世界の街角

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装飾古墳は語る(1)・装飾古墳概論

2022-07-06 08:10:28 | 装飾古墳

2014年9月から当該ブログ【世界の街角】をUpdateして、この9月で8年を経過しようとしている。それを記念すると云えば大袈裟だが、『装飾古墳は語る』とのテーマで不定期連載したいと考えている。正確に勘定した訳でもないが、掲載回数は約20回で1年に渡る不定期連載になる予定である。

(王塚古墳)

装飾古墳として脳裏に浮かぶのは、王塚古墳(上掲写真参照)の朱色を基調としたカラフルな装飾壁画古墳である。これを見ていると、台湾は台中市南屯区春安路56巷の彩虹眷(ツァイホンジュアン)村の家屋の壁絵を思い出す。

(彩虹眷村)

この家屋の壁絵は90歳を過ぎた黄永阜さんが独力で描いたものだとのこと。モチーフこそことなるが、何かの目的をもって描かれたであろうことは共通しており、朱色が基調であることも似ていなくもない。いきなり脱線話をしたが、装飾古墳について話を戻す。

九州の装飾古墳は、5世紀から7世紀にかけて九州中部から北部へ広がる。北上するにつれて様式も新しくなることから、初期装飾―線刻、中期装飾―彫刻、後期装飾―彩色壁画といった分類ができるであろう。装飾古墳の分布で、隼人といわれた現・鹿児島県では、存在しないことが不思議と云えば不思議である。

装飾古墳の多くは、中部九州と北部九州に存在するが、他には我が山陰東部と関東北部&東北南部地域に存在する。今後、装飾古墳を個別に紹介し、壁画や文様の考察を行いたいと考えているが、関東北部や東北南部は、我が田舎からは遠く、現場に行くことが出来ないので、対象とするのは九州北部・中部と山陰東部の装飾古墳とする(しかし、関東北部の虎塚古墳については、例外的に取り上げたいと考えている)。

(主な装飾古墳の分布状況)

(全国の主な装飾古墳)

装飾古墳は、3種類とか4種類に分類して語られる。先に記したように3種類で説明すると、彫刻(浮彫り)や線刻は、古墳時代初期・中期のものに多い。高句麗古墳壁画は故人の生前の栄耀栄華を描いており、目的がはっきりしている。日本では幾何学文であり、何を意味しているのかやや理解に苦しむ。これらは一般的に辟邪文であると思われ、悪霊が石棺に入るのを防ぐためであろう。この種の文様が九州北部の古墳に現れるのは5世紀終りころで、石室は竪穴式から横穴式で副葬品は、いわゆる三種の神器から軍事的な馬具・甲冑・刀などに移行した中期古墳時代への過渡期であったと思われる。装飾古墳には副葬品が少ないという見解もあるようだ。

先にも記したが、装飾古墳の古いものは辟邪の意味合いが強く、6世紀中頃から馬や船の絵が加わってくる。これらは被葬者ないしその魂を来世に運ぶものであろう。これらの船は二重構造で描かれている。

ここまで、装飾古墳を彫刻・線刻・彩色壁画の3種類で説明してきたが、小林行雄氏は下記の4種類に分類された。

 1.石棺系・・・代表例・石人山古墳 横穴式石室

 2.石障系・・・代表例・千金甲(せごんこう)1号(甲号)墳 横穴式石室

 3.壁画系・・・代表例・竹原古墳 横穴式石室

 4.横穴系・・・横穴墓

以下、2.3.を中心に記事にする。装飾古墳の意味付けについての記述を中断して、装飾古墳の分類について記載したが、ここで再び装飾古墳の意味付けについての記述に戻る。

(竹原古墳壁画)

