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軽井沢病院から旧軽井沢公民館へ-旧軽井沢公民館の歴史

2022-04-15 00:00:00 | 軽井沢
 旧軽井沢区の公民館が新築されることが決まった。現在の公民館建物の老朽化に伴い、地元住民から建て替えの要請が出始めたのは数年前の2015年頃であったが、それから区民の間での討論と町への申請を経て、町予算で建設費8400万円が承認されたのは2021年4月であった。



旧軽井沢区公民館新設を伝える軽井沢町HP

 その結果、現在の公民館(以下、現公民館)は、新公民館の竣工後に取り壊されることになった。当初着工予定の2021年に、新公民館の建設予定地から医療廃棄物が見つかるといった予想しなかった事態が起き、建設場所の変更を余儀なくされたこともあり、予定から1年ほどの遅れが生じているが、新公民館は2022年6月頃の着工、2023年7月頃の竣工予定であり、現公民館の取り壊しは2023年後半以降になるとされている。

 現公民館の建物の歴史を振り返ると、軽井沢病院として1953(昭和28)年から利用が始まり、その後、1961(昭和36)年には、建物が狭いとの理由で増築されることとなり、総工費624万円で病院診療棟の新築と、従来の診療棟の病棟への改築が行われ、同年5月22日に落成式が執り行われた。増改築された病院棟の利用は、中軽井沢地区に新たに病院棟が建設され、ここに移転する1974年6月まで続く。

 1年後の1975年には、この病院棟は病室など一部を解体し、大ホールなどを増築して、現在の旧軽井沢地区の公民館としての利用が始まった。
 病院としての利用が21年、その後1年のブランクの後47年間は旧軽井沢地区の公民館として、合わせて約70年の長きにわたり活用されてきたこの建物には軽井沢と旧軽井沢の幾多の歴史が刻まれている。
 
 歴史的にすこし遡った時期も加えて見ていくと、現公民館に関わる歴史は3つの時期に分けることができる。

 先ず、軽井沢に本格的な病院ができる前の時代(1期)であるが、現公民館から少し離れた場所には別の病院、マンロー病院(サナトリウムあるいは軽井沢病院とも呼ばれた)があり、このマンロー病院の一部を借りて、町立病院としての診療が開始されている。

 2番目の時期(2期)は、町立の建物が建設され、本格的に病院として機能し始め、さらに増改築されて現在の建物が使用された期間である。

 そして、3期は病院機能を中軽井沢地区に新設された新病院に移し、一部を取り壊し、一部を増設して旧軽井沢地区の公民館として利用してきた期間である。

 病院から公民館への切り替え時に取り壊されたのは、病室や渡り廊下などで、周囲の樹木も中軽井沢地区に移植されたという記録がある。公民館機能を確保するために増築されたのは、現在の大ホール部分とその周辺部分である。

 こうした経緯を図示すると次のようである。

 
旧軽井沢公民館の建物の歴史

 この3つの期間について以下順に見ていく。

 第1期であるマンロー病院が設立される前後の期間については、現公民館との直接の関係は薄く、概要だけを記述しておくと次のようである。
【第1期】病院建設以前
 明治期
 ・明治30年に岩村田の医師、菊池音之助氏が旧道に病院を設立し、西洋医学による医療の走りと
  なる。
 ・明治30年代後半に御代田に開業していた水沢源氏が新軽井沢に出張所を設け、偶数日の午後、
  診療に当たった。
 ・明治38年に里見新緑氏が診療を始め、大正4年以降追分の現在地に医院を確立した。
 ・大正6年にマンロー医師が旧軽井沢の別荘の一角で診療を始めた。
 ・大正9年に清原芳司氏が沓掛(中軽井沢)で診療を始めた(清原医院)。
 ・大正13年に軽井沢会とマンロー氏が提携し、軽井沢サナトリウムが新築・設立された。
 ・昭和8年に星野に、星野温泉医局が開業し、昭和60年まで続く。
 ・昭和24年に、マンロー病院の一室を借りて、国保診療が開始。高嶺登医師。
 ・昭和27年、軽井沢町国保旧軽井沢診療所開設。

