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軽井沢からの通信ときどき3D

移住して11年目に入りました、ここでの生活と自然を写真と動画で発信しています

ガラスの話(15)町田市立博物館の淡島雅吉展

2019-05-17 00:00:00 | ガラス
 ガラス工芸研究会からメールでの案内があり、東京の町田市立博物館で、2019.2.9~4.7の期間「近代ガラスデザインの先駆者・淡島雅吉」展が行われていると知り、東京に出る予定に合わせて一泊し、3月31日午前中に出かけてきた。

 町田市立博物館は小田急線町田駅からバスで約15分程度の「市立博物館前」バス停で下りて、住宅地の中を7分ほど歩いた場所にあった。


町田市立博物館(2019.3.31 撮影)

 実は、この淡島雅吉という人物については、今回案内を受け取るまで全く知らなかった。当日博物館で配布していたパンフレットには淡島雅吉について次のように書かれていた。

 「淡島雅吉(1913.3.17-1979.5.28)は、昭和の日本を代表するガラス作家の一人で、ガラスデザイナ-の草分け的な存在です。日本美術学校を卒業後、カガミクリスタル製作所に入社し、デザイナーとして勤務した後、保谷クリスタルガラス製造所に入社、その後1950年に独立し自身の会社を設立します。
 淡島雅吉の代表作は『しづくガラス』と名づけられた、ガラス表面に緩やかな凹凸が見られる作品群です。本展覧会では、『しづくガラス』の技法で作られた大小さまざまな形状のうつわや、1950~1960年代にデザインされたとは思えないほどモダンなデザインの吹きガラスの作品等約140点を展示し、淡島雅吉のガラス制作の全体像にせまります。(生没月日は筆者が追記)」


町田市立博物館の淡島雅吉展パンフレット

 この展覧会と同時に、講演会「娘から見た淡島雅吉」、体験講座「ガラスに彫ってみよう!」、担当学芸員によるギャラリートークなどいくつかの企画が行われていたが、妻と私が出掛けた3月31日はちょうどそのギャラリートークのある日で、スタートの午後2時まで待って参加した。冒頭、学芸員さんから「この中で淡島雅吉を知っているという人はどれくらいいますか?」との質問があり、約10名ほどの参加者の中から1名が手を挙げた。学芸員さんは「そうなんですね、淡島雅吉を知っている人は本当に少ないと思います。今日は淡島雅吉のことをしっかりと知って帰ってください。」と話して、展示作品の案内を始めた。

 当館は展示品の撮影は自由であり、配布パンフレットにもその旨記載されているので、撮影した写真を以下にご紹介するが、その前に、もう少し淡島雅吉の経歴を見ておいた方が、展示品を理解しやすいように思う。

 会場の展示パネルにも同じ文があったが、当日購入した図録から一部引用すると、

 「淡島雅吉は日本美術学校の在学中から人形制作を始め、のちにイラストレーターとしても知られる中原淳一や人形作家となる五味文郎らと「PK人形クラブ」というグループで活動していました。・・・就職にあたっては、本人は大倉陶園で働きたいという希望があったようですが、知人の紹介で大倉陶園と関わりの深い、創業したばかりの各務(かがみ)クリスタル製作所に昭和11年に入社します。各務クリスタルではデザイナーとして勤務し、同期に佐藤潤四郎、先輩には降旗正男らがいました。雅吉は昭和18年にガラス工芸の分野における芸術保存資格者に指定されますが、昭和19年には各務クリスタルを退社し、翌年召集され出征します。
 戦後、雅吉は各務クリスタルには戻らず、保谷クリスタル硝子製造所に入社し、再びデザイナーとして活躍します、瓶や食器などのデザインを手がけ、社内では工芸部長にまでなりますが、会社の経営悪化もあってか昭和25年に退社し、自身のデザイン会社を創設しました。」とある。

 今回の展示品は、雅吉がデザインした実用品としてのガラス器と、やはり雅吉がデザインし別の職人たちが実際の作業を手掛けて製作したアートワークに別れているが、先ず実用品の方から見ていく。

 1936(昭和11)年から1944(昭和19)年まで在籍した各務クリスタル製作所での製品展示は今回はなく、同時代のものとしてはアートワークが2点(後述)あるのみであった。

 1946(昭和21)年から1950(昭和25)年の保谷クリスタル硝子時代のものは以下の7点が展示されていた。

 1947(昭和22)年にプレス技法で作られた、高さ3.5cm、径26.8cmのこの大皿は、当時のヒット商品であったという。


プレス技法で作られた大皿(2019.3.31 撮影)

 1949(昭和24)年ころに作られた次の6点の製品は、輸出競争力を意識して、ステム(脚)に工夫が施されており、5と7は泡入りステム、6と8はドーナツ形ステム、9と10は「白鳥の湖」を踊るバレエダンサーの脚から発想されたバレエステムとなっている。各製品の寸法は次の通りである。5:高7.1cm 口径5.2cm/ 6:高9.2cm 口径5.1cm/ 7:高9.4cm 口径7.0cm/ 8:高10.6cm 口径7.3cm/ 9:高12.4cm 口径6.0cm/ 10:高14.5cm 口径10.0cm。


淡島雅吉がデザインしたステム部に工夫を凝らしたグラス・5~8(2019.3.31 撮影)


バレエステム・ゴブレット・9,10(2019.3.31 撮影)

 このバレエステムを紹介した当時の広告も展示されていた。


バレエステム・ゴブレットの広告(2019.3.31 撮影)

 このあと、淡島雅吉は保谷クリスタルを退職し、独立して自身の会社「淡島ガラスデザイン研究所」を設立する。ここで、彼は日本料理にあうガラス器を作りたいとの思いから、代表作とされる、「しづくガラス」を考案し、生涯に150種以上の作品を世に送り出した。

 この「しづくガラス」は耐火粘土や石膏で作った型(のちには金型も使われた)にガラスを吹き込んで作るもので、この製法で作られた器に水を入れると、雫がしたたるように表面が美しく輝くことからこの名前がつけられたという。

 淡島ガラス株式会社発行のパンフレットの中で、淡島雅吉は次のように「しづくガラス」のことを紹介している。

 「陶器に手造りの日本的な陶器と洋風の磁器があるように、このしづくガラスはガラスの陶器と云えます。ガラスの美しさはトロンとした円みにありますがその味がなかなか出せず手の切れそうな感じになりがちなのです。私はそのやわらかな味を出して日本料理に使えるガラス器を作ってみたいと思いました。
 しづくガラスは手造りの特殊な型の内側にガラスを吹き込んだものでこの肌の味は吹き込みでないと得られません。この梨地の肌が水を入れると乱反射によって美しくそれぞれ異なった輝きをみせてくれます。それが「しづく」のように美しいのでこの名をつけました。」

 雅吉は1956(昭和31)年に、「硝子器成形方法」という名称でこの「しづくガラス」の製法に関する特許を取得している(特許出願公告:昭31-2985、出願:昭和29年5月20日、公告:昭和31年4月20日)。

 今回展示されていた作品の中から、以下にいくつかの「しづくガラス」を紹介する。



しづくガラスシャンパングラス・1955年、左:高6.6cm 口径7.5m/中:高7.5cm 口径7.9cm/
右:高8.9cm 口径8.9cm(2019.3.31 撮影)


各種のしづくガラススゴブレット・1955~1965年、高7.4cm~17.3cm 口径4.6cm~11.3cm
(2019.3.31 撮影)


しづくガラスぐい吞み/徳利・1967年、ぐい吞み:高5.1cm 口径5.2cm/徳利:高13.2cm 胴径7.9cm
(2019.3.31 撮影)
 

しづくガラス三角小鉢(左の2個)・1955年頃、高5.0cm 最大径17.6cm
鉢(中央)・1965年頃、高4.5cm 口径12.7cm
浅鉢(右から2番目)・1965年頃、高3.4cm 口径16.7cm
角型鉢(右)・1965年頃、高6.6cm 口径10.0x11.0cm
(2019.3.31 撮影)

 国内では、この「しづくガラス」シリーズは大変な人気で、ホテルやレストランなどでまとまって購入されることが多く、プリンスホテルでも採用されたという。また、海外にも早い時期から紹介され、各国で高い評価を受けた。1959(昭和34)年にアメリカのコーニングガラス美術館で開催された「Glass 1959展」では「しづくガラス」のタンブラーとシャンパングラスが入賞し、その後同館に収蔵された。海外では、コーニングガラス美術館のほか、アメリカのフィラデルフィア美術館やイギリスのヴィクトリア&アルバート(V&A)美術館などにも作品が収蔵されているという(図録より)。

 入り口に近い小展示会場にはここまで紹介した実用的なガラス器を中心に展示されていたが、続く大展示会場には雅吉のアートワークの数々が展示されていた。


しづくガラスなどが展示されていた小展示会場(2019.3.31 撮影)


アートワークが展示されていた大展示会場(2019.3.31 撮影)


大展示会場風景(2019.3.31 撮影)

 淡島雅吉は、学生時代から創作人形を手掛けていたことからも判るように、美術作品への思いが強かったようである。各務クリスタル勤務時代(1936~1944年)では、次に示す2作品が残されており、文部省美術展覧会(文展)や日本美術展覧会(日展)などの展覧会にも積極的に作品を出品している。 


各務クリスタル勤務時代・1939年の作品「花器」(2019.3.31 撮影)


各務クリスタル勤務時代・1943年の作品「亀」(2019.3.31 撮影)

 保谷ガラス時代(1946~1950年)にも同じように日展に、当時としては目新しい、希土類のネオジムを含むピンク色のガラスを用いた作品(ネオジューム硝子花瓶)などを発表して入選しているが、日展への入選は1951年が最後で、その後は個展にシフトしていく(図録より)。

 これらの展覧会への出品作品は、今回の展示では見ることができず、紹介することはできないが、雅吉の代表的なアートワークを以下にいくつか紹介する。


プレーン花器・1955(昭和30)年 高31.4cm 底径10.5cm/高35.5cm 最大径10.5cm(2019.3.31 撮影)


「プレーン」の作品を手に取る淡島雅吉・1955年代初頭の撮影(2019.3.31 撮影)


プレーン花器・1957(昭和32)年 高7.9cm 最大径13.8x22.8cm(2019.3.31 撮影)


ボトル・1958(昭和33)年 右:総高24.6cm 胴径13.7cm、左:総高18.0cm 胴径14.8cmx16.1cm(2019.3.31 撮影)


置物・1964(昭和39)年頃 さかな(右):総高9.7cm 3.4x18.0cm/とり(左):総高10.0cm 1.7x18.5cm(2019.3.31 撮影)


香水瓶・1966(昭和41)年以前 右:高7.9cm 径4.6cm、左:高10.4cm 径5.6cm(2019.3.31 撮影)


ブロット花器・1966(昭和41)年 右:高38.9cm 最大径11.3cm、左:高46.6cm 最大径11.3cm((2019.3.31 撮影)


ビトモール花器・1966(昭和41)年 高35.9cm 口径12.5x19.7cm(2019.3.31 撮影)


ビトレーナ人物部分・1966(昭和41)年 高33.3~35.0cm(2019.3.31 撮影)


しづくガラス花器・左:1969(昭和44)年 高20.5cm 径11.7x24.6cm、右:同年 高21.3cm 径11.9x25.7cm
(2019.3.31 撮影)


しづくガラス茶碗(左)・1975(昭和50)年 高7.4cm 口径13.3cm
茶入れ(上3点と下/左)4点・製作年代不明 総高8.4~9.8cm 径3.7~5.2cm
香合(下/右)・製作年代不明 総高4.7cm 胴径6.4cm
(2019.3.31 撮影)

 ここまでデザイナー、アート作家としての活動を見たが、淡島雅吉の経歴を見ていると、1972(昭和47)年、59歳の時に、「日本ガラス工芸協会(JGAA)設立、副会長となる」という記載があり、別な面が覗える。

 今回の町田市立博物館での淡島雅吉展の案内は、私が所属している日本ガラス工芸学会からのもので、日本ガラス工芸協会のことは存在も知らなかったのであるが、HPを見ると、

「日本ガラス工芸協会とは:
 1972年(昭和47年)、ガラスを共通の素材として創作活動をしている作家・クラフトマン・デザイナー達が呼びかけに応じ、「ガラス」と言う共通する一点で集まったユニークな団体です。
 ガラスによる創作活動を通して、ガラスと人との結びつきを深め生活環境の向上と文化の発展に寄与することを目的としています。
 1978年、第1回「日本のガラス展」を機に3年毎の協会展、毎年の企画展等を軸に会報の発行や会内外への広報活動を行い、2019年1月現在 会員総数95名で構成されています。また 賛助会員としてガラス関連の企業や個人の賛同と協力を得ています。 」

「日本ガラス工芸協会のあゆみ:
 1972年
● 創立発起人会発足(7月)、名称「日本ガラス工芸協会」を決定、会則など諸事案の整備(~12月)
● 設立準備委員会(1月)、役員決定(3月)
● 日本ガラス工芸協会発足(4月)
● 会長:岩田久利 副会長:淡島雅吉 各務満 各委員会委員長:青野武市 小林貢 竹内傳治 船越三郎 益田芳徳 山本曠 監事:伊藤幸雄 藤田喬平 /正会員56名

という記載があり、協会設立当時の様子と、この協会が主にガラス工芸作家の集まりであることが判る。

 一方、「日本ガラス工芸学会」の方はHPを見ると、

「日本ガラス工芸学会は、ガラスの研究者、愛好者、制作者をはじめ、ひろくガラス全般に関わる人々からなる団体です。ガラスに関する歴史的、芸術的、技術的研究と、その研究会、講習会、見学会を開催しています。日本ガラス工芸学会へは、趣旨にご賛同いただける方はどなたでも入会いただけます。」

とあり、 そのあゆみに関しては、1975年発足というから日本ガラス工芸協会設立の3年後のスタートということになる。

「・日本ガラス工芸学会創立趣意書
●趣意: ガラス工芸研究者相互の連繋、同好者間の情報交換、海外関係団体との提携等によってガラス研究の向上、ガラス文化の振興を図る
●目的: 日本、東洋、西洋、古代、近代、現代を問わず広くガラスに関する歴史的、芸術的、技術的研究を行い、研究論文の発表、資料紹介を定期的に本会が発行する会誌に発表、或いは研究会、講習会、見学会の開催等を通じてガラス研究者並びに同好者の交流を促進すると共に、海外関係団体との提携により、ガラス研究の向上、ガラス文化の振興を図ることを目的とする。
●会員: ガラス研究者及びガラス同好者であって、本会の趣旨を理解し、会の目的に賛同する者で構成する。
・沿革
1975/ガラス工芸研究会 発足
1992/日本ガラス工芸学会に改称 」

