序文を書いた永井潜(1876-1957)は長谷川櫻南経営の浚明館で神童と呼ばれた人物で、後年(大正4年)東京帝大医学部生理学教室教授になった。高島平三郎との出会いもこの漢学塾で高島の勧めで、漢学塾を止め、広島県師範学校付属小学校へ。永井は高島を恩人として終生慕い、高島の長男文雄は東京高等師範学校付属中学時代には永井家に下宿させてもらっていた。当時永井家には潜の弟河相達夫(戦後外務次官)が居て、高島文雄(国際弁護士)は永井の長女ともども兄弟のように育てられたようだ。
本書は若くして亡くなった哲学の学徒木村俊臣の遺著として出版されたもの。大正13年、高島平三郎がかつて編集長を務めた右文館から出版の予定だったが、関東大震災で中止に。急きょ文化生活研究会より出版された。
科学的思考のできる人物の哲学論といえば・・・・・、当時日本では永井の右に出る人はいなかっただろ。
むかし空間論に関していろいろ文献を漁っていたが、図書館にあるといえば、レトリック全開の瞑想集ともいうべき京都学派の哲学書や中味のない建築家のものくらいで日本語文献にはまともに使えるものがなく往生したものだ。
木村はフッサールとかハイディッガーといった現象学寄りの哲学を志向していたのだろうか、後日、暇を見つけて精読してみたい。
本書は若くして亡くなった哲学の学徒木村俊臣の遺著として出版されたもの。大正13年、高島平三郎がかつて編集長を務めた右文館から出版の予定だったが、関東大震災で中止に。急きょ文化生活研究会より出版された。
科学的思考のできる人物の哲学論といえば・・・・・、当時日本では永井の右に出る人はいなかっただろ。
むかし空間論に関していろいろ文献を漁っていたが、図書館にあるといえば、レトリック全開の瞑想集ともいうべき京都学派の哲学書や中味のない建築家のものくらいで日本語文献にはまともに使えるものがなく往生したものだ。
木村はフッサールとかハイディッガーといった現象学寄りの哲学を志向していたのだろうか、後日、暇を見つけて精読してみたい。