サッカーと野球:
サッカー:
東アジアE-1選手権とやらの中国対我が方のB代表のそのまた二軍の試合を観戦した。森保監督は前回の対香港戦で6点を取った者たち全員に替えて、全て新たな選手を起用したと聞いて「如何にもこの人らしいことをする」と感じていた。私は未だにこの監督さんを何処まで信頼して良いのか判断に迷っている。この総入れ替えも、招集した者たちを使ってみて何処まで出来るかを試そうとの意図があったのかも知れないが、格下相手に0点の引分けではどう評価すべきか解らない。
新メンバーたちは当方が最も嫌っているサッカーを展開して、遂に全員が引いて守り、甚だしいときは解説の岡田武史氏が指摘されたように、中国が守りに5~6人を並べていたので、大袈裟に言えば蟻一匹も入り込めそうな隙間もなかったかのように見えた。中国は時たま機会が訪れれば逆襲には出たが、何としても得点を許さないとの固い決意の下に試合に臨んでいたのであると見た。そこに決定力不足の我が代表が攻め込むのだから、大きな期待は出来なかった。
その相手に対してBティームの二軍たちは攻めあぐんでいた。そうなったのも当然で、何時ものように後陣で安全第一のディフェンスバックス間で横→横→後のパス交換でボールを保持し、少しでも相手突っかけてくれば躊躇せずにGKまで回してしまうのだ。テレビ中継だとボールのあるところばかりを映し出すので、昨夜は極力前線で誰かが裏を取って動くか、フリーになろうとするかを見るようにしていた。ボールを持っている者が裏に落ちるパスでも出すかにも注目していた。
正直に言えば、そう期待するのは無駄だと解っていた。彼らは結局中国の鉄壁の守りを崩せなかった。釜本が指摘していたように「現在のサッカーでは寄せてきた相手を抜き去っていくような『自分でやってやろう』というサッカーを何故やらないのか」と、苛立たせられるサッカーが90分間も展開された。
それが「安全第一」なのか、そういうサッカーをするように子供の頃から育てられてきたのかは解らない。だが、我々のWMフォーメイションの時代とは比較にならないほど技術が向上していながら、何故あれほどパス交換に徹して攻めないのかと気になった。また「シュート力が弱いのも何故かな」と不思議に思っていた。
President誌の対談で川淵三郎氏が「Jリーグを作ってから全般的に技術の水準は上がったが、サッカー界には大谷翔平のような図抜けた選手が現れない。物足りない」という意味の事を言っておられた。これに対して、ファーストリテイリングの柳井正氏が「思い切ってやってやろうという気概が見えない世代だ」と指摘しておられた。良いことを言っておられると感じて読んだ。
私は四十雀でサッカーを楽しんでいた頃に、何度か若い世代と試合をする機会があったが、技術水準は我々の世代では考えられないほどの高みに達していたが、気迫は感じ取れなかった。そういう事実から考えてみると、「これこそが世代間の物の考え方と見方の隔たり(ギャップと言えば解りやすいか?)の表れであって、昭和一桁生まれでWMフォーメイションの時代のサッカーしか知らない者が論評すべきではないのか」と考え込まされた。
スワローズ対カープの野球:
この言わば「裏番組」も一寸気になっていたので、しきりにチャンネルを変えて見ていた。と言うのも、スワローズが前夜に多くの非感染者を使った試合で、カープに22本ものヒット打たれて惨敗していた状態から、どれほど立ち直っていたかに関心があったからだ。既に指摘してあったことで、スワローズは多数の感染者が出た後でも監督も不在でも、試合を続け5連敗したのに、3連戦を中止して貰った球団もあったからだ。連盟の措置は不公平ではないかと言いたいのだ。
所が、途中から見たこの試合では、スワローズは青木宣親を除いて全レギュラメンバーが復帰していたし、高津監督の顔も見えていた。残された関心事は「前夜に22本も打ってしまったカープが晴らしてスワローズを連覇するほど打てるのかな」だった。矢張りというか何というべきか打てずに、4対2で負けてしまった。勝った方のスワローズにしても、4点が全部ホームランで、流れの中でRBIを取っての勝利ではなかったが、多くの主力選手が復帰したばかりでは仕方があるまい。
これでまた、「セントラルリーグでは勝率が5割に戻ったカープ以外の4球団の負けの数の合計が、スワローズの勝ち数に等しい」という状態になってしまった。言ってみれば、セントラルリーグの火が消えそうな「一強五弱」の事態に近付いたのである。それも問題かも知れないが、NPB当局はこのCOVIDの第7波襲来の時期にあって、大量の感染者を抱えてもオールスターゲームを本気で開催するのだろうか。
なお、「何故、逸ノ城が平幕優勝した相撲を取り上げないのか」という疑問に対しては「私は相撲とは我が国の歴史と伝統に輝く興行である」と認識しているので、ここに論じる考えはないと申し上げておく。