 とあり、こちらはより広く、ガラス工芸に関係する、あるいは関心を持つ人の集まりという意味合いが強いようである。
 1975年スタート時の名称は「ガラス工芸研究会」であり、設立時のメンバーは、1975年発行の「ガラス工芸研究会誌1」によると、

●委員長 佐藤潤四郎
●委員(五十音順)
  石黒考次郎、岡田 譲、小田幸子、加藤考次、棚橋淳二、深井晋司、前田泰次、三上次男、吉田光邦、山崎一雄、由水常雄、横山 滋

といった名前を見ることができる。

 淡島雅吉氏と各務クリスタルに同期入社した佐藤潤四郎氏が委員長に就任している点に注目したい。

 佐藤潤四郎氏はその著書「ガラスの旅」(1976年 芸艸堂発行)のあとがきで次のように述べている。

 「・・・日本には、フランスのナンシー地方とか、イギリスのストウブリッジの様な場所もないし、第一ガラス工芸に関しての(歴史部門を含む)学界もない。
 漸く昭和五十年九月に、ガラス工芸研究会というガラスの技術史、文化史、科学的な内容にわたる任意の研究団体が生まれたばかりで、これが現状である。・・・」

 ガラス工芸協会やガラス工芸研究会の設立経緯と設立趣意書などを見ていると、1970年代の日本のガラス工芸の世界を垣間見ることができるように思える。

 さて、最後に私の手元にあるグラスをご紹介して本稿を終りたいと思う。このガラス器は淡島雅吉が保谷クリスタル時代に手掛けたものに少し似ている気がするが如何だろうか。


自宅にあるボールステムグラス
 


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ガラスの話(14)九州のガラス記-2/2

2019-05-03 00:00:00 | ガラス
 長崎のカステラの老舗”福砂屋本店”とレストラン”銀嶺” で古いガラス器のコレクションを見、大浦天主堂のステンドグラスを見た後、雲仙に向かった。国宝・世界遺産に指定、登録されている大浦天主堂では、内部の撮影は禁じられていたので、ここに写真を紹介することはできないが、正面の中央大祭壇とその上方、そして左右の上の方の窓には美しいステンドグラスが嵌められていた。午後の光が上方の窓から差し込み薄暗い教会の壁や床を赤、青、緑に照らす様子は荘厳であり美しい。長崎でのガラス鑑賞はここが最後になった。


大浦天主堂の拝観券

 この日の雲仙での宿は雲仙観光ホテルに決めていた。今回の旅の、九州の古いガラス鑑賞以外のもう一つの目的はこの雲仙観光ホテルに泊まることであった。雲仙観光ホテルは1935(昭和10)年に開業しており、その前年、雲仙が瀬戸内海や霧島と共に、日本初の国立公園として指定されたことを受けて、長崎県がさらなる観光振興のために建設したとされており、軽井沢の万平ホテルなど他の8ホテルと共に日本クラシックホテルの会のメンバーとして、国内でも有数の歴史あるホテルに数えらえている。これまでにもたまたまではあるが、箱根の富士屋ホテル、奈良ホテルに宿泊する機会があり、歴史上のできごとの舞台になってきたこれらのクラシックホテルに関心を持つようになっていたのがその理由である。

 先日伊豆に出かける機会があり、その時にも日本クラシックホテルの会のメンバーの川奈ホテルを選んだ。ここでは、宿泊した翌日の午前中に年配の職員による館内のツアーがあり、ホテルの歴史、建物の構造、過去に宿泊した著名人の紹介などがあって楽しいものであった。そうしたこともあって、今回も、九州内での移動ルートを検討する際に、この雲仙観光ホテルでの宿泊を取り入れていた。


雲仙観光ホテルの外観(2019.3.13 撮影)



雲仙観光ホテルの図書室(上)、ビリヤード室(下)(2019.3.13 撮影)


ガラスの花瓶に生けられた花(2019.3.13 撮影)

 この雲仙観光ホテルの建物は、外観・内装共に期待通りの重厚さで、歴史の重みを感じるものであった。さらに、ここでは今回の旅行の本来の目的である古いガラスの鑑賞の関連で思いがけないことがあった。それは、雲仙観光ホテルのすぐ目の前に、ガラスミュージアム「雲仙ビードロ美術館」が建っていたことであった。これは事前には把握できていなかった。


雲仙ビードロ美術館(2019.3.13 撮影)

 この雲仙ビードロ美術館は地元の建設業者社長のコレクションを展示しているもので、展示室は2階にあり、1階部分はガラス製品のショップや体験工房になっていた。

 展示品は18-19世紀にヨーロッパで造られたガラス器が中心で、素晴らしい作品の数々が並べられていたが、撮影が禁じられていたので、ここで写真をご紹介することはできない。同館のパンフレットで雰囲気を感じていただければと思う。


雲仙ビードロ美術館のパンフレット

 この日は、鹿児島までの長距離の移動日であり、時間的余裕があまりなかったこともあって、この美術館での鑑賞は短めに切り上げて、島原に向かった。

 雲仙・島原といえば、どうしてもあの1991年6月3日の普賢岳の火砕流の映像を思い出してしまうが、途中、何度も車窓に見え隠れする普賢岳を見ながらのドライブになった。実は、帰宅後知ったが、今も噴煙を上げている山は平成新山と新たに名前が付けられていて、現在この山が1483mと雲仙岳の最高峰である。旧普賢岳(主峰)1359mは、島原側から見るとこの平成新山の後ろに位置している。

 海岸線近くまで下りたところには、土石流や火砕流に飲み込まれた当時の家屋をそのまま保存している場所「土石流被災家屋保存公園」があることを妻が事前に調べてくれていたので、その場所に立ち寄った。ここには合計11棟の家屋が遺構として当時のまま保存展示されている。その内3軒の住宅が1階部分が土石に埋もれた姿で、巨大な覆い屋(テント)の中に展示されている。内1棟は他場所からここに移築したという。屋外には8棟が展示されていて土石流災害の恐ろしさを感じさせる。


野外に保存されている被災家屋、後方に巨大なテントが見える(2019.3.14 撮影)


テント内に保存されている被災家屋(2019.3.14 撮影)

 テントの外に出て、この場所から雲仙・平成新山の方を見ると、山頂付近はずいぶん遠くに感じる。直線距離で約11kmというところであるが、当時のこの地域の住民も、まさかここまで火砕流や土石流が到達するなどとは思いもしなかったであろうと思う。 


被災家屋付近から見上げる雲仙・平成新山(2019.314 撮影)

 ここでこうして今も噴煙を出し続けている平成新山を見ていると、どうしても、浅間山のことを思う。軽井沢と浅間山の距離は直線で約6kmといったところである。少し前までは噴火警戒レベルが2になっていた浅間山だが2018年8月にはそれが3年ぶりに1に下げられていて、活動はやや低下していることを示すようだが、何しろ、1783年には史上最悪といわれる人的な被害を出したことのある日本でも有数の火山であり、油断はできない。

 前回の浅間山噴火の際には土石流は北側に流れ、現在の嬬恋地区を飲み込み、溶岩もまた北北東側に流れ出して、今では観光名所になっている鬼押し出しを作ったのであるが、気まぐれな火山が次回はどこに噴火口をつくり、溶岩をどの方向に流すかは断定はできない。浅間山の活動には常に気を配っていかなければと思っている。

 ところで、この島原には、島原天守閣の「キリシタン資料館」に多くのキリシタン資料と共に、古い長崎ビードロや舶載ガラスの数々が展示されていることを事前の調査で把握していたのであったが、時間の都合で割愛せざるを得ず、昼食にこの地方の名物料理「具雑煮」と「かんざらし」を食べただけで、島原外港からフェリーに乗船し対岸の熊本に移動した。