 このマンロー病院を借りている時期に、大きな事件が起きている。高嶺医師と交替して赴任していた川越不二男氏が次のように記している(軽井沢病院誌より、P59)。

 「昭和25年6月9日、熊野平駅付近で豪雨による山崩れがあり、線路で作業中であった長野県側の作業員七十数名が生き埋めとなり、その中に居られた熊の平駅長夫妻も亡くなられました。生き埋めになった人のうち二十数名が救出され、消防の方々が消防車に乗せて病院に搬送してきました。病院は一瞬修羅場となり、少人数で負傷者の泥を落とすだけでも手が廻らないほどでした。小諸から医師会や長野日赤の先生方、更には鉄道病院の救護班、報道関係の方々も駆け付け、皆、大活躍でした。・・・」

【第2期】旧病院時代
 マンロー病院の一室を借りて昭和24年にスタートした軽井沢町の医療施設は、3年後の昭和27年に独自の施設を得て、診療を開始した。
 この時使用した建物は、関係者の下記記述によると新設のものと思われるが、詳しい資料がなく、正確なことはわからない。「軽井沢病院誌」には旧道の診療所として写真が掲載されているが、これが現在入手できた唯一の写真である。
 その後、昭和29年には軽井沢町国保軽井沢病院に昇格し、初代院長には、ふたたび赴任してきた高嶺 登医師が就任する。次は、その高嶺昇氏の回顧談である(軽井沢病院誌より、p57)。

 「(千葉大学)河合外科医局より軽井沢へ行く話があったのは昭和24年初夏の頃でした。・・・当時、軽井沢町では既に国民健康保険を施行しており、従って直営の診療所も欲しかったと思います。私の仕事は、その診療所を主として、その外、週一日小諸保健所での診察と、随時連合国関係の労務者の健康管理の三種でした。
 町の診療所は、旧道万平通りから矢ケ崎川にそってささやきの径に入って左手にあった通称軽井沢会診療所あるいはマンローサナトリウムと呼ばれていたベンガラ塗りの赤い木造洋館の一部屋を借りて、診療を始めました。
 この建物は、大正末期に軽井沢避暑団が設立して、日本の文化人類学のパイオニアといわれるマンロー博士がサナトリウムとして使っていたとのことでした。博士の没後、一時ペンションになったりしていたらしいですが、私の赴任した時にはイギリス帰りの加藤伝三郎先生が内科をしておられました。マンロー未亡人は婦長さんとして・給食係りとして活躍しておられました。病室はオープンで、町の先生方も自由に利用できましたので、アッペやヘルニアの手術後の面倒は専らマンロー夫人がやってくれました。・・・
 初めての冬の寒さに驚きながら予定の半年で、先輩の川越不二男先生と交替して頂いて暮れに帰りました。
 昭和27年秋に軽井沢町では直営の国保診療所を建てたので、再び私が行くことになりました。旧道のテニスコートの近く、諏訪神社の裏手でした。・・・
 その頃までに町では沓掛の清原医院と新道のつるや旅館の一室に診療所を開設しており、一外・一内より派遣された先生が診療にあたっておられました。新診療所は通称軽井沢病院と呼ばれておりましたが、沓掛・新道と新診療所とで医師は4名ですが、病室や看護婦数の不足などで、医療法でいう病院の基準には達しておりませんでした。・・・」

旧道の診療所(「軽井沢病院誌」より)

