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ながく、牧野紀之の仕事に関心を持っていただき、ありがとうございます。 牧野紀之の近況と仕事の引継ぎ、鶏鳴双書の注文受付方法の変更、ブログの整理についてお知らせします。 本ブログの記事トップにある「マキペディアの読者の皆様へ」をご覧ください。   2024年8月2日 中井浩一、東谷啓吾

乳がんを触診する視覚障害女性

2013年02月28日 | ナ行
 ドイツでは毎年約7万4000人の女性が乳がんを発症している。そして、1万7000人以上の人が乳がんで死んでいる。発見の遅いのが一因である。今、目の不自由な女性が極めて小さなシコリでも早目に発見して、この問題の解決に役だっている。

 腫瘍を出来るだけ早く見つけるにはレントゲン造影法など、いくつかの検査法がある。その上、女性は毎月胸の触診を受ける。年に2回、婦人科医はこの診察をする。しかし、医者が触診で分かるのは1,5から2センチ程度の変化だけである。

目の不自由な人の触覚は訓練を受ければ素晴らしく発達する。だから、数ミリのシコリでも触知出来るようになる。これに気付いたデュイスブルクの婦人科医師、フランク・ホフマン博士は、「目の不自由な女性を触診検査官として投入したらどうか」と考えた。2006年、「ディスカバリー・ハンド」という名のグループを立ち上げた。

 触診検査官として一人前に成るためには、9ヶ月間の実習と女性の胸の解剖学や治療法や診断学の勉強が必要である。又女性の胸を4つの部分に分けて理解するための実習もある。かくして変化の起きた場所を特定し、シコリの位置の名を正確に言えるようになる。この触診のための診察には30分から60分かかる。

 これまでの実績では結果は良好である。450人の患者の内56人で胸の中の変化が確認された。普通の婦人科医では気付けなかったであろうようなシコリも見つかった。しかし、この方法は従来のやり方に完全に取って代わることは出来ない。ホフマン博士は、「触診法は特に医療機器の足りない発展途上国に適している。これで目の不自由な女性に新しい職業が生まれることにもなる」と話している。(ドイチェ・ヴェレ、2012年4月24日)

 感想

 日本でもこういう触診医を作ったらどうでしょうか。それとも私が知らないだけで、既に存在しているのでしょうか。

ノルウェーの電力取引市場

2012年12月15日 | ナ行


 再生可能エネルギー(再生エネ)の拡大には、取引のしやすい市場が欠かせない。風力や太陽光などは天候に左石される。だから、様々な資源のエネルギーを広い範囲から集めたり、広い地域に売ったりできることが重要だ。ノルウェーには、世界中から見学者が訪れる取引市場がある。

 首都オスロの中心街から西へ車で約20分。明るいガラス張りの企業ビルが並ぶ。芝生に囲まれ、建物同士の間もゆったりと空いている。ノルウェーは日本とほぼ同じ38・6万平方㌔の国土に、約500万人しか住んでいない。その一角のビルに取引市場がある。

 ビルの高さは3階建て。「NORDPOOL SPOT」。白いブロック調の壁の1一つにう刻まれていた。ノルドプールはノルウェーで生まれた電力取引市場だ。現在は発電会社、売電企業など20ヵ国の350社が加盟し、自由に電力を売り買いしている。北欧4ヵ国の消費電力の73%を取り扱う。

再生エネ加速

 欧州には国際的な送電網がある。余った電力は他国に売り、足りない電力を他国から購入し、エネルギーをスムーズにやりとりすることで、再生エネの導入に弾みがつく。自国だけでは限界があっても、他国と協力すれば、導入の可能性は広がる。

 世界の注目を集めているにしては、ノルドプールの内部は驚くほど静かで、こぢんまりとしていた。オペレーター室は左右に2人ずつが着席するテーブルとパソコンがあるだけ。少し拍子抜けした。

 そんな感想を漏らすと、案内してくれた市場オペレーション部長のマリアンネ・イェンセンさんが笑った。「来た人はみんなそう言います。効率よく仕事が出来ているということだと受け取っています」。

 どの地域でどれだけの電力が作られているのか、地域間でどのくらい電力がやりとりされているのか──。こうした情報を、全ての参加者は毎日知ることができる。発電量や購入量の分析も可能だ。発電所で起きた故障など電力需給に影響が出そうな情報も、すぐに更新される。

他国にも拡大

 同様の取引システムはドイツ、オランダなど、他国でも広がりつつある。自由に広い範囲で取引ができれば、季節、時間、売電先などを選ぶことによって、様々なエネルギーにビジネスチャンスが生まれる。

 イギリスでは市場がノルドプール方式になった後、日々の取引量は8倍近く増加したという。「われわれのやり方が欧州に拡大して、成功していることはうれしいことです」とイェンセンさんは話した。
    (朝日、2012年12月12日。オスロ=小坪遊)

        関連項目

ノルウェーの水力発電


農村ワーキングホリデー

2012年12月11日 | ナ行
 「農村ワーキングホリデー」と名付けられた休日の過ごし方が全国に広がっている。果物の箱詰めや除草といった作業の手伝いをする代わりに、農家で食事や宿泊をさせてもらう。そこにお金のやりとりはない。農家にとっても参加者にとっても魅力だというワーホリとは?

 長野県飯田市の座光寺地区。リンゴ、梨、桃、柿など、季節に合わせた果物を栽培する農家が多い。9月中旬、専業農家の代田雅也さん(60)と妻の芳子さん(59)は「猫の手も借りたいぐらいなんです」と梨「豊水」の収穫作業に追われていた。

 そこで、3泊4日で助っ人に来たのが、東京都町田市の会社員平本利雄さん(49)とアロマテラピスト亜椰子(あやこ)さん(49)夫妻だ。田舎暮らしに興味を持ち、ホームページで知った飯田市の農村ワーキングホリデーに参加した。収穫は見極めが必要なため代田さんがやり、平本さんは大きさを選別して箱に詰めたり、運んだりする作業を手伝う。

 交通費やアルバイト代は出ない。平本さん夫妻は、労働力を提供する代わりに代田さん宅に宿泊し、食事をさせてもらう。家族と同じように朝6時に起床し、夕方まで農作業にはげみ寝食を共にする。

 利雄さんは「短期間でも農作業は思った以上にきつかった。でもこの環境で働くことはリフレッシュになった。一緒に夕飯を食べたりする時間も楽しかった」と喜ぶ。

 代田さん夫妻はこれまでもワーホリを受け入れてきた。昨年は芳子さんがけがをし、この制度で助けられたという。ただ、魅力は労働力だけではない。雅也さんは「都会の人と話したりすることは、新鮮で楽しい」と語る。

 飯田市は1998年にワーホリを採り入れ、全国のモデルとなった先進地。集落は「結(ゆい)」と呼ばれる地域の人たちや親戚との共同作業で農繁期を助け合ってきたが、離農や農家の高齢化などで難しくなってきたことと、農村への都市住民の関心が高まってきたことが、ワーホリの背景にある。

 飯田市では年間約50軒の農家が約500人を受け入れる。参加者が移住を決めたり、農家の後継ぎと結婚して新たに就農したり、といった例もあるという。

   寝食共にした絆、震災後に実感、福島

 一緒に生活することで密接な関係ができる農村ワーキングホリデー。「この関係を築いてきてよかった」と実感しているのが、2006年から実施する福島県の会津若松市だ。

 東日本大震災後、原発の風評被害に苦しんだが、「以前、受け入れた人から連絡が来て励まされた」と専業農家の佐瀬正さん(67)は話す。第二のふるさとのように会津若松市に顔を見せてくれる人もいれば、東京の直売所で佐瀬さんが野菜を販売するときに手伝いに来てくれる人もいるという。

 会津若松市では15軒の農家が年間約30人を受け入れるが、震災後も減ることはなく、2010年度は32人、2011年度は38人と参加者は増えた。

 8月下旬、沖縄県から来た公務員の喜屋武由野(きやんよしの)さん(27)は、佐瀬さんと朝5時から枝豆を収穫し、ブロッコリーの苗を植えた。喜屋武さんは「沖縄で生活していると、消費者として福島県産の農産物を選ぶことは勇気がいる。でも、実際に行ってみると一括(ひとくく)りにイメージするのが間違っていると感じた」と話す。

 この10年で、ワーホリを採り入れる自治体は増えた。2008年には愛媛県宇和島市、09年に福井県、10年に大分県日田市、昨年は京都府和束町などが新たに導入している。

 しかし、受け入れ農家が増えず、始めてもやめてしまう地域もある。長く続けるポイントとして飯田市の担当者は「無理をしないこと」と話す。参加者のために仕事を作るのではなく、ある仕事をしてもらう。食事は普段と同じものを提供する。お客さんが来ると思うと、農家が息切れするからだ。

 農家は男女どちらで何歳ぐらいの人を希望するのか、参加者はどんな仕事がしたいのか。間に入る自治体などが参加者と農家のニーズを知り、マッチングすることも必要だという。観光気分でなく、あくまで「働く」心構えを参加者にもってもらうことも重要だという。
 (朝日、2012年10月18日。才本淳子)

ノルウェーの水力発電

2012年12月07日 | ナ行
 欧州で進む再生可能エネルギー(再生エネ)の拡大。さらなる推進のカギを握るかもしれないのが、ノルウェーの「水」だ。

 風に吹かれて小さなさざ波を立てる水面。そのすぐ上には雲が広がる。スカンディナビア半島の西側、ノルウェー南西部にあるハルダンゲル氷河地帯。水力発電用のシーセン湖だ。周囲にはキャンピングカーやボートがとめられ、流木を持ち帰る人の姿もあった。

 標高約1000㍍。水はここから標高0㍍のシーマ発電所へ、トンネルを通じて流れ込み、直径約5㍍、37トンの水車2基を回す。別のダムからの水を受けるもう2基の水車と合わせ、発電量は年間約30億㌔ワット時。発電所から西へ約150㌔離れた西海岸にノルウェー第2の都市ベルゲンがあるが、その1年分の消費量をまかなえるという。

 ノルウェーの西側地域ではたくさんの雨が降る。ベルゲンは「年間400日雨が降る」と言われるほどで、お土産用絵はがきにも雨や傘マークが並ぶ。この雨や雪解けで流れる水と、フィヨルドが作った高低差の大きな地形を利用したダムが、国内の消費電力の99%を水力でまかなうことを可能にしている。