 熊本側に着くと、福岡で一旦下りた九州自動車道に再び戻り、鹿児島を目指した。鹿児島では、市内のシティーホテルに宿泊し、翌15日には今回のガラスの旅の最終で最重要目的である薩摩切子を見るために、尚古集成館に向かった。

 午前中に一度、尚古集成館を目指して出かけたが、すぐ手前の隣接地に磯工芸館があり、ここで現在製造されている薩摩切子が販売されていて、工場見学もできることが判ったので、午前中一杯はここで過ごすことになった。

 ここで、薩摩切子について少し見ておこうと思う。江戸時代は、それまでのトンボ玉ていどしか作っていなかった日本に和製ガラス器が登場した時代である。江戸期に入ってまもなく、長崎で作られたガラスがその始まりとされ、製法はポルトガル伝来とも中国伝来ともいわれる。

 江戸後期には佐賀、薩摩などの諸藩でも盛んにガラス器が作られるようになるが、27代島津藩主斉興が弘化三年(1846年)に、江戸から当時ガラス師として有名であった四本亀次郎を招いて薬瓶を作らせたのに始まるとされている。28代斉彬が藩主になると、集成館が建てられ、洋式の技術を導入した。 斉彬は、特に紅色ガラスに力を入れ、銅を用いた暗赤色(または殷紅色と呼ばれた深い紅色)ガラスの製造に成功。その他、藍、紫、緑などの色ガラスもつくり、これらを透明なガラスに被せて二層にし、これに四本亀次郎の切子技術を応用させて、世に名高い、色被せカットガラス・薩摩切子が完成したとされる。

 1858年の斉彬の急死後、事業は縮小され、1863年の薩英戦争の際に工場が破壊され、消失したこともあり、薩摩切子は徐々に衰退してしまい、1877年頃には幻の切子になっていく。現存する当時製造された薩摩切子は200点程度とされ、とても貴重なものである。現在サントリー美術館には次のような江戸時代の薩摩切子のコレクションが8種14点収蔵されている(サントリー美術館資料「開館20周年記念、サントリー名品100」による)。

・薩摩切子紫色ちろり 一個
・薩摩切子藍色船形鉢 一個
・薩摩切子藍色脚付鉢 一個 
・薩摩切子藍色丸文小鉢 一個
・薩摩切子藍色蓋付壺 一個
・薩摩切子紅色三つ重 一組
・薩摩切子紅色皿 五枚
・薩摩切子紅色皿 三枚

 こうして一度は歴史の中から姿を消していた薩摩切子を再現して復活させたのは、大阪のガラス商社カメイガラスであった。大阪の天満はもともと大阪ガラス発祥の地(2017.9.29 公開本ブログ参照)として知られる地で、周辺には多くのガラス職人がいて、様々なガラス生地を作る技術に精通していた。カメイガラスはこうした大阪の職人たちを集めて、1975年~1980年頃に薩摩切子の復刻に挑戦、商品化に成功した。

 このこともあって、薩摩切子に対する一般の人々の関心も高まってきたが、ガラス工芸の専門家チームの中には別な動きが出ていたようである。この辺りの状況は「薩摩切子の復元のための技術的研究(一)、(二)(ガラス工芸研究会誌 26号,1988.11.30 発行、同 28号,1990.8.10 発行)に見ることができるが、序文の一部を紹介すると次のようである。

 「近年、薩摩切子に対する一般の人々の関心も高まり、複製品も販売されるようになった。これ等は、精緻な製品もあるものの、主に営利を目的としているため、材質など、本来の薩摩切子とは異なるものである。こうしたすそ野の広がりは歓迎するところだが、薩摩切子そのものに解明されていない点が残る今日、誤った概念を多くの人々に与えるという危険性もあろう。(薩摩切子に対して)個々に行われている研究を、総合的見地から検討する機会が必要な時期となっていたが、今回、幸にも遺品の破片を手に入れることができた。そこで、これを機に研究者が集い、今まで行われることのなかった、試料を採取してその正確な分析に基づく、学究的態度での薩摩切子の復元が計画された。・・・この研究は昭和六十二、三年度(1987-8年度)の二年間にわたり、文部省から科学研究助成金を受けることができた。・・・」

 この研究には1985年(昭和60年)4月に鹿児島県と島津家の協力で設立されていた「薩摩ガラス工芸(株)」もガラス融解など一連の作業で協力したとされている。詳しい前後関係は判らないが、こうした研究の一部はすでに先行して薩摩ガラス工芸(株)設立よりも前から進められていたのであろうか、会社設立年の年の1985年8月には同社から薩摩切子復元発表がなされている(株式会社島津興業 薩摩ガラス工芸資料による)。
 
 先行していたカメイガラスはその後1990年中ごろに倒産してしまうのであるが、薩摩ガラス工芸は、1987年にスタートした鹿児島県伝統的工芸品指定事業の指定を、1988年に受け、現在も薩摩切子の製造・販売を続けている。

 この薩摩切子は、昨年のNHKの大河ドラマ「せごどん」の中でも採り上げられ、ある日西郷隆盛と島津斉彬が日のさす縁側で薩摩切子のデキャンタからグラスにワインを注ぎ飲む場面が描かれていた。

 さて、我々が先ず立ち寄った磯工芸館では上記の経緯を経て完成された、薩摩切子のギャラリーショップがあり、サントリー美術館に所蔵されているものと同型の復元品などや、2001年に商品化したという新しい技法を用いた二色被せの新作商品、種々のグラス、アクセサリー類などが展示販売されていた。







たくさんの種類の薩摩切子が並ぶ磯工芸館のギャラリーショップ(2019.3.15 撮影)

 このギャラリーショップの裏側にある工場ではガラスの溶解から「たね巻き」、「色被せ」、「成形」、「徐冷」、「あたり」、「荒ずり」、「石かけ」、「木盤磨き」、「ブラシ磨き」、「バフ磨き」、「検査」というすべての工程を歩きながら見学できる通路が設けられていて、目の前で製造される薩摩切子を見ることができるようになっている。













薩摩切子の製造工程を見学できる工場と通路に置かれている説明用展示作品(2019.3.15 撮影)

 工場見学の後、再びギャラリーショップに戻り、店員に説明を聞きながら商品を見て回ったが、中国からの観光客がずいぶんたくさんの商品を買い求めていた。我々も復元猪口と復元脚付杯をお土産に買おうとしたが、大河ドラマで使われていたワイングラス(復元脚付杯)の方は、来年まで予約が埋まっていて、この日は持ち帰ることができないという状況であった。薩摩切子の人気は、TV放送終了後の今も衰えていないことを実感させられた。

 このあと、一旦市街地に戻り、従弟・従妹の二人とのランチの後、午後は再び尚古集成館に向かった。ここで古い薩摩切子を見学した後、島津家の旧庭園「仙厳園」を散策したが、ここからは高く噴煙を上げる桜島をすぐ前に見ることができた。この日の噴煙はやや少なめに見えたが、実はこの前日には小規模な噴火があったことを昨夜ホテルのTVのニュースで知った。



尚古集成館(2019.3.15 撮影)

 浅間山の麓に住んでいる我々であるが、これほどの噴煙を見ることはまずない。火山活動度の違いを見せつけられた形であった。浅間山が大好きで、軽井沢に住みたいと言って移住を希望した妻であったが、もし浅間山がこんなに噴煙を上げるようになったら、逃げ出したくなる・・というのを聞いて、目の前の噴煙よりもその言葉に私は驚いてしまった。


