新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

野球と英語のカタカナ表記論

2015-05-06 11:45:12 | コラム
日米間の野球の相違点とカタカナ表記:

一昨日だったか巨人対広島(言い訳:巨人を先に書いたのは広島のホームゲームだから)を見ると、解説が全員元はと言えば広島カープだった3人で、前監督の野村、巨人に行ってコーチだった池谷、阪神に出て行った金本。当方は元々解説者としての野村は評価していたが、金本は初めてだったの多少期待した。なお、池谷は巨人の禄を食んだところで論外とする。

私は金本が巨人の新入り外人・フランシスコを評して「MLBから外れて日本に来る多くの打者の欠陥は速い球に弱いこと」と言ったのが印象的だった。フランシスコは「身体の軸がぶれないから変化球が多い日本の投手には追々慣れてもっと打てるようになるのでは」と予測してくれた。「ナルホド良いことを言う」と思って聞いていた。MLB経験者の欠陥をずばりと指摘した点ではかの張本勲よりも立派だろう。

この数日前にNHKのBSでLA Dodgers対SF Giantsの試合をみた。ここではドジャースがカーショー(Clayton E. Kershaw)、ジャイアンツがバンガーナーまたはバムガーナ-(Madison K. Bumgarner)と両エースを起用していたので、大いなる見物だった。確かに金本が言うようにMLBでこの辺りの投手になれば150 km以上の速球を当たり前のように投げるし、打つ方も難なく打ち返してしまうのだった。しかも、両投手も鋭い変化球も投げるのだ。我が国には常時150 km台を投げる投手が何人いるだろうか。この辺りが違うと思った。

また、昨5日に一寸だけ見た同じ対戦でも、ジャイアンツの言わばクローザーへの繋ぎ役のような投手でも軽々と150 km台の速球を投げていた。そこで、金本説の正当性をあらためて認識出来たのだった。フランシスコ君はこういう速球の試練に耐えかねてか、シーズンの途中に遙々読売までやってきたのだったらしい。

そこで私はこれから先も金本が解説を続けるのか、どこかの局の専属になっているかどうか知らないが、彼の解説には期待する価値があると思うに至った。しかしながら、多くの解説者は何処の誰に気兼ねをしたのか、業界の後輩に当たる現役の者たちを「選手」を付けて呼ぶなどピリッとしないのだ。まさかアメリカの大学では学生が教授を評価してその結果如何では契約が延長されないように、彼等は選手様たちの評価を気にしているのかと疑ってしまうほど遠慮がちなのが気に入らない。

ところで、SF GiantsのBumgarnerだが上記のように二つのカタカナ表記をしたのには理由がある。実は、約1年前に私は以下のようにブログに載せていたのだった。

<さて、Bumgarner である。ここまでアルファベット表記を続けて来たのには理由がある。一寸NHKのカタカナ表記に疑問を感じたので、Wikipediaに訊いてみた。結果は「NHKはバムガーナーとしているが」とあって、この名字は「バンガーナー」と表示されていた。「そんなことどうでも良いじゃないか」と言われそうだが、この辺りにカタカナ表記の難しさというか、おかしな所があるものだ。

ファストフードというのかジャンクフードというのか知らないが、hamburger という食べ物がある。これを「ハムバーガー」と表記するかと言うことと同じだ。我が国では長く「ハンバーガー」とされている。これと同じ手法にすれば、確かにWikipediaが言うように「バンガーナー」ではないのかな。ここから先は上西俊雄さんにお任せしたい領域だが、アルファベットの”b”の前には”n”ではなく”m”とするという問題だろうか。>

この中継でもNHKは「バムガーナ-」と表記していた。今やアメリカ人と語り合う機会がほとんどなくなったので、直接何れが良いのかを確認できないのが残念だが、私には「バン」と「バム」の間の発音をすれば良いような気がする。そんな器用なことが出来るのかと言われそうだが、アメリカ人の多くは”hamburber”を「ヘムバーガー」と「ハンバーガー」の間のように言っている人、特に東海岸の人が多いと思う。

1945年に中学で始めて英語を教えられた時には「こういう場合の”a”は「ア」と「エ」の間のように発音しろ。現に発音記号はaとeが繋がっているではないか」と聞かされたものだった。尤も、これでは発音を論じているので野球の話題でもないし、BumgarnerはBamgarnerではないので話の筋が変わってしまうと危惧するが。


野球用語の解説

2015-05-05 08:32:44 | コラム
タグ・プレーかタッチ・プレーか:

昨日の巨人対広島の責任審判・丹波は「タグ・プレー」と言っていた。これは貴重な発言だと思った。「タッチ・プレー」は和製語のカタカナ語なのだから。

これは4日に広島で行われた巨人対広島のサヨナラゲームで起こった珍現象を、審判が場内の観客に向けて説明した言葉からとったものだ。ご覧になった方もおられるだろうが、インフィールド・フライを三塁手の村田と錯綜して捕り損なった新入りの外人・フランシスコが走者にタグ(正確にはtagであって「タッチ」ではない)せずに本塁を踏んでしまったことで、巨人が負けてしまったあの出来事だ。