供給いつでも

 風や太陽を利用する再生エネの弱点の一つは、発電が天候に左石されてしまうことだ。現在は、その供給の振れ幅を天然ガスを燃やすなどして作った電力で調整している国が多い。

 しかし欧州連合(EU)は2020年までに、EU全体のエネルギー消費に占める再生エネの割合を20%まで引き上げ、温室効果ガスを20%削減すると決めた。再生エネの導入推進のために、天然ガスなど従来のエネルギーを調整電源に使っては目標は達成できない。

 水力はダムの建設などで環境への影響はあるが、二酸化炭素は出さず、原発と違って、危険な廃棄物も出ない。ノルウェーには欧州全体の半分に達する約840億㌔ワット時もの「貯水池」があるという。

 「我々は欧州の課題解消に大きな貢献が出来ると考えています」。そう語るのは、電力会社スタットクラフト上席役員のチェーテル・フォースターさんだ。水はためておけば、天候に左右されず、好きなときに電力が引き出せる。

主要な輸出品

 欧州各国と結ぶ送電網が続々と整備されつつある。すでにデンマークやオランダヘの送電ケーブルがある。2025年までにデンマーク、ドイツ、英国との間に新設、増設される予定だという。

 「デンマークで風が強いときなどは、その電力でノルウェーのダムのポンプを動かし、水を上流のダムに戻すことが出来ます」とスタットクラフトの広報担当ラース・グンターさん。逆に欧州各国の電力が足りないときはノルウェーから水力で作った電気が送られるというわけだ。

 かつて「サケとサバくらいしか輸出するものがない」とも揶揄されたノルウェー。だが、1970年代の北海油田開発以降、エネルギーの輸出大国になった。欧州の再生エネ拡大を背景に、主に国内向けの電力でしかなかった水力発電も、大きな強みになった。今この国は、期待を込めて「欧州の再生可能バッテリー」と呼ばれている。

(朝日、2012年11月28日。エイドフィヨルドにて、小坪遊)

          関連項目

ノルウェーの電力取引市場

ニュージーランドの教育事情

2012年11月29日 | ナ行
その1

 大津のいじめ事件や、大阪市の橋下徹市長の問題提起をきっかけに、これまで日本の教育を仕切ってきた教育委員会制度が揺れている。教委がダメなら、教育を仕切るのは国か、首長か──。そんな議論を背に、南半球のニュージーランドヘ飛んだ。

 同国では、国でも首長でもなく、地域の保護者が学校を仕切っているという。そんなことが可能なのか。日本でもできるのか。

 ニュージーランド第2の都市、クライストチャーチ市郊外にある公立のセント・マーチンス小学校では毎月第3火曜日の午後6時半、学校理事会が始まる。

 議長のグレッグ・ハミルトンさん(46)は7年生の娘と6年生の息子の父で、市の公衆衛生部に勤務する医師。他の理事もエンジニアや大学教員などの職を持つ親たちだ。

 「震災後の子どもの心のケア担当を雇いますか? 何人必要?」「誰がいつ面接しましょうか」。約2時間の会議で具体的な課題を話し合い、結論を出していく。

 親5人が理事

 学校理事会は、保護者の中から3年に1度の選挙で選ばれた理事5人と、校長、学校職員の代表7人でつくる。

 理事の権限は強大だ。理事会は選出されるとまず、学校の教育目標にあたる「学校憲章」を決める。多様な民族、学力の子が通う同校の目標は「学習意欲の向上」。障害のある子も含め、一人一人が自己ベストを更新できるような目標をと考えた。

 次に教育雑誌に求人を出し、憲章を実現してくれそうな校長を面接で決める。この学校では、荒れていた前任校を「いじめゼロ」を掲げて立て直したロブ・キャラハン校長(54)を選んだ。それから雑誌や新聞に広告を出して教員を募集。校長と共に面接して雇用する。こうして保護者がのぞむ教育目標を実現してくれる組織をつくりあげる。

 それだけではない。学校規模などに応じて国からもらった予算をどう使うかも理事会が決める。ここ数年はIT教育の充実を目標に、パソコンやタブレット端末の導入に優先的に予算を割いてきた。

 理事会の意向は教育内容にも及ぶ。日本の「学習指導要領」にあたる「ニュージーランド・カリキュラム」は、授業時数から教科書の内容まで細かく決める日本とは違う。それぞれの履修期間に2~4年の幅を持たせ、学校ごとに重点科目や教材を決められる。

 セント・マーチンス小の理事会は、先住民のマオリ文化の伝承や演劇活動、環境教育に力を入れていた。

 会合は月1回

 教育の素人が大半を占める理事会が、月1回の会議だけで学校を仕切っていけるのはなぜか。

 秘密は「ガバナンス」と「マネジメント」の仕分けだという。理事会は全体の目標を決める「ガバナンス」に徹する。その目標を実現するため具体的に何をどう教えていくかの「マネジメント」は、専門家である校長に任せる。

 そのため月1回の会議は、校長がつくった議案を事前に読んだ理事が次々と承認する形で進む。一見、事務局提案を追認する日本の教委と同じに見えるが、キャラハン校長は「あらかじめ理事と教育理念を共有しているから当然です。教員評価など細かな点で意見が割れても、大筋ではもめようがないのです」。

 日常のコミュニケーションも大事だ。校長は議長に毎日メールを送り、いじめなどのトラブルも報告する。解決に動くのは教師だが、そのやり方は理事会がチェックする。

 理事の仕事は年間で約100時間。報酬は、議長が年700ニュージーランド㌦(約4万5000円)、理事が550㌦(約3万5000円)と、多くはない。それでも、なり手がなくて困る学校は少ない。

 ハミルトン議長は、学校教育を通した地域貢献に興味があり、立候補したという。「新しい目標を掲げ、校長を招き、地域の実情や時代の変化に見合うように学校を変える。そんな手応えを保護者がじかに感じられるのがだいご味なのです」。


その2

 教育委員会を全廃し、保護者が学校を切り盛りするニュージーランド(NZ)。日本でも、橋下徹・大阪市長率いる大阪維新の会が保護者や生徒の「ユーザー視点」を基にした教育改革を打ち出し、注目された。相違点は何か。

 大阪の教育改革は、生徒や保護者に学校を選んでもらうことで、学校や教師に切磋琢磨を促し、よりよい学校を生き残らせて教育の底上げを図る。NZとの共通点の1つは、教員や教職員組合が学校を仕切ることへの警戒感だ。

 大阪は、公立学校の先生に式典での君が代起立斉唱を義務づける条例を制定。ルールに従わない教員や組合は許さないという姿勢で校長の権限を強め、改革をしやすくする狙いがある。

 連合会が支援

 NZも23年前に教育委員会を全廃する際、政府は理事会が教職員組合に「乗っ取られる」と心配した。だが、そのために校長の権限を強化するのではなく、支援や評価を通して保護者でつくる学校理事会の運営基盤を強めた。学校理事会連合会(NZSTA)のロレイン・キール会長は「教員の発言権が強すぎると、子どもや保護者主体の学校にならない。だから保護者を支える必要があったのです」と話す。

 NZSTAは、新任理事への研修や電話相談を通じて経営管理のノウハウや決算書の読み方を指導し、理事会をバックアップする。

 ここから見えてくるのは、保護者を教育サービスを受ける「消費者」とみる大阪と、教育を作り出す「当事者」とみるNZの違いだ。

 不適格教員の扱いにも、この違いが表れている。NZでは、能力が不足していたり問題行動を起こしたりする教師は、雇用主である理事会が罰したり解雇したりできる。NZSTAは、懲罰的な人事をする前に話し合いを重ね、授業や指導の改善を促すよう助言する。無理な解雇は、保護者を労働裁判の被告にしかねないからだ。

 大阪でも今年、保護者でつくる学校協議会が、地域の保護者から不適格教員排除の申し立てを受けて校長に伝える取り組みが始まった。だがその教員の扱いを決めるのは校長。保護者が当事者として慎重に処分にかかわるNZと違い、消費者としてクレームをつける権利を認めた形だ。

 校長観にも差がある。

 大阪では教育に外部の視点を入れるため、弁護士や経営者も校長になる。NZ全国校長会のポール・ドラモンド会長は「あり得ない」と驚いた。NZで校長に求められるのは、理事会が決めた教育目標を具体的な実践を通して実現すること。プロとしての教育経験は必須なのだ。

 地域に合わせ

 いま大阪では、選ばれた学校だけを生き残らせようとする学校選択制の導入に「学校と地域の関係が薄まる」と反発する声がある。選挙で選ばれた保護者が地域の実情をみて学校を仕切るNZでは起こりえない論争だ。

 南島のネルソン市のホープ小は児童数78人。周囲には牧場とワイナリーが広がり、保護者の大半が農場の経営者だ。学校理事会が決めた最優先事項は「子どもが楽しく安全に過ごすこと」。実生活で役に立つ読み・書き・計算をていねいに教え、高度な応用問題は必要な子がやればよいと割り切っている。

 テストや受験の結果に注目が集まりがちな日本。ここまで教育を担う覚悟が保護者にあるだろうか。
(朝日、2012年10月10-11日。阿久沢悦子)

   感想

 ガバナンスとマネジメントの分離というのが急所でしょう。これは政治主導と官僚主導の違いでも同じだと思います。

 ガバナンスを放棄するのが多くの首長の「官僚への丸投げ」なら、「マネジメント」までやろうとして失敗したのが素人集団民主党の間違いでした。

 しかし、日本の教育行政はどう改革したら好いのでしょう。日本では右翼も左翼も教育を利用しようとしていますから、投票で教育委員を決めるのは適当とは思えません。

 ニュージランドのやり方の中で参考に成る所はどこでしょうか。

 ①教育長を無くす事でしょう。定年無し・給与最高のこの職を目指して腹黒い教員が集まってきます。これを無くす事です。

 ②そして、非常勤の教育委員に権限を集中する。それが可能になるために、ニュージーランドのように、「校長は議長〔教委〕に毎日メールを送り、いじめなどのトラブルも報告する。解決に動くのは教師だが、そのやり方は理事会がチェックする」事が大切です。