「仙厳園」からの噴煙を上げる桜島(2019.3.15 撮影)

 今回の九州の旅は、ガラスと共に火山とその活動が人々の生活に及ぼす影響について見る旅でもあった。













  
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ガラスの話(13)九州のガラス記-1/2

2019-04-05 00:00:00 | ガラス
 ショップの冬季休業を利用して、ガラスを見に出かけたいと思っていたが、福岡の友人と、鹿児島の親類の訪問を兼ねて九州に出かけることにした。

 久しぶりの九州旅行になるので、妻とも相談して、ガラスのほかにも目的地を決め、福岡と鹿児島をそれぞれ起点と終点として、博多、大宰府、吉野ケ里遺跡、伊万里・有田、嬉野温泉、長崎、雲仙・普賢岳、島原、熊本、鹿児島・桜島を巡るコースを選び、レンタカーで回ることにした。

 近代日本のガラス工芸の歴史をみると、江戸時代の長崎が重要な役割を果たしている。西洋からガラス製法が伝わる前に、すでに長崎には中国から鉛ガラスの製法が伝わっていて、長崎のガラス工人たちが、何らかのかたちでガラスを作っていたのではないかとされており、その後、1570年頃に、ポルトガルやイスパニアから鉄砲の伝来とともに、ソーダガラスの製法も長崎にもたらされたと考えられている。

 由水常雄氏の著書「ガラス工芸」(ブレーン出版 1975年発行)によると、当時の様子は次のようである。

 「・・・こうして十六世紀末ころより長崎でガラスが作られるようになると、長崎のガラス師のもとに全国から人が集まるようになり、それぞれガラスの製法を学びとって、各地に伝えていくようになる。
 まず長崎では、享保五年(1720)の西川正休(如見)『長崎夜話草』に(よると)、ガラス細工が長崎土産となるほどまでに発展しており、延宝年間(1673~)にはじまる玉屋六右衛門以下、玉屋号を名のるびいどろ細工師たちの活動がその中心をなしていたようである。主として細工もののガラス器であり、カットや色被せガラスは作られなかったようである。・・・」

 ただしかし、長崎のどこに行けばまとまった形で、16世紀末のこのガラス器とはいかないまでも、古いガラス器を見ることができるのかが判らなかった。手元にある日本ガラス工芸学会誌「GLASS」51号(2008年発行)の、GLASS(1号-50号)総目次をあたってみると、「佐賀ガラス調査」という報告が、1977年発行の第3号に見つかったが、長崎に関する記述は見当たらなかった。

 その他の情報源として、①1977年発行の「The Glass ガラス」(読売新聞社発行)、②1988年発行の「太陽 特集◎骨董の旅」(平凡社発行)、③1998年発行の「ガラスを買いに行く」(平凡社発行)などで長崎に関連した部分を探し下記の記述をみつけることができた。


「The Glass ガラス」の表紙


「太陽 特集◎骨董の旅」の表紙


「ガラスを買いに行く」の表紙

 ①には、「ビードロと切子をもとめて・九州ガラス取材記」という出版社の編集子によると思われる記事があり、ここには、カステラの老舗”福砂屋”、レストラン”銀嶺”、ホテル”十六番館・資料館”などのガラスコレクション見学と、長崎ガラスの個人収集家岩永関夫氏を訪問した時の記述がある。

 ②には、「私の銘品探訪記」として、斎藤真一・菊地信義・川本恵子氏らの新潟から長崎までの訪ねある記があり、その中で川本恵子氏は長崎市内、中島川周辺で幕末から明治にかけてのビードロやランプの品揃えの豊富さと質の良さでは市内一という”ナガサキヤ”を紹介している。

 ③の「ビードロ浪漫紀行・長崎、島原、佐賀」では前記の長崎市内の”福砂屋本店”と”銀嶺”のほか、骨董店の”アンティーク マヨリカ”、現代の長崎ガラスを生み出している工房”瑠璃庵”、観光資料館”南山手十六番館”、”大浦天主堂”が紹介されている。①でホテルの資料館として紹介されていた”十六番館・資料館”はここでは観光資料館”南山手十六番館”となっていた。この当時、ホテル経営はやめていたのかもしれない。

 こうした準備をして九州では三泊目の宿泊地に長崎を選んでいた。ガラスに関連する目的地はこの長崎が最初であった。

 九州初日の宿泊地福岡では夕食はホテルの外で取ることにして「アラ料理」の店に行くことを楽しみにしていたし、続く嬉野温泉では温泉入浴はもちろんであるが、旅館の食事として出る「温泉湯豆腐」が妻の目的になっていた。


嬉野温泉の朝食に出た「温泉湯豆腐」(2019.3.11 撮影)

 ところが、嬉野温泉の夕食の際に日本酒を注文したところ、思いがけず冷酒がガラス製”ちろり”に入れられて出てきた。この”ちろり”は今回長崎で見てみたいもののひとつに挙げていたので、早速の出会いに大いに喜んだ。これまで、こうしたガラス製のちろりに入れられた日本酒が宿で出てきたことはなかったように思う。
 実は、翌日の夕食はホテルではとらずに、長崎名物の「卓袱料理」を食べに出かけたのであったが、この店でもやはりいただいた冷酒はガラス製「ちろり」に入れて供された。ちろりは九州の文化だろうか。ただ、当然のことであるが、この嬉野温泉でのちろりは現代のもので、翌朝旅館の土産品売り場で同じものが販売されているのをみつけ、お土産に購入した。長崎の老舗卓袱料理店でのちろりはやや形状の異なるものであったのだが、場所柄撮影は遠慮したので、残念ながら写真はない。


嬉野温泉のお土産に買って帰ったガラス製”ちろり”

 さて、こうしてたどり着いた長崎であるが、事前に調査した長崎カステラの老舗”福砂屋本店”は宿泊したホテルのすぐ近くにあった。時間の都合でここを後回しにして、思案橋周辺のアンティーク・ショップから見に出かけた。

 最初に目指した店は、思案橋のすぐ近く、鍛冶市通りに面した「アンティーク マヨリカ」であったが、ここは《水曜 定休日》の表示があり店はシャッターが下りていた。道路に面したショウウインドウにはいくつかの商品が展示されていて、魅力的なガラス器も見られたのであるが、店内を見ることができなかったのは、いかにも残念であった。


定休日でシャッターが下りていた「アンティーク マヨリカ」の店舗(2019.3.13 撮影)

 この後、同じ通りに面した小さな古民芸店に入ってみたが、ガラス器はそれほど品数がなく、ペアタンブラーと前日有田で訪問したばかりの、深川製磁製の磁器皿をいくつか選び、発送の準備をしてもらいながら、女性店主とちょうど外から戻ってきた娘さんの二人に周辺のアンティークショップのことを教えていただいた。

 それによると、予定していた”ナガサキヤ”はもうだいぶ前に店を閉じているという。レストラン”銀嶺”も移転していて、少し離れた「長崎歴史文化博物館」の敷地内にあることが判った。また、アンティークガラスは、グラバー園などのある地区のショップ”グラバー”に行けば見られるのではと教えていただいた。

 次に、この古民芸店から更に通りを北東の方に進んだところにある骨董店に立ち寄った。ここは比較的大きい店舗で、多くのアンティークガラス器を含む商品が見られた。棚の高いところに金赤の「ちろり」が置かれているのが目にとまり、店番の若奥さんと思しき女性に値段を訪ねると、電話で店主に問い合わせてくれた。返ってきた答が私の予想通りであったので、これをいただくことにした。製作年代は判らなかったが、念願の”ちろり”をこうして入手することができた。


長崎市内の骨董店で購入した金赤ガラス製の”ちろり”

 移転したレストラン”銀嶺”があるという「長崎歴史文化博物館」までは、さらに1kmほどの距離があったが、昼食をここで取ることにして、商店街から離れた場所に向かった。「長崎歴史文化博物館」はそれ自体とても興味深いところであったが、今回は割愛、素通りして敷地内の南東方向にある”銀嶺”に入った。


「長崎歴史文化博物館」入り口(2019.3.13 撮影)


「レストラン”銀嶺”」のある建物(2019.3.13 撮影)
  
 まだ食事客がまばらであったので、店内に展示されているアンティークガラスを見せていただくことができ、写真撮影も自由にさせていただいた。事前に書籍の写真で見ていたが、移転前と同様と思える色とりどりのコレクションが、入り口付近を中心に店内に展示されており、すばらしいものであった。







「レストラン”銀嶺”」店内のアンティークガラスコレクション(2019.3.13 撮影)

 ここから坂道を下り、ちょっと乗ってみたかった市電を利用して、新地中華街に向かった。旅行直前に見たTV番組で、ここにある長崎ちゃんぽんや皿うどんの麺を作り続けている店が紹介されていたからである。我々もここでお土産用の麺を買ってから、午前中からとってあったもう一つの目的場所、寛永元年(1624年)創業という長崎カステラの老舗”福砂屋本店に”向かった。ホテルに預けてあった荷物を受け取り、福砂屋の店舗脇の駐車場に車を停めた。
 店内は名産の土産物を求める客で賑わっていたが、我々はまっすぐ右奥のガラスコレクション展示コーナーに向かった。ここは比較的すいていて、ゆっくりと鑑賞し、写真撮影をすることができた。このコレクションは質・量において素晴らしいものであり、英国、フランス、ヴェネチア、ボヘミア産の多くの海外のガラス器とともに、書籍③で紹介されていた薄手の長崎ガラスの瓢箪型徳利が今も変わらず展示されていた。

 ただ、前記の書籍③で写真が掲載されていたが、出版当時「現在、未展示」となっていた「江戸中期の名品とされる”長崎ガラス藍色ちろり”」はこの日も残念ながら展示品の中に見つけることはできなかった。


福砂屋本店のガラス器コレクション展示コーナー(2019.3.13 撮影)


福砂屋本店のガラス器コレクション展示コーナー(2019.3.13 撮影)












”福砂屋本店”展示コーナーのガラス器コレクション(2019.3.13 撮影)

 このあと、もちろん長崎カステラを購入し、次の目的地”大浦天主堂”や”グラバー園”のある地区に移動した。

 最初に訪れたのは現在も長崎ビードロ(ガラス)を作り続けている長崎工芸館”瑠璃庵”である。この工房ではガラス器作りを体験することもでき、工房前には若い女性の姿も多く見られた。また、ここでは現代の長崎ビードロの特徴とされる宙吹きや型吹きによる薄手で軽妙なフォルムのものが作られ、すでに同様のものは上で紹介したが、長く伸びた注ぎ口と取っ手をもつ、土瓶型の酒器「ちろり」が代表的な製品とされる。
 ちろりとはもともと銀や銅、錫などでできた酒を温めるための容器だが、江戸時代には冷酒用にガラス製のものが数多く作られたという。この瑠璃庵はそのちろりの復元に力を入れていて、ネット販売もしている。通販サイトで見ることができる藍色のちろりは、書籍③に掲載されている福砂屋の名品と似通った色・形状に作られている。


”福砂屋本店”のコレクションとされる江戸時代の「ちろり」(上)と”瑠璃庵”で製造・販売されている現代の長崎ガラス「ちろり」(下)

 次に目指した”南山手十六番館は”意外にも営業を止めていて、荒れ果てているように見えた。近くの土産物店で聞くと、もうずいぶん長い間このような状態のまま放置されているという。ここには「・・・驚くほど多様でユニークなガラスの数々が揃っている。古い木造洋館を移築した館内には、櫛やかんざし、煙管から西洋ランプ、花器、鳥籠まで、実にさまざまなガラス製品が展示されている。その数は3000点に及ぶという。・・・」と書籍③で紹介されたいただけに、とても残念でならなかった。

 多くの観光客を集める大浦天主堂やグラバー園とは対照的に、こうして営業を止めてゆくガラス関連施設があることに一抹の寂しさを感じながら、この場所を最後に長崎を後にして次の目的地雲仙に向かって車を走らせた。

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ガラスの話(12)ガラスの中の動物

2019-01-04 00:00:00 | ガラス
 明けましておめでとうございます。2019年は亥年ということで、ショップ用にと娘がイノシシの彫刻が入っているガラス器を撮影して、年賀状を作ってくれたのでお届けする。今年も本ブログをよろしくお願い申し上げます。



 ここで使用したガラス器は、高さが150mm、口径が86mmとやや大きめのビアグラスといったところ。透明ガラスに、薄く赤いガラスを被せてから、彫刻を施してあり、チェコのエーゲルマン(Egermann)工房で作られたものと思われる。

 ガラス表面に彫刻を施す技術がいくつかある。このイノシシを彫刻している技法は、その中のグラビュール(フランス語)またはカッパー・ホイール・エングレーヴィング(英語)と呼ばれている技法で、非常に微細な彫刻が可能なものである。

 ガラス器の全体は次のようなもので、イノシシの他に鹿が2頭と、その周辺には鳥、木、草が配置されている。


イノシシや鹿が彫刻されているビアグラス(2019.1.2 撮影)




ビアグラスに彫られているイノシシと鹿(2019.1.2 撮影)

 グラスを回転させながら、周囲に彫刻されている動物を見ていただこう。


イノシシと鹿を彫刻したガラス器(2019.1.2 撮影)

 今回は、手元にあるガラス器の中から、動物が彫刻されているものを紹介させていただく。次に見ていただくのは、透明ガラスカップ部全体にグラヴュール法による彫刻が施され、その中に鹿などが描きこまれているワイングラス。カップの下の方には犬と鳥も彫られている。グラスは、高さ133mm、カップ径64mmであり、描かれている動物も小さいため、彫刻の精細度は、前のビアグラスに比べてずいぶん粗く見える。このワイングラスの製作年代は19世紀で、同じくエーゲルマン工房のものである。


鹿などを彫刻したワイングラス(2019.1.2 撮影)


鹿や犬が彫刻されているワイングラス(2019.1.2 撮影)





ワイングラスにグラヴュール法で描かれている、鹿、犬、鳥(2019.1.2 撮影)

 ここで用いられている、グラヴュール法について、Barbara Norman の著書(ENGRAVING AND DECORATING GLASS - Methods and Techniques, 1972年 Dover Publications, 発行)を参考に、簡単に触れておく。


ENGRAVING AND DECORATING GLASS - Methods and Techniques - の表紙

 この本では、成形後冷却したガラスに彫刻(エングレーヴィング;Engraving)する方法として、次の3方法を紹介している。

1.ダイアモンド・ポイント・エングレーヴィング(Diamond Point Engraving)
2.ドリル・エングレーヴィング(Drill Engraving)
3.カッパー・ホイール・エングレーヴィング(Copper Wheel Engraving)
 