フランシスコが野球のルールを心得ていなかったのが敗因だったのだが、その後に長い間審判に食い下がっていた原監督も頂けなかった、広島勢は「勝った、勝った」と喜んで引き上げた後なのに。そこで、丹波審判はマイクを使って観衆に事態を解説したのだった。彼はその中で「あれはタグ・プレーであったので、本塁を踏んだだけでは3塁走者はアウトにならないので得点になった」と説明したと聞こえた。

私の聞き違いでなければ明瞭に「タグ・プレー」と言ったのが印象的だった。彼の経歴を見るとアメリカのフロリダ州キシミー(Kissimmee)というところで開催される”Jim Evans Academy of Professional Baseball”に参加したとある。そこから推察すると、彼は我が国で普及している「打者や走者をアウトにするためにボールをつけること」を「タッチ」としているが、英語では”tag”であると承知しているようだ。

私は今までに我が国で「タッチ」ではなく「タグ」というか書かれたのを見たことも聞いたこともなかったので、非常に新鮮に感じた。ただそれだけのことだが、非常に珍しかった。私は常に野球のカタカナ語は99%は和製語であると言ってきた。だが、今やそれで遍く天下に広まっているのだから、敢えて異を唱える気もないし、ご自由にお使い下さいと広い心で?鷹揚に構えている。

しかし、あの丹波審判のように「タグ・プレー」等といっても誰も気が付かないだろうし、疑問にも思うまい。しかも「タグ」(tag)の場合実際に走者なり何なりにボールをつけるのだから、”touch”を使いたかった先人の気持ちは解らないでもない。余計な講釈だが、”touch”は主に「触れる」という動作を表しているので、「付ける」という意味の”tag”の方が適切なように思う。「タッチアウト」は”tagged out”となる、念のため。

バトンはパスするのかタッチするのか

2015-05-04 16:37:13 | コラム
日本代表がリオ五輪のリレー種目出場権を獲得:

かの桐生祥秀君他3名の100 m走者がバハマのナッソーで開催された第2回世界リレー大会で3位に入賞し、オリンピック出場権を獲得したのは立派なことで賞賛に値するだろう。しかも1位がアメリカで第2位のジャマイカの第4走者はウサイン・ボルトというそうそうたる世界的走者の中での成績だったの凄いと思う。

私はこの成果もさることながら、カタカナ語排斥論者としては産経新聞がその関連の記事の小見出しに”伝統のバトンパス改良「最高の結果」”としたのも快挙?だったと一人静かに感動しているのだ。それは我が国では「バトン・タッチ」がカタカナ語として普及しているので、以前から本当の英語は”baton passing か baton pass”であると唱えてきたからである。我が国で書き物でも音声でも「バトンパスに出会ったのはこれが初めてなのだ。

私は「バトン・タッチでは触れただけで後続の走者に手渡したことにはならない」と指摘した来たのだった。産経がカタカナ語の不備をついて「バトンパス」としてくれたのだったならば、それも褒めてやらねばなるまいかと考えている。私には先人が何故「タッチ」としたのかは知る由もないが、カタカナ語にはこのような意味不明の英語の言葉を当てているものが多く見受けられる。使う前に辞書とご相談なさるのが良いだろう。

英連合王国の皇女誕生に思う

2015-05-04 08:21:55 | コラム
我が国のマスコミは騒ぎ過ぎでは:

私はこの話題での例によって例の如き恰も芸能ネタのような空騒ぎにウンザリしていたが、それも昨日だったかの王女誕生で一段落した模様だ。他国の慶事ではあるが何もあそこまで過剰な報道をするのに何の意味があるのかと、苦々しい思いしかない。英連合王国(UK)の人たちの中には病院の前で11日も待ち続けたというのは解らないでもない。だが、我が国でもそれに同調するのは私の理解を超越していた。

私は欧米の文化は我が国のそれとは大いに異なっており、屡々我々(で悪ければ私)には理解出来ないことが起きるものだ。今回のUKの女王のお孫さん誕生をあれほど国民が待ち焦がれ病院の前に詰めかけるかと思えば、名前をブックメーカーが採り上げて予想する等はおよそ我が国では考えられないことでは。見方を変えれば、私はUKの事情に疎いのだが、王室と国民の間の距離がそれほど近いという意味かも知れない。

私が面白い現象だと痛感したことは、名前の予想が成り立つことだ。それ即ち、我が国の漢字文化とは異なっている命名の仕方があるということだ。英語圏の名前(「下の名前」という愚かな流行り言葉が当てはまるが、first nameのこと)の付け方は数多くの実在する名前の中から選ばれるのが、我が国の親が懸命に考えて漢字を組み合わせる方式とは全く違うのだ。キラキラネームだって十分に考えた結果だろうか?