 ③不適格教師、いやその前に不適格校長を辞めさせる事が今より簡単に出来るようにする事です。

 ④とにかく、住民の公民権意識が高まる事が大前提でしょう。日本では公民教育が無さ過ぎます。

小型水素燃料電池

2012年11月20日 | ナ行
 スマートフォンなどにも使える小型の水素燃料電池が開発された。水を加えることで燃料の水素を発生させる仕組み。水素はその場で発生させるためタンクなどはいらず、小型化することができた。開発したのは半導体メーカーのローム(京都市)と燃料電池開発製造ベンチャーのアクアフェアリー(同)、京都大。

 水素燃料電池は、水素と酸素を反応させた際に生じる電子を取り出し電気を作る。自動車などへの利用に向け研究が進んでいるが、水素をためる装置が必要で小型化が課題だった。

 ロームなどは、水をかけると水素を発生する水素化カルシウムをシート状にすることに成功した。4センチ四方、厚さ2㍉ほどのシートから、約4・5リットルの水素を発生させ、5ワット時の電力を生み出すことができる。

 必要な分だけその場で水素を発生させる。貯蔵用タンクは不要。同社は「水素は低圧で、できてもすぐに発電に使われるから爆発の危険はない」。使わなければ反応しない。そのまま20年以上保管できるという。

 開発したスマホ充電用の水素燃料電池は、水素発生シートと水を組み込んだカートリッジを発電セルと組み合わせた。名刺サイズで、重さは約100グラム、出力2・5ワット。使い終わったカートリッジを取り換えれば繰り返し使えるという。

 さらに、出力200ワットのポータブル型の水素燃料電池も開発した。手提げカバンほどのサイズで重さ7㌔。災害など緊急時の電源として活用が期待される。

 開発に携わった平尾一之京都大教授(無機材料化学)は「水素を安定的に発生させる技術を確立し、小型化に成功した」と話す。スマホ充電用とポータブル型の水素燃料電池は来春にも発売される予定だ。

(朝日、2012年09月26日。中村浩彦)

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再生可能エネルギー一覧

三無主義市民の見本

2012年09月09日 | ナ行
 「晴男」さんという名前の方から6月29日付けで次のコメントをいただきました。題(件名?)は「お久しぶりでございます」でした。

     記(「晴男」さんのコメント)

 浜松市のツイッター、フェイスブック、ブログ等の職員(市長、部長級も含みます)の利用について本日のyahoo!ニュースで記事が掲載されておりました。/ 7月1日より開設とのことです。/ ふと、牧野さんの事思い出しましたので紹介させていただきました。産経新聞へのリンク(省略)/ その後、御活動の方はどうでございますか? 6月29日(引用終わり)

 この方は昨年(2011年)春の浜松市長選に私が「仮」立候補した際、ネットでその事を知って、接触してきた方です。いくつかの質問とかをいただきましたが、返事をするに値しない内容でしたのでろくな返事もしなかったら、段々離れていったのだと思っていました。このコメントの2カ月位前に1度、内容のないコメントを下さいましたが、掲載しませんでした。それがこちらに着かなかったと思ったのか、「お久しぶり」と言ってきたのだと思いました。

 今回のコメントも、公開するか迷いましたが、公開しました。こういう記事を書く事になるだろうと思ったからです。

 この方の特徴の第1点は、言うべき人(浜松市政を考える場合には市長および教育長)に言わないで、言いやすい人に、最も悪い場合には市長への対抗馬にだけ言う、ということです。これはこの方だけではありません。臣民根性に冒された多くの人に共通の態度です。

 学生でも同じです。私が学長批判をするのが厭だと言って出席しなくなった学生がいます。私を嫌ってくれる学生はアレコレと理由を付けて牧野批判をしてくれます。「間違いを見つけたから、言ったまでだ」とかです。これに対しては「まず学長の間違いを指摘するのが学問的に正しい順序だ」と言います。

 「語学のクラスは今後40人の少人数クラスにする」と言ったのを守らない学長を批判すると、「生徒の数が何人でも同じように授業をするのがプロだ」と強弁するウマシカもいます。親の顔が見たいとはこういう人の事です。

 わき道に逸れすぎました。浜松市のフェイスブックを「晴男」さんはなぜ私に「紹介」したのでしょうか。「鈴木康友市長は牧野さんの言うような『丸投げダンマリ市長』ではありませんよ」と言いたかったのでしょうか。

 まともな市民なら、市長に対して、「『マキペディア』にこういう記事がありますよ。読んで考えたらどうですか」と「紹介」するのが普通でしょう。方向が逆なのです、三無主義市民の「晴男」さんは。

 第2の特徴は、これが一番問題なのですが、そのフェイスブックが実際に始まる前に、つまり「実際はどうか」が判明する前に、行政の発表を受け売りした新聞記事をそのまま紹介したという事です。そして、始まってから既に2カ月も経つのに、「実際がどうか」を検証せず、従って自分の「紹介」行為が正しかったか否かを反省していないことです。自己反省がないから、いつまでたっても進歩しないのです。無責任市民の「晴男」さんは市長や教育長と同じです。やりさえすれば後はどうでもよい、という考えであり態度なのです。

 いや、多くの国民がこのレベルです。「民主党にはガッカリした」とは言いますが、続けて「民主党のだらしなさを見抜けなかった自分にもガッカリした」という反省は聞いた事がありません。これだからいつまでも同じ間違いを繰り返しているのだと思います。

 第3の特徴はこれと関連しています。なぜ反省しないかと言うと、自分の考えを言い、立場を明らかにするのが怖いのです。選挙の時も、質問ばかりして、「これが分からなければ、牧野さんを支持して好いか判断できない」と宣(のたま)わっていました。こういう人は要するに勇気がないのです。生ける屍なのだと思います。

 選挙の時に「晴男」さんの質問してきた問題の1つを覚えていますが、「高校生に耐震補強工事をやらせる、と言うが、事故が起きたらどうするのだ」というものでした。私が「家族で話し合ってみたら」と返すと、「高校生の息子も同意見だった」と言ってきました。「この親にしてこの息子あり」ですね。

 私は大工仕事が好きです。小屋くらいならいくつも建てました。今の家の8畳の物置は最大の作品ですが、この時は私が「棟梁」で、実際に建ててくれたのは当時、好く来ていた仲間の学生などです。物置と言っても3寸角を使った立派なものです。棟上げの時は大変でした。脚立とかいった道具が足りないからです。棟木を上げるのに1度目は失敗しました。台は崩れ、皆落ちました。それでもくじけず、慎重な準備をやり直して2度目に成功。あの日の夕食は盛り上がったよなあ。

 その時のメンバーの1人であるSさんは政治家を目指し、卒業後アメリカに武者修行に出かけました。語学学校に通った後、ホームレスのために家を建てるボランティア活動に参加しました。帰国後、「引佐での経験が役立ったよなあ」と言っていました。「事故が心配だった」というような言葉は1度も聞いた事がありません。

 昔の木造家屋の耐震補強工事では事故の心配はほとんどありません。大工さんに聞いて見ればわかる事です。事故の心配などというものは、自分で調べもしない無関心市民の晴男さん家族だけの話でしょう。そういう人は参加してくれなくていいです。やる気のある人だけでやりましょう。これより大きな問題は柔道の授業です。晴男さんはこっちを問題にするべきです。

 もう1つの問題は、「馬込川を憩いの川にしよう」という私の提案に関してです。晴男さんが何を言ってきたのか忘れましたが、私が「馬込川の土手を歩きもしないで」と言ったのに対して、「自分は(浜松市の)南区に住んでいて、何度も通った事がある」と言ってきました。

 「馬込川の土手を歩く」というのは、そこを歩いて「好い河だな」と感心したり、「自転車と歩行者が共存するには道幅をどの位にしたらいいかな」と考えたり、「夏のためには木陰を多くするべきだな」と提案したりすることを言うのです。何も提案がないということは、「物体として場所の移動をした」という事です。浜松のお粗末教育を受けると、この2つを区別する事もできない「人間の形をした物体」が出来上がるようです。

 どこにでも真面目な努力をしている人の足を引っ張る事に快感を覚えるおかしな人はいます。黙殺するのがベストでしょうが、たまにはどこがどう間違っているのかを分析しておく事も必要かなと思いましたので、書きました。

         関連項目

醜い日本人

地震対策

馬込川を憩いの川に

偽善とは何か

燃料電池(固体酸化物形)

2012年02月24日 | ナ行
 水素と酸素から効率よく電気を起こす燃料電池。発電効率が最も高い「固体酸化物形」というタイプが実用段階に入ってきた。

 JX日鉱日石エネルギーは昨秋、家庭用の市販に麟み切り、九州大は産学連携拠点を立ち上げた。実用化されている「固体高分子形」をしのぐ将来性が期待されている。

 家庭用燃料電池は、電気を作りながら、出る熱でお湯を沸かす「発電できる給湯器」。

 福岡県糸島市の住宅地にあるモデルハウスで「酸化物形」を見せてもらった。

 壁ぎわに、大人の背丈ほどあるお湯をためるタンクと、エアコン室外機の倍ほどある
燃料電池本体の箱が並ぶ。2009年から市販されている「高分子形」より小型化されたが、外見はぼば同じ。価格も同じ270万円。電気とお湯を合わせたエネルギーの利用率(87%)も変わらない。

 違いは発電効率。「高分子形」の約2割増の45%に高まり、一般家庭で使う電気の7割をまかなえるという。「電気をたくさん使う家庭に向いている」とJX日鉱日石の担当者は話す。45%というと、大規模な火力発電所の全国平均を上回る水準だ。

 「酸化物形」は「究極の燃料電池」と呼ばれるほど発電の潜在力が高いことで知られる。実証研究で発電効率が60%を超えたとの報告もある。電極の間にはさむ電解質に薄い焼き物(セラミックス)を使う。電極は酸化物などを使い、高価な白金は必妻ない。

 発電時の温度が約800度と高いのも長所。ほぼ純粋な水素を使って約80度で発電する「高分子形」と異なり、水素の純度が低くても電気を作る化学反応が進む。天然ガス(メタン)などから水素を取り出す装置を簡素にできる。

 こうした特性から、将来の低コスト化の余地は大きいとみられている。耐久性や信頼性の高いセラミックスを安定して作るのが難しいが、セラミックス会社が量産技術を確立しつつある。

 燃料電池は、2000年代前半に二酸化炭素を出さない技術の切り札として期待を集め、自動車や家庭用に「高分子形」が実用化された。まだ価格が高く、家庭用が年に数千台売れる程度にとどまっていた。だが、東日本大震災後、分散型電源として再び注目されている。

