新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

横浜の大口病院での事件に思う

2016-09-29 08:30:19 | コラム
何と恐ろしい事件なのだろう:

点滴に異物を混入させて患者を殺害したと報じられているが、極めて恐ろしいことだと感じる一方で、何故そのようなことをされてしまったのか、あるいは出来たのかと理解出来ない思いである。私は2006年の最初の心筋梗塞による入院・治療に始まって、その後何度入院したのかは俄には計算できないほど入退院を10年間に繰り返してきた。と言うことは、その間に一体何回点滴を受けたかとなる。一日中点滴を付けていて、その間に何度も看護師さんが取り替えに来たこともあった。

その交換の作業にに誤りがあるかなどと疑う余裕などないのが重症患者であった私だ。確かに注射薬の袋には患者名が記載されているが、余程馴れてこない限り薬の名称や薬の状態等まで注意などは及ばない。精々、落ち方が早すぎるかあるいは遅いかな程度だ。本当に時偶「何という薬で、その注射の目的は」と尋ねたこともあったが、単なる好奇心からで警戒感からではなかった。

病院と主治医と看護師さんを信じて治療をして頂いているのだから、疑うことなど考えたことすらなかった。何かがあったと言っても、記憶が正しければ、たった一度看護師さんが「あら、間違えた」と言って薬を持ち帰ったことはあった程度のこと。

患者としては、テレビ報道に言う「薬剤部からナースセンターに運んできてそこの保管される」だが、我々患者の目には何処に置かれているのかなどが見える訳もなく、保管中に何かが行われても解る訳はないのだ。そういう状態のところで、今回発覚したような犯行(なのだろう)が実行されたのであれば、防ぎようがなかったと言えるかも知れない。だが、病院乃至はナースセンターの管理状態に何らかの付け込まれる隙があったのかなどと考えてしまう。

何れにせよ、かかる極悪な犯人がいたのならば許されざる卑劣な行為だろうと思う。患者としては病院を信じる以外に何があるのかだと思う。私は警察も病院側も全力を挙げてこの忌まわしい問題の解決に努めるべきだと思う。

それにつけても思うことは、我が国では病院長はお医者様がなるのが普通だが、アメリカのビジネススクールで取得するMBAの中には「病院の管理・経営」という分野があると聞いた点だ。如何にもアメリカらしいが、名医即名管理者であるか否かも考えても良くはないのかな。

9月28日 その3 どちらが勝ち方を知っているのかな

2016-09-28 09:24:22 | コラム
パシフィック・リーグの優勝の行方:

昨夜のニッポンハムの負け方とソフトバンクのスクイズまで使った勝ち方を見ていると、形振り構わずに勝ちに行った工藤監督の采配が面白かった。私はこれまでに長い間勝負を見てきた経験から言うと、ソフトバンクのように主力打者でやっと調子が上がってきた柳田を欠くようなテイーム状態にある方が有利だったとの展開を何度か見てきた。

昨夜の栗山監督は形振りを構って予告先発をした大谷を先発から外して、言わばシーズン中の形を崩さず、しかも余り上り調子ではない吉川を使った。これは29日に大谷で勝とうとの計算だろうが、二連覇まで経験したソフトバンクがそれほど易々と引っ込むのかなと、やや疑問に感じた。

今夜(なのか?)形振り構わず組と形を守った組が異なる相手と雌雄を決する事になるようだ。どちらが勝つか、勝ち方を知っているかが分かれ道かな。

アメリカの大統領候補のテレビ討論会に思う

2016-09-28 08:44:04 | コラム
素直に感想を述べれば:

その前に、クリントンとトランプ両氏の何れが優勢だったかを語らずに、先ず2014年3月11日に論じた「アメリカにおける女性の地位」から下記の2節を引用しておきたい。

>引用開始
これは俗説で真偽のほどは保証出来ませんが、「女性が男社会に進出して負けないように仕事をするためには、中途半端な能力と仕事の質では地位も収入も確保することが難しいので、懸命に努力する高学歴の女性が増えていった」との説も聞きました。その結果か、現在のような明らかに男に対抗心を示す女性が増えてきたのだそうです。実際に私の経験でも「女性と見て迂闊に対応しては大変なことになる」と痛感させられた能力が高い女性はいくらでもいました。そこに「男女均一労働・均一賃金」の思想を具体化した雇用機会均等の法律もあるのだと思います。