だからこそ、女児の場合には”Alice”が第1位で”Charlotte”がそれに続くなどという予想が成り立つのだ。私は寡聞にしてアメリカで既存の名前ではなく親などが工夫して新たなfirst nameを作り出したという話は聞いたことがない。だが、時々「珍しいfirst nameだな」と思わせられたことはあった。因みに、今朝どこかの局で解説していたが、「シャーロット」は父親である”Charles”皇太子の女性形だと。親切なことだ。

余談だが、私が気に入らないというか困ったなと思ったことがあった。それは我が国で王女誕生の件でテレビ局や街頭でインタビューされた人が「コングラチュレーション」と言ったことだ。”congratulation”は確かに「お目出度う」という意味だが、後ろに”s”を付けるべきものなのだ。これは弔意を表す”condolence”も通常複数にするのと同じである。この辺りが複数形がない日本語との違いで、我が同胞を悩ますことのようだ。

何れにせよ、UKの王室が早く命名されて我らがマスコミが過剰報道を止めて貰いたいと願っている今日この頃だ。

北アジア諸国のやりたい放題

2015-05-03 08:25:00 | コラム
北アジア諸国の国際的観念と我が国:

5月1だったかに開催された韓国の提案によると聞く「北朝鮮の人権問題」を採り上げた会議の席上で、北朝鮮の代表は議長の指名もないままに発言の順番を無視して、議題とは無関係のアメリカ批判を展開した様を報じたニュースを家人とともに見ていた。彼女には直ちには北朝鮮代表が何を始めたかが理解出来なかったのだった。

思うに、あの北朝鮮の代表者は上層部の以降を十二分に理解し忖度して「命じられて通りをあの国際会議の場でもひたすら忠実に実行した功労者として帰国後には評価されるのだろう」と私は解釈していた。彼には国際会議での切れなどは第一書記の命令と比較すれば「軽い、軽い」だったのだろう。根本的に文化が違うので、彼等を批判しても無駄なのではないか。

私はこの北朝鮮の国際的な会議での儀礼、仕来り、乃至は決め事か秩序をいとも簡単に無視した発言を聞いて、この国は未だに「外国」というか”International”というものが何であるかを全く知らず、如何なる場においても自国の文化の許すままに恣意的に振る舞っても何ら問題ないというか、そういう行動が何らかの問題を引き起こすかとは考えてもおらず、上層部に指示された通りに行動しないと命令違反で大変なことになるとしか考えてないのだと思った。即ち、一族支配の恐怖だろう。

共産党一党支配の中国にしても大筋では同じことで、その支配者の命令の下に自国のためになることであれば何でも実行して行かざるを得ないような体制下にあるのだと思って、彼等の日常の言動を眺めている。そこにあるのは中華思想と言うよりも自国の経済的(お金のための)発展と権益拡大と軍備というか防衛のためには、他国の横槍のような介入などは一切無視して突き進むのだ。

北朝鮮は国こそ違え、文化的には中国のレプリカのような行動と発言が目立つのだ。同じ韓民族である韓国は大筋ではこれら二国と同じような「我こそが法律」と言いたいような無法さが時には目立つが、一応資本主義陣営の一国である以上、多少は国際法に準拠した行動をしているやに見える。だが、一皮むけば、その正体はこれらの二国と余り変わっていないような無法性というか非近代性が目立つ。

その非近代性は相手がこと我が国となると、理屈も理論も超越した感情的な無法性と非国際性が際立ってくる。アメリカにおけるマイクホンダのような下院議員までを巻き込んで展開するXX婦問題の運動や、ワシントンDCでの過剰と言いたいロビー活動などは一見愛国心の発露の如くだが、日本を蹴落とすためには手段を選ばない無法さと理屈と理論を超越して激化した感情の発露と故なき敵意が私には見えてくる。

このような自国の文化と仕来りだけに基づいた無法と且つ出鱈目と言いたい動きに対して、何時まで経ってもフェアープレーと筋を通したつもりの穏やかなとしか思えない反論と抵抗だけしかしていないでいれば、それこそ彼等の思う壺だろう。「朝日新聞があの程度でもお詫びの記事を載せたからXX婦問題の誤認識は正され、韓国は少しで軟化して姿勢を変えるだろう」とでも思っているのだったならば誤りであると思う。

私はどれほど大変な作業であろうとも、我が国は出るべきところに出て彼等と対峙して世界の諸国にも解らせるように真っ向から反論して我が国が正しいことを主張していると理解させ納得させない限り「安倍総理はアメリカ議会の演説で謝罪しなかった」等という戯言を言い続ける根拠にするだろう。何分にも我が国の識者の方々の中にも同様な迷言を吐く方がおられるくらいだから。

かの三国は「論争と対立」を怖れていない。一方の我が国の当事者である官庁や政治家は「論争」を得手としておられないようだし、「対立」を極力回避する文化を持つ村の中で育ったこれたので、「後が怖い」との妄想から敢えて出ていけないのではないかと思っている。早く国際慣れして感情論に陥らない議論というか論争に馴れておかないと、上記の三国以外にも「日本与しやすし」と舐められ続けてしまうのではないのか。