 本格的な普及に向けて、九州大は1月、「酸化物形」に特化した次世代燃料電池産学連携研究センターを設立した。原子レベルで材料を解析する最先端装置などをそろえる計画だ。センター長の佐々木一成主幹教授は「これほど発電効率が高い技術はほかに見あたらない。分散型の発電機や大規模発電所など多用途に使われていくだろう」と話している。
  (朝日、2012年02月15日。安田朋起)

          関連項目

再生可能エネルギー一覧

悟性的認識論と理性的認識論

2011年12月10日 | ナ行
 注(牧野)・拙訳『初版資本論第1章及び付録』(信山社)から引用します。以下の文で直接的に問題になっているのは「資本論」の第1章の第3節の中の「相対的価値形態」と「等価形態」の所です。原文を見ないと最後の方のドイツ語のことなどは分からないでしょうが、それは分からなくても、この文のテーマである「悟性的認識論と理性的認識論」の違いは分かるでしょう。


 1、ここで[等価形態の所で]マルクスは、価値の関係(20エレの亜麻布=1着の上着)において、上着が価値の現象形態であることの説明として、重量関係(棒砂糖の重さを測るために、鉄片を天秤の向こう側に置いた関係)を持ち出している。

 この点について、(宇野派の)降旗節雄氏は次のような批判をしている。

 「マルクスはここで化学的物質とその成分との関係を、商品と価値実体との関係の例解として使っている。またつぎの『三、等価形態』においては、棒砂糖の重さの鉄の物的形態による表現関係を、同様に商品価値と価値形態との関係の例解として示している。しかし価値形態の説明としては、このような自然科学的な例証は適切ではない。むしろ価値形態の性格を誤って理解せしめる危険性がある。物質とその化学的成分との関係、あるいは物体とその物理的属性との関係は、商品の価値形態と価値実体との関係とは根本的に異る。商品価値は、価値形態をはなれて直接把捉することはできないのであって、ここではそれが、ある商品の価値は他の商品の使用価値でしか表現されえないという点において、また最終的には商品の価値の尺度は貨幣による以外には行なわれえないという点において明らかにせられるのである。そしてこれが価値形態論の基本テーマなのである。ところが、酪酸と蟻酸プロピルとは等置されると否とにかかわらずC4O8N2という実体をもっており、それは一方が他方の実体を表現するという関係ではない。物の重さの場合も同様である。したがって商品の価値表現における等置関係は、むしろこのような化学的あるいは物理的属性を前提とした、物質あるいは物体間における比較の問題とは根本的に異質な関係であることを解明すべきであると考えられる。もっともマルクスも以上の説明のあとで、『だが、類似はここで終る。鉄は、棒砂糖の重量表現では、両方の物体に共通な自然属性、それらの重さを代表する──ところが、上衣は、リンネルの価値表現では、両方のものの超自然的属性、すなわちそれらの価値、純粋に社会的なあるものを代表するのである。』とつけ加えている。しかし一方が『自然属性』を『代表』し、他方が『純粋に社会的なあるものを代表する』という差異自身が、かかる『類似』的説明を拒否するのである。」(宇野弘蔵編『資本論研究』筑摩書房刊1、19頁)

 酪酸と蟻酸プロプルとの関係でも本質は同じなのだが、分かりにくくなるので、重量関係に限って考え、降旗氏に反論することにしよう。

 氏の見解は、要するに、「商品価値は、価値形態をはなれて直接把握することはできない」のに、重さは、2つの物体が「等置されると否とにかかわらず」持っているので、「一方が他方を表現するという関係ではない」ということに尽きている。

 氏の言っていることを1つ1つ切り離して考えればそれは正しいであろう。しかし、ここには、マルクスの問題の誤解の上に立ったすりかえがある。なぜなら、価値については、それが価値関係を離れて直接把握できるか否かという点を、すなわち認識主観との関係を取り上げているのに、重さについては、或る物体の重さがいかにして把握されるかを問題にしないで、それが実体として、それ自体で重さを持っているということしか述べていないからである。

 物体がそれ自体で重さを持っているということと、その重さが他の物体との重量関係の中でしか現われず、従って、重量関係を離れて直接把握できないということとは、十分両立することであるし、マルクスはまさにそれを言っているのである。そして、マルクスは、棒砂糖=鉄片という重量関係が出来た時、その時には鉄片は鉄という属性としてではなく、棒砂糖の重さの、更に一般的には重さの現象形態として機能している、と言っているのである。

 2、このように問題を整理すれば、降旗氏の誤解は明白である。次に問題になるのは、重さは、価値のように、関係を離れては把握できないものなのかということである。これは物理学者が答えるべき事柄だが、普通に考えてもそれ以外に重さを知る方法は考えられないであろう。しかも、重さの場合には、統一的尺度として、キログラムが取られているが、このキログラムというのは、そもそもどういう値かというと、それはキログラム原器の質量だが、それが摂氏4度の水1立方デシメートルの質量なのである。つまり4度の水がちょうど価値関係における金の役割を果しているのである。ここまでくれば、価値形態の発展と全く同じ形態展開を、重量形態の発展についても行なうことができることは、容易に推察できよう。

 3、さらに、マルクスのこの「価値関係のなかでは、等価体となっているものは、価値の現象形態である」という考えは、ヘーゲルの本質論を踏まえていることを想起しなければならない。これが又全然理解されていないようなのである。

 現在通説となっている自称「弁証法的唯物論」では本質の認識はどう扱われているか。本質と現象との関係はどう捉えられているのか。これを、その代表者である寺沢恒信氏の認識論に見てみよう。

 氏は、その主著である『弁証法的論理学試論』(大月書店)で、次のように述べている。

 「まず第1に、本質とは、客観的実在の内的側面であり、現象とは、おなじ客観的実在の外的側面である。同一の客観的実在の2つの側面として、本質と現象とは、対立物の統一を形成している。だが、ここで重要なことは、内的ならびに外的という特徴づけは、何にとっての内と外かということである。これは『本質』ならびに『現象』というカテゴリーが適用される場面を決定している重要な事柄であるが、『内』と『外』との区別は、われわれ人間の認識にとっての区別である。すなわち、認識にとって外に現われているもの、したがってまた認識が直接的につかむことのできるもの、これが現象であり、認識に対して内にかくされているもの、したがってまたこれを認識するためには分析・抽象などによって媒介することの必要なもの、これが本質である。

 第2に、本質はたんに内にかくされているだけでなく、外に現われ出て(発現して)現象になるものである。すなわち本質は現象するのである。このことは、認識の側からいうならば、本質が発現して現象になっている、まさにその現象をとらえて、これを分析していくことによって、本質に到達することができる、ということを意味する。本質は、内にかくれているが故に認識不可能なものではなく、外に発現するか故に認識可能なものである。(中略)

 以上述べたことからわかるように、『本質』ならびに『現象』というカテゴリーは、主として認識の順序に関して、客観的な実在のなかに2つの側面を区別した場合に、その側面のおのおの一方を表示するカテゴリーである。『本質』ならびに『現象』は、顕著に認識論的カテゴリーであると、といえる」(99-101頁。但し、寺沢氏が傍点を付しているところは明朝体にした)。

 ヘーゲルの本質論は実にこの寺沢氏の考えとは全く逆なのである。それは、何よりもまず、存在論上のカテゴリーである。そして、それが存在論上のカテゴリーであるが故に、またそれは認識論のカテゴリーでもあるのである。ということは、ある本質がある事物に現象しているということが、人間の認識主観に認識できるのは、それが何よりもまず、そこに、その事物自体の表面に現象しているからである、ということである。

 このことは、本質の認識方法の決定的な違いとなって現われる。すなわち寺沢氏は、現象を〔認識主観が〕分析することによって本質に到達するというのだが、ヘーゲルでは、事物自体が自分で自分を分析・展開してその本質を前面に出してくれているのだから、認識主観はそれをそのまま受け取ればよいということになるのである。ここに「現象は本質の現象したものである」という周知の命題の根本的に異った理解があるのである。このように、事物が自分で自分を分析・展開するということを知らないと、見田石介氏のように、科学は「事実の〔認識主観による〕分析である」ということを、そればかり強調することになるのである(『資本論の方法』弘文堂)。

 そして、ここに、唯物論一般と弁証法的唯物論との本当の違いがある。唯物論一般は、要するに、認識論的には、思考が存在を反映することを認めることから出発する。これをスローガンで表わすと「存在と一致する思考」と言うことができるであろう。それに対して、自称「弁証法的唯物論」は「分析という媒介を通って存在と一致する思考」と言うことができるだろう。寺沢氏も見田氏も、与えられた事実や現象を分析して本質を知るのが科学だと考えているようである。しかし、この説でいくと、この分析自身はあくまでも認識主観に属することであって、存在過程自身にはないものだから、その限りでは、思考と存在は一致しないということになる。思考と存在とは、その過程においては一致せず、結果においてのみ一致すればよい、ということになる。たしかに、こういう面もあるのである。ヘーゲルはこれを数学的証明の本質と見ているようである(『精神現象学』の序言における数学的方法への不満)。しかし、それはあくまでも真の本質認識の1モメントにすぎない。それでは、真の本質認識はどのようなもので、どのようにして可能になるのか。

 それは「存在とともに歩む思考」と捉えることができる。たしかに思考も歩むのだから運動するのである。思考の運動を認めるところに自称「弁証法的唯物論」の欠点があるのではない。その思考の歩みは、存在自身が歩むからこそ可能なのだということを見落している所にその欠点があるのである。存在が歩むとはどういうことか。それこそ、存在自身が自分の運動を通して、自分の本質を開示することである。それでは、その運動とは何か。それこそほかでもない、他の物と関係することである。何とどういう点において関係するのか、それによってその物のどういう面が前面に開示されるかが決まるのである。棒砂糖も口に入って舌と関係すれば、甘いという面が前面に出るだろう。その白さを計るには他のいろいろな白いものと並べて置いてみればよい。そのように、天秤に鉄片と対比してぶらさげられた時には重さという面が現象するのである。すなわち、本質が現象するに当たっての関係ということの不可欠性である。従ってまた、本質を認識するには、その本質が現象していなければ認識できないから、関係を通してしか把握できないということになるのである。この点は、社会的なことでも自然的なことと何ら変わらない。マルクスは、ヘーゲルを受け継いでこう言っているのである。ヘーゲルの本質論が関係の論理とされていることの現実的な意味は実にこういうことであったのである。