言葉を換えれば、「アメリカの女性たちは長い年月をかけて戦い、現在の女性の地位を勝ちとった」と見るべきかも知れません。私の経験の範囲内でも非常に挑戦的な人もいれば、男性に露骨に対抗意識を見せる女性にも出会いました。そういう場合には外国人である私のような者は対応に苦慮させられたものでした。しかし、中には非常にしっとりとした日本の女性のような控え目の優しい人もいます。要するに人を見て扱わないと痛い目に遭わされるのが、アメリカの社会かと思います。

<引用終わる

昨27日は夜にしか、この討論会の模様をBSフジのPrime Newsとテレ朝の古館なき後の報道ステーションで細切れに同時通訳付きか録画で彼ら二人主張を聞けただけでだった。それだけでは、解説者の説明が聞けても到底何かしたり顔で内容などを評論できるような材料はない。勝手を言えば同時通訳付きではない方が、我が衰えし聞き取り能力には有り難い。

私の見方は、最初に引用したように飽くまでも「アメリカの会社や同僚、管理職、副社長、CEOに接し、彼らの家庭にも入る機会を得たし、責任ある地位を確保している(中にはMBAでもある)優秀な女性マネージャーたちや、アッパーミドルの極めて知的水準の高い家庭婦人たちや、ホテル・商店・空港職員とCAたちと接することが出来ていたこと」が基本にある。即ち、我が国の女性と何処が違うかの多少以上の経験と知識はある。

それは「男性に対する対等で・対抗と言うべき意識が強烈である女性の多さと凄さと恐ろしさ」に発していると見て頂いて良いだろう。ここにはアメリカ慣れしてはいても、私は何処まで行っても日本人だとの条件があった。日本の女性的な優しさは期待しない方が無難な世界だ。だが、確認しておくが、アメリカの女性全てが対抗意識に満ちあふれ「男」に対抗し、押しのけようとしている訳ではないのは言うまでもあるまい。

ヒラリー・クリントン氏の論法と主張を聞いていると、極言すれば「男を男と思っていない程度では間に合わない。やるだけやってみよう」という考え方が根底に激しく流れており、何としてもドナルド・トランプ氏を全ての論点・問題点・主張でこき下ろし、誤りを細部まで炙り出し、徹底的に倒そうという姿勢だけで圧倒して見せていた。だが、そこには何らの建設的や改革論的な言論が見えなかった。ただただ、余裕とも見えた笑顔で口角泡を飛ばしているだけかとすら見えた。

しかし、長年アメリカの鋭く厳しい姿勢で仕事をする女性社員やマネージャーたちと日常的に交流してきた経験から言わせて貰えば、当に在職中に「そら、また来たぞ。負けないように、十分に三段論法的な論旨を事前に構築し、英語による表現を、言葉を選んで戦わないことにはえらい目に遭う。間違っても感情的になってはならない」と常に気を引き締めて、彼女らと会議(打ち合わせでも良いが)をしていたことを思いだした。

昨夜のヒラリー・クリントン氏は短時間聞けただけの討論では明らかに政策論争ではなく、トランプ氏の大小を問わない論旨の破綻や過去の暴言と政治・経済・防衛等に関する勉強不足を論うだけに主力を置く「男ならもっとしっかりし準備してからお出で」とでも言いたいような激しい攻撃と口撃で「矢張り怖いな」と懐かしく思わせてくれた。私は以前から彼女の”r”が巻き舌になる傾向が濃厚な発音を非難してきた。それは、私の英語が「支配階層のそれ」と仏文学のTK博士がいみじくも評されたことから考えても、後難を恐れて言うが、彼女に出自が何だったのかに思いが至ってしまう。オバマ大統領よりは品位が高いとはいえるが。

私が政策面でクリントン氏がお解りではないのか、あるいはおとぼけかと疑いたくなった点があった。それはアメリカの全世界の大多数の貿易額が少ないので、今後は輸出を伸ばして成長を計ると、シレッとして言ったのには寧ろ驚いた。アメリカからの対日輸出に22年もそれこそ命を懸けて励んできた私から言えば「何を仰る事やら」なのだ。私は1994年にUSTRのカーラ・ヒルズ大使が「対日輸出を伸ばそうと思えば小学校教育の徹底と識字率の向上が必須」と断言された労働組合員の質、労働力の質を改善することが焦眉の急務だった状態を、未だに脱し切れていないと知らないはずがないと思っている。

私はアメリカ経済は内需依存で、それもロッキー山脈以東の東海岸地域が主体で70%も占めていると、クリントンさんが知らないはずはあるまいと思う。そのアメリカでの製造業の劣化は目下中国の過剰生産にかき回されている鉄鋼や自動車産業を見れば3歳の児童にも解ることで、アメリカからの最大の輸出品目がボーイングの航空機であり、1990年代初期には、何と紙パルプ・森林産業界の我がW社がボーイングに次いで会社単位では対日輸出の2位だったほど不振だったのだ。

