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装飾古墳は語る(2)・竹原古墳

2022-07-07 10:27:15 | 装飾古墳

前回に続きシリーズ2回目は『竹原古墳』である。尚、シリーズ3回目以降は不定期連載とする。

訪れたのは今年5月、小雨が降る日で雨のため湿度が高く、装飾古墳内は冷房のせいか、曇りガラス状態であったが、玄室の壁画はそれなりにみることができた。残念であったのは、手前の前室左右の袖石に描かれている玄武と朱雀と呼ばれる画像が、よく読み取れなかったことである。これについては、古墳手前の建屋に掲げられていたパネルに掲載されていた。

先ず、竹原古墳のパンフレットを掲げておく。概要が記されているので参考になろうかと思っている。

(竹原古墳入口前建屋のパネル:左右の袖石に玄武・朱雀が描かれている?)

<壁画系装飾古墳>竹原古墳 若宮市 6世紀後半

古墳は2段構築の円墳で直径17.5mの横穴式石室(全長6.7m)である。出土遺物は、勾玉・ガラス丸玉・金環・轡(くつわ)・杏葉・辻金具・刀の鞘・鉄鏃である。

(以上、宮若トレッジ展示品:地域の首長と思われる、騎馬民族由来の遺物である)

(宮若トレッジ展示の竹原古墳レプリカ)

壁画の内容は、後室奥壁には、4つの波頭文(蕨手文?)と舟。翳(さしば)一対、仔馬らしき動物を牽く人物(舟から降ろそうとしているのか、逆に載せようとしているのか)、その人物の髪はミズラであろうか。中央上は怪獣のように見えるが、龍ないしは天馬であろうとの見方が存在する。三角連続文も見える。前室奥壁は右に朱雀、左に玄武が描かれているとされているが、朱雀は別としても玄武は玄武に見えそうもない。

以下、竹原古墳に関する種々の見解を箇条書きで示す。

1.中央上の怪獣について、1969年金関丈夫氏は中国古来の伝承である龍媒伝説(りゅうばいでんせつ)を描いたものと説いた。龍と馬から駿馬を生み出すとの伝説である。・・・この説には多少なりとも疑問がある。馬の下に船が描かれている。金関説では、雌馬を龍の棲む場所へ、船に載せて来たと説明するが、説得力のない説明である。更に、なぜ被葬者の墳墓に中国の伝承なのか・・・と云う単純な疑問である。

それ以上に、被葬者が安置される玄室に何故龍媒伝説なのか?・・・被葬者の魂を鎮める、あるいは邪悪なものから護るというような文様、別の視点では、被葬者の魂を常世の世界に導く文様であれば、それらが玄室に描かれた意味は理解できるが、龍と馬から駿馬が生まれる絵が墓の中に描かれる意味が分からない。

2.中央上の怪獣は、全身に棘があり赤の斑点を持つのは麒麟であろう。仁ある治世を行い、この世を去る時麒麟が迎えに来ているのを表しているであろう。

3.前室の壁画は、右が朱雀左が玄武と云われているが、朱雀ではなく鳳凰で、玄武ではなく霊亀である・・・壁画が不鮮明で、見方はまちまちのようである。

4.高句麗・百済の四神図や日像図と比較検討すると、怪獣は青龍であり、前室の右は朱雀、左は玄武である。

5.怪獣は天馬であろう。その怪獣は舌をだしているのか、それとも火焔を吐いているのか。韓国慶州・天馬塚古墳出土の『天馬像の障泥(あおり)』には、口から火焔を吐くような表現があり、竹原古墳の怪獣と通じるものがある。

(韓国慶州 天馬塚古墳出土 白樺の樹皮に描かれた天馬 出典・国立慶州博物館hp)

(天馬の口からは雷光か?竹原古墳の怪獣にも雷光か?)

天馬が翼をもつペガサスは雷鳴と雷光をもたらすとされる。江田船山古墳出土の銀象嵌の銘文鉄刀。棟のところに銘文が在り、鎺(はばき)のところに馬を銀象嵌しているが、雲気文のようなものがあり天馬を表現していると考えられる。6世紀後半には倭に天馬の概念は存在していた。

(江田船山古墳出土銀錯銘大刀 出典・文化財オンライン)

6.怪獣は青龍の見方であり、朱雀、玄武と思われる画像もある。5世紀後半には、奈良・新沢126号墳出土の漆盤のように青龍・白虎・朱雀のように四神図は流入している。後漢の方格規矩鏡の四神図も渡来している。四神図として何の矛盾もない。・・・これは観念論が先行しているように思われる。絵の内容を精査する(消えておりできないが)必要がある。

(新沢126号墳出土の漆盤:竹原古墳の時代に四神思想は伝播していた)

7.前室奥壁右側には、頭に大きな肉冠を付け尾羽根を長く立ち上がらせた鳥が、左には後室奥壁の翳の上部と同じような楕円文の上に蛇のようなものが描かれている。右の鳥は朱雀、左の楕円文は玄武の可能性が大きい。これが正しければ、後室奥壁の怪獣も四神の青龍である可能性が高くなり、龍媒伝説の解釈は成立しない。