 従って、マルクスの次のような言葉も理解できるのである。すなわち「商品の価値対象性は純粋に社会的なものであり、従ってそれは商品と商品との社会的な関係の中でしか現象しえないということは自ずから分かる」(新ディーツ版『資本論』1、62頁)という言葉である。従って、自然物について言えば、物の自然的性質は、その自然的な関係の中でしか現象しえないということであり、一般に、ある物が何であるかは、その物がどういう他者とどういう関係を持つかの内に現象するということである。

 しかし、ここで注意すべきことは、同時に、「ある物の性質は他の物への関係の中から生まれ出てくるのではなく、むしろその関係の中で確証されるににすぎない」(同上書72頁)ということである。いずれにしても、ヘーゲル・マルクスにとって、本質の現象する時に「関係」が決定的重要性を持っていることは間違いない所である。マルクスは『資本論』の中で、この外的反省(自称「弁証法的唯物論」の本質認識)と絶対的反省(ヘーゲル・マルクスの認識論)との違いを、次のように述べている。

 「もし我々が価値としては商品は人間労働のたんなる固型物にすぎないと言うならば、その時には、我々の〔認識主観による〕分析によって、それらの商品は価値という抽象物に還元されるのであるが、それらの商品はしかし、その価値〔を表現するため〕のその自然形式と異った形式を獲得するわけではない(以上が、外的皮省の態度)、〔しかるに〕ある商品の他の商品に対する価値関係の中では、事情は異なる。ここではその商品の価値という性格が、その商品自身の他の商品への関連によって、前面に出てくるのである(これが絶対的反省)」(同上書、65頁)。そして、実に、寺沢氏に代表される自称「弁証法的唯物論」には、これが分かっていないのである。そこで結局、現象を認識主観がそれ自体として(つまり、他者との関係を離れて)分析することによって、本質を認識するという見解となるのである。氏が前掲書の105頁でこの価値形態論について説明した文を読めば、氏には何も分かっていないということが分かるであろう。

 かくして、ある物Aは他の物Bと関係して甲という本質を現象させ、第三の物Cと関係して乙という本質を現象させるのだが、Aは自分で連動してBやC等々と関係する場合もあるが、それでは人間の思う通りにAのいろいろな面を見ることはできない。従って、人間はAを認識しようと思うと、人間が自分でAとB、またはAとC等々を関係させてみることになるのである。しかるに、この「人間が関係させる」ということは、AやBやC等々に対する人間の実践的、変革的な働きかけである。かくして、こういう本質認識にとっては、人間の実践が不可欠となってくる。実践を介して認識が深まるとはこういうことなのである。

 ここに、ヘーゲルの認識論が観念論でありながら、それが実践的観念論にならなければならなかった理由があり、自称ではなく真の弁証法的唯物論が実践的反映論になる根拠があるのである。許萬元氏がその『ヘーゲルにおける現実性と概念的把握の論理』(大月書店)で述べた実践的反映論は、大衆的な言葉で表現し直すとこうなるのである。

 但し、それはあくまでも大衆の生活の立場から捉え直された限りでの許萬元哲学であって、あるがままの姿でのそれは講壇哲学であり、難解で非大衆的である。だから氏の哲学はほとんど理解されていない。それはちょうど、エンゲルスが述べ、我々が多くの点についてくわしく証明しているように、合理的な姿で捉え直されたヘーゲル哲学は多くの深い洞察を含んでいるが、あるがままの姿でのそれは全く使いものにならないのと同じである。

 4、ヘーゲルのこの本質論は、しかし、ヘーゲルが突然発見したものではない。それは古く、古代ギリシャ人たちが「同類のものは同類のものと関係する(あるものは自己の同類のものとのみ関係する)」という言葉で直観していた事柄であったし、民衆が「類は友を呼ぶ」とか「友をみれば人が分かる」という言葉で捉えている事態である。しかも、皮肉なことに、ヘーゲルがこの論理を完成させた後に、まさにこの論理を使って、ヘーゲルとキリスト教と観念論一般を批判した人が現われたのであった。それがフォイエルバッハであった。

 フォイエルバッハは言う。「ところで、ある存在が何であるかは、ただその対象からのみ認識され、ある存在が必然的に関係する対象は、その明示された本質にほかならない。たとえば、草食動物の対象は植物である。ところでこの対象によってこの動物はそれと別な動物である肉食動物から本質的に区別される。たとえば、目の対象は光であって、音でもなく、においでもない。ところで目の対象においてわれわれにその本質が明示されている。だから、ある人が見ないということと目がないということは、同じである。われわれはだから実生活においても、多くの事物や存在をただそれらの対象によって呼んでいる。目は『光の器官』である。土地を耕す者は耕作者であり、猟を自分の対象とする者は猟師であり、魚を捕える者は漁師である、等々。だからもし神が──実際そうなのだが──必然的および本質的に人間の対象であるならば、この対象の本質においてただ人間自身の本質だけが言い表わされている」(『将来の哲学の根本問題』第七節、松村一人訳岩波文庫から引用)。

 5、さて、これまでほとんど重視されなかったし、我々の側からの説明もなかったことなので、長々と述べたが、初めに帰って、マルクスのこの叙述を細かく見ると、1ヵ所だけ不用意と考えられる所がある。それは83頁14行目で棒砂糖の向こう側の皿に乗せられる鉄片の「重さが前もって規定されている(つまり測られ分かっている)」としたことである。これだと、価値の相対的な形式の単純な形式の例にならないのである。前もって重さの分かっている鉄片は、価値の関係における貨幣ないし値段(価格)のついている物に比すべきものである。だからこそ注(46)に注意した「ein」が生きるのである。ここに定冠詞「das」を使うと、あらかじめ重量関係を表現するものとして知られているものがあって、「その関係に」ということになる。しかし、ここを「ein」にすると、その関係が、この関係において初めて、重量関係という性質を持った、そういう性質の前面に出た関係として定立されるという事態が如実に表現されるのである。だから、鉄の重さが分かっているとすると、鉄は初めから重量の面で見られていることになり、この関係によって初めて、ここでのみ、重さの現象形態になるという面が死んでしまうのである。

 6、ともかく、我々の説に賛成するか否かは読者に任せよう。しかし、①マルクスは、ヘーゲルの本質論を受けついでいること、②降旗氏はそれに気付いていないのはもちろんのこと、マルクスの文章さえ誤解していること、③寺沢氏に代表される自称「弁証法的唯物論」はヘーゲル・マルクスの認識論とは根本的に異なること、以上3点ははっきりしている。我々はここで、レーニンが、ヘーゲル論理学の全体をよく研究しなければ、資本論、特にその第一章は分からない、といった言葉を想起して、この注を終えよう。

関連項目

武谷三段階論



認識、das Erkennen

2011年12月08日 | ナ行
  参考

 01、知られている事は、一般に、知られているからと言って[それだけで]認識されている事にはならない。(精神現象学28頁、大論理学第1巻11頁)

 感想・或る事柄を「知る」のと「認識する」のとは別の事であるという有名な言葉。

 02、〔ここで数学との対比で哲学的真理に触れると〕哲学的認識の場合でも〔たしかに〕定存在の生成〔認識の過程〕と本質の生成即ち事柄の内的本性の生成〔存在の過程〕とは別のものである。

 しかし、第一に、哲学的認識は両過程を含んでいるが、数学的認識は認識〔主観〕内での定存在の生成、すなわち認識〔主観〕内での事柄の本性の存在の生成しか表わしていない。

 第二に、哲学的認識はこれらの二つの特殊な運動を統一している。つまり、〔そこでは〕内での発生、あるいは実体の生成は外への移行、定存在への移行、他者に対して存在することと切り離されておらず、逆に、定存在の生成は本質の中へと自分を取り戻しゆくことである。だから、そこでの運動は全体的なものの二重の過程であり生成であって、どちらも他方を同時に定立し、それ故どちらも両過程を二つの見方として身につけているのである。両者が共に自己を解消し全体の契機となることによって、一緒になって全体を作りあげているのである。

 感想・ここはきわめて大切であるが、これまで誰によってもその現実的内容が理解されなかった。拙稿「悟性的認識論と理性的認識論」が初めてこれを解明した。それを前提して更に先の問題をいくつか考えてみる。

 第1の問題は、哲学的認識でも認識の過程は存在の過程と異なっているという、このパラグラフのはじめの方の指摘である。この意味は、おそらく、研究の順序と叙述の順序との違いということであり、下向法と上向法の違いということであろう。

 第2の問題は、哲学的認識では両方の過程が互いに他を定立しあうと言われていることである。存在の過程が認識の過程を定立するということはすぐ分るが(反映論だから)、逆に認識が存在を定立するとはどういうことだろうか。この意味は、おそらく、哲学的実践(人類解放運動)は哲学的認識に導かれなければならないということであろう。このように考えてくると、拙稿「理論と実践の統一」の中で明らかにした「自然史の第二期の後半におけるその統一」が、ここで言われている哲学的真理における両過程の関係に一致していることが分るであろう。(拙訳「精神現象学」103-4頁)

 03、漸近とは元々それだけでは何も語らず、何も理解させないカテゴリーである。(大論理学第1巻274頁)

 感想・「相対的真理は積み重ねられて絶対的真理に近づいてゆく」という理解では何も分かった事にならないのは、このためでしょう。06及び「漸次性」の項を参照。

 04、生命が理念の概念だとすれば、認識は理念の判断である。(大論理学第2巻429頁)

 感想・では、「理念の推理」は何でしょうか。

 05、認識と単なる知覚や表象との違いは、認識はその内容に概念という形式一般を分与するという事である。(大論理学第2巻465頁)

 06、認識を「真理への漸近」と見るのはこの中途半端さである。(法の哲学36頁)

 07、それらの原則の哲学的認識は理屈屋」目的や根拠や効用からは出てこないし、ましてや心情や愛や恍惚からは出てこない。ただ概念からのみ現れ出ることが出来る。(法の哲学第272節への注釈)

 08、真理を認識する3つの形式──経験、反省(情念の諸関係)、思考(小論理学第24節への付録3)

 09、哲学は認識であり、この認識によって初めて神の似姿であるという人間の根源的な使命が実現される。(小論理学第24節への付録3)

 10、認識と言われている事は、或る対象をその規定された内容において知ることである。(小論理学第45節)