しかも、ICT化に押されたアメリカの製紙産業では世界最大の製紙国に成り上がったが原料を確保できていない中国に対する、世界最大の古紙輸出国でありながら、その中国の世界最新・最高の設備が生み出す世界的な品質の紙の輸入を100%以上の関税をかけて閉め出すような保護貿易政策を採っているのだ。その国が輸出立国をどうやって目指すと言うのか。

トランプ氏にも触れておかねばなるまい。我が友人のYM、SM両氏ともヒラリー・クリントン氏の大勝利を予想していた。私には全く予想など出来ない。評論家の中には「アメリカ人の良識に期待する」などと言ってトランプ氏が共和党の指名を獲得することなどないと曰った方がおられたのだから。Prime Newsでは産経の古森義久氏が「トランプ氏の日本は米軍の駐留費等を100%負担せよと言うのは(山本一太氏は既に75%だと指摘)実態をご承知ではないのだろうが、そこを言いたければ安保条約に依存せず、自分で守る体制を採れと言えば良かった」と指摘して、もしも大統領になればもう少し勉強して実態を知るだろうと解説したのが印象的だった。

この討論会については、我が国のマスコミはCNNの調査が67%だったかでヒラリー・クリントンの大勝利と報じていたが、山本一太氏は他のネット等の調査の例を挙げて反論していた。結論めいたことを言えば、私如きにはアメリカの実情を最早知ることは出来ない。しかし、既に述べたように男性、それも外国人としてアメリカの大企業の中にいて女性社員や幹部や知性高きMBAの婦人コンサルタントたちに接触の機会があった経験から言えば、クリントン女史のあの攻撃的姿勢を男性たちが快く受け入れるのか、などとつい思い込んでしまうのだ。


冷静な評論家が回顧すれば

2016-09-28 07:05:23 | コラム
回顧談ではあっても自慢話ではありません:

私のスポーツの履歴をここに採り上げて物知り顔で冷静に!評論をする背景を。少しだけアメリカとのスポーツ文化の比較で味付けしてありますが。

蹴球(サッカー):
私が湘南高校サッカー部の一年生部員(とは言っても旧制中学から通算では4年目で、昭和20年には「蹴球部」でした)の昭和23年の福岡国体のサッカーの決勝戦で、広島師範附属高に1対0で負けました。我々は県予選の前から決勝戦で前年の覇者・広島師範附属高と当たることを想定して練習し、前年第2位だった県立宇都宮高校に「広島師範附属高とは」を訊きに行ったしておりました。今で言えばスカウティングをしていたのです。
何と近代的ではありませんか。

この決勝戦での敗戦は悲劇的でした。それは、あろう事か広島師範附属高が開始時刻を間違えて遅刻し、協会は不戦勝を宣告すると言ったのです。だが、我が湘南の監督が「武士の情けだ。試合をやろう。優勝が不戦勝では」と言って敢えて試合をした結果でした。詳細は避けますが、取られた1点はゴール前に上がった高い球を飛び上がって捕球したGKにFWが3にん体当たりしてゴール内に倒し込んだもの。今ならば反則に採られるどころかイェローカードものの反則でしょう。要するに不正なチャージでした。無念残念でした。

我が方の監督は「ここまで来る間にこのような危機が一度もなかったのでGKにパンチで弾き出すことを教えていなかった自分の失態である。済まなかった」と我々に頭を下げられたという思い出もありました。因みに、広島には後に協会長にになった故長沼健氏他数名の未来の全日本代表候補者がいました。我が方の主将は1956年のメルボルン・オリンピック代表で、決して負けてはいませんでした。

なお、この当時のメンバーの生存者(?)は今でも集まって昼食会を年に一度は開催しております。7~8年前まではフットサルを楽しんでいましたが、人員不足で(誰だ?「高齢化ではないか」と言うのは)で、私が2006年に心筋梗塞で療養中にサッカーをするのは取り止めになったようです。

私は進学した大学が関東大学リーグ4部というサッカー経験者が少ないところでしたので、4年間遊んでいたようなもので厳しい練習もしませんでした。そのお陰で一部校に進んだ連中よりは体力の消耗が少なかったと思っております。就職後は暫く母校の非公式コーチをやっておりましたが、病気になったことと社業に専念する為に昭和35年末でサッカー部と縁を切っていました。その後アメリカの会社に転身してからは、とても運動やリクリエーションなどを楽しむどころではなく、完全にサッカーとは無縁となりました。

