注(牧野)・拙訳『初版資本論第1章及び付録』(信山社)から引用します。以下の文で直接的に問題になっているのは「資本論」の第1章の第3節の中の「相対的価値形態」と「等価形態」の所です。原文を見ないと最後の方のドイツ語のことなどは分からないでしょうが、それは分からなくても、この文のテーマである「悟性的認識論と理性的認識論」の違いは分かるでしょう。
1、ここで[等価形態の所で]マルクスは、価値の関係(20エレの亜麻布=1着の上着)において、上着が価値の現象形態であることの説明として、重量関係(棒砂糖の重さを測るために、鉄片を天秤の向こう側に置いた関係)を持ち出している。
この点について、(宇野派の)降旗節雄氏は次のような批判をしている。
「マルクスはここで化学的物質とその成分との関係を、商品と価値実体との関係の例解として使っている。またつぎの『三、等価形態』においては、棒砂糖の重さの鉄の物的形態による表現関係を、同様に商品価値と価値形態との関係の例解として示している。しかし価値形態の説明としては、このような自然科学的な例証は適切ではない。むしろ価値形態の性格を誤って理解せしめる危険性がある。物質とその化学的成分との関係、あるいは物体とその物理的属性との関係は、商品の価値形態と価値実体との関係とは根本的に異る。商品価値は、価値形態をはなれて直接把捉することはできないのであって、ここではそれが、ある商品の価値は他の商品の使用価値でしか表現されえないという点において、また最終的には商品の価値の尺度は貨幣による以外には行なわれえないという点において明らかにせられるのである。そしてこれが価値形態論の基本テーマなのである。ところが、酪酸と蟻酸プロピルとは等置されると否とにかかわらずC4O8N2という実体をもっており、それは一方が他方の実体を表現するという関係ではない。物の重さの場合も同様である。したがって商品の価値表現における等置関係は、むしろこのような化学的あるいは物理的属性を前提とした、物質あるいは物体間における比較の問題とは根本的に異質な関係であることを解明すべきであると考えられる。もっともマルクスも以上の説明のあとで、『だが、類似はここで終る。鉄は、棒砂糖の重量表現では、両方の物体に共通な自然属性、それらの重さを代表する──ところが、上衣は、リンネルの価値表現では、両方のものの超自然的属性、すなわちそれらの価値、純粋に社会的なあるものを代表するのである。』とつけ加えている。しかし一方が『自然属性』を『代表』し、他方が『純粋に社会的なあるものを代表する』という差異自身が、かかる『類似』的説明を拒否するのである。」(宇野弘蔵編『資本論研究』筑摩書房刊1、19頁)
酪酸と蟻酸プロプルとの関係でも本質は同じなのだが、分かりにくくなるので、重量関係に限って考え、降旗氏に反論することにしよう。
氏の見解は、要するに、「商品価値は、価値形態をはなれて直接把握することはできない」のに、重さは、2つの物体が「等置されると否とにかかわらず」持っているので、「一方が他方を表現するという関係ではない」ということに尽きている。
氏の言っていることを1つ1つ切り離して考えればそれは正しいであろう。しかし、ここには、マルクスの問題の誤解の上に立ったすりかえがある。なぜなら、価値については、それが価値関係を離れて直接把握できるか否かという点を、すなわち認識主観との関係を取り上げているのに、重さについては、或る物体の重さがいかにして把握されるかを問題にしないで、それが実体として、それ自体で重さを持っているということしか述べていないからである。
物体がそれ自体で重さを持っているということと、その重さが他の物体との重量関係の中でしか現われず、従って、重量関係を離れて直接把握できないということとは、十分両立することであるし、マルクスはまさにそれを言っているのである。そして、マルクスは、棒砂糖=鉄片という重量関係が出来た時、その時には鉄片は鉄という属性としてではなく、棒砂糖の重さの、更に一般的には重さの現象形態として機能している、と言っているのである。