 11、ここで認識について言うならば、それは目の前にある対象をその区別において取り上げる事から始まる。例えば、自然の考察では素材、力、類、等々を区別し、それらを孤立させて、それだけとして凝視するのである。(小論理学第80節への付録)

 12、より完全な物からより不完全なものへと進む道は一層有利である。なぜなら、その時には[観察者は]完成された有機体を型[基準]として目の前に持っているからである。そして、この表象の前に現れている像[基準]があれば、不具な有機体を理解することが出来るからである。例えば何の働きもしていない器官はより高い有機体の中で初めて明晰になり、それがどんな位置を占めているかが認識される。(自然哲学249節)

 感想・14を参照。

 13、知るという事は対象を自分の意識の前に持って来てそれをしっかりと意識に刻み込むことである。信仰もそうである。認識するというのはそれとは違って、直接的なものである教会の権威とか感情の権威とかから独立に、知の内容や信仰の内容の根拠と必然性を見抜く事である。そして更にその内容を一層詳しい規定の中で展開することである。(歴史における理性47頁)

 14、人間の解剖はサルの解剖の鍵である。下位の種の動物の中にある高等なものへの暗示は、その高等なもの自身が知られてからでなければ理解できない。(マルエン全集第13巻636頁)

 感想・11を参照。ヘーゲルの有名な「ミネルバのフクロウは夕暮れになってから飛び立つ」という言葉は、結果から以前の事が分かると言う事です。

 15、動物も又認識するが、それは決して至上の仕方でではない。……犬は自分の主人を神として認識するが、その際自分の主人がひどいヤクザであっても好いのである。(マルエン全集第20巻79頁)

 16、ヘーゲルが生命から性交(繁殖)を媒介として認識に移行する時、そこには、ひとたび有機的生命が与えられたならばそれは幾世代をも経る発展を通じて思考する存在という類にまで発展して行かざるを得ないという進化論が、萌芽としてではあれ、横たわっている。(マルエン全集第20巻566頁)

 17、「我々は有限なものしか認識することは出来ない、云々」(ネーゲリの言葉)。この事は、たまたま有限な対象しか我々の認識領域に存在していない場合だけは全く正当である。だが、この命題も補足を必要とする。即ち、「本来我々は無限者しか認識することが出来ない」という補足を。

 事実、真の認識、余すところの無い認識というものはすべて、思考において我々が個別的なものを、その個別性から特殊性へ、更に普遍性へと高めると言う点にあるからである。つまり、有限者の中に無限者を、一時的なものの中に永遠的なものを発見し確立することが認識なのである。(マルエン全集第20巻501頁)

 18、認識は人間による自然の反映である.しかしそれは単純な、直接的な、全一的な反映ではなくて、一連の抽象の過程であり、諸概念、諸法則などの定式化,形成の過程であり、そしてこれらの概念、法則など(思考、科学=「論理的理念」)こそは,永久に運動し発展している自然の普遍的な合法則性を条件的、近似的に把握するものである。

 ここには実際に客観的に3つの項がある。①自然、②人間の認識=人間の脳髄(同じ自然の最高の産物としての)、及び③人間の認識における自然の反映の形式、である。この形式がもろもろの概念、法則、カテゴリーなどである。

 人間は、自然を全体として完全に、すなわち自然の「直接的な総体性」を把握する=反映する=模写することはできない。人間は、抽象、概念、法則、科学的な世界像、等々を作りながら,永久にそれに接近していくことができるだけである。(レーニン邦訳全集第38巻(哲学ノート)152-3頁)

 感想・これがレーニンの「三項説」と言われているものです。

 19、生命は脳髄を生む。人間の脳髄のうちに自然が反映される。人間は、これらの反映の正しさを自己の実践と技術のうちで検証し適用しながら、客観的真理に到達する。(レーニン邦訳全集第38巻(哲学ノート)170頁)

人間と動物

2011年12月07日 | ナ行
  参考

 01、反人間的なもの、動物的なものとは、感情の中に留まり、感情だけでしか自分を伝えられないことである。(精神現象学56頁)

 02、動物は衝動を持っているが意志を持っていないので衝動に従属することになる。人間は完全に無規定なものだから衝動を超えており、衝動を規定し定立することが出来る。(法の哲学11節への付録)

 03、動物ではその欲求は無制限ではなく、又その欲求を満たす手段と方法も無制限ではない[種によって決まっている。せいぜい変種がある程度で根本的に新し欲求や新しい満足方法は出てこない〕。人間もその点で[環境や自分の種に〕依存してはいるが同時にその依存を超えている[無制限である]。それが人間の普遍性である。これは先ずは欲求やその満足手段を多様化することで、次にその欲求や手段を細分化して特殊で抽象的な欲求にすることで行われる。(法の哲学190節)

 04、動物は「私」(自我)と言う事が出来ない。人間だけが思考するが故に「私」(自我)と言うのである。(小論理学第24節への付録1)

 05、動物は自分の表象を観念的なものとして持つことはしないので、それを現実的なものとして持つこともしない[動物は自分の表象を自分で制御できない〕。従って動物には内的自立性が欠けている。

 動物も生き物だから自分の運動の源泉を自己自身の中に持っている。外からの刺激があっても自己内に既にそれに対応する刺激がないならば動かない[非有機体は他からの刺激でしか運動せず、他からの刺激があれば運動する〕。

 しかし、動物は自分を二分することをしない。動物では衝動とその衝動の満足との間に何物も入らない。動物は意志がないから自分で制止するということを知らない。動物の運動は内なるもの〔衝動〕から始まり、それは内在的に完遂される[外から制止されない限りは止まらない〕。

 人間はその運動が自己内から始まるから自立的なのではない[これだけなら動物と同じである]。人間は自分の運動を自分で制止することが出来るし、かくして直接性と自然性を断ち切るから自立的なのである。(歴史における理性57頁)

 06、人間は差し迫る衝動の力と衝動の満足との間に観念を差し挟む。動物ではこの両者は一致している。動物はこの結びつきを自分では中断できない。(歴史における理性57頁)

 感想・05と06は同じ事です。

 07、人間が動物から区別されるのは思考によるだけではない。むしろ人間の全存在[人間の在り方全て]が動物と人間の区別である。たしかに思考しない者は人間ではない。しかし、それは思考が人間である事の原因だからではなくて、思考が人間存在の必然的な帰結であり特性だからにすぎない。(フォイエルバッハ「将来の哲学」54節)

 08、動物は自己の生命活動と一体となっている。動物は自分の活動を自分から区別しない。動物は生命活動そのものである。人間は生命活動自身を自己の意欲と意識の対象とする。人間は意識的な生命活動を持っているのである。(マルエン全集補巻1、516頁)

 09、確かに動物もまた生産する。ハチやビーバーやアリなどのように、動物は巣を作る。しかし、動物はただ自分自身や自分の子供に直接必要なものしか生産しない。

 動物は一面的に生産する。しかし人間は普遍的に生産する。動物は身体的な直接の欲求に支配されて生産するが、人間は直接的な欲求から自由に生産する。しかもそういう自由な生産こそが真の生産である。

 動物は自分自身しか生産しない。しかし、人間は全自然を再生産する。動物の生産物は直接その身体に帰属するが、人間はその生産物と自由に向かい合う。

 動物は自己の種族の尺度と欲求に従ってしか生産しないが、人間はそれぞれの尺度に従って生産出来る。どこでも対象に内属する尺度をあてがって生産出来る。従って人間は美の諸法則に従って生産することもできる。(マルエン全集補巻1、517頁)

 10、人間は、意識によって、宗教によって、そのほか任意のものによって動物から区別される。しかし、人間自身は自分の生活手段を生産し始めるや否や自分を動物から区別し始めるのである。(マルエン全集第3巻21頁)

 11、要するに、動物は外なる自然を利用するだけであり、単にそこにいるという事だけによって外的自然に変化をもたらすだけなのだが、人間は自分の方が変化することで自然を自己の目的に役立て、自然を支配するのである。(マルエン全集第20巻452頁)

 感想・これは皆さんが誤訳し、誤解していますので、原文を掲げておきます。
Kurz, das Tier benutzt die äussere Natur bloss und bringt Änderungen in ihr einfach durch seine Anwesenheit zustande; der Mensch macht sie durch seine Änderungen seinen Zwecken dienstbar, beherrscht sie.
 下線を引いた「人間自身の諸変化を通して」をこのように訳して、それが「道具を改良し、社会を改革することで」という意味に理解することです。

 12、動物の正常なあり方はその動物と同時に与えられる諸関係の中に、即ち動物が生きかつ適合している諸関係の中に与えられている。人間の正常なあり方は人間が狭義の動物から分化して以来、未だに一度もあった試しがない。それはその後の歴史的発展によって初めて作り出さなければならないものである。

 人間は単なる動物的状態から抜け出ることのできる唯一の動物である。人間の正常な状態とはその意識に適合した状態であり、人間自身が作り出さなければならないものである。(マルエン全集第20巻466頁)

 13、植物や動物は人間と違って外的環境を自己の欲求に適合させることがない。反対に自己の体制を環境に適合させる。従って環境の一切の本質的な変化は動植物の「組織の変化」と結びつく。

 人間は発達した心理のお蔭でこの点で特別な立場に立っている。その心理は進歩の最も重要な要因であり、「組織を変えることなく、行動を変えることで適合を可能にする」ものである。この「行動の変化」の能力を端緒的な形では高等動物にも見るが、そこでも全体として著しい役割は果たしていない。(デボーリン著笹川訳「弁証法と自然科学」白楊社242頁)

 感想・「身体組織を変えない」というところまでは正しいでしょうが、変化を「行動」だけと見たのは狭すぎました。11が正しく理解できなかったからでしょう。

 14、フォイエルバッハのいう「類的存在」は一義的ではないが、(1)他の動物たちが個々の仲間動物を認識することしかできないのに対して、人間は、事物とりわけ人間を類として対象的に意識する動物であると動物であるということ、(2)人間は思考つまり内なる対話において、個別的な汝との対話ではなく、汝一般、類としての汝との内的対話をおこなうことにおいて、単なる一私人ではなく、汝一般=類としての汝を内に宿す存在であるということ、(3)しかも単なる意識主体としての在り方にとどまらず、自己の本質を「人間と人間との共同態(相互作用)のうちに、他の人間との統一のうちにもつ」存在であること、このような意味を含んでいる。

 特に記しておきたいのは、「個々の人間は単独には、道徳的存在としても思惟的存在としても、人間の本質を自己のうちにもたない。人間の本質はもっばらゲマインシャフトに存する」というフォイエルバッハの人間了解である。フォイエルバッハにとっては、社会は人間の外なる第二の自然ではなく、内なる第一の自然(本性)であった。(広松渉「唯物史観の原像」三一新書、24~5頁)

人間と自然

2011年12月05日 | ナ行
  参考

 01、自然はヌース(理性)を意識しない。人間にして初めて自己を二重化し、普遍が普遍に相対するようにする。(小論理学第24節への付録1)

 02、自然が人間に対してどんあ力(寒さ、猛獣、大水、火災など)を繰り出し差し向けようと、人間はそれらに対する手段を知っている。しかも人間はその手段を自然から取ってくる。自然を以て自然に対抗する。そして、この人間理性の狡賢さはその真なる事を確証し、自分はその背後に身を潜めている。(自然哲学第245節への付録)

 03、自然は人間の非有機的な身体である。ここで自然とは人間の体ではないところの自然の事である。人間が自然によって生きるという事は、自然は人間が死なないためにはそれと関わらなければならない人間の身体である、という事である。

 人間の身体的及び精神的な生活が自然と関係しているということは、自然が自己自身と関係しているというだけの意味しか持たない。なぜなら人間は自然の一部だからである。(マルエン全集補巻1、516頁)

 04、産業こそが自然及び自然科学と人間との歴史的関係の本当の姿である。(マルエン全集補巻1、543頁)

 05、あの評判の高い人間と自然との統一は産業の中に以前から成立しており、しかもそれぞれの時代に産業の発展に応じてそれぞれ別々に成立してきたという事、又全く同様に、人間と自然との闘争も以前から成立しており、この闘争に対応する土台の上に乗って生産力が発展してきたのである。(マルエン全集第3巻43頁)

 06、我々人間は肉と血と脳を持って自然に属し、自然の真っただ中に立っているのだという事、そして我々が自然を完全に支配しうるのは、我々が他の全ての被造物より優れた点として自然の法則を認識し、それを正しく適用することが出来るからであるという事。(マルエン全集第20巻453頁)

 07、人間は自然の脳髄であり、自然は人間の非有機的な体躯である。(梯明秀「社会の起源」青木文庫11頁)

 08、人間が自己を自然の本質として自覚して、全自然に関係するということである。その時、人間と自然とは同一の全自然の二つの契機となり、人間が自然を改造するということは、自然の本質としての人間が自然の現存在としての人間以外の自然を、自然の本質すなわち人間の本質に合致したように作り替えるということになる。人間は自然から生まれた。それはあくまでも自然を作り替えて、人間を含めた全自然を自然の本質に合った形にするためである。これが理念であり、こう捉えれば「理念は過程である」ということは自明である。(牧野紀之「労働と社会」53-4頁)

人間、der Mensch

2011年12月04日 | ナ行
  参考

 01、胎児は確かに潜在的には人間であるが、顕在的には人間ではない。理性の形成された時に初めてそれは顕在的な人間に成る。理性を形成するとは、理性の潜在的だが本来の姿へと作り上げることである。その時、それが現実的な〔本当の〕理性である。(精神現象学22頁)

 02、人間がそれを以て動物から自分を区別するものは思考である。(大論理学第1巻10頁)

 感想・知性を人間の本質と見る観念論の考え。

 03、人間の規定は「思考する理性」である。(大論理学第1巻110頁)

 04、人間だけが全てのものを、自分の生命すらも捨てる〔捨象する〕ことが出来る。(法の哲学第5節への付録)

 05、人間の持ちうる最高のもの、自分の本質の自覚(グ全集第8巻34頁)

 06、人間が思考によって動物から区別されるということが正しいなら……(小論理学第2節)

 07、人間がその自然存在から抜け出るということは、自然存在からの人間の区別〔分割〕であり、自己意識を持った人間が外界から別れるということである。(小論理学第24節への付録3)

 08、人間は精神である限りで自然存在ではない。(小論理学第24節への付録3)

 09、人間の自然性は更に、自然のままの人間は個別そのものであるという規定を持っている。なぜなら、自然は一般に個別化の絆の中に〔囚われて〕あるからである。(小論理学第24節への付録3)

 10、人間の努力は一般に、世界を認識し我が物とし支配する事に向かっている。それは結局は世界の実在性を押しつぶし、観念化しなければ止まない。(小論理学第42節への付録1)

 11、人間自体とは子どものことである。(小論理学第124節への付録)

 感想・発生した時の姿こそその物の「普遍」であり、「概念」である、という考え。ヘーゲルの大発見です。

 12、自分が絶対的な理念によって端的に規定されていると知ることが、一般に、人間の最高の自立性である。(小論理学第158節への付録)

 13、人間にして初めて感覚の個別性を越えて、観念の普遍性へ、自己自身を知ることへ、自己の主体性へ、自己の自我を捉えることへと高まるのである。(精神哲学第381節への付録)

 14、人間はそれを自覚していない時でも思考している。(歴史における理性43頁)

 15、人間は自分の実在的な姿を又観念的な姿としても持たなければ済まないものである。(歴史における理性57頁)

 16、人間は自分を規定しているものを知っているという事の内に、人間の自立性があるのである。(歴史における理性57頁)

 17、人間は自我であると考える事が、人間の本性の根底を為している。(歴史における理性57頁)

 18、人間は類的な存在である。それは単に人間が実践的にも理論的にも自分自身の類も他の類も自己の対象とするからだけではない。それは又、そしてこれは同じことの別の表現にすぎないのだが、人間が自分自身に対して現存する生きた類として振舞い、普遍的な存在として振舞い、従って又、自由な存在として振舞うからである。(マルエン全集補巻1、515頁)

 19、生産生活は類的な生活である。それは生活を生みだす生活である。どのような活動で生活をするかという事の中にその種の全性格が、種としての性格が現れている。そして、自由で意識的な活動が人間の類としての性格なのである。(マルエン全集補巻1、516頁)

 20、人間は直接的には自然存在である。それは、自然存在として、又生きている自然存在として、一方では自然力を持ち、生命力を持っている。つまり能動的な存在である。これらの力は人間の中で素質及び能力として、衝動として現存している。他方では、人間は対象的で感性的で肉体を持った自然存在として受動的な存在、つまり条件づけられ制限された存在である。それはちょうど動物や植物と同じである。つまり自分の衝動の対象が自分の外にあり、自分に依存しない対象としてあるのだが、これらの対象は自分の欲求の対象であり、自分の本質に属する力を発揮し確証するために無くてはならない本質的な対象なのである。……

 しかし、人間は単に自然存在であるだけではない。それはまた、人間的な自然存在なのである。即ち、それは自己自身に対面している存在であり、それゆえ類的存在なのである。そして、人間はその存在においてもその理解においても類的な存在として自己を確認し活動しなければならない。

 かくして、直接的に与えられたままの自然対象が人間的な対象でないのと同様に、直接的に対象として与えられたままの人間の感覚器官も人間的感性でもなければ人間的対象でもない。客体的としての自然も主体としての自然もそのままでは人間の本質に合致していないのである。(マルエン全集補巻1、578, 579頁)

 21、確かに政治的な解放は一大進歩ではある。なるほどそれは人間の解放一般の最後の形式ではないが、これまでの秩序の内部でのその最後の形式ではある。(マルエン全集第1巻356頁)

 22、実際の個人が抽象的な国家公民を自分の中へ取り返し、個人としてのその経験的な生活の中で、個人の労働の中で、又個人的な関係の中で類的存在になった時、その時初めて人間は自分の固有の力を社会的な力として認識しかつ組織するのであり、従ってその社会的な力をもはや政治的な力として自分から分離しなくなった時、その時初めて人間の解放は成就されるのである。(マルエン全集第1巻370頁)

 23、ユダヤ教の中に抽象的に表れている事、理論、芸術、歴史、自己目的としての人間の蔑視といったものは、貨幣人間の実際の意識的な立場であり、その徳性なのである。(マルエン全集第1巻375頁)

 24、人間とは人間の世界のことであり、国家のことであり、社会(Sozietät)の事である。(マルエン全集第1巻378頁)

 25、非批判的な観点から見ると、歴史の結果はむしろ、最も複雑な心理であり、全ての真理の総和である人間が、最後には自分自身を理解するという事である。(マルエン全集第2巻84頁、「神聖家族」第6章)

 26、フォイエルバッハは宗教的本質を人間的的本質に解消する。しかし、人間的本質は個々の人間に内在する抽象物ではない。その現実においては、それは社会的諸関係の総和である。(マルエン全集第3巻6頁、「フォイエルバッハに関するテーゼ」第6)

 感想・これは「人間の現実的な本質」です。原初的本質は「労働」であり、究極的本質は「類的存在」です。この3つの規定を統一的に把握するべきでしょう。32を参照。

 27、人間は意識、宗教、その他の任意のものによって動物から分けられる。しかし、人間自身は自己の生活手段を生産し始めるや否や動物から別れ始める。この一歩は人間の身体的特徴によって条件づけられているのである。人間はその生活手段を生産することによって間接的に自己の物質的な生命自身を生産するのである。(マルエン全集第3巻21頁)

 28、人間が何であるかはその生産と一致する。即ち、人間が何を生産するか、いかに生産するかと一致する。(マルエン全集第3巻21頁)

 29、人間は文字通りの意味でポリス的な動物である。単に群居を好む動物であるのみならず、ただ社会の中でしか個別化できない動物である。(マルエン全集第3巻616頁)

 30、脊椎動物──神経系が最高度に発達を遂げた形態の動物。人間──そこでは自然が自己自身の意識に到達している脊椎動物。(マルエン全集第20巻322頁)

 31、計画的な生産と分配の行われる意識的な社会的生産組織を作り出して初めて、人間は社会関係において他の動物を越えることが出来る。それはちょうど生産すること一般によって人間が生物学的な種のレベルで他の動物を越えたのと同じである。(マルエン全集第20巻322頁)

 32、人間の一般的本質と、各時代において歴史的に修飾された人間の本性(資本論第1巻637頁注63)

 感想・この「一般的本質」が「原初的本質」あるいは「生物学的本質」であり、「各時代において歴史的に修飾された人間の本性」が「人間の現実的な本質」です。

 33、人間を動物から明瞭に区別する指標は、フランクリンの言った通り、「道具を作る」という事である。この特徴は他の動物を分類する場合の主要な指標である身体的形態以上に人間の場合は重視されている。(伊藤嘉昭「人間の起源」紀伊国屋新書9頁)