 ダイアモンド・ポイント・エングレーヴィング法は、文字通りダイアモンド・ペンシルの尖った先端でガラスに点刻を施したり、細い線を刻んで、絵画的な表現をする技法を指す。古くはローマ時代に始まったとされるが、ヴェネチアで16世紀に発展し、さらに17世紀から18世紀のドイツやオランダ、イギリスで大流行したとされる。

 電動ハンド・ドリル(リューター)にフット・スイッチを組み合わせて彫刻する方法が、ドリル・エングレーヴィングである。ダイアモンド、カーボランダムなど種々の材質と形状のドリル先を選ぶことができ、便利な方法であるが、繊細な表現を行うには、次のカッパー・ホイール・エングレーヴィングに及ばないとされる。

 最後のカッパー・ホイール・エングレーヴィングは、回転軸の先端に、直径5mm~100mmの銅製や石製の円盤をつけて、ガラス表面を彫刻する方法である。回転円盤には効率よくガラスを削るために、油で粘った研磨材をつける。この技法の始まりは非常に古く、古代メソポタミアに遡ることができるが、ガラス工芸に使われるようになったのは、16世紀頃のドイツ、ボヘミアであるとされる。現在は、モーターを使用して回転させているが、昔は足踏み式で行われていた。この彫刻には、絵画的才能と彫刻的才能の両方が要求されるために、ガラス工房の中では、技術者として最も高い地位が与えられているという。制作には長い時間がかかるため、作品はとても高価なものになる。

 ここでは、そうした高価なものを、お目にかけることはできないが、手元にある動物が彫られたカッパー・ホイール・エングレーヴィング作品のいくつかをご覧いただいて、雰囲気を味わっていただこうと思う。

 最初は、ほ乳類から。4番目に猫が出てくるが珍しい。



鹿が彫られているグラス(チェコ製 H207mm, D78mm 2019.1.2 撮影)



馬が彫られている花瓶(チェコ製 H170mm, D90mm 2019.1.2 撮影)



犬が彫られているオペーク・ツイスト・ステムのワイングラス(ドイツ製 H190mm, D68mm 2019.1.2 撮影 )



猫が彫られているオペーク・ツイスト・ステムのワイングラス(ドイツ製 H190mm, D68mm 2019.1.2 撮影 )

 次に鳥類。これが一番多い。



フクロウが彫られているエアー・ツイスト・ステムのワイングラス
(イギリス製 H165mm, D95mm 2019.1.2 撮影 )



ミソサザイが彫られているエアー・ツイスト・ステムのワイングラス
(イギリス製 H165mm, D95mm 2019.1.2 撮影 )



ニワトリが彫られているオペーク/カラー・ツイスト・ステムのワイングラス
(イギリス製 H140mm, D68mm 2019.1.2 撮影 )



水鳥が彫られているカラー・ワイングラス(チェコ/モーゼル社製 H185mm, D85mm 2019.1.2 撮影 )




2種の鳥が彫られているフィンガー・ボウル(アメリカ/ホークス社製 H60mm, D115mm 2019.1.2 撮影)






4面に水鳥、フクロウとコウモリ、ハトなどが彫られている大型ボウル
(イギリス製 H133mm, D240mm 2019.1.2 撮影)



2羽のサギが彫られているワイングラス(ヴェネチア製 H260mm, D75mm 2019.1.2 撮影)

 次に魚類。これはあまり見かけない。現在手元にあるのはこの1セットだけである。


種々の魚が彫刻されたデキャンター、ワイングラスのセット
(デキャンター:H220mm, D120mm/グラス:H155mm, D85mm 2019.1.2 撮影 )

 昆虫では蝶が見られるが写実的でなく、たいてい図案化されている。昆虫ではないが珍しいところで蜘蛛も見られる。



蝶が彫られているオールド・ファッション・グラス(アメリカ製 H95mm, D80mm 2019.1.2 撮影 )



蝶が彫られているフィンガー・ボウル(イギリス製 H60mm, D130mm 2019.1.2 撮影 )



3頭の蝶が彫られている皿(アメリカ製 H40mm, D150mm 2019.1.2 撮影 )




蝶と蜘蛛が彫られているフィンガー・ボウル(イギリス製 H60mm, D130mm 2019.1.2 撮影 )

 以上はすべてカッパー・ホイール・エングレーヴィング法で彫られている。

 最後に、エングレーヴィング法ではないが、珍しいエナメル彩色で馬車の絵が描かれているゴールド・サンドイッチ法によるグラスを見ていただく。ゴールド・サンドイッチ法とは2つの相似形のタンブラーを使い、小さい方のタンブラーの外側に金箔を貼って、これにエッチング文様を施し、あるいは今回紹介するようにエナメルで絵を描いて、大きい方のタンブラーにぴったりとはめ込み、口縁を封じたものである。



馬車が描かれているゴールド・サンドイッチ・ゴブレット(ボヘミア製 H93mm, D68mm 2019.1.2 撮影 )

 では、この辺で。今年は災害のない年になりますよう。
 





 






 

 




 
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箱根ガラスの森美術館

2018-12-07 00:00:00 | ガラス
11月30日に、元の職場のOB会が新横浜で予定されていて、ずいぶん前に参加の返事を出してあったが、ガラスショップの今期の仕事が一段落し、久しぶりに鎌倉の娘宅に行って孫にも会いたいなどと思い、その他にもいくつかの目的があったので、車で出かけることにした。

 その他の目的とは、せっかく神奈川に出かけるのなら、ということでかねて行ってみたいと思っていた、「箱根ガラスの森美術館」にも立ち寄る計画を立てたことと、この日の宿に「川奈ホテル」を選んだことである。

 川奈ホテルは、クラシックホテルの会のメンバーで、軽井沢の万平ホテルなどとグループを作り、活動をしているが、これまでにもこのグループのホテルに数か所滞在したことがあり、今回もぜひ泊まってみたいと思っていたので、ここに決めた経緯がある。

 そして、こちらは事前に調べていたわけではないが、この川奈ホテルのすぐ横には「伊豆高原ステンドグラス美術館」があった。
 
 今回はこのうち「箱根ガラスの森美術館」の紹介をさせていただく。「川奈ホテル」と「伊豆高原ステンドグラス美術館」については、また別の機会に改めて紹介させていただこうと思う。

 軽井沢から箱根に行くには、碓井軽井沢ICで高速道路に乗ると、上信越道、関越道、圏央道、小田原厚木道と小田原まで高速道路がつながっていて、とても便利である。小田原から、仙石原にある「箱根ガラスの森美術館」までは東海道(国道1号線)を通り宮ノ下に行き、ここから箱根裏街道(国道138号線)を走ることになる。

 途中、宮の下には、クラシックホテルのひとつ、富士屋ホテルがある。現在は、耐震補強・改修工事中ということで休館中であったが、以前ここに泊まった時には、案内された明治24年建造という本館の部屋のすぐ前が、かつてチャップリンが宿泊した部屋(45号室)であった。クラシックホテルは、建物自体に興味深いところがあるが、こうした歴史的な人物との関連についての楽しみもある。ちなみに、今回泊まった川奈ホテルでは、新婚旅行で訪れた、マリリン・モンローと夫君のジョー・ディマジオの記念写真が飾られていた。

 さて、「箱根ガラスの森美術館」まで紅葉の中を走り、第一駐車場に車を停めて、早速館内に入った。チケット売り場を通り抜けたすぐ前はテラスになっていて、ここからは施設内をほぼ一望にでき、またその背後に僅かに噴煙の見える大涌谷を望むことができた。

「箱根ガラスの森美術館」入口(2018.11.28 撮影)