2、このように問題を整理すれば、降旗氏の誤解は明白である。次に問題になるのは、重さは、価値のように、関係を離れては把握できないものなのかということである。これは物理学者が答えるべき事柄だが、普通に考えてもそれ以外に重さを知る方法は考えられないであろう。しかも、重さの場合には、統一的尺度として、キログラムが取られているが、このキログラムというのは、そもそもどういう値かというと、それはキログラム原器の質量だが、それが摂氏4度の水1立方デシメートルの質量なのである。つまり4度の水がちょうど価値関係における金の役割を果しているのである。ここまでくれば、価値形態の発展と全く同じ形態展開を、重量形態の発展についても行なうことができることは、容易に推察できよう。
3、さらに、マルクスのこの「価値関係のなかでは、等価体となっているものは、価値の現象形態である」という考えは、ヘーゲルの本質論を踏まえていることを想起しなければならない。これが又全然理解されていないようなのである。
現在通説となっている自称「弁証法的唯物論」では本質の認識はどう扱われているか。本質と現象との関係はどう捉えられているのか。これを、その代表者である寺沢恒信氏の認識論に見てみよう。
氏は、その主著である『弁証法的論理学試論』(大月書店)で、次のように述べている。
「まず第1に、本質とは、客観的実在の内的側面であり、現象とは、おなじ客観的実在の外的側面である。同一の客観的実在の2つの側面として、本質と現象とは、対立物の統一を形成している。だが、ここで重要なことは、内的ならびに外的という特徴づけは、何にとっての内と外かということである。これは『本質』ならびに『現象』というカテゴリーが適用される場面を決定している重要な事柄であるが、『内』と『外』との区別は、われわれ人間の認識にとっての区別である。すなわち、認識にとって外に現われているもの、したがってまた認識が直接的につかむことのできるもの、これが現象であり、認識に対して内にかくされているもの、したがってまたこれを認識するためには分析・抽象などによって媒介することの必要なもの、これが本質である。
第2に、本質はたんに内にかくされているだけでなく、外に現われ出て(発現して)現象になるものである。すなわち本質は現象するのである。このことは、認識の側からいうならば、本質が発現して現象になっている、まさにその現象をとらえて、これを分析していくことによって、本質に到達することができる、ということを意味する。本質は、内にかくれているが故に認識不可能なものではなく、外に発現するか故に認識可能なものである。(中略)
以上述べたことからわかるように、『本質』ならびに『現象』というカテゴリーは、主として認識の順序に関して、客観的な実在のなかに2つの側面を区別した場合に、その側面のおのおの一方を表示するカテゴリーである。『本質』ならびに『現象』は、顕著に認識論的カテゴリーであると、といえる」(99-101頁。但し、寺沢氏が傍点を付しているところは明朝体にした)。
ヘーゲルの本質論は実にこの寺沢氏の考えとは全く逆なのである。それは、何よりもまず、存在論上のカテゴリーである。そして、それが存在論上のカテゴリーであるが故に、またそれは認識論のカテゴリーでもあるのである。ということは、ある本質がある事物に現象しているということが、人間の認識主観に認識できるのは、それが何よりもまず、そこに、その事物自体の表面に現象しているからである、ということである。
このことは、本質の認識方法の決定的な違いとなって現われる。すなわち寺沢氏は、現象を〔認識主観が〕分析することによって本質に到達するというのだが、ヘーゲルでは、事物自体が自分で自分を分析・展開してその本質を前面に出してくれているのだから、認識主観はそれをそのまま受け取ればよいということになるのである。ここに「現象は本質の現象したものである」という周知の命題の根本的に異った理解があるのである。このように、事物が自分で自分を分析・展開するということを知らないと、見田石介氏のように、科学は「事実の〔認識主観による〕分析である」ということを、そればかり強調することになるのである(『資本論の方法』弘文堂)。
そして、ここに、唯物論一般と弁証法的唯物論との本当の違いがある。唯物論一般は、要するに、認識論的には、思考が存在を反映することを認めることから出発する。これをスローガンで表わすと「存在と一致する思考」と言うことができるであろう。それに対して、自称「弁証法的唯物論」は「分析という媒介を通って存在と一致する思考」と言うことができるだろう。寺沢氏も見田氏も、与えられた事実や現象を分析して本質を知るのが科学だと考えているようである。しかし、この説でいくと、この分析自身はあくまでも認識主観に属することであって、存在過程自身にはないものだから、その限りでは、思考と存在は一致しないということになる。思考と存在とは、その過程においては一致せず、結果においてのみ一致すればよい、ということになる。たしかに、こういう面もあるのである。ヘーゲルはこれを数学的証明の本質と見ているようである(『精神現象学』の序言における数学的方法への不満)。しかし、それはあくまでも真の本質認識の1モメントにすぎない。それでは、真の本質認識はどのようなもので、どのようにして可能になるのか。