 感想・人間とサルとの間には「指標」とするに足る程の形態的区別はないのです。

 34、人間の生物学的地位──哺乳綱・霊長目・ヒト科・ヒト族・ホモサピエンス種。(伊藤嘉昭「人間の起源」紀伊国屋新書33頁)

 35、脳髄は生物の脳髄であるのみならず、地殻の脳髄でなければならない。(梯明秀「社会の起源」青木文庫61頁)

ニーチェ(ニヒリズム)

2011年12月02日 | ナ行
  参考

01、「汝の同胞に於てすらもなお汝自身に打ち克つべし。奪いも得ん権利をばおめおめ与えられて甘んずるなかれ」(ツアラトゥーストラ)

 己れに打ち克つと云う事は至難としたものであるが、隣人愛、同情に打ち克つのはなおそれよりも一層困難である、という事実を基礎として考えないとこの金言の深い意味は判りません。

 同胞のうちに於て己れを克服するという構造ですが、この構造の意味をはっきりさせるためには、たとえば、次のように考えて見るとよろしい。すなわち、吾人は至る所に吾人自身の姿を見る、水面を眺めるとそこに吾人自身の姿がのぞいているように、他人を見れば他人のうちにも自分自身の姿が見える、それが吾人をして他人に同情せしめるのです。

 ところが、この「他人への同情」という奴は、普通の考え方によると、何だか道徳的に大変好いことのように思われているが(隣人愛とかなんとか言って)、ニーチェは、そういう考え方を改めさせようというのです。他人への同情という奴は、結局自分の弱い気持を他人のうちに於てだらしなく尊重することに過ぎない。換言すれば現在のままの小自己の肯定です。

 自分自身の中にある小自己は、誰しも多少恥ずかしがって、利己主義、自己満足等に陥るのを恐れて、そう大っぴらには肯定しない、否むしろ山中の賊を破るは易く心中の賊を破るは難(かた)しとか何とか言って、これに打ち克つのをもって古来どこでもこれを一つの英雄的行為と見なしている。

 ところが隣人の中に映ずる自己となると、一方に「他人は愛しなくてはならぬ」という強大な迷信(ニーチェは実際それを迷信と呼んでいる)があるものだから、そこらの問題が色々一緒になって、なかなかこれを克服しようとしない。殊に、隣人愛の美名の下にかくれて、自己自身の中途半端な姿を他人のうちに於てそのまま肯定しようという反進歩的な意識も充分に手伝う。

 「汝の同胞に於てすらもなお汝自身に打ち克つべし」というのは、つまり意識の進化を阻むつまらん同情は潔く突破しろということです。「引ったくり取ることの出来る権利をば、わざわざ有り難そうにいただくような恰好をしなくてもいい」という次の文を云わんがための準備です。強者は強者らしく自然の摂理に従って傲慢に振る舞え、それが世の中のためであり、意識の進化を促進する所以である。人の気持ちを尊重しては世の中のためにならん、ということ
です。(関口存男『ドイツ語学講話』 212~3 頁)

 02、「而して汝等の受くるや恰も盗むに似たり、汝等小道徳人よ。さわさりながらたとえ悪人社会に於ても男児の意気は正にかくあるべし。『強盗し能わざる際にのみ窃盗せよ』」(ツアラトゥーストラ)

 これはニーチェの立場から見たいわゆる「道徳家」「善人」なるものへの批評です。

 どうせ弱肉強食と決まっている人間界にあって、人々に愛されたり、人の気持を尊重したりしていなくてはならないという中途半端な役目を授けられたいわゆる「善人」は、ニーチェ式に考えれば、つまり奪いたくて奪いたくてしようのないものを思い切って奪うことの出来ない、哀れなる「意識形態」なのです。もっとほがらかになって、強者なら強者らしく実力を行使せよ、弱者なら弱者らしく滅びてしまえ、というわけです。

 「汝等の受くるや恰も盗むに似たり」というのは、奪取したいものを思い切って奪取しないから、何か自分に好いお鉢が廻って来るというと、一寸こう、それだけの分け前に与(あずか)るだけの強者ではないのだが、相手がそれを知らずに自分にそんな好いお鉢を廻してきたのだから、知らないのを幸いにコソッと頂いておくといったような形式になる。

 それもそのはずです、すべてを実力行使によって正しく獲得しなければならない堂々たる殺気だった雄々しい人生場裡に於て、侵略行為なしに(単なる徳望と他人の迷信とによって)何物かが自分の手に入ってきたりなんぞしちゃあ、まあ体(てい)の好い泥棒としか言えますまい。

 善人というのはつまりみんな〔の〕意識形態の未開状態を好いことにして、自己の力を証明せずして権利を享(う)けていく過渡現象であって、超人奮起の機縁を提供しているにすぎないというわけです。

 次の「さわさりながらたとえ悪人社会に於ても男児の意気は正にかくあるべし。『強盗し能わざる際にのみ窃盗せよ』」は、たとえ悪人社会にあってもある種の体面思想というものがあって、強盗できるのに窃盗なんぞした奴は、弱虫として笑われる、ということです。ニーチェはつまり人生競争場裡に於ける強盗略奪の讃美者、窃盗の排撃者です。(関口存男『ドイツ語学講話』 213~4 頁)

 03、ニーチェの永遠回帰は、個々人は苦しい生の中にあっていかに自己の生を肯定しうるかという思想です。永遠回帰の思想をひとことで言うとこんな感じになります。

 どんな人間にも一度や二度は「ああすごく嬉しい。生きていてよかった」と思う場面がどこかにあるはずだ。その瞬間を彼は肯定できるはずだ。もし、そういう瞬間を人間が持ったとしたら、それ以外の生の時間がどれほど不遇なものであっても、世界と自分の生に対して「永遠回帰せよ」と言えるはずだ、永遠回帰を望めるはずだというのです。これが永遠回帰の思想の概要です。

 ニーチェの自己肯定できる瞬間とは、単に嬉しいとき、楽しいときというのではなく、じつは超越的な瞬間を指します。その「悦楽」をうるために、自分の持つ生のすぺてを引き換えにしてよいと思えるような時間を体験したなら、自分の生が全体としてどれほど不遇なものであっても、人間は時間の永遠回帰を望むだろう。永遠回帰を肯定できることは、一切が因果によって結びついている以上、生の全体を肯定できることだというのです。(竹田青嗣「自分を生きるための思想入門」芸文社247頁)

 04、もとよりニーチェは、2500年に及ぶプラトン以来の形而上学の歴史が意味を失ったことをもってニヒリズムとしているのであって、現代の短期的な状況論が問題のすべてではない。だが短期的な状況論がこれまでつねにニーチェの本質的な問いをはぐらかしてきたのも事実であって、数度の戦争や福祉実現の夢などによって、久しくニヒリズムの自覚が曖昧にされ、糊塗されていたのが、ここへ来てようやくはっきりしたのだと言いかえてもいい。

「末人」の時代

 考えてもみて欲しい。今日の世界に私たちの達成するいかなる理想や目標が存在するであろうか。万人に共通するいかなる生の意味が存在するであろうか。福祉充実であれ、産業維持であれ、個人も国家も、よりよき生活を目標にする以外に、生活の目標を立てようがないのである。よりよき生活とは、少しでも便利に豊かに暮すための単なる条件づくりにほかならず、われわれはなにかのために生きるのではなく、結局、生きるために生きる以外に生の目標を立てようがない。ということは、目標は存在しないということにほかならず、したがってこれほどひどいニヒリズムはないともいえる。人間はだんだん動物に近づき、文化状況はますます子供っぽくなっていく。(西尾幹二「ニーチェとの対話」講談社現代新書90-1頁)

 05、ニヒリズムという表現そのものは前からあった。ドイツ観念論時代の哲学者ヤコービが使っているし、ツルゲーネフの小説『父と子』でもロシアのアナーキストを形容するのに使われている。しかし、真に哲学的な意味内容を与えたのはニーチェである。

 彼の定義によればニヒリズムとは、「従来の最高の価値がその価値を失った」状態である。だが、よく考えてみれば、もともとプラトンでもキリスト教でも、ありもしない空虚な価値をルサンチマンの働きによって捏造していたわけである。「ある特定の世界解釈、つまりキリスト教的道徳的解釈のうちにニヒリズムが潜んでいる」(遺稿)。してみると、ヨーロッパの歴史は元来が虚無の上に打ち立てられていたことになる。つまり、潜在的には最初の犠牲の日から、そして人間が概念と理想主義によって自然を支配し、自己自身の自然な欲求を抑圧した最初の日から、密かにニヒリズムに捉えこまれていたのである。

 だが、近代の啓蒙の結果、そうしたプラトン・キリスト教的価値の体系の実態がはっきりしてくる。それは、まさにプラトン・キリスト教的な理性に依拠する学問によってである。プラトニズム的な犠性の延長上に立つ近代の学問が、自らの基盤となっている諸価値の実態を暴露する。いわば理性の自己崩壊である。「現在の自然科学のもつニヒリズムの帰結。その活動からついに自己破壊が生じる」(遺稿)。したがってニヒリズムは、結果でもあるが、ヨーロッパの歴史の内在的原理でもあり、ヨーロッパの歴史は潜在的なニヒリズムの顕在化の歴史となる。

 ニヒリズムの現象形態はデカダンスである。なによりも、ヴァーグナーの芸術こそはその最も明白な兆侯である。ニーチェ自身が「私もまたデカダンスである」と言っている。だが、このデカダンスはまた新たな歴史の開始を告げるものでもある。すべてが美に転化する契機がそこにはある。(三島憲一「ニーチェ」岩波新書174-5頁)


内面性、die Innerlichkeit、内なるもの、das Innnere

2011年11月22日 | ナ行
  参考

 01、精神の自己内での二分(小論理学第24節への付録3)

 02、自然の中にはそのような二分は現れない。自然物は悪をなさない。(小論理学第24節への付録3)

 03、かくして、われわれはいまやan sich = (nur ein Inneres) = fuer uns (nur ein Aeusseres) = Nachdenkenという等式を獲得する。(許萬元『認識論としての弁証法』青木書店第3編第4章)

  関連文献

「子供は正直」(『生活のなかの哲学』に所収)