goo blog サービス終了のお知らせ 

本の読み方の設計図。

本の構造を明らかにしていく。
論拠・主張

論証=事例、引用。

小説009 : reProfesional#82

2008-09-26 01:46:29 | reProfesional
chapter#8 僕の死亡と感情

ボクは死んだ。
これまでの幸福な勘違いから開放され、死んだ。
もう過去の僕は生きていない。
なんというシアワセだ。
一歩間違えれば乞食にも、気違いにも十分にもなれるんだ。
ボクの人生はおそらく、もう自分のものではない。
そういう発見に気づいた。
このままいくと、自分のものではない。
もちろん、一歩を踏み出すには勇気がいる。
自分の預け主との決別。
それが、いわば勇気という言葉に該当するのだろう。
ボクはこれまで、生きがいをもって生きてこれた。
でも、死んでしまったのだから、生きがいを見つけ出すというのは、そんなに簡単なことではない。

生きがいを感じさせてくれる源泉。
感情というものだろうか?
ボクの周りの似非役者たちは、その感情を麻痺させて生きてきている。
そう。
感情に対して向き合い、生きがいを見出そうとすること。
それがおそらく人生の中でのおっきめの勘違いなのだろう。
家庭が出来、子供が出来、よりやりがいというものを見つけ出すことが、危険になってくる。

「人生って言うのはね、人生を預ける人が年をとるにつれて増えてくる。
 そんなもんなんだよ。」

いつも、父に会うとそういう言葉をボクは聴かされていた。
そんな父がボクは好きになれなかった。
預け主からつかの間に目を背けさせてくれるものは、彼にとってはお酒であった。
脳ミソを麻痺させ、感情を麻痺させていく。
そして、束の間の嘘つきの幸せを味わう。

「身分相応なのが一番なのよ。多くを望んじゃイケないのよ。」

いつも、母に会うとそんな言葉を聴かされていた。
母は、父は、子供の笑顔を見て、孫の笑顔を見て、シアワセを感じていた。
そんな両親をボクは好きになれなかった。

「カエルの子はカエル」

僕たちはよく、そんな言葉をたいしたことないやつに対してはき捨てる。

「親の七光り」

僕たちはねたみとともにそんな、言葉を吐き捨てる。

でもね。結局人生を切り開いたのは、その子供なんだよね。
自分の両親の「負け」に対する拒絶。
それが感情なんだよ。

ボクはうなずいた。
ボクは、でも、絶望の中でも、勘違いに辟易としていてもまだ、もう少し勘違いをすることが出来る。
そうでないと、こんな誰も見はしない文章を書こうとは思わない。
虚栄心の塊だ。

ボクは、自分のことをそう思っている。
でも、違うと思うんだ。
虚栄心じゃない。
まだ僕があっていない預け主からのメッセージなんだ。

「努力をしろ。今を懸命に生きろ。」

なかなか応えることが難しいメッセージだ。
どうしても、ボクは現実から、目を背けたくなる。

でも、こうやって、物語を整理し、俯瞰していくことで、ひとつだけ得をしたことがあるんだ。
この小説は序章を終えようとしている。
序章を終えるということはなんらかの新しいスタートを自分が切ろうとしているということだ。


祖父はこんなことをいっていた。
「勘違いもな、本気でやってるとな、まわりがその勘違いに沿って自分のことをみてくれるようになるんだ。だから、ボクももっと自分のなりたいように生きる努力をしてみろ。」

祖父はかっこよかった。
ピアニストで、絵描きで・・・
でも、いつも祖母を泣かせていたな。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

小説008 : reProfesional#81

2008-09-26 01:30:08 | reProfesional
chapter#7 僕の死亡

ボクは死んだんだ。
すくなくとも、この小説の序章を描く前のボクと、この序章に入ってからのボクは。これまでは、もしかしたら、自分が誰かに人生を預けているということに気づいていなかっただけなのかもしれない。

生きがい。
働き甲斐。
それは、もしかしたらひとつの美しい勘違いから生まれているのかもしれない。
妥当な実力にあった仕事と、気のあった仲間。
そういう環境の中での居心地の良さ。
そんなところから、安っぽい生きがいっていうのは生まれてきていたのかもしれない。
逆に言うと、妥当な実力に見合わない仕事、そう判断した場合、それまでの勘違いが、勘違いであったと思い知らされるゆえに現れる絶望に近いものなのかもしれない。

人生の預け主。
それは、きっと身近にいると、急激にやる気をそがれるのかも知れない。
自分の意志で生きていると思いながらも、実は身近にいなかった預け主、彼の操縦のものとに、自動操縦の列車のように動いてきた、それが人生だった。
そう気づかないまでがシアワセなのかもしれない。
気づいてしまったらどうするのか?
預け主への恋心はあまりに近くにいると褪せてしまう。
そんな性格のものなのかもしれない。
痘痕も笑窪。
ある程度の距離感があったほうが、自分が彼に人生を預けてしまっているなどという、絶望感は味わわないですんだだろう。
人生の預け主。
彼とはなれているときは、涙を流すことも、人生から逃げるということもある程度自由に許されていたのだろう。
しかし、預け主の前では、惨めな姿は見せることはタブーであろう。

預け主。
彼自ら、ボクの人生への審判を下せる。
そういう悲しい絶望を容易に彼の近くでは感じることが出来る。
旨が焦げ付く感じがする。
すべて預け主次第。
彼からの報酬をもらうそのためだけに、奴隷のように過ごしていく。
そんな環境では、いわゆる先に言った生きがいだとか、働き甲斐を見出すのは至難の業だろう。

自分の人生は空白だった。
ただの一度も自分の判断でなにも決めることが出来なかった。



そんな、感想をボクの死亡の時に感じる。
そんな結末だ。
でも、小説の最初にある程度力説したように、一時的にボクの身を取り囲む預け主は彼であったとしても、ボクは彼と生涯を共にするほど自分の人生を無駄にするという勘違いは出来ない。
勘違いなのか?
いずれ、彼が自分の人生の預け主でなかったにしても、ボク達はいつも、だれか圧倒的なだれかに人生を預けざるを得ない。

ボクには一人では何もできない。
これは、決していわゆる絶望なんかじゃない。

ボクには、到底こたえなんて出せそうもない。
シアワセ。
現世的なシアワセではない。
遠く何かにつながるシアワセ。
僕にできる唯一のこと。
ただ、水中で息が止まりそうになるという憔悴とともに、ただ、ひたするもがくということ。
ボクはもがける。
そう、もがくことが出来るんだ。
たとえ、自分の人生が預け主が誰であろうとただもがくことが出来る。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする