『空海の生涯』 を読む前は、空海は弘法大師の若い時の名前と思っていた。基礎知識も弘法も筆の誤り、弘法筆を選ばず、四国八十八か所霊場を創設したのを覚えていたぐらい。これらの知識の裏付け、エピソードを本で知りたかったが記載されていない。聖人ではなく人間味あふれる人物として描かれているのは心に響いたのだが、知りたかったエピソードがなかったので消化不良の気持ちだった。
親鸞聖人の場合は、生存中に改名していたので親鸞として活動していた。弘法大師も同じだと思っていたが、弘法大師の場合は空海として描かれている。?
『空海は弘法大師と呼ばれます。この呼び名は、死後八十年以上も経ってから朝廷が空海に与えた諡号(贈り名)です。それ以後「弘法大師伝説」が大きくなりすぎ、その神格化は異常なまでに発展して伝説ばかりが一人歩きをし、いっそう実像が見えにくくなり、史実と伝説要素とが混在して語られるようになった。』これは本文から引用で一つの疑問が解消。
「弘法も筆の誤り」弘法大師(空海、774-835)は、嵯峨天皇、橘たちばなの逸はや勢なりとともに三筆といわれる書の名人でした。大師には、応天門の扁額を揮毫し、掲げられた額の「應」(応)の字に点が一つ欠けていることに気づき、下から筆を投げつけて、点を打ったとする伝説があります(今昔物語など)。
例文.弘法にも筆の誤りだ、次は同じ過ちをせずにしっかりやってくれ
例文.弘法にも筆の誤りだ、いつも一生懸命なあの人を責めることはやめよう』
「弘法筆を選ばず」本当の名人は、道具の善し悪しなど問題にしないというたとえ。どんな状況であっても結果を出すのがプロであるという考え方を示すたとえとして使われたり、うまくいかないことを道具のせいにするのはプロとして失格だ、といったような精神論として使われます。この言葉の真の意味は、弘法大師のような達人であれば、筆の良し悪しは関係なく、どんな筆でも傑作が書ける、ということのようです。しかし、弘法大師は書体によって筆を使い分け、「どんな筆でも良い」のではなく、筆への「こだわり」があって、良い字を書くには、良い筆でないとダメだと言ったという、つまり「弘法は筆を選ぶ」ことになり、かなりの収集家でもあったようだ。一流と言われる人は道具に徹底してこだわっている方が多いようだ。
『四国にある空海ゆかりの88か所の仏教 寺院の総称で、四国 霊場の最も代表的な札所である。』創設ではなくゆかりの地となっている。ゆかりの地とはなんだろう。
古代から、都から遠く離れた四国は辺地(僻地の意)と呼ばれていた。平安時代頃には修験者の修行の道であり、讃岐国に生まれた若き日の空海もその一人であったといわれている。空海の入定後、修行僧らが大師の足跡を辿って遍歴の旅を始めた。時代が経つにつれ、空海ゆかりの地に加え、修験道の修行地や足摺岬のような補陀洛渡海の出発点となった地などが加わり、四国全体を修行の場とみなすような修行を、修行僧や修験者が実行した。江戸時代には、修行僧だけでなく信仰・物見遊山の為に民衆が集まり、「辺地」から「遍路」の形に変化したとされます。
◇今回、人生の最後で空海を取り上げたので残りの疑問も調べてみたが、私の知識は空海没後に語り継がれていることばかりだった。
「弘法も筆の誤り」文章を書けば誰にでも誤字脱字はある。それなのに何百という著作の中でひとつの作品で点の書き忘れを見つけ、それを諺として後世に語り継げられている。それは空海の偉大さを示す証かもしれない。例文を調べると人の失敗を慰める、励ましばかりだが、「完璧と思うな、弘法にも筆の誤りという諺がある。もう一度見直してみる。」と戒めとして捉えるのも必要だと考える。
「弘法筆を選ばず」については、エピソードは見つからなかった。どこかで書くことがあり、その時に筆を借りて書いた文字が空海としては満足できる出来ではないが、一般の人々は素晴らしいと称えられたのだろう。しかし、一流を目指すなら道具への拘りは大事である。
「四国八十八か所霊場」個々の霊場に空海の逸話があると思っていたのが勘違い。空海は四国で生まれ修行した、空海の付けた点が線になり円に、四国全体を修行の場とみなすような修行を、修行僧や修験者が実行した。江戸時代には、修行僧だけでなく信仰・物見遊山の民衆が四国八十八か所霊場を作り上げたのではないだろうか。四国八十八ヶ所を巡る遍路の笠に書かれる。同行二人は霊場巡りにおいて、常に自分には弘法大師がついていてくれる、弘法大師が守ってくれるという意味。同行二人は弘法大師が訪れていない四国の仏教 寺院を弘法大師と訪れていると新解釈をしても良いのではないだろうか。
※まだ空海を理解しきれていない、もう少し時が過ぎてから『空海の生涯』を読み直したい。
親鸞聖人の場合は、生存中に改名していたので親鸞として活動していた。弘法大師も同じだと思っていたが、弘法大師の場合は空海として描かれている。?
『空海は弘法大師と呼ばれます。この呼び名は、死後八十年以上も経ってから朝廷が空海に与えた諡号(贈り名)です。それ以後「弘法大師伝説」が大きくなりすぎ、その神格化は異常なまでに発展して伝説ばかりが一人歩きをし、いっそう実像が見えにくくなり、史実と伝説要素とが混在して語られるようになった。』これは本文から引用で一つの疑問が解消。
「弘法も筆の誤り」弘法大師(空海、774-835)は、嵯峨天皇、橘たちばなの逸はや勢なりとともに三筆といわれる書の名人でした。大師には、応天門の扁額を揮毫し、掲げられた額の「應」(応)の字に点が一つ欠けていることに気づき、下から筆を投げつけて、点を打ったとする伝説があります(今昔物語など)。
例文.弘法にも筆の誤りだ、次は同じ過ちをせずにしっかりやってくれ
例文.弘法にも筆の誤りだ、いつも一生懸命なあの人を責めることはやめよう』
「弘法筆を選ばず」本当の名人は、道具の善し悪しなど問題にしないというたとえ。どんな状況であっても結果を出すのがプロであるという考え方を示すたとえとして使われたり、うまくいかないことを道具のせいにするのはプロとして失格だ、といったような精神論として使われます。この言葉の真の意味は、弘法大師のような達人であれば、筆の良し悪しは関係なく、どんな筆でも傑作が書ける、ということのようです。しかし、弘法大師は書体によって筆を使い分け、「どんな筆でも良い」のではなく、筆への「こだわり」があって、良い字を書くには、良い筆でないとダメだと言ったという、つまり「弘法は筆を選ぶ」ことになり、かなりの収集家でもあったようだ。一流と言われる人は道具に徹底してこだわっている方が多いようだ。
『四国にある空海ゆかりの88か所の仏教 寺院の総称で、四国 霊場の最も代表的な札所である。』創設ではなくゆかりの地となっている。ゆかりの地とはなんだろう。
古代から、都から遠く離れた四国は辺地(僻地の意)と呼ばれていた。平安時代頃には修験者の修行の道であり、讃岐国に生まれた若き日の空海もその一人であったといわれている。空海の入定後、修行僧らが大師の足跡を辿って遍歴の旅を始めた。時代が経つにつれ、空海ゆかりの地に加え、修験道の修行地や足摺岬のような補陀洛渡海の出発点となった地などが加わり、四国全体を修行の場とみなすような修行を、修行僧や修験者が実行した。江戸時代には、修行僧だけでなく信仰・物見遊山の為に民衆が集まり、「辺地」から「遍路」の形に変化したとされます。
◇今回、人生の最後で空海を取り上げたので残りの疑問も調べてみたが、私の知識は空海没後に語り継がれていることばかりだった。
「弘法も筆の誤り」文章を書けば誰にでも誤字脱字はある。それなのに何百という著作の中でひとつの作品で点の書き忘れを見つけ、それを諺として後世に語り継げられている。それは空海の偉大さを示す証かもしれない。例文を調べると人の失敗を慰める、励ましばかりだが、「完璧と思うな、弘法にも筆の誤りという諺がある。もう一度見直してみる。」と戒めとして捉えるのも必要だと考える。
「弘法筆を選ばず」については、エピソードは見つからなかった。どこかで書くことがあり、その時に筆を借りて書いた文字が空海としては満足できる出来ではないが、一般の人々は素晴らしいと称えられたのだろう。しかし、一流を目指すなら道具への拘りは大事である。
「四国八十八か所霊場」個々の霊場に空海の逸話があると思っていたのが勘違い。空海は四国で生まれ修行した、空海の付けた点が線になり円に、四国全体を修行の場とみなすような修行を、修行僧や修験者が実行した。江戸時代には、修行僧だけでなく信仰・物見遊山の民衆が四国八十八か所霊場を作り上げたのではないだろうか。四国八十八ヶ所を巡る遍路の笠に書かれる。同行二人は霊場巡りにおいて、常に自分には弘法大師がついていてくれる、弘法大師が守ってくれるという意味。同行二人は弘法大師が訪れていない四国の仏教 寺院を弘法大師と訪れていると新解釈をしても良いのではないだろうか。
※まだ空海を理解しきれていない、もう少し時が過ぎてから『空海の生涯』を読み直したい。
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