それは「存在とともに歩む思考」と捉えることができる。たしかに思考も歩むのだから運動するのである。思考の運動を認めるところに自称「弁証法的唯物論」の欠点があるのではない。その思考の歩みは、存在自身が歩むからこそ可能なのだということを見落している所にその欠点があるのである。存在が歩むとはどういうことか。それこそ、存在自身が自分の運動を通して、自分の本質を開示することである。それでは、その運動とは何か。それこそほかでもない、他の物と関係することである。何とどういう点において関係するのか、それによってその物のどういう面が前面に開示されるかが決まるのである。棒砂糖も口に入って舌と関係すれば、甘いという面が前面に出るだろう。その白さを計るには他のいろいろな白いものと並べて置いてみればよい。そのように、天秤に鉄片と対比してぶらさげられた時には重さという面が現象するのである。すなわち、本質が現象するに当たっての関係ということの不可欠性である。従ってまた、本質を認識するには、その本質が現象していなければ認識できないから、関係を通してしか把握できないということになるのである。この点は、社会的なことでも自然的なことと何ら変わらない。マルクスは、ヘーゲルを受け継いでこう言っているのである。ヘーゲルの本質論が関係の論理とされていることの現実的な意味は実にこういうことであったのである。
従って、マルクスの次のような言葉も理解できるのである。すなわち「商品の価値対象性は純粋に社会的なものであり、従ってそれは商品と商品との社会的な関係の中でしか現象しえないということは自ずから分かる」(新ディーツ版『資本論』1、62頁)という言葉である。従って、自然物について言えば、物の自然的性質は、その自然的な関係の中でしか現象しえないということであり、一般に、ある物が何であるかは、その物がどういう他者とどういう関係を持つかの内に現象するということである。
しかし、ここで注意すべきことは、同時に、「ある物の性質は他の物への関係の中から生まれ出てくるのではなく、むしろその関係の中で確証されるににすぎない」(同上書72頁)ということである。いずれにしても、ヘーゲル・マルクスにとって、本質の現象する時に「関係」が決定的重要性を持っていることは間違いない所である。マルクスは『資本論』の中で、この外的反省(自称「弁証法的唯物論」の本質認識)と絶対的反省(ヘーゲル・マルクスの認識論)との違いを、次のように述べている。
「もし我々が価値としては商品は人間労働のたんなる固型物にすぎないと言うならば、その時には、我々の〔認識主観による〕分析によって、それらの商品は価値という抽象物に還元されるのであるが、それらの商品はしかし、その価値〔を表現するため〕のその自然形式と異った形式を獲得するわけではない(以上が、外的皮省の態度)、〔しかるに〕ある商品の他の商品に対する価値関係の中では、事情は異なる。ここではその商品の価値という性格が、その商品自身の他の商品への関連によって、前面に出てくるのである(これが絶対的反省)」(同上書、65頁)。そして、実に、寺沢氏に代表される自称「弁証法的唯物論」には、これが分かっていないのである。そこで結局、現象を認識主観がそれ自体として(つまり、他者との関係を離れて)分析することによって、本質を認識するという見解となるのである。氏が前掲書の105頁でこの価値形態論について説明した文を読めば、氏には何も分かっていないということが分かるであろう。
かくして、ある物Aは他の物Bと関係して甲という本質を現象させ、第三の物Cと関係して乙という本質を現象させるのだが、Aは自分で連動してBやC等々と関係する場合もあるが、それでは人間の思う通りにAのいろいろな面を見ることはできない。従って、人間はAを認識しようと思うと、人間が自分でAとB、またはAとC等々を関係させてみることになるのである。しかるに、この「人間が関係させる」ということは、AやBやC等々に対する人間の実践的、変革的な働きかけである。かくして、こういう本質認識にとっては、人間の実践が不可欠となってくる。実践を介して認識が深まるとはこういうことなのである。
