3時。「満腹でも大丈夫」と薦められ、先代から半世紀使っているという鉄板で焼かれたハンバーガーにかぶりつく。新鮮な野菜が舌を洗い、のどを通る。今は全国に知られる「佐世保バーガー」の真価を一足先に知ったひと時だった。

 「20万都市で一番元気な商店街」で知られるこの町には、東日本でいえば仙台級のにぎわいのアーケードが1㌔続く。地の利ではなく、景気でもなく、ものを成すのは人の力だということを実感する空間が本土最西端にある。

 (朝日、2008年06月14日。
  地域経済アナリスト・藻谷浩介、協力・日本政策投資銀行地域振興課)

奈良県(01、実力)

2008年09月29日 | ナ行
 奈良県には3つの顔がある。

 第1は国宝・重要文化財1375件(東京、京都に次ぐ全国3位)と、3つの世界遺産を擁する大和の国としての顔。

 第2は県土の4分の3が森林という自然の宝庫としての顔(森林率5位)。

 第3がベッドタウンとしての顔だ。

 県民の8人に1人が大阪府に通勤・通学し、昼夜間人口比率89%は都道府県45位(2005年国勢調査)。丘陵地の戸建て住宅に中流層が流れ込み、納税義務者当たり課税対象所得368万円(2006年)、県民に占める大卒・大学院卒の比率20%(2000年)は、東京、神奈川に次ぐ全国3位だ。

 だが2001~08年度には、県外への転出が転入を3万2000人も上回った(住民票ベース)。転出入超過率は長崎、青森、秋田に次ぐワースト4位。郊外住宅で育った若い世代が、首都圏や、都心居住者の増える大阪市に流れ出している。県は産業誘敦に本腰を入れるが、お隣の京都のような民間からの観光産業興隆の流れも欲しいところだ。

 手作りの柿の葉ずしや最高級の吉野葛の店が並ぷ世界遺産・吉野山の尾根筋で、名木・吉野杉を積んだ軽トラックとすれ違った。だが、宿も飲食店も修学旅行と花見客を相手にしてきたせいか、中高年客が立ち寄りたくなる構えではない。

 寒い時期の平日とはいえ、近鉄電車を降りたのも、山上へのロープウエーに乗ったのも、国宝・蔵王堂の境内を歩いているのも、私ひとりだけだった。

 西行に芭蕉、義経に秀吉、後醍醐天皇に蓮如。日本史上の傑物が足跡を残した吉野町から2001~06年度、人口の11人に1人が流出。豊富な資源を雇用創出に生かせていない姿に、県の縮図を見る。

  (朝日、2008年09月20日。
  地域経済アナリスト藻谷浩介、協力・日本政策投資銀行地域振興部)


日本の競争力

2008年09月28日 | ナ行
 毎年世界の政財界リーダーが集まるダボス会議の主催者、世界経済フォーラム(本部・ジュネーブ)は10月31日、2007年版の世界競争力ランキングを発表した。

 世界131カ国・地域の統計をもとに、インフラ整備状況、マクロ経済の安定度、市場規模、技術力、教育制度などを指数化。経営者ら世界約1万1000人への独自アンケートの回答と組み合わせ、総合的な競争力を評価した。

 今年も評価項目や重点の配分を見直し、昨年公表したランキングも修正した。

 1(1)米国
 2(4)スイス
 3(3)デンマーク
 4(9)スウェーデン
 5(7)ドイツ
 6(6)フィンランド
 7(8)シンガポール
 8(5)日本
 9(2)イギリス
 10(11)オランダ
 11(23)韓国
 34(35)中国
 48(42)インド
 58(59)ロシア

(11位以下は主要な国のみ。カツコ内は修正後の昨年の順位)

   (朝日、2007年11月01日、大野良祐)

日系人(01、日系人をめぐる17年)