これは準構造船で、海で用いたものである。まさに海上他界の観念を表しているのであろう。

同心円文はに由来する文様と考えられ、辟邪文との見方が一般的である。しかし、これは弓を射る際の的とする解釈もある。それは被葬者が武人であったことを意味しており、福岡県吉井町から田主丸町にかけての一帯に、同心円文を描いた装飾古墳が集中している。この地域は古代筑後国生葉郡(いくはぐん)であった。弓で矢を射る的は古代『イクハ』と呼んだ。それに関わって同心円文が描かれたとの説も存在する。更には、太陽とか月を描いたとする説も存在し、同心円文については『コレだ』と決めつけることは出来そうにもない。

先に6世紀中頃から馬や船の絵が加わってくると記したが、同時に太刀・盾・靫(ゆぎ)・弓などの武器・武具類が文様としてでてくる。

(王塚古墳)

その靫や同心円文を描いた装飾古墳は、被葬者が的臣(いくはのおみ)と同族関係を結んだ筑後川流域の有力な武人たち、あるいは靫負大伴(ゆげいのおおとも)であったことをシンボル的に、象徴的に示すために描いたのではないかとの論説がある。

では古墳は何故装飾されたのか・・・と云う根本的な問いかけである。先に記したが、中国や高句麗古墳壁画は故人の生前の栄耀栄華を描いており、来世でも同様な生活ができるように願ったであろうと、目的がはっきりしている。古墳時代の日本列島では、中国や高句麗とは異なり、死後の世界が現世と同じように続くとの願いはなかったであろう。あの世とこの世は別物と考えていたかと思われる(確証はないが後述のような傍証より)。

しからば、何の目的かと云えば、被葬者に悪霊が寄り付かないように辟邪のしるしとした。或いは被葬者の霊を冥界に封じ込め、亡霊として迷い出でないようにする目的かと考えられる。更には別の見解もある。装飾古墳は被葬者の仮の居所であり、魂は壁画に描かれた海上他界に行くのだ・・・との見方もあるようだ。この何のため・・・との目的は、邪馬台国論争ほどではないが、百家争鳴の感がありこれだと云うものがないようだ。

装飾古墳の源流は中国にありそうだが、日本の中でその成立過程から展開過程を説明できるので、基本的には日本で成立したとの見解もある。但しヒキガエルや四神等の図柄は、日本での発祥ではないものであり、これらは外来であろうとの但し書きが前提である。

いや、基本的には半島南部から伝播したとの見解も述べられている。先にも記したが、装飾古墳は5世紀後半に、有明海や不知火海の沿岸部で出現した。その5世紀後半に大和王権は、伽耶諸国や百済と外交・軍事面で折衝があり(最終的に、天智2年8月(663年10月)に白村江で敗戦するまで、折衝は継続する)、その際に不知火海沿岸や有明海沿岸の在地氏族が、物資の輸送や海運にたずさわったり、軍事面でかかわった。『日本書紀一書(あるふみ)第三』の瑞珠盟約段は以下のように記す。“・・・三柱の女神を葦原中国の宇佐嶋に降らせられた。今、北の海路の中(海北道中)においでになる。名づけて道主貴(ちぬしのむち)という。これが筑紫の水沼君(みぬまのきみ)らの祭神である”・・・と。水沼君とは、筑後国三潴(みぬま)郡三潴郷にいた氏族である。海北道中とは、玄界灘を横断するルートであり、そこに祀られる道主貴とは沖ノ島で祀られる神である。沖ノ島と云えば宗像氏族と繋がるが、有明海・不知火海の氏族も沖ノ島祭祀に関連していたことを日本書紀は示している。やはり水沼君の一族も玄界灘を横断して、伽耶や百済、さらには中国とつながっており、このような背景から、装飾古墳は半島南部の影響を抜きに語られないとの見方も存在する。

尚、朝鮮半島南部で見る先史時代の岩刻画がルーツだとする見解も存在する。靫のような文様や同心円文等を見ることができる。朝鮮半島の先史時代と云われても、時代幅が広すぎる。例えば先史時代を中石器時代と仮定しても1万年前に相当する。いくら刻まれた文様が似ていても、これをもって装飾古墳壁画のルーツとするには、あまりにも時代差が大きすぎて、妥当性を欠く見解と云わざるを得ない。

