9月例会は9月27日開催 場所・開催時刻は8月例会に準じる。
話題は来年度市民雑誌投稿予定論攷を念頭に宮原直倁(なおゆき、1702~1776年、『備陽六郡志』内篇に限っていえば、藩領を統計数値的に把握可能な形で過不足なく再構成した宝永8年村明細帳集成(宮内庁書陵部蔵『備後郡村誌』の類本)。研究篇でもある外篇は当時の歴史考証の在り方を反映して『西備名区』に負けず劣らず概ね近世文学風に虚実混交)及び『福山藩風俗問状答書』同様に、外形的には『大明一統志』の体裁や儒教的規範意識を注入しつつ、藩領の地歷的全体像をコンパクトにスケッチすることを心掛けた菅茶山(1748-1827、時代的知の限界を内包した作品でもある『福山志料』の歴史考証の在り方について言及予定)らの古地誌研究らの特徴やその学知的水準について引き続き検討していく。なお、9月例会は本年3月例会:『西備名区』(西備図絵を含む、文化元年~5年、1804~1808)に見る馬屋原重帯(1762-1836)の地理事蹟研究及び古学研究の在り方(学知的傾向とその水準)について(菅茶山『福山志料』・弁説の中身に関しても必要に応じて言及)の続編という位置づけのもので、そこを基点とする。これまでも部分的には触れてきた事柄だが①長州藩の「地下上申」・「防長風土注進案」、藝州藩の『芸藩通志』及びその元資料となった各種国郡志下調べ帳、②福山藩士宮原直倁(なおゆき、1702~1776年)が元文末年(1740年頃)より30余年に亘り記した『備陽六郡志』、福山藩の『備後郡村誌』などを射程に入れたGeosophy(インドネシア・フローレス島民の生活環境をデザインしたり、生活世界の在り方を特徴付けている時代的知や社会的知・・・無論、問題は社会人類学領域ではなく、近世国学の流布領域)面からの解説を試みていく。
関連記事➊:松永史談会7月例会村明細帳類の構築主義的吟味
関連記事➋・・・原論的部分(昨今は、個別具体例の例示中心で、自らのよって立つ場の認識論的な地平)の論理化に関しては無自覚な研究者が多い訳だが、そういう中でそれへ向けて一歩踏み出しつつある(未確認)書物史料学者若尾政希さんの論攷
❸馬屋原重帯『西備名区』については松永史談会令和6年3月例会において論評済み。 【参考文献】
和田英松(1865-1937)『芸備の学者』、東京明治書院、1929。
伊藤梅宇(1683-1745)『見聞談叢』、岩波文庫、1996。1738年 梅宇56歳頃に執筆か。この梅宇の名前は『備陽六郡志』にも何カ所か登場。宮原の古学のセンスは新任の藩儒伊藤梅宇(1718年に来福)らによって磨かれたのかも・・・。『見聞談叢』294話「楠公碑」・・明から亡命した朱舜水(1600-1682)を寛文(1665)5年水戸藩主徳川光圀が自藩に招聘、大日本史編纂や水戸学に影響を与えたとされる。梅宇はこの元禄4(1691)年に建立された本碑の碑文を詳細に紹介し、その撰文が舜水によったと。尊王思想家菅茶山が後年この碑文を漢詩に詠んでいる。なお、伊藤梅宇の墓誌は『福山志料』巻⒒所収。梅宇の兄:伊藤東涯『制度通』は日中の比較政治論書。
浜本鶴賓(1883-1950)『福山藩の文人誌』、児島書店、1988。本書は昭和7-9年度の福山学生会雑誌掲載論攷「弘道館と誠之館」などをまとめて一書としたもの。伊藤梅宇・宮原直倁らの概略を記す。