 次は病院の初代の事務方土屋 篤さんが見た新病院である(軽井沢病院誌より、P69)。
 「昭和27年、旧軽井沢に『設立するなら病院を』という要望が強かったが、取敢えず診療所を設立することになり、同年11月15日、軽井沢町国民健康保険直営診療所として発足しました。
 診療所発足当時は、町の診療所として軽井沢駅前の一室を借りた診療所と沓掛の清原医院の後を借りた診療所(後の中軽井沢診療所)の2か所あったが、この旧道の診療所は町独自で建てたものでした。・・・
 診療所開始以降、患者さんは増加する一方で、手術は近くのマンロー病院を借りて医師・看護婦が出向していったり、入院を要する患者は小諸や長野の病院へ送らなければならず、高嶺先生は町当局に病院設立を熱心に訴えられました。・・・
 結果、旧軽井沢の診療所を改築増設する事で決まり、高嶺先生の指示により手術室・レントゲン室・給食室・浴室・病室(21床、一室を結核専用)も決まり、診療所発足3年目にして(昭和29年10月)『国保町立病院』がたんじょうしました。・・・   
 高嶺先生の時代は、浅間・小瀬方面での自殺・心中が週に一件か二件あり、車のない時代で、その検死にみな苦労したものです。また、外人のパイプカットも多かった様に記憶しています。・・・
 産婦人科診療も始まり(S31.9)、病院は、入院患者も増える中で、外来も忙しく、手術は日曜日に行われることが多くなりました。・・・給食室が出来、レントゲンの機械が入り、多かった結核患者用の病室が二部屋となったのはこの時代です。・・・」

 1961(昭和36)年に、病院棟は転機を迎えた。それまでの建物が狭かったことを理由として増築されることとなり、総工費624万円で病院診療棟の新築と従来の診療棟の病棟への改築が行われ、5月22日に落成式が執り行われた。

 このニュースを、軽井沢町の広報版は次のように報じている。
 「国保直営軽井沢病院は、昭和二十八年の開院いらい歴代の院長はじめ医局員の努力で入院設備の少ない当町の医療センターとして、重要な役割をはたしてきた。
 数年前までは、盲腸の手術すら上田、小諸あるいは岩村田方面の医院にかけつけなければならなかったのが、いまでは町の病院で大きな手術がおこなわれている。最近特に増加した交通事故による負傷も治療され、いく多の尊い人命が救われている。・・・
 ベッド数二十一では不足をきたし、昭和三十四年いらい入院希望者をことわるという事態が生じてきた。・・・
 この問題を解決するため、昭和三十五年度で、総工費六百二十四万円で病院診療棟の建設と現在の診療棟を病棟に改築して十二ベッドを増すことを決め、昨年十月着工した。
 着工以来六か月気候の悪条件を克服し、着々と工事は進行、五月二十二日しゅん工した。
 これで、二十一ベッドは三十三となり、満員のため入院不能の事態は、解消されるものと思う。・・・」 


病院棟の増築を伝える軽井沢町の広報誌「かるいざわ」(りんどう文庫提供)

 
増改築された軽井沢町立病院(南東方向から、「軽井沢病院誌」より)

 
診療棟と渡り廊下で繋がれた増改築後の病室棟(「軽井沢病院誌」より)