野球:
これを語る理由は以下のようなものです。それは、湘南高校が昭和24年にたった一度出た甲子園で優勝した時の選手たちの補欠を含めた3人が同じ組にいたことがあります。更に、この組には後に東大を経て東洋紡の専務になり、高野連の会長にもなった脇村春夫君もいましたし、サッカー部が野球部と親しく、練習が終わった後などに一緒に野球もやって遊んでいたのです。故に、野球部以外の一般人よりは遙かに野球に親しみ、理論の勉強も出来ていました。

また幸運だったのは私がリタイヤーするまで19年間在籍したW社で我が事業部がシアトルのKing Dome(既に老朽化で取り壊され、セーフコフィールドになりました)のボックス席を持っていたので、相当回数のMLBの試合を見ておりました。またアメリカ人たちの野球の知識は残念ながら我が国の所謂野球ファンよりも優れていたので、彼らと観戦することそのことで彼らの解説を聞くことで、我が国のNPBのOBの解説よりは遙かに勉強になるし、新たな知識吸収の機会になった次第です。

それに1970年代のMLBの野球の質は今よりも洗練されていたと思います。それは見事なものでした。その理由は現在よりも遙かに野球しか出来ない南米勢が少なかったことがあったと思うのです。MLBに来るアフリカ系を含めたアメリカ人たちは大学までに三大スポーツを経験し、その中の何れを選んでプロになるかを考えていたほど、言うなれば万能選手が多く、鍛え方も知識も南米出身者とは基本が優れていた点が違っていたからです。

フットボール:
所謂「アメリカンフットボール」を語るようになったのはサッカーにも劣らない長い歴史があります。それだけに止まらずアメリカで年に3ヶ月以上も滞在する機会があったので、同じく事業部が持っていた年間指定席で何度もNFLの試合を観る機会がありました。ここでも彼らの知識に学ぶ点が大いにありました。それのみならず、私自身が愚息2名が高校から関東大学1部リーグでやっていた事もあってそれなりに言わば「門前の小僧習わぬ経を読む」的なアメリカ人にも負けない程度の知識があって楽しめましたからでしょう。

また、昭和21年から藤沢の田舎の中学生が上京して進駐軍のフットボールを観ていたほどで、自分自身がフットボール観戦がが大好きでしたし、今でも多くの競技の中でも最も関心があります。愚息たちのフットボールも練習から試合まで10年以上も見続けていたし、監督さんとも親交があったので、一般の方よりも精通した次第です。アメリカ人のも負けないほど知り得る機会に恵まれたのです。私の個人的な好みではフットボール観戦はその面白さが最も優れ、野球がそれに次ぎ、バスケットボールの魅力もそれに劣らないかと思っております。何と言ってもアメリかにいれば三大スポーツ観戦が楽しめる知識がついたのは有り難いことでした。

バスケットボール:
野球とフットボールを加えてアメリか三大スポーツと言われるほどで、これもNBA(プロです)やNCAA(大学です)の試合を相当な数見て楽しみました。実は、既に採り上げたように、自慢話ですが、私をご存じの方は驚かれるだろうような身長であっても、高校時代には学年の中でバスケットボール部員を除く名手(?)5人に入れて貰っていたほど打ち込んでいました。一説にはこれにアイスホッケーを加えて四大スポーツとも言います。私はシーズンが噛み合わず、アイスホッケーだけは一度カナダで2部の試合を見ただけで、後は日本国内で社会人の試合を2~3回観ただけですから、多くを語る材料がありません。だが、あのカナダで観た一部昇格を目指す選手たちが本気(だと見えました)で殴り合う迫力には驚かされました。

問題点:
サッカーにありとしたいのがサッカーで残念です。テレビでサッカーを見るのも良いのですが、カメラを何台置いても全体の動きを追いきれず、見たいような流れを把握できないので困ります。それにサッカーが恐らく経験者でない方には詰まらないと見えるだろうと思う点を上げれば、何分にも滅多に3~4点ほども入らないことかと危惧します。私の場合には少し経験があった為に、何時まで経っても「あの場面では、俺だったらこうする」というような見方から脱却出来ずに楽しめない時が多いのです。それに今の代表選手たちには伸びしろが残っておらず、余り多くを期待出来ないのも難点です。ではあっても何時も緊張感を持って男女の代表の試合を見ております。

私は張本勲を真似るのではありませんが、UKやイタリアやドイツのサッカーを見せられても楽しくはありませんので、欧州のサッカーリーグの試合のテレビ観戦はほとんどしません。それに我が同胞があの異文化の世界に入って体力と体格以外の面で勝負せねばならない大変さを自分のアメリカの会社暮らしで良く解っているだけに、「余り無理をしなさんな。苦労は言葉だけでも十分だろう。好い加減にして帰ってこい」と言ってやりたい気になってついなってしまうのです。