並河誠所(1668-1738)『五畿内志』1736。並河は伊藤梅宇の父・伊藤仁斎門下。『五畿内志』に関しては白井哲哉『日本地誌編纂史研究』第三章が言及(関連史料の紹介分析に終始)。なお、井上智勝や馬部隆弘らによると、古代中国の皇帝の日本での等価物として古代の天皇を措定し、「法」と「制」とが混乱する契機となった保元の乱(1156-1159)以前の古代日本における「制」の中で機能していた式内社の祭祀こそが当時実現されていた我が国の理想社会を復活させるに当たっての必要条件として捉え、並河は研究上の重要課題として式内社の特定作業を推進。こうした動きの中での副産物として彼自身の手による式内社を巡る偽史言説が大量生産された。宮原『備陽六郡志』には式内社に関する言及は不在だが、分郡下岩成村庄屋久五郎家伝来文書の中で、高須杉原氏の「萬暦12(1584)年朝鮮渡海之節船印」(正しくはいわゆる日明貿易船旗)とか山鹿遠忠宛「備後国高洲庄地頭職」補任状写や山鹿孫三郎宛備後国高諸社地頭職補任状写などを発見し、それらを『備陽六郡志』の中で紹介している。
天保10(1839)年「芸備郡要集」(『廿日市町史』史料編Ⅱ、47-103頁) 菅茶山『福山志料』は若き藩主阿部正桓用教科書中の一冊(分類では政治書)であったが、『備陽六郡志』の方は地方書(じかたしょ=地方役人あるいは村役人などによる農民支配のための規範書,総合手引書という性格をもつ文献)としての要件性をどの程度持っているのか、その辺りの吟味が必要(勝矢倫生『福山藩地方書の研究』、清文堂、2015。貴重な成果だが、参考にならず)。
【メモ】菅茶山編『福山藩風俗問状答書』は一見するとよく出来た風俗調査集成だが、ここでは宝永8年村明細帳[この集成版が宮内庁書陵部蔵『備後郡村誌』、これを要領よく再構成したのが宮原『備陽6郡志』内篇)記載の「六郡山田畑一升積」に記載された藩政村の地理的立地環境の差異(例えば芦田郡藤尾村:山9合・田畑1合に対して沼隈郡山波村:山3合・海6合・田畑1合)、沼隈郡柳津村の場合は明和3年村明細帳に山3合、田畑2合、海5合程]などを活用する形での今日の民俗学が注目するような住民の生業に着目した藩領内の風俗を俯瞰したものではない(ならば菅茶山の編集方針は?この点は慎重に検討中)。『芸藩通志』の編者:菅杏坪の場合も芸藩の風俗はなべて同じようなものだという感覚で捉えていた。
関連記事➊:松永史談会7月例会村明細帳類の構築主義的吟味
関連記事➋・・・原論的部分(昨今は、個別具体例の例示中心で、自らのよって立つ場の認識論的な地平)の論理化に関しては無自覚な研究者が多い訳だが、そういう中でそれへ向けて一歩踏み出しつつある(未確認)書物史料学者若尾政希さんの論攷
❸馬屋原重帯『西備名区』については松永史談会令和6年3月例会において論評済み。 【参考文献】
和田英松(1865-1937)『芸備の学者』、東京明治書院、1929。
伊藤梅宇(1683-1745)『見聞談叢』、岩波文庫、1996。1738年 梅宇56歳頃に執筆か。この梅宇の名前は『備陽六郡志』にも何カ所か登場。宮原の古学のセンスは新任の藩儒伊藤梅宇(1718年に来福)らによって磨かれたのかも・・・。『見聞談叢』294話「楠公碑」・・明から亡命した朱舜水(1600-1682)を寛文(1665)5年水戸藩主徳川光圀が自藩に招聘、大日本史編纂や水戸学に影響を与えたとされる。梅宇はこの元禄4(1691)年に建立された本碑の碑文を詳細に紹介し、その撰文が舜水によったと。尊王思想家菅茶山が後年この碑文を漢詩に詠んでいる。なお、伊藤梅宇の墓誌は『福山志料』巻⒒所収。梅宇の兄:伊藤東涯『制度通』は日中の比較政治論書。
浜本鶴賓(1883-1950)『福山藩の文人誌』、児島書店、1988。本書は昭和7-9年度の福山学生会雑誌掲載論攷「弘道館と誠之館」などをまとめて一書としたもの。伊藤梅宇・宮原直倁らの概略を記す。