2008年09月23日 | ナ行
1990年06月 改正出入国管理法施行。
    日系人に就労活動に制限のない「定住者」の資格を認めた

1991年09月 初のポルトガル語新聞「インターナショナル・プレス」発刊

1999年07月 浜松市の国道で女子高校生(当時16)が日系ブラジル人の乗用車にはねられ即死。容疑者は国外に逃亡

2001年10月、外国人集住都市会議が浜松で開催
    外国人住民との地域共生に向けた「浜松宣言及び提言」を採択

2002年05月、浜松市、不就学の外国人児童を対象に専任教師が日本語とポルトガル語で勉強を教える「カナリーニョ」教室を開始

   12月、東伊豆町議会、合併問題に関する住民投票で、3年以上在住の永住外国人を含む18歳以上の町民に投票権を認める条例案を可決

2004年03月、製造業務への労働者派遣を可能にした改正労働者派遣法が施行

   04月、日本経団連が外国人就労を総合的に管理する「外国人雇用法」を提言

   12月、浜松市のペルー人学校「ムンド・デ・アレグリア」が南米系外国人学校としては全国で初めて各種学校として県に認可される

2005年03月、政府、専門的・技術的分野の外国人労働者の受け入れ、人口減少化時代への対応などを推進する第3次出入国管理基本計画を策定

   11月、浜松市のレストランで経営者男性(当時57)が殺害され、現金が奪われる。容疑者の日系ブラジル人は国外へ逃亡

   12月、日本車の外国人登録者数が200万人を突破。ブラジル人の登録者数も30万人を超える

2006年03月、入国管理局が「定住者告示の一部改正」。在留資格要件に「素行善良」を追加

   12月、焼津市で日系ブラジル人母子3人が殺害される。容疑者のブラジル人は国外へ逃亡

2007年04月、日系ブラジル人容疑者との交通事故で長女を亡くした遺族らで作る「国外逃亡犯罪被害者をサポートする会」がNPO法人に認証

   同月、日本・ブラジル両国の警察当局が国外逃亡容疑者の追跡捜査などで捜査協力や情報交換を行うことで合意

   08月、日本・ブラジル両外相が、犯罪容疑者の引き渡し問題を両国で協議する作業部会の設置で合意

   10月、改正雇用対策法施行。事業主に対し、外国人の雇用や離職のハローワークへの届け出を義務化

  (朝日、2007年12月12日)

新潟県(01、実力)

2008年07月27日 | ナ行
     

 新潟県は何地方か。中部、北陸、東北、関東? いずれも収まりがいまひとつだ。ひとつの独立した地方と見た方が現実的かもしれない。

 北端から南端まで300㌔、これは東京から福島市や前橋市までと同じ距離だ。山地などを除いた可住地面積は北海道に次ぐ都道府県2位。県土を貫く信濃川は、延長・水量ともに日本一。米の生産量1位、食料自給率もばば100%の一大農業県だが、工業出荷額(2006年度)も23位と上半分に入る水準だ。

 世帯あたり実収入15位と、地価や物価の違いを考えれば都会より豊かかもしれない。そのためか、県外への転居者数を県人口で割った人口転出率(2006年度)は46位と低い。高校進学率は日本一だが、大学進学率が29位で専修学校等進学率は28%で4位という数字(2007年)が示すように、手に職をつけて地元にとどまる若者も多いのだ。

 本州日本海側最大の町・新潟に集まる若者のエネルギーは、アルビレックス新潟の、毎試合平均4万人弱という入場者数(2007年度・Jリーグ2位)にも表れている。

 うなぎの寝床のような町屋の奥に、天井からぷら下がる何百本もの鮭。江戸時代に世界で最初に鮭の放流が事業化されたという村上市の名産・塩引き鮭の熟成風景だ。案内してくれた作務衣の若だんなは商社マンを辞めて地元に帰ってきた人。彼らが始めた3月の人形さま巡りと9月の屏風まつりは、町屋の中におじゃまできる行事として全国区になり、鮭のように毎年通う客が増えている。

 豊かな小宇宙・新潟を再発見し、いつの日かそこに帰ってくる日本人は今後、増えていくのではないだろうか。

  (朝日、2008年06月21日。
  地域経済アナリスト・藻谷浩介、協力・日本政策投資銀行地域振興部)

ねむの木村

2008年05月14日 | ナ行
     
1、ねむの木学園を訪ねて(日野原 重明)

 静岡県沼津市の聾学校を訪ねた日の午後、私は秘書とともに、掛川市の郊外で宮城まり子さんが運営する「ねむの木学園」を訪れました。

 家庭に恵まれない障害児の存在を知ったまり子さんは、現在の同県御前崎市の海の見える小高い丘に自らの資金で土地を求めて、1968年に障害児たちのための定員12人の養護施設・ねむの木学園を設けました。

 1979年に養護学校(小学部、中学部)を、3年後には高等部も設置します。

 さらに、成人した園生たちが引き続きここで教育を受けられるような肢体不自由児療護施設も設けました。

 1997年に現在の掛川市の海の見える丘に移転。付近の住民たちの労力を借りて、壮大な「ねむの木村」を造り、さまざまな施設が造られていきました。学園の子どもたちが参加したユニークな絵が、新しい建物の壁いっぱいに描かれています。

 ここでは感受性を大切にし、集中力を養う教育として絵画、国語、工芸、音楽、茶道などを教えています。

 園生たちの作品は、国内外の美術展でも展示されたことがあります。コーラスやダンスのパフォーマンスが上演されることもあります。

 私たちは園生の宿舎を訪ねました。広い部屋に3人ずつ入居していますが、そこも巧みな色や形でデザインされており、子どもたちのアイデアが生かされているとのことでした。

 宿舎の中の大きなホールでは、まり子さんの指揮で全園生が合唱を聴かせてくれました。日劇ダンサーだったボランティアの指導で「スラブ舞曲」にのった見事なダンスも披露されました。