8.船の下には波頭のような絵が4つ描かれている。これは蕨手文(わらびてもん)であるとの見解も存在する。これに関連して浜松・伊場遺跡出土の木製短甲の文様・・・羊の角に見える文様は蕨手文で、当該・竹原古墳の文様も蕨手文であるとの見解である。う~ん。伊場遺跡の文様は、どのように見ても渦巻き文にしか見えないのだが、竹原古墳のそれは、船が浮かぶ波頭文にしか見えない。

(伊場遺跡出土木製短甲)

以上が、主な見解かと思われる。ここで全ての壁画を包括しての見解は示されていない。いずれも、いずれかの画像を切り取って見解を示しているのにすぎない。しかし、すべての画像を対象に読み取った見解は、示そうとしても示すのは困難であろうが、以下のように考える。

基本的には葬送儀礼の表現である。馬を牽く人物像は、被葬者を天上他界へ導く様を表したであろう。怪獣を天馬と考えると、地上から天への垂直的表現と解釈できる。天馬となり魂は飛翔する。地上の牽馬像に対する天界の馬、つまり天馬である。波頭文の上に描かれた舟も他界への乗り物(天の鳥船)である。つまり魂は天上他界へ飛翔する様を描いたもので、多くの三角文は辟邪文様であるが、霊場の領域を示す区画のための旗とも解釈できる。悪霊から守られ、魂は天上に飛翔する様子が描かれていると考えている。ただし当時に天上他界の概念が存在していたのかどうか・・・と云う問題はあるのだが。

このような総合的な判断を下す根拠は、これらの壁画は半島から渡来した高句麗系の画工の手によるものと考えていることによる。馬あるいは神馬(天馬)については、先にも述べたが、江田船山古墳出土の銀象嵌銘鉄刀に刻まれている天馬である。これも高句麗系の工人によるものと思われる。推古朝以降、高句麗系の黄文画師(きぶみのえし)が、宮廷工人の中核であったことから想定されることである。

ここで、東京国立博物館の河野一隆氏の面白い解釈なり仮説が存在する。それについて紹介してみたい。

壁画は中央に描かれ左右に余白がある。横穴石室の入口から見て玄室入口の左右両側の石が飛び出ている。この石の死角になる部分には、装飾が描かれていない。このことから装飾は一体誰に見せるためのものだったのか。

つまり竹原古墳の装飾は、入口から見るためのもので葬送儀礼に参加した人が見るためのものであったと思われる。その装飾の前には棺が置かれており、被葬者とその背景に飾られた文様のある空間を見せること、すなわち「飾られた死者」を演出する空間であった・・・と述べられている。

それに対し、近畿は入口から見えないように「隠された死者」を安置する空間であるとする。この双方の違いは、『死生観』の違いであろう。近畿の『隠された死生観』は、「日本書紀」・黄泉国(よみのくに)段に登場する。

日本列島の国生みや諸々の神を生んだ、伊弉諾尊(以下、イザナギ)と伊弉冉尊(以下、イザナミ)は火の神(軻遇突智・かぐつち)を生んだあと、それが原因で亡くなる。夫のイザナギは死者の国である黄泉国を訪ねイザナミと再会する。イザナギはイザナミを連れて帰ろうとするが、イザナミは黄泉国の食事をとったため現世に戻ることはできない、そこでイザナミは黄泉国の神に相談するあいだ、自分の姿を見てはならないとイザナギに伝える。我慢ができないイザナギが見たものは、体が腐敗したイザナミの姿であった。イザナミは恥をかかせられたとして、鬼女八人と自身も鬼と化してイザナギを追う。かろうじてイザナギは現世に戻るが黄泉国との境である泉津平坂(よもつひらさか)に岩を立てて生と死の国の境を遮断した。

このように、近畿の横穴式石室は、死者を穢れ(けがれ)たものとする黄泉国の思想、いいかえれば、「隠された死者」を埋納する施設であった・・・と、河野一隆氏は解釈する。このことは、近畿に絵画式の装飾古墳が存在しない理由となるものである。そして、この近畿式の横穴式石室は、継体大王の時代に普及したことから、それと黄泉国神話を結びつけて言及しておられる。この仮説に関しては、更なる検証が必要であろう。

この河野一隆氏の解釈を後押しする事例が存在する。それは奈良県・黒塚古墳から出土した大量・33面の三角縁神獣鏡は、いずれも、その鏡面を内側の棺の方に向けて並べられていた。これは死霊を封じ込めて、外へ出ないようにとの観念であり、河野氏の「隠された死者」を埋納云々に繋がる物的裏付けであると考えられる。

(奈良・黒塚古墳レプリカ 黒塚古墳展示館)

それよりも、気になるのは、“黄泉国の食事”との記載である。古墳にはミニチュアの炊飯土器が埋納されている。黄泉国の食事を摂ることにより、現世に迷い出るなとの願い、呪(まじな)いであろう。

(近畿の古墳にはミニチュアの炊飯具が出土する)

河野氏のイザナギ・イザナミと継体大王の時代観の相違には、戸惑いを覚えるが、日本書紀の黄泉国の食事記事と、古墳に埋納されたミニチュアの炊飯土器、日本書紀はウソを書かなかった・・・ということで、壁画は何を語っているか、被葬者は誰かという謎解きではなく、古墳に祀られる人、祀る人の死生観に関する視点からの見方・解釈であり、大いに興味を覚えた次第である。

<第2回了>



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