並河誠所(1668-1738)『五畿内志』1736。並河は伊藤梅宇の父・伊藤仁斎門下。『五畿内志』に関しては白井哲哉『日本地誌編纂史研究』第三章が言及(関連史料の紹介分析に終始)。なお、井上智勝や馬部隆弘らによると、古代中国の皇帝の日本での等価物として古代の天皇を措定し、「法」と「制」とが混乱する契機となった保元の乱(1156-1159)以前の古代日本における「制」の中で機能していた式内社の祭祀こそが当時実現されていた我が国の理想社会を復活させるに当たっての必要条件として捉え、並河は研究上の重要課題として式内社の特定作業を推進。こうした動きの中での副産物として彼自身の手による式内社を巡る偽史言説が大量生産された。宮原『備陽六郡志』には式内社に関する言及は不在だが、分郡下岩成村庄屋久五郎家伝来文書の中で、高須杉原氏の「萬暦12(1584)年朝鮮渡海之節船印」(正しくはいわゆる日明貿易船旗)とか山鹿遠忠宛「備後国高洲庄地頭職」補任状写や山鹿孫三郎宛備後国高諸社地頭職補任状写などを発見し、それらを『備陽六郡志』の中で紹介している。
天保10(1839)年「芸備郡要集」(『廿日市町史』史料編Ⅱ、47-103頁) 菅茶山『福山志料』は若き藩主阿部正桓用教科書中の一冊(分類では政治書)であったが、『備陽六郡志』の方は地方書(じかたしょ=地方役人あるいは村役人などによる農民支配のための規範書,総合手引書という性格をもつ文献)としての要件性をどの程度持っているのか、その辺りの吟味が必要(勝矢倫生『福山藩地方書の研究』、清文堂、2015。貴重な成果だが、参考にならず)。
【メモ】菅茶山編『福山藩風俗問状答書』は一見するとよく出来た風俗調査集成だが、ここでは宝永8年村明細帳[この集成版が宮内庁書陵部蔵『備後郡村誌』、これを要領よく再構成したのが宮原『備陽6郡志』内篇)記載の「六郡山田畑一升積」に記載された藩政村の地理的立地環境の差異(例えば芦田郡藤尾村:山9合・田畑1合に対して沼隈郡山波村:山3合・海6合・田畑1合)、沼隈郡柳津村の場合は明和3年村明細帳に山3合、田畑2合、海5合程]などを活用する形での今日の民俗学が注目するような住民の生業に着目した藩領内の風俗を俯瞰したものではない(ならば菅茶山の編集方針は?この点は慎重に検討中)。『芸藩通志』の編者:菅杏坪の場合も芸藩の風俗はなべて同じようなものだという感覚で捉えていた。
松永史談会8月例会のご案内
開催日時 8月30日→9月06日 午前10-12
場所 蔵2階
台風10号の県内上陸が予想されるため8月例会は1週間後の9月06日(金曜日)に順延。
話題:続『早熟型の文化人武井節庵(1821-1859)のその後』
次年度の市民雑誌投稿を念頭においた話題提供となる。
【メモ】「武井節庵」で検索すれば松永史談会のこれまでの研究成果(公表版)に辿り着ける。
武井節庵に部分的に言及しかつ松永史談会が除外した観点(日本漢文学)については、
①参考資料:合山 林太郎( 慶應義塾大学)「集団形成と古典知の継承を視座とする近代日本漢文学の研究―政治家の作品を中心に―」や幕末・明治期の漢文学の研究(合山 林太郎)・・・。明治期に入ると急速に旧態依然の典型として衰退の一途を辿る日本漢文学であったが、そういう現実にめもくれず合山は武井節案と交流の在った河野鉄兜(時事に触れたり、亡児を悼むなどの内容を持つ、変化に富んだ遊仙詩を制作)・阪谷朗蘆(西洋文明の流入を感じながらも阪谷の官僚としての世俗的営為と近接する風流文事に言及)の漢詩文学の特質にも言及。
②参考資料:管説日本漢文學史略~授業用備忘録~(大東文化大学)
❸河野夢吉・武井節庵(ともに松永に滞在経験のある漢詩人)を含め大沼枕山との交友関係については『枕山詩鈔』が参考になるが、そこからもれた情報については以下の文献(第三部「天保十四年大沼枕山詩稿翻刻」合山林太郎編 下写真書 255-292頁)が若干補ってくれる。