 まり子さんの恋人だった作家の吉行淳之介氏を記念した文学館も見学しました。彼女の事業をいつも応援した吉行氏の写真が飾られたロビーにはピアノがあり、室内音楽会を催せるようになっています。

 宿舎の玄関に戻ると、子どもたちが集まって手を振り、「また来てください」と口々に声をかけてくれました。まり子さんは私たちを掛川駅まで送ってくださり、彼女のハグを受けて帰京の新幹線に乗りました。

 学園で生治を楽しむ園生たちの中心には、いつもまり子さんがマリア様のようにみんなを抱きしめています。80歳を超しても若々しく優しいクイーンのような存在として園生に慕われている彼女の、いのちの芽を育てる仕事の尊さに感嘆しました。
 (2008年03月08日、朝日。日野原さんは聖路加国際病院理事長)

2、10年ぶりの訪問(牧野紀之)

 約10年ぶりだと思います。これを書くために昨日、ねむの木むらを訪ねました。

 かつて御前崎の学園(学園は見せ物ではありませんから、見学できません。日野原さんは招待されたお客さんですから、別です)を訪ね、美術館を見、海岸近くの喫茶店でお茶を飲んだこともあります。

 掛川市郊外に移ってからは、我が家から車で約1時間の距離なので、友人などが来たとき、何度か案内しました。しかし、吉行淳之介文学館を見てから、約10年行っていなかったことになります。

 かつては植えたばかりの苗木だった木がすっかり大きくなっていました。「村」の発展と成熟を象徴しているようでした。

 しかし、そこに流れる時間のゆったりしていることは昔と同じでした。喫茶店「まり子」で原木を加工したテーブルに席を取り、池を眺めバロック音楽を聞きながらカレーセットを食べました(天気のいい日ならベランダで飲食もできます)。

 そこから「ねむの木こども美術館」まで、1キロ弱の道をゆっくりと往復しました。

 こどもたちの絵には不思議な力強さというか、生命力があるように感じました。美術館の建物も、どこかの農家をまねて設計したのではないかと思いますが、しっとりとしたものでした。

 1年に1度は来たいな、と思いながら家路につきました。(2008年05月13日執筆)


日展

2007年11月15日 | ナ行
     日展

 日展の前身・文部省美術展覧会(文展)は、フランスの官設サロンなどを手本に1907年、日本画、西洋画、彫刻の3部制で誕生した。

 当時、日本美術協会や日本美術院、太平洋画会、白馬会などの団体が存在し、それらの作家を一堂に競わせる場を目指した。

 しかし大正時代の1914年に日本美術院が離脱、洋画の二科会も設立され「在野」を打ち出す。

 1918年には国画創作協会も文展を離れた。

 こうした事態をうけ、国主催から、1919年設立の帝国美術院(現・日本芸術院)による帝展に。

 1937年に再び文部省が主催する新文展になった。

 戦後は1946年、文部省主催で第1回の日展が開始。

 日本画の創造美術が離れた1948年から、日本芸術院などが主催。

 1958年、「清新にして健康なる国民芸術の進展」を掲げる民間の社団法人日展が設立された。

  (朝日、2007年11月14日)

泣く

2007年04月09日 | ナ行
     泣く

 (1) ちなみに人間は近代に入ると、泣かなくなった。中世では人
はよく泣いた。中世よりもはるかにくだって〔吉田〕松陰の時代で
すら、人間の感情は現代よりもはるかにゆたかで、激すれば死をも
恐れぬかわり、他人の秘話をきいたり国家の窮迫を憂えたりすると
きは感情を抑止することができない。
 (司馬遼太郎「世に棲む日日」文春文庫、1-129 頁)

ノーブレス・オブリージュ

2007年01月04日 | ナ行
 1、元はフランス語で、Noblesse oblige 「位高ければ徳高きを要す」(仏和辞典)との意。

   参考

 (1) Dies ist der wahre Sinn des "Noblesse oblige". Es besagt, kurz ausgedrueckt, dass Ehrung antreiben muss zu entsprechender Gesinnung und Leistung. (Lipps)

 (これが「地位は義務を生ず」の真意である。簡単に言えば、人から尊敬されるということは、その当人をば、またそれだけの考え方と実行へと駆り立てねばおかない、ということである)
 (関口存男「冠詞、定冠詞篇 725頁)


抜かす

2006年11月10日 | ナ行
 他人を追い越すことを「抜かす」と言う人がいます。

 「抜かす」という言葉の意味は、腰を抜かすとか現(うつつ)を抜かすは別として、「或る人を抜かす」と言った場合、「順番からみて当然扱わなければならない人を扱わないで通りすぎる」「その人を飛ばす」という意味でしょう。

 例えばトランプ遊びで札を配る時、Aの人に配りBの人に配って次は本当はCの人に配らなければならないのにそれを「抜かして」Dの人に配ってしまう、といったことです。

 ですから「追い越す」という意味で「抜かす」を使うのはやはり間違いだと思います。