この外国の会社やスポーツの世界で暮らし何とかやっていく難しさというか大変さは経験しないと解らない微妙で且つ辛いことなのです。それ故に、張本勲とは異なった視点で「外国で自力で稼いで暮らし大変さ」を言いたくなってくるのです。この点は些か冷静さを失って感情的になってしまうことがあります。

注:以上は昨年の9月27日の投稿を、より正確に実態をお知らせし少しは関心を持って頂けるようになるかと加筆・訂正したものです。

日本語の乱れが悲しい

2016-09-27 16:42:38 | コラム
新日本語を創造するのは誰だ:

私はこれまでに「カタカナ語は日本語を乱す」とでも言えるような批判を展開してきた。だが、昨今のテレビ局のアナウンサーたちや、そこに起用されているタレントという名の「生まれつきの才能や適性」に乏しい連中が日本語を乱していることこそ憂うべきだと信じてきた。だが、カタカナ語批判にかまけ過ぎて、この面を採り上げてこなかったので、今回は些かお門違いであるこの分野にも片足くらい入れておくことを考えた次第だ。

「ら抜き言葉」:
これは最早酷いなどという言い方では語り尽くせないほど普及した。私は昭和の半ば頃までは日本放送協会ではアナウンサーたちをキチンと教育してガ行の鼻音化とともに、以て国民の範となる日本語の普及に努めていたと理解していたが、今やそれも崩れ去り、MISOもKUSOも「ら抜き」で画面下の字幕で補修してあるという具合だ。これは「学校教育の劣化」と言うか国語教育の至らなさではないのか。改善されるべきだ。

「キチンと」:
これは広辞苑には「崩れや乱れがなく整然としているさま」と「過不足なく正確なさま。基準に合致しているさま」とある。であれば、野球の中継放送でバントで走者を送った場合には「キチンと送った」と言うべきだが、100人中200人のアナウンサーと役にも立たない説明だけしている解説者は「キッチリと送った」と言うのだ。おかしくはないか。いや、解っていないだけのことだろう。

「キッチリと」:
広辞苑には“「ぎっしり」に同じ”とある。ならばと「ぎっしり」を見れば「物事が隙間なく詰まっているさま」とあり、例文は「夜店がぎっしりと並ぶ」「予定がぎっしりと入っている」とある。「キッチリとバントで送る」は明らかに言葉の誤用であるのは明らかだ。要するに、現在の学校教育の国語では、このような簡単で明白なことを教えるのすら等閑にしているのだということ。NHKと民放各局の何処かの部局の長の猛省を求めたい。このくらいの違いが分からない君らが日本語を乱しているのだと知れ。

「~しております」:
私は生まれてこの方、こういう言い方は自分がある程度謙遜するか敬語的に使う言葉だと思って使ってきた。だが、現代の新日本語では相手か第三者の行為乃至は語りをいう時に「~さんがこう言っておりました」とか「A氏が否定しておりました」と言うのである。私は他人の言動を指して言うのであれば「~さんがこう言っておられました」であるとか「A氏がこのように否定しておられました」というのが正しい日本語だと思っているのだが、如何だろう。

「ハイタッチ」:
カタカナ語排斥論者の私としては矢張り締めにカタカナ語を採り上げておきたくなったので、お許しを。これも例によって英語の単語を並べただけの代物であり、それが如何にも英語らしく聞こえるのが怖い。英語では何と”high five”と言って5本の指を合わせることを指しているようだ。

この動作を聞いたか見たか実行した人は「これは英語だろう」と思い込むだろう。新聞社でもテレビ局でもアメリカに特派員か駐在員を置いているのだろうから、妙な造語を仕立て上げる前にせめて野球場に行って、現地人に「あの現象を貴方たちは何と形容するなりや」程度の調査が出来ないのかと批判したい。私に言わせて貰えば「こういう造語をすれば、英語までも乱していることになりはしないか」なのである。

この造語の感覚は最早「拳骨で撲る」の「拳骨」が消滅して、何時の間にか「グー」になってしまったことに似ている。「拳骨」は某通信社のハンドブックには載っていないのだろうかと疑いたくなる。何故こういうことを採り上げたたかと言えば、近頃は「ハイファイヴ」ではなく実質的に「ハイフィスト」(= "high fist") になってしまってのだから。即ち、皮肉を言えば最早「ハイグー」か「高拳骨」なのである。ここではカタカナ語という似非国語まで乱すことになる。最初に「ハイタッチ」を言い出したのは何処の誰だろう。