(韓国高霊 場基里 岩刻画 この画が上掲の靫に似るというが・・・)

私見を述べれば、基本的には半島南部の影響を受け、それらの影響を在地氏族がアレンジしたものと考えられる。また渡来して来た人々が、直接かかわったであろう形跡を伺うこともできる。

話題があちこち飛ぶが、装飾古墳については、大きな謎がある。それは古墳文化の中心・近畿中央部に装飾古墳(但し、線刻の横穴墓は存在するが)が存在しないのは何故か?・・・考えられるのは亡くなった人の死生観の違いであろうか、それにしても近畿を飛ばし、関東北部・東北南部で出現する謎にどのように答えようとするのか。当件に関しても謎解きは容易ではない。これについて当該ブログで強調したい本意でもないが、当該ブロガーが考えることは以下の通りである。

九州で見る装飾古墳壁画の画題は、以下の①から⑭のような画題・文様が多い。

 ①連続三角文(鋸歯文)

 ②同心円文および円文

 ③準構造船

 ④靫

 ⑤盾

 ⑥弓

 ⑦大刀

 ⑧馬

 ⑨鳥

 ⑩双脚輪状文

 ⑪翳(さしば)

 ⑫波頭文

 ⑬蕨手文

 ⑭渦巻文

これら14種類が多用される文様として知られている。この中で、⑫と⑬、⑭に関連した肖形物が近畿の古墳から出土した事例を知らないが、①と②は古墳に副葬された青銅鏡の文様に見ることができる。

(鋸歯文は三角縁神獣鏡でみられる)

(同心円文は内行花文鏡などにみる)

③から⑩までは埴輪として古墳に並べられている。⑪は出土数が少ないものの近畿の古墳から木製品として出土している。

(③準構造船埴輪)

(④靫埴輪)

(盾・王塚古墳)

(⑤盾埴輪)

(弓・五郎山古墳)

(⑥弓埴輪)

(大刀・王塚古墳)

(⑦大刀埴輪)

(馬・王塚古墳)

(⑧馬埴輪)

(鳥・珍塚古墳 日下八光画伯模写図)

(⑨鳥埴輪)

(双脚輪状文・王塚古墳)

(⑩双脚輪状文埴輪)

(翳・さしば 竹原古墳)

(⑪翳形木製品)

以上のことから考えられるのは、近畿の古墳では埴輪が普及し、九州の装飾古墳の文様が持つ、被葬者の魂に悪霊がとりつくのを防止する辟邪の考え方や、死者の魂が船に乗り海上他界に赴いたり、鳥にのって天上他界に行くとの考え方が、いきわたっていたであろうと考えられ、装飾古墳壁画を必要としなかった・・・と、考えている。

尚、装飾古墳が近畿に存在しない理由について、東京国立博物館の河野一隆氏は、北部九州と近畿では死生観の違いによるものとの仮説を展開されている。これについては、次の竹原古墳の装飾壁画について、検討する中で紹介したい。

それでは、次回から個別の装飾古墳についてみていくこととする。

<参考文献>>

論文:古墳壁画に描かれた他界 若松良一著

茨城県の装飾古墳 熊本県立装飾古墳館編

日本の中の朝鮮文化・8 金達寿著 講談社文庫

装飾古墳が語るもの 国立歴史民俗博物館編

九州装飾古墳のすべて 池内克史編 東京書籍

装飾古墳に描かれた渦巻き文と輪廻転生 藤田英夫 雄山閣

論文:装飾古墳にみる他界観 白石太一郎

装飾古墳の世界シリーズ(8) 熊本県立装飾古墳館編

装飾古墳ガイドブック 柳沢一男 新泉社

山陰の古墳 島根・鳥取史跡整備ネットワーク会議編

因幡の古墳 鳥取市教育委員会編

<第1回 了>

 



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