ここに、ヘーゲルの認識論が観念論でありながら、それが実践的観念論にならなければならなかった理由があり、自称ではなく真の弁証法的唯物論が実践的反映論になる根拠があるのである。許萬元氏がその『ヘーゲルにおける現実性と概念的把握の論理』(大月書店)で述べた実践的反映論は、大衆的な言葉で表現し直すとこうなるのである。
但し、それはあくまでも大衆の生活の立場から捉え直された限りでの許萬元哲学であって、あるがままの姿でのそれは講壇哲学であり、難解で非大衆的である。だから氏の哲学はほとんど理解されていない。それはちょうど、エンゲルスが述べ、我々が多くの点についてくわしく証明しているように、合理的な姿で捉え直されたヘーゲル哲学は多くの深い洞察を含んでいるが、あるがままの姿でのそれは全く使いものにならないのと同じである。
4、ヘーゲルのこの本質論は、しかし、ヘーゲルが突然発見したものではない。それは古く、古代ギリシャ人たちが「同類のものは同類のものと関係する(あるものは自己の同類のものとのみ関係する)」という言葉で直観していた事柄であったし、民衆が「類は友を呼ぶ」とか「友をみれば人が分かる」という言葉で捉えている事態である。しかも、皮肉なことに、ヘーゲルがこの論理を完成させた後に、まさにこの論理を使って、ヘーゲルとキリスト教と観念論一般を批判した人が現われたのであった。それがフォイエルバッハであった。
フォイエルバッハは言う。「ところで、ある存在が何であるかは、ただその対象からのみ認識され、ある存在が必然的に関係する対象は、その明示された本質にほかならない。たとえば、草食動物の対象は植物である。ところでこの対象によってこの動物はそれと別な動物である肉食動物から本質的に区別される。たとえば、目の対象は光であって、音でもなく、においでもない。ところで目の対象においてわれわれにその本質が明示されている。だから、ある人が見ないということと目がないということは、同じである。われわれはだから実生活においても、多くの事物や存在をただそれらの対象によって呼んでいる。目は『光の器官』である。土地を耕す者は耕作者であり、猟を自分の対象とする者は猟師であり、魚を捕える者は漁師である、等々。だからもし神が──実際そうなのだが──必然的および本質的に人間の対象であるならば、この対象の本質においてただ人間自身の本質だけが言い表わされている」(『将来の哲学の根本問題』第七節、松村一人訳岩波文庫から引用)。
5、さて、これまでほとんど重視されなかったし、我々の側からの説明もなかったことなので、長々と述べたが、初めに帰って、マルクスのこの叙述を細かく見ると、1ヵ所だけ不用意と考えられる所がある。それは83頁14行目で棒砂糖の向こう側の皿に乗せられる鉄片の「重さが前もって規定されている(つまり測られ分かっている)」としたことである。これだと、価値の相対的な形式の単純な形式の例にならないのである。前もって重さの分かっている鉄片は、価値の関係における貨幣ないし値段(価格)のついている物に比すべきものである。だからこそ注(46)に注意した「ein」が生きるのである。ここに定冠詞「das」を使うと、あらかじめ重量関係を表現するものとして知られているものがあって、「その関係に」ということになる。しかし、ここを「ein」にすると、その関係が、この関係において初めて、重量関係という性質を持った、そういう性質の前面に出た関係として定立されるという事態が如実に表現されるのである。だから、鉄の重さが分かっているとすると、鉄は初めから重量の面で見られていることになり、この関係によって初めて、ここでのみ、重さの現象形態になるという面が死んでしまうのである。
6、ともかく、我々の説に賛成するか否かは読者に任せよう。しかし、①マルクスは、ヘーゲルの本質論を受けついでいること、②降旗氏はそれに気付いていないのはもちろんのこと、マルクスの文章さえ誤解していること、③寺沢氏に代表される自称「弁証法的唯物論」はヘーゲル・マルクスの認識論とは根本的に異なること、以上3点ははっきりしている。我々はここで、レーニンが、ヘーゲル論理学の全体をよく研究しなければ、資本論、特にその第一章は分からない、といった言葉を想起して、この注を終えよう。
関連項目
武谷三段階論