 この時代に起きた衝撃的な事件として、多くの病院関係者の記憶に強く残っているのは あさま山荘事件である。

 五代目院長・木戸千元氏は、次のように詳しく記している(軽井沢病院誌より、p95)。
 「縁あって、軽井沢病院に赴任したのは昭和44年秋の頃であった。・・・
 病院就任以来、町には浅間山の大爆発、新道の大火などの事件があったが、昭和47年2月、静かな冬の軽井沢に降って沸いた様に突然銃声が響いて、この浅間山荘事件が勃発した。・・・
 警察は、総力を挙げて、10日間の攻防戦の末、2名の殉職警官(一人は広野先生の富山の中学時代の同級生であった)の犠牲を払いながらも人質を無事解放し、犯人を全員逮捕したものである。
 事件が始まるや、当院は最前線の医療機関に指定されたため、大学病院から応援の医師を依頼して待機態勢を採っていたが、厳重な包囲網をくぐって山荘に近づこうとした一民間人(私の医局時代の同僚の知人であった)が頭部を銃撃され、救急車で搬送されるという事もあった。・・・
 10日間のにらみ合いの末、・・・夕闇迫るころ、遂に落城した。人質は無事に救出されて直ちに病院に運ばれた。異常な体験を強いられた人質であったが、水を被り寒さに凍える以外は擦り傷程度の外傷があったくらいで、他覚的な異常所見はなく、思いの外元気であり、気丈でもあった。精神的にも大分痛め付けられて居るのではと予想されたので、拘禁症状の有無等について、予めお願いしてあった国立小諸療養所の精神科医にも立ち会ってもらったが、特に異常所見はなくホッとしたものであった。この際の一問一答が、翌日の某大新聞の一面にそっくり載っていて、驚いたのであったが、後に病室で盗聴器が発見され、報道合戦の凄まじさに目をむいたものであった。・・・
 お陰で、軽井沢病院も全国から注目の的となり、その名を天下に響かせたのであった。数日後、院内で人質との共同記者会見が設けられ、全国にトップニュースとなって流されて、ようやく報道陣は潮が引く様に去って行き、元の静けさに帰ったのであった。・・・」

【第3期】旧軽井沢公民館時代
 中軽井沢に軽井沢病院が新築され、旧軽井沢から移転したのは1974年6月の事であるが、その後、1975年には、この旧病院は病室棟や渡り廊下などを解体し、公民館としての活用のための大ホールなどを増築して、現在の旧軽井沢地区の公民館としての利用が始まった。

 5月に、それまでの公民館からの引っ越し作業は区民の協力により行われ、盛大な開所式も執り行われた。

 
区民の協力による引っ越し作業(1975年5月 撮影 旧軽井沢公民館所蔵)

現公民館の開所式(1975年5月 撮影 旧軽井沢公民館所蔵)

 公民館として残された建物は、1961年に建てられた当時のものと、床面積(528平方メートル)や室数(15室)がほぼ一致していて、大ホール部分が追加された形になっている。平面図は次のようであり、公民館としては他地域と比較してもかなり広いスペースが確保された。   


現公民館の平面図

 公民館は、地域の活動の拠点となり、区の役員会、総会会場としての利用はもとより、子供から老人までの活動の場として利用された。さらに、夏期には旧軽井沢の名物になった「夏の蚤の市」の会場としても利用が始まり現在まで続いている。

現公民館での区民総会開催(2011年2月28日 中田秀雄氏撮影)


現公民館で例年開催されてきた夏の蚤の市[骨董市]の様子(2021年7月31日 撮影)

 現公民館の入り口近くの壁面上部には「開館の礎」として、公民館建設に尽力した方々の名前と共に、次の文が掲げられている。
 「東は碓氷の霊峯に西は大浅間の火峯に抱かれた我が旧軽井沢はその昔から栄枯盛衰をたどり旧観は全く一変し当時を偲ぶことは困難であるが郷土を愛し守って来た先人の血は今日の人々にも流動している。
 激動する近代社会で公民館活動が発展し生活の多様化に即応出来得るような学習の場所が要求される今日幸にも町当局の御理解を得て旧病院の建物を貸借出来た事は区民にとって誠にありがたいことであった。
 社会教育の充実を求め区内から建設実行委員会が組織され区民一致協力その改修資金(一九00余萬圓)と物品を拠出して区内の業者(諸職工組)が之を請負いここに教育並びに生活文化向上の殿堂が完成を見たのである。
 これを機会に町当局に深い感謝の意を表すと共にこの事業の目的に精力的に携った建設実行委員諸氏の名を印して記念とする。
昭和五十四年二月吉日」

 
現公民館に掲げられている「開館の礎」


現公民館建設実行委員の名を記した銘板

 
病院時代の雰囲気の残る管理人室入り口(2022.1.27 筆者撮影)

現公民館の廊下(2022.1.27 筆者撮影)


現公民館の近影(2022.1.11 筆者撮影)



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