「箱根ガラスの森美術館」のテラスからの眺望(2018.11.28 撮影)

 この「箱根ガラスの森美術館」はヴェネチアン・グラスで有名だが、さっそくその「ヴェネチアン・グラス美術館」に向かった。この館内では、丁度馬頭琴による演奏が始まろうとしていて、多くの入館者が席についているところであったが、妻と私はこれをスキップして展示品の見学に回った。お陰で、ゆっくりと見学し、写真撮影も許可されていたので、じっくりと撮影することができた。

 ガラス器の生産地といえば、すぐにヴェネチアやボヘミアの名前が浮かぶほど、このヴェネチアは有名であるが、実際そのガラス器生産の歴史は古く、正確なことは諸説があり一定しないようだが、1268年には、ガラス同業組合が結成されていたとされる。

 その後、1300年頃までの初期ヴェネチアン・グラスの時代に、1275年には、木灰、カレット(ガラスの原材料片)、珪石の輸出を禁止し、1291年にはガラス製造業者、工人のすべてをムラノ島に強制移住させる法令、「ムラノ島集中移住令」を発布するなど、ヴェネチア当局はガラス器製造の秘密を守り、その品質を高め、高価な値段で外国に売った。

 実際に、ムラノ島に強制移住させられた工人たちは、非常な恩典を受けた反面、島外不出のおきてを守らなければ、処罰されることになっていた。重罰(島外逃亡)は、もちろん死罪であった。

 このような、極端な保護育成と門外不出の拘束によって、ヴェネチアン・グラスの声価はだんだんと高まり、14世紀末から15世紀にかけて、東方のガラス産地が次々とチムール軍によって壊滅させられていったとき、ガラス器の唯一の供給源がヴェネチアとなり、独占的に欧州市場に出荷されていったという。

 15,16世紀はヴェネチアのガラス工芸の最盛期とされているが、今回この「ヴェネチアン・グラス美術館」には、それに近い16世紀から現代までのガラス作品が展示されていた。

 入館券にも写真が使用されている、1500年頃の作とされる「点彩花文蓋付ゴブレット」は、展示品の中でも最も古いもののひとつであるが、会場に展示されていた多くのガラス製品はこうしたヴェネチアの伝統技術を受けついでいて、他場所で製造されたものとは一線を画しており、一目してヴェネチア産と判るものがいくつも見られた。

「箱根ガラスの森美術館」の入館券に見られる1500年頃の作とされる「点彩花文蓋付ゴブレット」 

 以下、見学した中からいくつか展示作品を紹介する。

1500年頃、人物行列文壺(2018.11.28 撮影)

16-17世紀、ドラゴン・ステム・ゴブレット(2018.11.28 撮影)

16-17世紀、レース・グラス・コンポート(2018.11.28 撮影)

17世紀、松笠形ランプ(2018.11.28 撮影)

19世紀、オパールセント・グラス・コンポート(2018.11.28 撮影)

19世紀、羊飼い(2018.11.28 撮影)

19世紀、龍装飾水差(2018.11.28 撮影)

19世紀、龍形脚 キャンドルスタンド(左)、コンポート(右)(2018.11.28 撮影)

19世紀、風にそよぐグラス(2018.11.28 撮影)

19-20世紀、ミルフィオリ・グラス花器(2018.11.28 撮影)

20世紀、女性像(2018.11.28 撮影)

 ここで紹介した作品は観賞用の色彩の強いもので、種々のガラス工芸の技法を見ることができる。

 このほか、最盛期のヴェネチアのムラノ島で造られていたガラス器は、実に多様で、食器はもちろんのこと、錬金術用の化学器具から、ランプ、シャンデリア、窓ガラス、モザイク、鏡、室内装飾など、あらゆるものが作られていたという。

 製造技法を見ると、ヴェネチアン・グラスの内容は、大略次のように分けられるとされる(「ガラスの道」由水常雄著 徳間書店1973年発行から)。

1.素文無色ガラス器
2.エナメル彩ガラス器
3.エナメル点彩ガラス器
4.ダイアモンド・ポイント線彫り装飾ガラス器
5.レース・グラス
6.ミルフィオリ・グラス
7.マーブル・グラス
8.アイス・クラック・グラス
9.動物形象装飾ガラス
10.エナメル彩乳白
11.鏡、シャンデリア
12.ビーズ、置物、その他

 この由水氏の著書は、1973年の発行であるが、その時点での状況を氏は次のように記している。

 「これらのうち、ヨーロッパの他の諸国でも、ヴェネチアのエナメル彩の技法は模倣されるようになっていて、ドイツやボヘミアなどの中部ヨーロッパではエナメル彩のガラス器が、盛んに作られるようになっていた。しかし、レース・グラスやミルフィオリ・グラス、マーブル・グラスは、他の窯場ではその技術がわからないで、ヴェネチアの秘法として、後世まで他の模造を許さなかった。とりわけレース・グラスは、今日でもヴェネチアン・グラスの最大の特徴として世に知られ、ほとんど独占的に作られている華麗な最高級ガラス器とされる。」

 この、秘法中の秘法とされた、レース・グラス技術も今日では日本国内でこの技法を得意とする作家が現れるなど、広く知られるようになり、会場には”~「レース・グラス・コンポート」ができるまで~”とした展示も行われていた。レース・グラスについては、以前富山のガラス工房を紹介した時にもその工程を想像しながら図にしたことがあるが(2017.3.24 公開の本ブログ)、実際に使用された器具や作業工程途中の物を見るのは初めてで、とても興味深く見学した。

レース模様のもとになる乳白色のガラス棒を制作する(2018.11.28 撮影)

乳白色のガラス棒を複数本合わせて並べ、引き伸ばしながらねじっていく(2018.11.28 撮影)

ねじり模様のはいったガラス棒を熔着して巻き取る(2018.11.28 撮影)

器の部分と台の部分に分けて、それぞれに息を吹き入れて膨らます(2018.11.28 撮影)

器と台のパーツを合わせる(2018.11.28 撮影)

吹き竿を外した穴を外側に広げてコンポートが完成する(2018.11.28 撮影)

 展示場につながる通路脇には、このレース・グラス技法による人形が展示されていた。

全体がレース・グラスで作られている人形(2018.11.28 撮影)

 館内にあるミュージアムショップには、展示場で見た種々の技法のガラス器が販売されているが、やはりミルフィオリ・グラスとレース・グラスは目を引く。

 入り口脇のショウウインドウには多くのレース・グラスの商品が飾られていた。

ミュージアム・ショップの入り口に展示されているレース・グラス技法による各種商品(2018.11.28 撮影)

 ヴェネチアン・グラス美術館、ミュージアム・ショップを見たところで、丁度昼時になったので、館内のカフェ・レストラン「ラ・カンツォーネ」でランチにしたが、ここではイタリア人歌手によるカンツォーネの生演奏を聴くことができた。横の妻はうっとりと聴きほれているようすであった。

 この後、少し館内を散策し、伊豆スカイライン経由で川奈方面に向かった。以下、館内の写真をみていただく。

カフェ・レストラン「ラ・カンツウォーネ」(2018.11.28 撮影)

ショップ「アチェロ」(2018.11.28 撮影)

体験工房の入り口の紅葉と照明器具(2018.11.28 撮影)

ミュージアム・ショップ入り口に展示されていた作品「ガラスの水族館」(2018.11.28 撮影)

池に展示されているガラス作品「パラッツォ・ドゥカーレ・シャンデリア」(2018.11.28 撮影)



 








 
 


 
 

 

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